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第12話

 一晩目は、運良く角部屋を確保できた。しかし軽薄な亭主の宿で泊まった部屋の半分ほどだ。簡素な寝台は、シーツさえかかっていない。騎士はそれを見ると黙々と、森でするのと同じようにラヴィソンの寝床を整え始める。ラヴィソンは、この恐ろしく閉塞感のある空間で寝るのと野営と、どちらがまだ人間らしい営みだろうかと考えていた。 「ご不自由ばかりをおかけして申し訳ありません、ラヴィソン殿下」 「慣れた」 「……このような近いところにいる無礼をお許しください。うまく幕を張る梁もなく、仕切ることさえ叶いませんが、誓って距離を詰めるようなことは致しません」 「左様か」 「明日も早く出ます。どうぞ、お休みください」  騎士はその大きな体躯を窮屈そうに縮めて床に手膝をつき、ラヴィソンに許しを請う。ラヴィソンの慣れたという言葉に嘘はない。天幕が風に飛ばされる心配をする必要がないだけマシだと自分に言い聞かせ、こんなことはなんでもない、きっともっとひどい日々を送ることになる、だから狼狽えてはいけないと念じた。  騎士はラヴィソンが寝台に上がり、騎士の用意したフカフカの敷物に横たわったのを見て、もう一枚をそっと彼の上に掛ける。 「灯りを、消します」 「消さずにおけ」 「はい。では、少し小さくしてもよろしゅうございますか」 「よい」 「はい」  揺れる火が、眠気を誘うのだろうか。安心を与えるのだろうか。騎士はできるだけ小さく火を絞り、寝台のそばにある粗末な机に載せた。  ラヴィソンは薄闇の中で、その火が生み出す影が天井に蠢くのをしばらく眺め、やがてゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏で、影が恐ろしい魔物のような姿になって、ラヴィソンに襲いかかってくる。それぐらいでちょうどいい。敵国での安眠など、望むべくもない。ラヴィソンは息を吐き、明日が来るのを待った。  騎士は一晩中火の番をして過ごした。  そのようにして、何日に一度かは野営をし、騎士は情報を集めながら河沿いを移動して行った。正当な経路としての、バルバへの渡し舟ももちろんある。そしてその舟に乗るには当然、身分を検められる。敵国は、自国民が他国へ流出することをよしとしていないので、その審査は簡単ではない。  最も有効なのは、バルバでの身分を証明する何かだ。バルバへ”戻る”のであれば、強引に止められることはあまりない。それを扱う怪しげな売り子と何度か接触し話をしてはみたけれど、騎士はあまりいい感触を得ることはできなかった。偽造証であることは問題ではない。しかしそれがすぐに見破られる粗悪品では困る。死活問題だ。  何度探りを入れても、これなら使えるというものを見つけられない騎士はその選択肢を諦め、次の手段を模索する。つまり密航だ。  密航斡旋業者は、各種の証書を偽造する職人よりも多い。その内訳は、組織的に密航の手引きをする集団と、個人的に客を選び、個別な交渉を経て運んでくれる者達だ。組織的な集団は、分業化が進んでいるので客と接触し交渉するのは専門の代理人で、まずはその代理人を探し、少しの金を渡して情報を得て、それを元にその代理人を使うかどうかを考える。見誤れば、取り返しのつかない事態になる。もしくは交渉も実行も全てやるという個人を雇うかになる。何れにせよ、運を天に任せるような曖昧な判断ではダメなのだ。  騎士は焦っていた。時間をかければかけるほど、自分に襲いかかる不安に負けそうになるからだ。捨て身であれば道が拓けるわけではないことは知っている。何か不測の事態が起こって、身を呈してラヴィソンを護ったところで、その後の彼を護衛する人間が消えては犬死だ。だから、冷静に合理的で正しく判断しなければいけない。二人ともが無事にいられる方法を選ばなければいけない。それは自分を危険に晒すよりもよっぽど難しいことだった。だからこそ、騎士は躊躇い、慎重になり、ほんの僅かにミスを犯した。