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第34話

 引っ越してしばらくは、佐川はしょっちゅう神坂に電話していた。休みの日は、ずっとヘッドセットをつけて音声電話だったり、テレビ電話だったり、とにかく神坂を感じていたかった。なのに画面越しに見る彼は現実味がなくて、体温も吐息も届かない。  やがて佐川の仕事はだんだん忙しくなり、休みの日は疲れ切って昼過ぎまで寝ているようになった。神坂から電話がかかってくることはほとんどない。目を覚ましたときに携帯電話を確認して、着信がないと無性に腹が立つときもある。 「なんで電話くれないんですか」 「疲れて寝てたんだろ?」 「別に寝てません」 「起きてるのに電話してくれないトラのほうが問題じゃね?」 「そうじゃなくて!」 「ごめん。トラが寝てるかなと思って、僕も寝てた」 「……」 「……今日の晩飯、何食べるの?」 「……決めてません。史織くんは?」 「トラと同じにしようと思ってたのに。じゃあもう、ラーメンでいいかな」 「じゃあ俺もそうします」 「うん。トラ」 「はい」 「帰ってこれそうか」 「はい。朝イチの飛行機で」 「うん。じゃあ、迎えに行こうかな」 「はい」  新社会人の最初の連休はだいたいがゴールデンウィークがらみだ。佐川もそうで、ただし神坂とは違って、カレンダーの黒い日付は出勤しなければならない。後半の数日の間、神坂の部屋へ戻る予定だ。  今の佐川にとって、日々の疲れも、仕事のストレスも、神坂への小さな苛立ちも何もかも、その数日を彼と過ごせば何とかなると思っていた。そう思うことで、毎日をやり過ごしていた。 「今そっち、通り抜けだろ?僕行ったことないんだ」 「ああ、大阪ですよね。もう終わったみたいですよ。会社の人が行ってましたけど、すごい人なんでしょ?」 「そうみたいだな。立ち止まれないし、夜だからまだ寒いし……トラ、風邪ひいてないか」 「はい。史織くんは?」 「大丈夫だ。でもちょっと喉が痛くて。先生に診てもらったら、アレルギーかもって。この歳で花粉症デビューとか最悪なんだけど」 「マスクしてください。花粉で決まり?」 「いや、検査するのも面倒だから、薬だけ貰った」 「面倒がるとこじゃないでしょう」 「面倒がったのは僕じゃなくて先生だ」 「どういう……」 「アレルゲンが一つとは限らないしな。キリがないだろう」  神坂と話していると、手が無意識に隣を撫でている。佐川はそれに気づいて、グッと拳を握った。早く、逢いたい。  離れてまだわずかにひと月程度。佐川は自分でもその焦燥感に呆れていた。  連休前日、佐川は仕事を済ませ、急いで家に戻り、私服に着替えて小さなバッグを手に家を出た。気持ちが逸ってどうしようもなくて、持っていた翌日の飛行機のチケットをキャンセルして夜行バスに飛び乗る。早朝に大きな駅に着き、そこから乗り継いで神坂の部屋に帰り着いたのは、まだ六時過ぎだった。  静かにドアを開けて、久しぶりの空気を吸う。神坂はまだ寝ているらしい。当たり前だ。佐川はリビングにバッグを置いて、着ていた服を脱ぎ捨ててパンツ一丁になる。ふと目に留まったカレンダーを手に取れば、今日の日付が星の形のシールで埋め尽くされていた。佐川は思わずそれをじっとおでこに当てて、唇を噛んだ。何とも言えない感情が溢れて、申し訳ないような気分になる。  神坂の寝室をそっと開け、大きなベッドに近づくと、神坂は相変わらずダイナミックな寝相で、空を飛ぶように右手をグーで突き上げている。左手と両脚は布団の中なのでわからないけれど、おとなしくはしていないだろう。  佐川は神坂を起こさないように、布団の端を捲って身体を滑り込ませる。しかし起こさないように、というのは無理な話だ。神坂は寝相はアレでも寝起きはいいし、佐川の体重を受けてベッドは大きく沈み込む。案の定、驚いたように神坂の身体が跳ねて、彼は目を覚ましてしまった。 