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第36話
満腹になってから、二人で言葉少なに歩き、佐川の部屋へ到着した。近くに大学があって、だから本来は学生向けのマンションなのだという。新築で、パッと見の外観はおしゃれな感じだ。
佐川はバイクを担いで、三階まで階段で昇る。神坂に前を歩かせて、その部屋ですという声に、神坂はここ?と首を傾げてドアを指さす。こんな、見たこともないドアの向こうで佐川が暮らしているというのが不思議だった。
「鍵、これで」
「僕も持ってる」
「そうですね。じゃあ、それで開けてください」
「うん」
神坂は佐川の言葉に従って鍵を開け、そうっとドアを引いた。小さな玄関の小さな沓脱には、見覚えのあるスニーカーが置いてある。神坂は佐川を振り返って、お邪魔しますと言ってから部屋に上がった。バイクとともに入ってくる佐川は、お邪魔じゃないですと返している。
「え……と」
「狭いでしょ、すみません。部屋まで行ってもらえます?」
「あ、うん」
上がってすぐのひどく短い廊下の右手に簡易なキッチンがあって、左手にドアがある。多分それは風呂場に続くドアだろう。どこまで上がり込んでいいのかわからない神坂が立ち止まると、佐川が立ち往生してしまうほど狭い。神坂は促されるままに、廊下の先の部屋へ足を踏み入れた。
玄関はセンサーで自動的に照明が点いたけれど、部屋の電気のスイッチの在りかがわからない。
入り口で、真っ暗な部屋を見渡しながら戸惑っていると、太い腕が神坂を後ろから抱きしめた。
「覚えてくださいね。ここ、スイッチです」
「え……?どこ?」
「ここです」
部屋の入り口のすぐ横の壁に、小さな明かりが見える。それを神坂が押すと、ようやく部屋の中が明るくなった。正面に掃き出し窓があって、小さなベランダがある。部屋の右半分はベッドで占められ、左半分には小さなテーブルとキャビネットとテレビ。狭いけれど、どことなく佐川のにおいを感じる部屋に、神坂は漸くほっとした。
「トラ」
「逢いたかった」
「……うん」
ドキドキが、緊張ではなくときめきに変わる。神坂は身体を翻して佐川にしがみついた。何度もキスをして、お互いを確かめ合う。
「なんか、さ」
「はい」
「か、彼氏んちに、来ちゃったって、感じ……」
神坂は恥ずかしくて両手で自分の口元を覆う。出逢った時すでに佐川は宿無しだったので、「佐川んち」に行ったことはない。お互いの家を行き来するというシチュエーションは、神坂にとって少し憧れの存在だったのだ。
神坂のかわいらしい仕草に、佐川の鼻の下が伸びる。
「彼氏んちですからね」
「うん」
「いつでも来てくださいね」
「うん。道も覚えた」
「さすがですね」
佐川一人には不要だけれど、神坂が来ることを想定して、ふかふかした大きめの、かわいいクッションを二つ買っておいてある。ソファなんてものを置くスペースはないので、フローリングにラグが敷いてあって、その上に座ってもらう。神坂はクッションをかわいいと褒めている。佐川はそれに少し笑顔を見せた。
「テーブル、大きいのもありますから、二人で飯食うくらいはできますよ」
「そうなの?」
「はい。普段はこの小さいやつで十分だから、大きい方は片づけてます」
「…………それって」
「史織くんと一緒に過ごす用ですね。半端なく、狭くなりますが」
「……ありがと」
ベッドを背にクッションに座って、神坂は部屋の中をぐるぐると見回す。佐川はネクタイを緩めながら、久々に見た神坂の綺麗な顔を満喫していた。
「えっと。仕事、どう?」
「会社って、いろいろ大変ですよね。ルールとか順番とか」
「だな」
「頑張ってます。慣れないですけど、電話くらいはまともに取れるようになりましたよ」
「へぇ?ちょっとやってみて」
「え。やですよ。恥ずかしいでしょ」
「なんだよ。いいじゃん」
「やですー」
佐川は楽しそうに笑い、神坂の小さな顔を両方の手のひらで包む。至近距離で見つめ合い、神坂が目を伏せると、佐川のキスが降ってくる。懐かしさに、胸が痛いほどだ。
「……風呂、入ります?」
「え?あ、うん……」
「超狭いけど、トイレと別なんです。それがこの部屋の決め手かも」
「うん」
神坂としては、このまま今すぐ抱き合いたいと思っていた。家を出る前にシャワーは浴びてきたし、佐川がシャワーを浴びていないのは気にならない。だけど、綺麗にしてからするのならそれでもかまわない。かわいいパジャマと下着も持参してきたのだし。
一緒に入るのかと思ったけれど、佐川は神坂に使い方を説明して、バスタブに湯を張り始めると、風呂場を出て行った。少し拍子抜けしつつも、神坂は風呂をもらって温まり、ずいぶん気持ちが落ち着いた。
神坂が風呂を出ると、佐川が入れ違いにシャワーを浴びに行く。パジャマ姿になった神坂を、かわいいと褒めることも忘れない。神坂はソワソワしながら、佐川が戻ってくるのを部屋で待っていた。