最初のミスは小さくとも、その影響はとどまることを知らない。静かな水面に落ちる一粒の血は、薄まりはしても消えはしないのだ。その匂いは必ず飢えた者の鼻に届く。  宿は慎重に選んだつもりだった。無理な旅程が続いたこともあって、サージュの動きが鈍く、もう一つ町を越した先にある林で幕営するつもりが、その手前で宿をとった。二つしかない宿のうちで、騎士は注意深く安全度の高い方を選んだ。その判断は正しかった。しかし、騎士がそう判断すると知っている相手にとっては、待ち伏せするのは容易なことだった。  宿屋で値段を交渉し、それなりの金額で鍵を借りる。暗く狭い階段を、ギシギシと鳴らしながら二階へ上がる。人の気配はない。なかったのだ、本当に。それなのに部屋の前に立った時に、騎士は言いようのない不安に襲われた。ぞっとするような恐怖を感じ、とっさに背後にいたラヴィソンの肩を引き寄せて庇い、逃げようとした。  しかしそれは叶わなかった。振り返ることさえできなかった。騎士達の後ろに、いつの間にか男が立ち塞がっていたからだ。無言の男は、その存在だけで騎士を竦み上がらせた。 「どうぞ」  誰もいないはずの部屋の中から、低い男の声が聞こえてきた。ラヴィソンは何が起きたのかわからず、騎士がなぜこんなに硬直しているのか理解できなかった。掴まれた肩が痛い。ラヴィソンはこの時点で、自分たちの後ろに人がいることに気づいてさえいなかった。  抜き差しならないとはこのことだ。後ろの男を倒して逃げることと、部屋に入って後ろの男を締め出し、中の人間と対峙することのどちらに勝算があるだろうかと騎士は必死で考えた。そして、どちらも等しく絶望的であると結論づけた。意を決して、扉を開ける。薄暗い部屋には小さな灯りがともされていて、奥の方の椅子に座る一人の男が浮かび上がって見えた。そして騎士は、もう一度絶望した。 「久しぶりだな、フォール」 「……死んだんじゃなかったのか」 「そう簡単に、僕は死なない。知っているだろう?さあ、入れよ。わが第三王子に、拝謁させてくれ」  騎士はこれ以上ないほどに強く、ラヴィソンを抱き寄せて固まっていた。そんな騎士の背を、無言の男が押す。一歩、部屋に入ったと同時に扉は閉ざされた。 「フロワ。目的は何だ」 「まあ、座れ。もう五年になるか……元気そうで何よりだな」 「答えろ……!」 「座れと言っている」  それでも騎士は動かなかった。フロワと呼ばれた男は呆れたように立ち上がり、ゴトン、と変わった足音を立てて一歩ラヴィソンに近づいた。弾かれたように騎士はその背中にラヴィソンを隠す。 「近づくな!」 「どけ、フォール。お前の後ろにいる御方が、真実、我が国の第三王子であるかを確かめたい」 「動くな!それ以上動けば殺す!」 「お前は誰だ」  恐慌をきたして憤怒を露わにする騎士の背後で、ラヴィソンは静かに毅然と誰何した。その声に、騎士の頭に登った血が下がってゆく。涼やかで凛々しい声は、騎士にとっての道しるべだった。何よりも確かな、縋るべき一筋の光。 「殿下には拝謁の栄誉を賜り、恐悦至極に存じます。我が名はフロワ。お迎えに参りました、ラヴィソン殿下」 「迎え、とは」 「国難のさなかに、国を離れるなど狂気の沙汰。どうぞお戻りください」  フロワはピシリと背筋を伸ばし、国王直下の騎士団にしか認められていない最上級の所作でラヴィソンに敬意を示すと、騎士の耳を疑う言葉を口にした。 「貴様……貴様……!それでも騎士団の勲章を頂いた男か!地に落ちた裏切り者が、再び恥を晒しに現れたか!」 「裏切り者はお前だ、フォール!何を考えている!?ラヴィソン殿下を辱めるつもりか!」 「貴様に何がわかる!このお方には絶対に触れさせない……もう一度その足を失くしたくなければ退け!」  騎士は短剣を抜き、躊躇うことなくフロワに突きつけた。かつては同じ騎士団に所属し、数年前に任務の途中で団長の命令に背いてその団長を殺して、仲間達から追われ、背中に矢を受け崖から落ちて死んだはずの男は、哀れむような視線をフォールに向ける。 