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第6話

 週が明けて、僕は出勤した。  外回りの営業をする片岡さんとは違い、僕は営業関係の資料やデータの作成や分析を担当する内勤で、片岡さんともう二人、計三人を受け持っている。依怙贔屓しちゃわないように注意してるけれど、片岡さんからの電話では顔が笑ってしまう。  僕が席に着いて、パソコンの電源を入れたり机に置かれたメモやFAXを確認していると、「おはよう」という声と共に、マグが出現した。 「お、おはようございます!」 「えーと……金曜日、お疲れ」 「あ……はい、お疲れ様、でした!」  うちの会社は挨拶が好きで、飲み会のあとに会うと必ず「この間はお疲れー」とか言い合う。電話でも言う。上司には朝一で「おはようございます。金曜日はお疲れ様でした」と言わないと怒られる。だから僕と片岡さんとの会話は不自然ではない。はず。  僕は片岡さんからマグを受け取り、舞い上がりそうな気持ちを落ち着かせる。間近で見ても、やっぱりかっこいい。 「あ!片岡さんが日野さんに賄賂渡してる!贈賄だ!」 「おー、悪いか」 「悪いっすよ!ただでさえ、日野さんは片岡さんの仕事優先するんすから!」 「へえ?そうか?」  出勤してきた今春入社の外回り営業マンが、日常的ではない「片岡さんが誰かにコーヒーを自分から淹れてあげている」という風景を見咎めて、噛み付いてくる。頼むよ、そんな大声で、僕が片岡さん優先してるって言うなー!  僕はマグの取っ手を握り締めたまま、真っ赤になってしまう。片岡さんは後輩の言葉に、意外そうな顔をして僕を見る。僕はその視線に耐えかねて、マグを持ったまま遁走した。 「はー……もう、あいつ、絶対許さんっ」  僕の担当営業は、しょっちゅうトップセールス賞を獲得する片岡さんと、定年間近の癖にやたらめったら仕事に精力的なベテランさんと、さっきの小うるさい子供みたいな奴だ。そりゃあ、片岡さんを優先するだろ!!  僕は自分の偏った仕事ぶりを棚に上げて、ブツブツと後輩の悪口を言いながら、片岡さん特製のコーヒーを始業前の人のいない休憩室で味わう。  あ、ちなみにうちは、全フロアにコーヒーメーカ設置されてるから、いつもと同じ味なんだけどね……。 「日野」 「…………片岡さん」  休憩室は、長机と椅子がいくつか置いてあるだけの、小さな会議室のような部屋だ。仕事開始まであと十五分。ほとんどの人は席に着いて準備に取り掛かるか、遅刻せずに滑り込もうと焦っているかのどちらかだろう。だから、更衣室からも事務所フロアからも離れたここに、この時間に来る人はほとんどいない。 「えっと……コーヒー、ご馳走様です」 「ああ、俺は注いだだけだけど」 「十分です」 「そうか」  片岡さんが僕のために何かしてくれたというだけで十分嬉しい。僕は残り少なくなったコーヒーを口に含む。片岡さんは僕の隣にあるパイプ椅子に腰を下ろして、長い脚を組んだ。うわー、本当に脚長いな。背も高いけど、比率が僕とは違う。 「知らなかった」 「はい?」 「日野が俺の依頼を優先してくれてたなんて。道理で、いつもすごく仕事しやすいはずだよな」  ありがとな、と言いながら、片岡さんは僕の頭を撫でてくれた。やばい。僕は嬉しすぎて反応さえできずに一瞬固まる。何か言わないと、正気を保てません!! 「浅倉と、後藤さんですよ、僕の担当。そりゃ片岡さん優先でしょ?」 「俺だから特別?それとも、成績がいいからか?」  片岡さんは僕の頭を撫でていた手をするりと下ろして、さりげなく僕の座るパイプ椅子の背もたれを掴み、僕の顔を覗き込んでくる。職場での距離じゃない。やばいんですって!!僕はもう、まともな文章も考えられなくなり、意味もなく笑って、さあ?と曖昧に返事をするしかできなかった。  片岡さんの視線に耐えかねて、目を伏せてマグの中のコーヒーを飲み干す。横顔に、片岡さんの視線を感じてますます彼のほうが見られない。 「……日野、浅倉のことどう思う?」 「どうって?」 