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第35話

 神坂はものすごく、緊張していた。今日は初めて、神戸にある佐川の家に行くからだ。五月の初めの連休に、佐川が帰って来て以来、およそひと月ぶりに逢える。  行き来しようと思えば、いくらだってできた。だけど佐川は疲れていたし、交通費は馬鹿にならない。佐川にばかりその負担を押し付けられないから、神坂は早く自分が佐川の部屋へ行きたかったけれど、佐川の新しい生活の邪魔をしたくないという理性が勝っていた。  タイミングを見計らいつつ、神坂が行ってもいいかと聞くと、佐川はそう言ってくれるのを待っていた、早く来て欲しいと答えた。  金曜日の午後を休みにしてもらって、退社する。佐川の帰宅は遅いので、定時で帰って移動しても間に合うのだけれど、なんだか落ち着かないし、一度家に帰ることにした。  途中で昼食を食べて、家でシャワーを浴びて私服に着替える。小さなボストンバッグを持ち、神坂はドキドキしながら出発した。  行きは飛行機にした。今時の国内線は、他の移動手段に比べてずいぶん安価だ。空港へのアクセスがよければ、一番いい選択肢になることが多い。慣れない搭乗にも緊張するけれど、神戸空港に到着すると、ため息さえ漏れる。 「まだ時間、あるし……」  空港から佐川の家の最寄り駅まで、一時間もあれば着いてしまう。昨日の晩の電話では、佐川は合鍵を渡しているのだから先に入っていてくれて構わないと言っていたけれど、さすがに少し気が引けるし、駅前で待っていると伝えてある。神坂は知らないその駅に着いて、辺りを見回し、落ち着けそうなカフェを見つけてとりあえずそこで待つことにした。 「温かいカフェオレ……と、マカロン二つください。えっと、これとこれで」 「かしこまりました」  緊張はほどけない。梅雨の近い関西の湿度は非常に高くて、念入りにブローした髪も、機内の乾燥と外気の湿気で様にならない状態になっている。神坂はそれを気にして、何度も髪に手をやる。緊張する。温かいカフェオレと甘いものを口にして、何度も落ち着こうと息を吐く。手首の時計を確認すれば、佐川に逢うまでまだ一時間はある。  佐川は会社に自転車で通っている。学生のときからずっと大事に乗っているマウンテンバイクだ。定期的に駅からあふれてくる人の中に紛れることはないけれど、神坂はいつ彼が来てもすぐにわかるように、窓際の席で窓の外を見るようにして座っていた。  すでに陽は落ちて、駅前らしい灯りが瞬いている。会社からここまで、自転車で二十分ほどと聞いている。駅から家までは歩いて十分。仕事が終わったら連絡をすると言ってくれていたので、神坂は佐川に駅前のカフェにいるとメールを送っておいた。空腹感はなく、ぼんやりと、本当に逢えるのだろうかと考えた。 「遅くなってすみません」  佐川を待っている間に少しだけ雨が降った。夏が近いのに、すぅっと気温が下がって肌寒いほどだ。仕事が終わったとメールが着てから十五分ほどで、佐川は神坂を迎えに来た。行きましょうと促されて、長時間居座ってしまったカフェを出る。予定よりも一時間ほど遅い再会だった。 「本当にすみません。仕事が終わらなくて」 「いい。平気」 「腹減りましたよね?食べた?」 「ううん、まだ」 「ああじゃあ、家の近所に定食屋さんがあって、そこでもいいですか?」 「うん」  佐川の顔を見たのに、神坂は落ち着かなかった。ちょっと、気まずいほど、顔が見られない。佐川は自転車を降りて神坂のバッグをそのハンドルに引っ掛けて、駅まで迷いませんでしたかと話しかける。 「あー……うん。僕、乗換えとか得意だから」 「はい。適応力高いんですよね。俺、まだあんまり慣れません」 「自転車で動くからだろう?道には詳しくなるんじゃないか?」 「どうですかね。とりあえず、坂が多くていいトレーニングになってます」 「あっそ」 「それでもトレーニング量が減ってて、筋肉落ちたし……」 「うん……ちょっと、太ったよな」 「はぁ……もう、最悪……」  神坂が落ち着かない原因は、佐川の服装だ。普段はスーツを着ないらしいのに、今日は新入社員向けの研修だか説明会だかがあって、きちんとスーツを着こなしている。襟元を飾っているのは神坂のおさがりのネクタイだ。どういうのがいいのかさっぱりわからないと言うので、買ったもののあまり似合わなくて使っていないネクタイを神坂があげたのだ。明るい卵色に紺と赤の細いマルチストライプは、佐川によく似合っている。誰の目にもかっこいいと映るだろう。  こじんまりとした定食屋さんは、佐川が暖簾をくぐると「毎度!」と笑顔で声をかけてきた。その様子に、神坂は佐川がここの常連だと知る。 「結構来てるのか?」 「ここですか?そうですね。週五はかたいですね」 「ほぼ毎日じゃんか」 「はい。休みだと、昼と夜、二回来たりして」 「へぇ……おいしいんだ」 「はい。だし、安いし、ボリュームもあるし、メニューも豊富で」 「ふぅん。おすすめは?」 「えーっと、何食べたいですか?」  神坂は程よく席の埋まった店内を見回し、テーブルに置かれたメニューを覗き込む。確かにとっても安い。ご飯とお味噌汁のおかわり自由で、メインのおかずと小鉢を選ぶようだ。佐川と相談をしていたら、お店の人がお水とおしぼりを持ってきてくれた。 「いらっしゃい。珍しいやん、友達と来るの。初めてちゃう?しかも何、そのスーツ。しゅっとしとぉやん」 「はい」 「お友達も、めっちゃ男前やなぁ。大盛りもサービスするからゆうてねぇ」 「ありがとうございます」  ほんの少しの疎外感を覚えながら、神坂は正面に座る佐川と一緒に夕飯を食べる。おいしいですか?と佐川が聞いてくれる。神坂が頷けば、佐川は安心したように笑った。

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