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第7話

 風間とだけ関係を持っているという事実は、僕に精神的な安寧をもたらした。優しくすると言ったとおり、彼は優しい。同じ場所で働いているのだからこちらの都合をわかってくれるし、僕に何かを無理強いすることもない。  没交渉となった人たちの視線が痛いようなときもあるけれど、それは自業自得だ。自分の行いを反省している。  僕も風間も実家住まいだし、風間はまだ二十歳だし、そう頻繁に……というわけにもいかないけれど、それでも僕は満足していた。だけどそれも長くは続かなかった。  別れ、ではない。そもそも恋人同士だったわけではないし、そういう言葉のやり取りもなかった。ただ、ある頃から急速に二人を繋いでいた糸が細くなり、あっという間に切れた。  風間は僕を誘わなくなり、クローズシフトにも入らない。ラストシフトのときも、掃除や片づけを終えたほかのメンバーと一緒にさっさと帰ってしまう。  きっと新しい誰かに興味が移ったんだろう。  僕は彼に問いただすことはできなかった。ずっと年下の大学生に縋るなんてさすがに自尊心が許さないし、なにより、風間の重荷になるのが嫌だった。  風間をきっかけに、他の人たちと距離をとったので、フラフラすることさえできない。珍しく僕は、誰とも寝ない日々を送っていた。  誰かが風間に、「高木さんと仲いいよねー」と言っているのを聞いた。高木というのは最近入会してきた会員で、僕や風間から見れば小柄にも映る、かわいらしい容貌の男だ。入会の受付をしたのが僕だったからよく覚えているし、館内で顔を合わせるたびにニコニコと挨拶をしてくれる。学生時代は僕と同じく野球をしていたらしく、経験があるからか、マシントレーニングのコツを掴むのは早かった。  受付をしたのは僕だけど、そのあとの館内案内は風間にさせた。風間はカウンタにいる間も館内を巡回しているときも、会員の人に愛想よく接しているので、高木さんと特別仲がいいようには思わなかった。……だけど、確かに高木さんが入会してしばらくしてからかもしれない。風間が僕を誘わなくなり、クローズシフトにも入らなくなったのは。 「早いだろ、飽きるの……」  僕はため息交じりに呟く。あんなに優しくしておいて、こんなに早く捨てられるとは思わなかった。一回り以上も年下の男に向かって、捨てられるなんて言うのも情けない話だけれど、僕と風間の関係は、完全に僕が依存していて、彼は常に強者だった。すべての決定権も彼が握っている。だから、どうして?も言えない。彼がそう決めたのなら、そうなのだろうから。  気にして観察していると、確かに風間は高木さんとよく話しているような気がする。彼がしばらく……と言っても数日だけれど、来館しないと、どうしたんだろう?と誰かに聞いている。自分のいないときに来てましたかと確認している。僕とは仕事上の会話しかないのに。風間が何を考えているのか、さっぱりわからなくて、僕はどんどん塞ぎこんでいった。 「小阪さん、元気ないです?」 「え?」 「なんか、しょんぼりして見えますよ?」 「そう、かな?」 「はい!暑いですけど、元気だしてくださーい!」 「はーい」  明るいバイトの女の子に励まされて、思わず笑顔になる。きっとこれでよかったんだ。爛れた日々を切り捨てることができた。風間みたいに若くて見た目のいい、性格だっていい子は引く手あまたで、いつまでも僕に関わっているほうがおかしい。僕はもう、以前のように流されて誰とでも寝るようなことはしない。そう吹っ切れたのも、風間のおかげなんだ。  だから僕は、風間が久しぶりに僕に食事に行こうと言ったとき、思わず断ってしまった。 「……え?都合悪いです?」 「いや……その」 「明日が駄目なら、克彦さんの予定に合わせますけど」 「もう、さ。気を使ってくれなくていいよ」 「は?」  見計らったのだろう。僕が仕事を終えて店から駅に向かって独りで歩いている時間に電話がかかってきた。彼の声は電話越しでも心地いい。柔らかい髪や白い肌を思い出させるには十分すぎるほどだ。  だけど僕にも、自尊心はある。 「えっと、風間ももっと、歳が近くて可愛い人とか」 「なんだよそれ。ちょっと誘わなかったらもう他んとこ行ってんの?」 「行ってない!それは風間だろ!?」 「……」 「自分はいいのか。僕には待ってろって言うつもり?」 「……藤田マネージャーと仲良くしてれば」  唐突に通話は終わった。耳障りな電子音に虚しさを煽られる。  誤解されているのだろうか。信じてもらえてないのか。ものすごくそれが悲しかったけれど、今までの自分の行いでは仕方がない。彼との関係は、約束されたものでもなければ特別でもないのだろう。否定の言葉もなかった彼に、ほんの少しだけ絶望させられた。  僕は携帯電話を尻のポケットに滑り落とし、駅までの道を俯いたまま歩いていった。  暑さが本格化してきた頃、本部から人事の内示があった。僕は今の店で五年目だから、そろそろだろうと予測はしていたけれど、案の定異動リストに載っている。ちょうどいいと思った。自分の異動がなくても、風間はいずれアルバイトを辞めて就職するだろうけれど、なんとも気まずいこの関係を、早々に清算できるのはありがたかった。  異動についての会員への開示は、三週間前とされている。同僚の原田さんはもちろん知っていて、残念だと言ってくれた。