「フォール。お前は一体何をするつもりだ。わかっているのか?我らの王子を、バルバなどという野蛮な国に渡すなど、それこそ正気か疑わしい」 「貴様に理解など求めない。説明もしない。退くのか、退かないのか、それを答えろ」 「……ラヴィソン殿下のお父上は、お仕えするには少し問題のある王だった」 「フロワ、黙れ!」 「早晩、あの王ではこの国は滅ぶ。それに気づいた有志は密かに集まり結託し、機会を伺っていた」  騎士は無言で一瞬身体を沈ませ、次の瞬間短剣の切っ先でフロワの喉元を捉えていた。両脚ともに義足になったフロワには避けられない速度だったけれど、フロワは優秀な騎士だった。自分の手のひらで、その切っ先を受け止めたのだ。彼の右腕も義手だった。ガキリと異音がして、膠着する。 「話を続けてもよろしゅうございますか、殿下」 「……それは私の護衛である。無礼極まりない悪党の話など、聞くに及ばぬ」 「殿下を異国へ売り飛ばす片棒を担ぐような騎士の成れの果てです。殿下がお情けをかけるほどの男ではございませんでしょう」 「それは私のだ。二度同じことを言わせる痴れ者め。控えよ」 「恐れながら。殿下の大切な懐刀の無事をお望みであれば、お時間を拝借いたしたく存じます」 「私が命じれば、それはお前を必ず仕留める」 「しかし、この男も無傷ではない。確かにフォールは強い。ただ、情に脆いのです」  フォールはギリギリと、短剣の先が綻ぶのも御構い無しに、フロワの金属の手のひらに突き立て続けた。悔しかった。彼が裏切った時、彼が崖から落ちた時、騎士は確かに胸を痛め傷ついた。何故なんだと悩んだ。二人は長く同じ道を歩いて来た親友だったからだ。今目の前にいるのが、あの頃のフロワそのままで、だからこそ恐ろしく、信じ難く、悔しかった。 「……双方退け。控えよ」  騎士にとってラヴィソンの命令は絶対だ。震えるほどに力を込めた腕を横薙ぎに払い、フロワの腹を蹴り飛ばして、騎士は離れた。フロワは、離れる瞬間の騎士の手首を、金属の指で握りつぶす。 「控えよ。私の前で、見苦しい」  ラヴィソンは実際震えていた。大きな男が薄闇の中で、本気でやりあうとは思わなかったのだ。その殺気は凄まじく、恐ろしさで悲鳴をあげそうになったほどだ。それでも取り乱したところを見せずに済んだのは、二人が形は違えど自分を第三王子として扱ったからだ。血筋と叩き込まれた矜恃は、それが正統であればあるほど土壇場で発露する。  騎士はラヴィソンのそばに、元騎士はラヴィソンの前に控える。 「悪党の話は聞くに値しない。去るがよい。身の程も弁えず、この私に時間を取らせるなどもってのほかである」 「さすがは誇り高き第三王子、ラヴィソン様であられます。我々にとって、あなたが最後の望みでございます」 「フロワ、言葉を慎み、去れ」 「殿下には、我が国の先行きを憂うお心はございますか」 「フロワ!」  フロワはラヴィソンの淡々とした拒絶にも騎士の威嚇にも動じず、さらには下げていた頭さえ上げて、あろうことかラヴィソンの目を見た。ラヴィソンはその美しい目で、妙な光を宿す落ちぶれた元騎士を睥睨する。  騎士は、ラヴィソンに控えよと言われた手前、フロワを蹴散らすことができない。 「……悪党に問われるまでもなく、王の血を引く者として国を憂うのは当然である。あまねく我が民達が、満たされることを願う」 「であれば、王宮を離れることは道理に適いません」 「人には役割がある。悪党に堕ちた者に説いてもわからぬことである」 「殿下の役割は、玉座の飾りの気まぐれな命令で、野蛮国へその身を穢されに出向かれることではありません」  フォールは動いた。この旅路の意義を、ラヴィソンの決意を、苦しみを、否定することだけは絶対に許せなかった。太く逞しい脚で、容赦無くフロワを蹴り飛ばす。不自由な両脚を折って床に跪いていたフロワは、堪えることもできずに背後に吹っ飛ぶ。  ラヴィソンは僅かに眉を顰めただけだった。フロワは、怒りも笑いもせずに、ギシギシと身体を起こして再び跪く。 