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第33話
「合鍵です」
「……ありがと」
佐川が神坂の家を離れる日、二人で早めの夕飯を一緒に食べた。いつものように、佐川が簡単なものを用意して、ビールを一本ずつ飲む。
明日から会社勤めが始まるというのに、佐川は最終フライトで移動すると決めていた。神坂は何も言わなかった。
食事の済んだダイニングのテーブルに、佐川が小さな金属片を乗せる。神坂はそれを手に取ることもなく、ちらりと見ただけで、佐川に視線を戻す。佐川は少し笑って、その鍵を神坂に握らせた。
「部屋も狭くて風呂も狭くてベッドも狭いですけど、俺、あっちの部屋も、史織くんと二人の部屋だと思ってます」
「……うん」
「だから、勝手に誰かを部屋にあげたりしませんから」
「あっそ」
神坂は立ち上がり、佐川を促して自分の部屋に連れて行った。こまごましたものを入れているキャビネットの一番上の小さな引き出しの奥から、封筒を取り出し、佐川に差し出す。
「何ですか?」
「お前の金だ。持っていけ」
「俺の金じゃないから、受け取れません」
「就職祝いだ」
「法外でしょ」
「いいから持って行け。いざって時のために」
「いざって?」
「……ヘリをチャーターしたりとか?」
数年間佐川から神坂に渡され続けた金は、積もり積もって結構な額になっていた。神坂としては、机の引き出しに放り込んでおくのも躊躇われる程になっていたので、銀行に預けておきたかったのだけれど、今のご時勢、赤の他人が勝手に人の名義で口座を開いたりはできない。なので仕方なくその全部を、現金手渡しで佐川に返す羽目になった。
「ヘリっていくらくらいかかるんですかね?」
「知らない」
カタリと小さな音を立てて、神坂は引き出しを元に戻す。また一つ、佐川のものがこの家からなくなった。唇を噛み、平然を装い、顔を上げて佐川を見つめる。
佐川は無表情なまま、金の入った封筒を手にして、神坂を見ていた。
「もう時間だろう。行けよ」
「…………」
「飛行機って、駆け込み乗車できないんだぞ」
「…………」
「トラ」
「…………」
「なんか言えよ……!」
神坂は佐川の胸を拳で叩く。それでも佐川は、じっと神坂を見つめていた。口にできる言葉はない。神坂だってそれはわかっていた。
すぐに帰ってくるよ。またすぐ、逢える。
そんな台詞は、あっという間に嘘に変わる。だけど、何か聞かせてほしい。大丈夫だと思える言葉を、その声で。肉声が届くのは、今だけなのだから。
神坂は顔を背け、舌打ちをする。後ほんの数分だ。それを耐えられればいい。佐川の前では取り乱さない。たったそれだけのことが、どうしてこれほど難しいのだろう。佐川は、神坂を、今までで一番優しく抱きしめた。その腕の中で、神坂は目を閉じる。
「……いってきます」
「おう」
身体に気をつけて。ちゃんと食事をして。寂しくなったら電話して。他の人に気を移さないで。離れていても、忘れないで。
言いたいことはきっと同じで尽きる事はなくて、だけど、住み慣れた部屋の玄関で、神坂と佐川は黙っていた。
送っていくという神坂を止めたのは佐川だ。もう少し、もう少しと別れる駅を先延ばしにして、きっと空港まで連れて行ってしまうだろう。そして、佐川がゲートをくぐるのを見送った後で、神坂が一人でその道程を辿るのかと思えば、胸がつまりそうになるから。
「…………着いたら、メール」
「はい」
今この瞬間から、二人を繋ぐのは携帯電話しかない。声を、メッセージを、画像や映像を、それでも得られるのだから、何もないよりはよっぽどマシだ。二つの端末には、お揃いのカバーとストラップがついている。佐川が用意したものだ。
神坂から佐川へは、時計を渡した。誰でも知っている、耐衝撃性の高い日本製の時計を二人ともがすごく気に入って、金額もほどほどだったので佐川もようやく、これが欲しいですと言ってくれた。大柄な佐川に、ボリュームの大きい時計はよく似あう。毎日します、と佐川は嬉しそうに笑っていた。その時計が、早く行こうと佐川を急かす。
「行け」
「はい」
神坂は、腕組みをして、佐川にそう言った。佐川は無表情なままで眼鏡のブリッジを押し上げ、頷く。そして佐川は、神坂を一人残して、遠くへ行ってしまった。神坂の手には、小さな金属片だけが残った。
その日の晩、神坂はここ一週間ほどひた隠しにしていた体調不良が一気に悪化して、熱を出したけれど、佐川はそれに気付かなかった。電話越しに伝わるものは思った以上に少なかった。
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