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第8話

 半年に一度、全国の店舗から人を集めて、本社で研修が開かれる。一泊二日で、朝から晩までみっしりとスケジュールが組まれ、嫌になるくらいだけれど、数年おきに異動を繰り返す社員たちの同窓会のような雰囲気があったりもする。  フィジカルトレーニングの研修なので、各店舗からフィジカル担当の社員が出席する。アルバイトでも、一人までは同伴できる。僕も社員の人に頼んで、バイトのうちから参加させてもらっていた。そこで藤田さんに捕まったのだから、よかったのか悪かったのかわからない。他にも僕を捕まえた人はいるし、未だにこの日だけ僕にかまう人もいる。今年はそういう誘いを全部断るつもりだけれど。  そんな研修の、今回の通知が少し前に事務所のファクスに届いて、誰でも見られる所にそれが貼られていて、ああ今年は水曜日からか、などと話題になった。それを聞きつけたらしい風間が、珍しく僕のところへやってきた。 「小阪さん。研修、小阪さんが行くんですか?」 「え?あ、うん」 「俺も参加させてもらえませんか」 「なんで?」 「知らないことが多すぎて、いつまでも成長できないので」  風間はうちの会社に就職したりはしないだろうと思う。地元では有名な大学に通っているし、なんだか似合わない。もっと颯爽と、スーツを着こなして商談をまとめるような仕事が似合いそうだ。経験がないからわからないけれど、いわゆるエリートサラリーマンというやつだ。 「インストラクタ、やりたいのか」 「受付だけをする気はないですね」 「バイトは、研修費全部自腹だぞ」 「はい。宿泊も自分で手配します」 「……申請出しとく。結果は後日」 「はい。よろしくおねがいします」  そこまでして、どうして風間が研修に参加したいのか、僕にはわからなかった。バイトのスタッフはあくまでもアマチュアで、受付業務から一段上がってマシンフロアに常駐になっても、トレーニングに熱心な会員からすれば、マシンの取扱説明書にすぎない。それでも、申請すれば承認されるだろう。むしろ、そういうやる気のアルバイトは歓迎される。彼はかつての僕のように、誰かに捕まえられるのだろうか。それとも、誰かを捕まえるのか。  僕は小さくため息をついて、申請書を作って原田さんに見せ、連れて行くけどいいですかと確認した。彼はいいことですねと笑った。  思ったとおりに風間の参加は承認された。僕は変わらない日々を過ごし、会員さんにも異動の告知をしたので、なんだか恥ずかしいほどの惜しまれように感謝を伝えることが増えていた。  だから研修の事をあまり考えていなくて、研修前日の仕事中に「明日、新幹線何時ですか」と聞かれるまで、風間が参加するのだから一緒に移動するべきだということを思いつかなかった。社員は本部が全部手配してくれて、切符やバウチャが届くからだ。 「ご、ごめん。気づかなくて。えっと、あの」 「前泊しますか?」 「いや、当日の朝移動する。ごめんな、本部がしてくれるんじゃないんだったな。迂闊だった」 「何時です?」 「えっと、何時だっけ。ちょっと待って」  手配してくれるとはいえ、送られてくるのは自由席の切符だ。一応この新幹線に乗れという指示はある。僕はガタガタと自分のデスクのドラえもんが出てくる引き出しを開けて、研修関係の書類を挟んだクリアファイルを引っ張り出す。行動予定表は一番上に重ねてあった。 「六時過ぎの新幹線の予定」 「じゃあ、六時に改札でいいですか。俺、本社行ったことないんで」 「そうだよな。ああ、一緒に移動しよう」 「よろしくおねがいします」  気遣いが足りなかったことをもう一度謝まると、風間は小阪さんが誤ることじゃないですよと言って仕事に戻って行った。  