「史織くん、何か飲みますか?」
「あー……うん。何があるんだ」
「ビール……っぽい飲み物が」
「ふふ。じゃあ、それ」
「はい」
佐川が見慣れたスウェットパンツとTシャツ姿になって、肩にタオルを掛けていて、神坂の隣に座ってビールっぽい飲み物を煽っている。神坂はその光景に、安心感を覚えた。
「あの定食屋さん、よく見つけたな」
「はい。このマンションの大家さんなんですよね」
「そうなんだ。美味しかった」
「ね。でも明日は、あそこじゃないところで食べましょうね」
「うん。どこか出かける?」
「そうですね」
二人分の缶とグラスを載せたら結構余裕のない小さなテーブルを前に、脚も満足には伸ばせないくらい狭いスペースで寄り添って、それでもここは、二人だけの空間だ。神坂がそっと佐川の手に触れると、佐川の太い腕が神坂の腰をクッションごと引き寄せる。
甘い時間の到来の予感に、神坂は佐川の目をじっと見つめた。
「あの、史織くん」
「なんだ」
「実はこの部屋、すっげえ壁薄いんです」
「……」
「我慢できま」
「無理」
神坂の食い気味の即答に、佐川はへにゃりと眉を下げて笑う。神坂はフンと鼻を鳴らす。無理に決まっている。するのを我慢するのも無理だし、してる間中、隣に聞こえないように気遣い続けるのも無理だ。そんな余裕なんかない。
佐川は我慢しろと言っているのだろうか?だから風呂だのビールっぽい飲み物だので、時間を引き延ばしていたのか。
「僕に猿ぐつわ。それ一択だろ」
「できるわけないでしょう。それこそ無理です」
「じゃあどーすんだよっ!」
神坂は感情が高ぶって、なんだか泣きそうになってきた。知らずに声が大きくなる。佐川はそっと神坂を抱き寄せてキスをした。
「明日」
「明日になったら壁が厚くなるのかっ」
「出かけましょう」
「……うん。デート?」
「はい。デートして、……ホテル行きませんか」
「ホテル?」
「はい」
佐川は少し恥ずかしくなって、神坂のおでこに自分のおでこをつけて目を閉じた。すべすべの神坂の手を握り、通じたかなと考える。
神坂は、ホテル、ともう一度小さく呟く。
「……エッチなホテル?」
「はい」
「ラブホテル」
「そうですね」
「……男同士で入れるのか」
「探せばあります。つーか、もう目星つけてます」
「……」
佐川は神坂の頬を撫でながら、人目が気になるなら普通のビジネスホテルでもいいと付け加える。なんなら、いつも二人で旅行する時に利用するような、シティホテルの手頃な値段のスイートルームを探してもいい。いや、多分その方がいいだろう。ビジネスホテルの壁も薄いから。
「……ラブホテルがいい」
「そうですか」
「うん。うまく、入れるかな……」
「はい。誰にも見られないで入れます。史織くんに嫌な思いなんか絶対にさせません」
正確に言えば、徒歩でホテルに入るのだから、往来の通行人には見られるだろう。だけど佐川は、自分が壁になれば神坂への視線を遮ることはできると考えた。
「今日は?」
「……入れるのは、やめておきましょうか」
「……うん」
「すみません」
「トラのせいじゃないだろ」
「いえ。もっと考えて部屋を選ぶべきでした」
「馬鹿。セックス基準でものを考える方がおかしいだろ」
「セックス基準じゃないです。史織くん基準です」
そう言うと佐川は神坂をベッドの上に座らせて、自分は立ち上がり、さっき神坂が点けた電気を消した。その瞬間、佐川はしまったと呟いた。間接照明や補助照明が、この部屋にはないのだ。
真っ暗な部屋の中で、二人は黙り込んだ。
「……点けとけ」
「ですね……」
ムードがないような気もするけれど、お互いの顔も見えないのはさみしい。再び明るくなった部屋のベッドで、神坂が佐川に笑いかける。
「明日、買いに行く?」
「はい」
佐川はTシャツを脱ぎ捨てて、神坂を押し倒しながらベッドになだれ込んだ。明るい照明が点いたままで、キスと愛撫を繰り返し、繋がれないもどかしさと声を我慢する。耳元で密やかに、何度も繰り返されるのは好きだという言葉ばかりだった。
「は……ん……史織くん、俺、もう」
「イク?トラ……いいよ」
「やべ……ん……!」
口でしたり手でしたり、お互いの身体を弄り合って何度か果てて、多少は気が済んだ。その後一緒にシャワーを浴びて、そこでも必死に声を押し殺して抜き合い、神坂は佐川の目がじっと自分を見ていることにひどく満足した。
「せまーい」
「しー」
「ふふふ」
部屋の広さを考えれば限界のセミダブルのベッドに、部屋を真っ暗にしてから二人でもぐりこむ。手探りでキスを交わし、明日目が覚めても、好きな人が傍にいるのだというしあわせの中で、二人は眠りに落ちた。
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