「……」 「普通、だと思いますよ。何もかも」  学生気分の抜けきらない新入社員はようやく入社四ヶ月を過ぎ、気温の上昇とともに成績が伸びつつある。後押ししてるのはもちろん、片岡さんを始めとする先輩営業マンだ。僕も微力ながらサポートしてはいる。  朝倉は、今は僕の作る資料にも忠告にも分析結果にも耳を貸すけれど、あと半年もすれば、生意気な態度で内勤者に接し始め、偉そうに指示を出してくるのが予想できる。そして、もう一度気温が上がり始める頃に必ず地獄を見る。  自分以外の支援者の存在に気づいて、謙虚に感謝できるようになるのは何年か先だろう。あらゆる意味で、浅倉はそういう、ありふれた営業マンの一人だと思う。 「普通、ね。確認済み?」 「そりゃ、これだけ毎日一緒にいるんですよ?後輩だから、遠慮もないし」  そう。浅倉はまだ入社して日が浅いので、人に物を頼むタイミングや態度がなってない。自分が言われたことを、何も考えずに遠慮なく僕に放り投げてくる。それもまあ、一年生社員のやることとしては普通だといえるだろう。むしろ、問題やわからないことを一人で抱え込まれるよりはよっぽどマシかな。 「去年の新入社員の、ほら、この間物流に異動した奴、いるでしょ?」 「え?おお、里見な」 「はい。あいつよりは、ずっといいと思います。体力あるし、愛想はいいし、今は僕の言うことも聞くし。溜めすぎないから、爆発することもなさそう」  里見という男は、夏が過ぎ秋風が吹くころに、ストレスで体調を崩した。無理するなと何度か声をかけたけれど、真面目な彼は周囲に上手く甘えられず、結局異例の二年目にして異動という措置が取られた。  僕は空になったマグを手慰みにしながら、ようやく隣の片岡さんを見上げる……って近い!近いよ!!思わず仰け反りそうになった僕の後頭部を、椅子の背を掴んでいた片岡さんの手が捉える。あ、と思う間もなく、優しくキスされた。  お、オフィスラブ……!!憧れのオフィスラブ!! 「おい」 「はい……」 「俺の番は、次はいつ頃だ?」  俺の番……?番って何だろう。ターン?インターンで処理してる仕事なんてあったかな?支障が出ない程度に片岡さんはいつも優先してるし。僕はキスでちょっとぼんやりしていて、片岡さんの質問に小首を傾げてしまう。 「……すみません。わかりません」 「……せめてさ、週に一回くらいは、時間作れないのか?」 「え?時間?」 「そうだよ。俺と過ごす時間」  デートのお誘い再び!?え、どうしよう。僕まだ、全然成長してないのに。片岡さん、仕事のときは急かしたり催促したりしないのに、本当はせっかちなのかな? 「待っててって、言ったじゃないですかぁ……」  僕は情けない顔で半べそをかく。今日ももちろん、仕事を片付けたら急いで家に戻って、その道中でももちろん、ビッチ受たるものを模索する所存です。きっと立派なビッチ受になります。だから、まだ待ってて欲しいんです! 「ダメですか?僕のことなんか、待っててくれないんですか?」  すぐに乗っかるのがビッチ受だ。片岡さんはビッチ受が好きなんだ。だから、すぐに誘いにも彼の身体にも乗っからない僕は、好みじゃないかもしれない。どうしよう。  片岡さんは、ちょっと顔をひきつらせて、そっぽを向いて深い深い溜息を吐いた。 「片岡さん……」 「あーくそ。わかってるよ。待つに決まってんだろ?お前こそ、俺から離れるな」 「離れません!」 「俺は我慢強い方じゃないし、寛大でもないんだよ」 「そんなことないと思います!」 「前まではな。あんまり焦らすな。襲うぞ可愛いビッチちゃん。早く俺の番を」  片岡さんがちょっと物騒なことを囁きながら顔を寄せ、僕にもう一度キスしようとしたとき、始業を知らせるメロディが鳴った。  やばい、朝礼が始まる。  僕が慌てて立ち上がると、片岡さんはまたため息をついた。 「急がないと、怒られます!」 「はいはい」  僕の修行も、始まったばかりだ。

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