落ち着かない。僕はそのファイルを、忘れないうちに自分のバッグに入れて、明日の移動をどうやり過ごそうかと気が重くなった。  翌朝の風間は、僕が早めに着いたにも拘らずすでに改札口に立っていた。めっきり見せなくなった笑顔を浮かべて、おはようございますと頭を下げる。彼の礼儀正しさが、他人行儀にさえ思えて、僕は曖昧に唸っただけで返事にした。 「切符、買えたか?」 「はい。平日のこの時間なら空いてますよね」 「いや、意外と乗車率は高い」 「ですか~」  風間は相変わらず、今時の大学生らしい爽やかで清潔感のある軽装で、軽くて丈夫なボストンバッグをショルダーベルトで斜めがけにして、両手にコーヒーを持っていた。バッグの中身は少ないらしく、彼の腰の辺りにへちょりと貼りついている。 「おすそ分けです」 「……ありがとう」 「俺もスーツのほうがよかったですか?」 「いや、社員だけだ。どうせあっちに行ったら即ユニフォームだし」 「はい」  風間の目を見て話すのが久しぶりのように思える。関係を持つ以前のように、屈託のない笑顔と他愛ない会話。  そうか、ふっきれたのか。  いつまでも引きずったってしょうがない。彼が上手く整理して、こうして普通に接してくるのなら、僕もそうしないといけない。  気が重かった移動は、風間の気づかいのおかげで問題なく過ぎていった。  新幹線の駅から在来線に乗り換えて、最寄り駅で何人か顔見知りとも合流し、僕は風間を紹介しながら団体で本社へ到着した。風間は持ち前の明るくて爽やかな笑顔と、社内で一、二を争うほど長身の僕と変わらないその上背と、その他もろもろの外見的武器を思う存分披露して、彼らをあっという間に味方にした。 「バイトなのに、身銭切って参加するなんてすげぇな」 「いえ、小阪さん一人で大変そうなので、お役に立てればと思って。そんな急に使い物にはなれませんけど」 「えらい!!えらいねー!お姉さんが今日の晩ご飯、ご馳走してあげるね!」 「つーか、小阪異動だろ?」 「そうなんです。川辺店一同、どうやって阻止しようかって話を毎日してます」 「愛されてるなー、小阪。羨ましいぞ!」  本社は一階から五階までがスポーツクラブになっていて、六階七階に本社機能が入居している。この二日間、店舗はお休みで、その店舗内で実践研修が行われる。  本社で社長のありがたいお話を聞いてから、僕らはわいわいと階下の店舗のロッカーフロアに移動する。もちろん階段だ。  すっかり風間を気に入った人たちが、次々に顔見知りに紹介していくものだから、ユニフォームに着替える頃には風間はアイドルになっていた。誰だって、わざわざ自分たちと同じ仕事を選んでくれる後進は可愛いものだ。風間がここにいる本当の理由なんて、僕を含めて誰も知らないんだし。 「おつかれ」 「……おつかれ、さまです」  脱いだスーツを丁寧にハンガーにかけて吊るし、僕はポイポイと荷物をロッカーに放り込んで、水の入ったボトルやタオルを手に施錠していたら、後ろでよく知る声がした。一瞬息を止めてから、ゆっくりと振り返って挨拶を返す。藤田さんだった。 「何時の新幹線に乗った?」 「えっと、六時過ぎ、です」 「一緒だったかな?俺、途中でコンビニ寄ってて」 「そう、ですか」  僕に話しかけながら、周囲の同僚にも声をかけながら、藤田さんはバッグをベンチに載せて着替えを始める。僕はすでに着替え終わっていて、いつでもトレーニングルームに移動できる。してもいいのだろうか?お先に、と声をかけて頭を下げれば、それは不自然じゃないだろうか?藤田さんの傍にいるのが怖くて緊張して、逃げ出したい気持ちを抑えられそうにない。  決めあぐねて俯く僕の隣で着替えていた風間も、パタリとロッカーの扉を閉めて施錠し、キーを手首に巻き付けている。