「先王の愚かさで我が国は傾きました。彼は王冠を息子に渡し、その息子はさらに愚かな策を実行した。隣国との戦いは、我々の勝利以外あり得ません。その勝利には、何者も介在させてはならない。国の未来を考えれば、子供でもわかることです。ましてや話の通じない野蛮国に、大切な第三王子を渡すなど言語道断」  フロワの語り口は滑らかで穏やかで、そこには信念以外何もなかった。騎士はまた恐怖した。昔と変わらない親友は、であれば、昔からこんな思想であったのだろうかと。 「国王の判断に従い、与えられた役割を務める。そのことは、国王陛下を除く、全てのものの使命である」 「王の判断は間違っています」 「悪党ごときが、理解できる次元ではない」 「では今この苦しみを、これからの屈辱を、殿下は正しいことであると思われるのですか」 「私の思うことはただ一つ、我が国と国王陛下の未来永劫の繁栄である」  自分の些細な苦しみなど、斟酌されるものではない。本当に正しいことなど、自分がすべき行いなど、考えたところで掴めるものではない。ただこころの中で、ひたすら願うだけだ。自分の父が治めてきた国を、自分の母が愛した国を、自分が生まれた国を、ほんの僅かでいいから救いたいと。  フロワの言葉は、清冽なラヴィソンの精神を簡単に揺さぶっていく。 「バルバの国から援軍が来るまで、今のままで我が国は持ち堪えられましょうか。彼らは援軍を本当に送るでしょうか?援護と称して我が国を蹂躙することは?そもそも、バルバの軍事力はいかほどであるのでしょうか?」 「慎むがよい、悪党。お前の考えは愚かである」 「我が国が強ければ良いのです。殿下、それがたった一つの真理です。強い指導者と、それに従う強い部隊。今こそそれを作るべき時です」 「我が王は強い」 「現状打破に、他国にすがる方法しか思いつかない王が強いはずはありません。過去、我が国は確かに強かった。復古を目指して立ち上がらねばなりません。大計を誤り国が滅びた時、歴々の民に、王に、申し開きができない」  フロワの演説は徐々に熱を帯び、その目はギラギラと輝いている。この隣国との戦争で、生粋の国力だけで圧倒して真に勝利をもぎ取らなければ、この国はいずれ属国と化し、長く続いた華やかで奥深い文化も途絶えるだろうと言う。 「恐れながら殿下。戯言に耳を貸されませんように」  騎士はそう呟くのがやっとだった。フロワの言葉には説得力を感じる。まるで本当にこの国の未来を真剣に考えている唯一の男のようにさえ聞こえる。だが、危険だ。戦争に勝利し、そして彼らがこの国を導くとでも言うのか。思い上がりも甚だしい。  フロワは騎士へ視線を移し、哀れみを浮かべる。 「フォール。ではお前は、この美しい第三王子を野蛮国に差し出して、それで満足か」  耳を貸してはいけない。騎士は割れるような痛みをこめかみに感じながら、強く強くフロワを睨み返す。  誰が手放したいと思うものか。美しく気高く、高潔な王子は自国の宝だ。その聡明さはきっと国の未来を変えてくれるだろうと期待できる。しかし彼は他国へ親書を届け、その身を与えることを選んだのだ。その決意を誰が咎められるだろうか。例えそれがラヴィソンの望みではなかったとしても、腹を決めてその旅路をゆく志を、護りたい。  もしもたった一言、助けて欲しいと言われれば、騎士はきっと全てを捨ててラヴィソンを過酷な運命から逃がしただろう。しかしそんなことは起こり得ない。ラヴィソンからの言葉がなければ、騎士は動けない。それが自分の運命なのだ。 「フロワ、貴様の言葉は、ひどく軽く、徒らに俺や殿下の気持ちを逆撫でする。一発逆転を狙い英雄を夢見るのは勝手だが、貴様の拙い妄想に殿下を煩わせるのは無礼千万。許される行為ではない」 「しかし、正しい」 「言い合うつもりはない。殿下の邪魔をするな」 「ラヴィソン殿下。国へお戻りください。そして我々を導く王となってください」  さすがにラヴィソンの表情が少し動いた。フロワはそれを見逃さなかった。 「現王はいずれこの国を滅ぼすでしょう。