「はじ、め……?」 「はい。ただいま」  薄闇の中で、神坂は佐川の顔に手を伸ばす。佐川はその手を握って自分の頬に押し付けて、もう一度ただいま、と呟いた。  神坂は、迎えに行かなければいけないのに寝過ごしたのかと焦った。そして次の瞬間には、これは夢なのかもしれないと思った。夢ならどうか、醒めないで。神坂は小さく頷いて、佐川に身体を摺り寄せ、また目を閉じた。  佐川はその瞼にキスをして、たまらないしあわせを感じながら、そのまま朝寝を満喫した。 「どうやって帰ってきたんだ」 「夜行バスです。待ちきれなくて」 「じゃあ、あんまり寝てない?バスって、席狭いし寝られないんだろう?」 「いや、なんかラグジュアリなやつで。キャンセルが出たとかで乗れたんですが、俺でもまあ、なんとか。女の人とかなら余裕で爆睡できる感じでしたね。シートも周りを気にせず倒せますし」 「へぇ……」 「飛行機のほうが安いんですけどね」 「そうなの?」 「はい。史織くんのイメージのバスは、もっと安いですよ」  あの後、神坂が佐川を迎えに行くためにセットしていたアラームが鳴り、二人は目を覚ました。寝起きの頭でも、隣に好きな人がいるのはわかる。現実なのだと頭で理解するよりも先に、身体が重なっていた。 「い……あ……っ!」 「史織くん……こっち、向いてください」 「トラ、や、気持ち、い、あ」 「かわいい……史織くん、好きです」 「僕も、トラが……」  早く早くと求める神坂に対して、佐川は愛撫を手短に済ませて挿入した。ひと月ぶりの行為に、佐川は少し驚いていた。神坂の尻穴が、経験がないほど固く閉じていたからだ。自分を受け入れたくない気持ちの表れだろうかという、愚かな考えが頭をよぎったけれど、そんな素振りはまるでない。佐川はひたすら、神坂に痛くないか、辛くないかと聞きながら、優しく強く彼を抱いた。 「史織くん」 「なんだ」 「……身体、大丈夫ですか?」  寝ぼけたような状態のままで、なし崩し的にセックスしたおかげで、久々の再会に伴う照れや遠慮が吹っ飛んで、遅い朝食の後のコーヒーを飲んでいる今、二人はあまり緊張感もなく寄り添ってソファに座っている。  神坂は佐川の遠回しな言い方に、少し気まずそうな顔で俯いた。 「……おかしかった?僕の身体」 「いえ。おかしくないです。ただ、いつもと違うから」 「うん……最近、してなくて」 「自慰を?」 「普通にはしてるんだけど、お尻使ってない」  自慰を趣味だと言い切る神坂が、していないというのはどういうことなのだろう。佐川は目線で話の続きを促す。神坂は久々に見る佐川の顔を、本当にかっこいいな、ちょっと太ったな、と眺めていた。 「なんか、やなんだ。ディルドだと、物足りないし」 「新しいの、買ってもいいですよ?」 「じゃなくて。お前とする合間に自慰をするのはいいんだけど。……お前と中々できないから、補えないだろう」 「補う?」 「オナニーとセックスは別なんだって。オナニーしたって、性欲は満たされないし、ディルドで足りないと、余計にお前としたくなるっていうか」 「……」 「お前の感覚……感触?消えたらやだし」  神坂は自分のマグをローテーブルに載せ、黙ったままの佐川の手からもマグを取り上げる。そうして、分厚い胸板にこてんと頭を預け、よいしょと言いながら、佐川の太い腕を自分に回させた。 「…………久しぶりだな」  目を見ては言えない。お互いにそれはわかっているから、佐川も黙って、神坂の髪にキスをして、小さい息を吐く。この時間を、どれほど望んでいただろう。傍にいたいと、考えない日はなかった。佐川はもう一方の腕も神坂に巻き付けて、彼をしっかりと抱きしめる。 「はい」 「おう」  たった四日しか一緒にいられない。佐川は神坂の何もかもが欲しくて、抱く腕に力を込めた。

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