そんな風間の向こうから、誰かが藤田さんに話しかけてきた。 「藤田マネージャー、お疲れ様です!こいつ、バイトなんだって!すごくないですか?何年かに一回あるかないかの珍事ですよ!」 「はーうるさいなあ……お?風間だろ、お前」 「はい。ご無沙汰してます。研修のときはお世話になりました」 「顔もよくていい身体してて、挙句に自腹で研修とか、どんだけハイスペックだよ」  挙動不審になる僕を他所に、風間と藤田さんが談笑している。更に数人が加わって、賑やかになる。アルバイトとして登録したときの研修を、風間は桂店で受けている。だから、このくらいの交流は普通だ。うん。 「そうなんですよ、藤田マネージャー。この風間君、超けなげ。小阪さんの負担を減らしてあげたいんですってー」 「へえ……」  心臓が縮むような気持ちだった。誰かにそう言われたときの藤田さんの顔も、それを見た風間の顔も、穏やかとは言いがたかったからだ。一瞬だけど、藤田さんが目を眇めて風間を睨みつけたのは見間違いじゃないし、風間がそれを冷たい笑みで受け止めたのも間違いない。 「克彦。お前異動だろ、次」 「……え?は、はい。異動します」 「風間も、こいつを追いかけて移動する気か?」 「そうしたいのは山々なんですけど、学校から遠くて難しいですね。だけど、気持ちの問題でーす」  藤田さんはそもそも支配欲が強くて、僕にかまう人間を嫌う傾向がある。だから彼は原田さんが嫌いだ。風間はそれと同じ扱いを受けつつある。風間と僕の関係を疑っているわけじゃなく、ただひたすらに子供のように、自分の持ち物を誰かに渡したくないだけだ。そして風間は、悪びれもせずに藤田さんを見おろす。 「異動する日まで、克彦さんはうちの大事な人ですから。今日は頑張りマース」  風間は背景に花でも生えそうな顔で藤田さんにニッコリと笑いかけ、そのまま僕のほうを見る。やめてくれ。僕を引き合いに出すんじゃないっ。 「行きましょう、克彦さん。俺、克彦さんがいないと何もわからないから」 「おんぶに抱っこ。手のかかるガキだな」 「俺まだ二十歳なんでー。いいですよね、先輩頼っても。束縛してるわけじゃないですし」  藤田さんがめんどくさそうな剣呑な声でそう言い、着替えを続ける。怖い。脱いだシャツを乱暴にハンガーにかけて、ガチャンと音を立ててロッカーの中に吊るしていたけれど、風間の返しに眉間に深い皺を刻んで振り返る。藤田さんが生意気な後輩が嫌いだということはよく知られているので、周囲の反応は、あーあ、藤田マネージャー怒らせちゃった、くらいのものだ。僕は慌てた。風間の立場が悪くなるのは困る。 「おい、かざ……」 「行きましょう」  こんなに攻撃的な風間は知らない。いつも明るく爽やかで、会員さんに嫌ごとや無理難題を言われても、あっけらかんとした風に毅然と対応はしても、絶対に強く出たりはしない。  人間、口に出さなくても、言葉が通じなくても、悪意というのは感じるものだ。風間も藤田さんからのいわれのない悪意を察して、こういう態度になっているのかもしれない。だとしたら僕の責任だ。申し訳ない。 「あのな、風間」 「はい」 「……藤田さんはマネージャーだから。ちゃんとしてくれ」 「了解でーす」  僕も強く出るのは苦手だ。しかも、表面上は風間はちゃんとしているし、藤田さん以外が聞けばただのアルバイト君の少し甘えた発言。むしろ藤田さんのほうが大人気ない。モゴモゴとぼんやりとした注意を口にする僕を、風間はうっすら笑って一瞥した。庇ってやるべきだっただろうか。そんな風なことが頭を過ぎったけれど、もう遅い。何もかも遅い。僕は風間の目を見ることはできなかった。

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