正統な血脈であるラヴィソン殿下こそ、王に相応しい。肖像画を拝見した時から確信しておりました。我が国の最盛期であった頃の、綺羅王に瓜二つ。まさに生まれ変わりであられます。殿下のお言葉で、きっとこの国は救われます」 「私は」 「今は地下に潜んでいますが、同志は蜂起の時を待ち望んでおります。武装し、今の腑抜けになった国軍よりはよほど頼もしい集団です」  騎士はもう一度フロワを蹴り飛ばそうと脚を振り上げる。戦線に赴いた国軍は、すなわち騎士団や兵団だ。彼らを辱める言葉は聞き流せない。怒りのままにフロワを捕えるその瞬間、騎士は舌打ちとともに自分の脚を無理やり引いた。フロワとて、そう何度も甘んじるはずもない。彼の手には、ナイフが逆手に握られていた。騎士が引かなければ、腱を断たれていただろう。ナイフは騎士の旅装の一部を裂き、肌を薄く傷つけただけで済んだ。もし何でもないナイフであれば、だが。 「……何故、ここへ来た」 「何故、とは」 「自国を脱するのに、予定より時間がかかった。国境を越えてすでに数日。なぜ今、ここへ来たのかと聞いている」 「殿下を守っているこの男は、存外優秀なのです。私はこの男と何年も生きてきましたのでもちろん知っていたのですが、この男を追いかけるに当たり、それを何度も実感しました」  第三王子が密かに王宮を出たという情報が届いたのは、彼らが発って二日後のことだった。王宮内にも、復古を望む一派は潜んでいて、それでもさすがに即座にその一報を掴んで伝えて来ることは難しかったようだ。  フロワを筆頭とした集団が最初に立てた作戦は、第二王子を王宮から拉致してきて新しい王として擁立し、他国への使い走りとなった第三王子は、自国を出る前に抹殺しようというものだった。しかし、実際に連れてきた第二王子はあまりにも弱く、脆く、フロワ達の言葉を理解する知性さえ持ち合わせていなかった。次善の策は、第三王子を担ぐしかないということになる。  彼らは、正当性が不可欠なのだ。歴々の王と同じ血の流れている、正統な王子でなければ、ただの国賊。自分たちは真に国を救ける者であると胸を張るために、文句の出ない、確かで華々しい旗印が要る。王族はどれも端麗な容姿ではあったけれど、第三王子はまさに宝石のようであったことも、フロワ達が早々に策を変えた要因の一つだ。  抹殺のために後を追わせた部隊を撤収させ、生け捕りにするためにフロワ自ら出張ることとした。護衛は騎士一人だと聞いていた。フロワは二人の足跡を探せば探すほど、その騎士は自分のよく知る男であると確信する。  闇雲に越境を目指しているようで、巧妙にその順路を変え、痕跡を消し、それでも旅慣れない王子がどうしても足手まといになっている。僅かに残ってしまう手がかりは、追いつくための材料としては乏しい。しかし随行しているのがよく知る男であれば、何もかもを知り尽くしているのだ。行動を予測することは可能だった。  フロワは手柄を語るようにここへ至る経緯を話した。 「確実な足跡を見つけるのに、時間がかかりました。もちろん覚えておいででしょう。殿下が宿泊された、卑しい隣国の者が営む宿です」  フロワは、敢えてゆっくりと聞かせた。薄暗い部屋の中で見上げる第三王子の顔は、美しいままで微動だにしない。それが如実に彼の動揺を物語る。同様に隣に控える騎士も、表情と感情を消していく。フロワはそれを満足げに眺めた。 「見つけたのは、もちろん殿下がすでに発った後でございました。我々はその宿の者に色々と教えてもらう必要があった。これ以上時間を掛けては国境を越えてしまわれる。そうなればまた違う手間が発生する。それなのになかなか協力を得られず、結局お迎えが遅くなってしまったのです」  騎士の目が、さっきの激情を消して静かにフロワを見ている。フロワは久しぶりに、勝てるだろうかと考えた。お互いをよく知るこの男に、自分は勝てるだろうかと。  たっぷりとした冷たい沈黙の後で、ラヴィソンはおもむろに口を開く。 