原田さんのように仕事のやりやすい人は貴重なので、僕も同感ですと頷き返す。 「アルバイトの子たちには、どうしますか?」 「…………もう少し、黙っておきます。会員さんとかに隠すのに、ストレス感じさせたら悪いし」 「そうですね。じゃあ、タイミングは小阪君に任せますね」 「はい。ありがとうございます」  このまま風間と疎遠になって、別の店に異動して、一からやり直すのも悪くない。僕はそんな風に考えていた。  食事の誘いを断って以来、風間は僕にますます寄り付かなくなった。僕も社会人だから、彼がそんな風でも職場では平静を装うくらいはできる。彼も上手くやっているようで、誰かに仲違いを疑われるようなこともなかった。  今の川辺店は大きな駅の近くとはいえメインターゲットは昼間に来る主婦層だ。なので、夜だけに来館する会員の比率が低い。今度の移動先は真逆で、オフィス街にあるので仕事帰りの会社員で夜がにぎわう店だ。近所には大きな総合病院があって、そこの医師や看護師が自分の仕事明けに運動不足を解消すべく通ってきたりもする。  その程度の知識は会社の資料ですぐに読めるし、今実施されているキャンペーンや月間のレッスン予定もすぐに閲覧できる。僕は仕事の合間にそれらを確認し、改善点を探しておく。さらに、次にここに来る人のためにある程度の引継書類を作る。そういったことはクローズ作業後にアルバイト君を帰してから、一人で残業する。  時々なんとなく、身体が熱いような夜があるけれど、それだってただの惰性だろう。きっとそのうち、忘れる。そうして、もしも他に好きな人ができたら、今度は僕が優しくしてあげたいとまで考えた。 「……風間が好きだったのかな」  よくわからない。彼はあまりにも若くて輝いていて、掴みどころがなかった。   異動対象者の中には、藤田さんも含まれていた。僕は家から通える程度の異動だけれど、藤田さんは隣の県ですらない。ぼんやりと、単身赴任なんだろうかと考えたりした。子供さんは確かもうすぐ小学生になるから、比較的転勤サイクルの早いウチだと大変だな、とか。  最近は会う頻度が高かったから、僅か二ヶ月ほどのことなのにものすごく疎遠になったような気がする。風間がいれば気にならなかったけれど、独りになって、寂しいような懐かしいような、頼りたいような気分になる。  そんな風に鬱々としている僕の頭の中を、スラリとした長身の男が横切る。風間の姿を思い出すだけで、馬鹿な自分の考えを笑い飛ばすことができた。 「あー……依存度高いなぁ……」  でも、こんなことももうすぐなくなる。あの時、もしも誘いに応じていたら風間は僕を抱くつもりだったんだろうか?高木さんと、うまくいってないのかな。相手が高木さんとは限らないけれど、僕とは全然違う人だから、もしかしたら風間はそもそもああいう可愛らしい男が好きだったのかもしれない。  高木さんは、優しくされるのが似合う、優しくしてあげたくなるような朗らかな人で、だから憎らしく思うこともできない。  第一、自分がやってきたことのしっぺ返しだと思えば、誰かを憎んだり怨んだりするなんてできない。風間のことも、彼を魅了した誰かのことも。  異動まで一ヶ月を切った頃、僕はその日のシフトに主だったアルバイトの子がいることを確認して、来館者が途切れたタイミングで彼らを集めて報告した。 「えーと。恒例の異動の時期なんだけど、僕も今月いっぱいで異動します」  予想していたよりも反応が大きくて、さらに泣いてしまう子までいて困った。なんて言っていいかわからない。ごめんね、って言うのは違うし、惜しんでもらえるのがありがたいような、複雑な気分で、「泣かなくてもいいよ」と慌ててタオルを貸してあげるので精一杯だった。もちろん、綺麗なタオルだ。 「会員さんにはまだ内緒でいてください。規約どおりの時期に、書面張り出してお知らせします。あと、今ここにいない人にも伝えておいてください」  以上です、と話を切り上げたら、どこの店舗に行くんですかと一斉に詰め寄られた。桂店よりは遠いけれど、それでも近隣の部類の、同じ統括本部内の店舗だと言えば、遊びに来てくださいと約束させられる。僕はありがとうと笑って、じゃあ、仕事に戻ってねと声をかけた。  風間は事務所の壁際に立っていて、僕の話を聞いていたようだ。どんな顔をしたのか、わからない。根性なしの僕に、彼の顔を見る勇気なんてない。カウンタ業務に戻らないといけない子達は嫌々ながらも、仕事を代わってくれている原田さんと交代しに行ったようだ。残った数人はまだ僕の傍から離れなくて、送別会だのそれより前に一回ご飯行きましょうだのと息巻いている。ふと視界の端が動いたような気がして、僕が顔を上げると、風間が出て行くところだった。 「……」 「小阪さん、風間君にも言ってなかったんですか?」 「え?ああ……原田さんだけだね、知ってたの」 「あんなに仲良かったのに?」 「仲って……僕と風間が?」 「だって風間君、小阪さんに筋トレ教えてもらってるとか、すごい嬉しそうに話してましたよ?」  すごい嬉しそうに、というのが、僕には想像できなかった。風間は明るいしよく笑う。いつも楽しそうだ。だけど、嬉しそうというのがあまり印象にない。何とも言えなくて僕が黙ると、ベテランアルバイトの女の子は大仰なため息をついた。 「小阪さん、天然ー」 「そうかなー」  風間はその日からますます僕に近寄らなくなった。

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