「我が兄であるヴァン第二王子と、宿の者はどこにいる」 「どちらも、そのままにございます」 「そのまま、とは」 「王子は王宮に、亭主は宿に」  捨て置いてきたということか。  ラヴィソンと騎士の胸中に、様々なものが湧いては消える。しかし二人ともが黙した。フロワだけがゆるい笑みを浮かべている。 「参りましょう、殿下。敵国にいつまでもおられてはなりません。大切な御身に、何かあっては一大事」 「去れ」  ラヴィソンははっきりと拒絶を示した。自分の祖国と自分自身の存在価値。兄と呼べと笑った宿屋の亭主と優しかった実の兄。全ての未来と、待ち受ける屈辱。動揺しないわけはなかった。フロワの言葉はまるで何もかもが解決する魔法のように思えた。騎士でさえ一瞬、フロワを足掛かりにラヴィソンを救えるのではないかと考えた。しかし、二人はちゃんと踏みとどまった。  フロワは少し不思議そうな顔をした。そして、変わった音を立てながらゆっくりと立ち上がる。 「明日の朝、お迎えに参ります、殿下。この国の夜は寒くて危険だ。朝一番に、共に参りましょう」 「私の護衛が、いみじくも申したが」  立ち上がったフロワは騎士よりは小さいものの圧倒されるような肉体だ。不自然に太い手足と、傷だらけの顔。ラヴィソンはこれが本当に騎士の知り合いであるのだろうかと疑っていた。 「軽々な思い上がりに、私は煩わされぬ。物事を大局で見られぬ者に、国の行く末を語る資格はない」 「軽々な思い上がり」 「国を思うことは良いことである。しかし悪党の考えつくことは愚かで的外れで、所詮その程度である。己の浅はかさを恥じて悔やみ、犯した罪の大きさを知れ」 「罪」 「いかなる理由があれ、正義があれ、誰かを傷つける行いに未来はない」 「あなたは傷ついていないと、傷つかないとおっしゃるのですか、殿下!」  ラヴィソンの静かな声に、フロワは思わず興奮した。国を救うとともに、自分たちは不遇にある第三王子を救うと信じているからだ。かわいそうな王子様。哀れな国民達。何もかもを救えるのは自分たちだけであると。 「私は王子である。王族とそれ以外の者は、まったく違う。もしもお前が悪党に堕ちなかったとしても、それを理解はできない」 「国が滅びるのを、座して眺めろと仰せですか!」 「我が祖国は滅びぬ。仮に滅びる運命にあるとすれば、悪党が喚こうが策を弄しようが滅びる。国が動くのは、小者があずかり知らぬ力の及ぶところである」 「詭弁です!結局は何もせず、のうのうと過ごせということだ!国を率いるべき王族のそのような楽観と怠慢が、この国の弱体化を招いたのです!戦わずして道は拓けない!」  悪し様に叫ぶフロワに、ラヴィソンは何も言わなかった。騎士も動かなかった。フロワは散々に吐き出した後に、自分の役割を思い出したようだ。 「我々にはあなたが必要です、ラヴィソン殿下。王族の一人として、あなたは国を救う義務がある。明朝必ず、あなたは私とともに自国へ向かわれます」 「去って己の罪と向かい合うがよい」  ラヴィソンの声は、最後までフロワのこころには届かなかった。音もなく扉が開き、外で見張っていたのだろう無言の男が現れる。フロワはその男に目配せをし、ゆらりと緩慢な動きでラヴィソンに敬礼する。 「ゆっくりとお休みください、ラヴィソン殿下。また明日参ります」  実際、この状況で騎士からラヴィソンを奪うことは難しい。ラヴィソンを護るためであれば、騎士はラヴィソンの喉元に躊躇わずに短剣を突きつけるだろう。ラヴィソンがきっとそう望むだろうからだ。  一旦退かざるを得まい。騎士のラヴィソンを守ろうという気概が予想以上だったこともある。作戦を練り直して、ラヴィソンを奪還し迅速に自国へ戻り、新しい国作りへ動き出さねばならない。  フロワは騎士を横目に睨みつけつつ唇に笑みを乗せ、気安い風を装って軽く手を上げて部屋を出て行った。  敵の去った部屋で二人は立ち尽くしたまま、騎士がようやくラヴィソンに声を掛けたのは随分と時間が経ってからだった。 「……殿下、どうぞおかけください」  ラヴィソンは促されるままにさっきフロワが座っていた椅子に腰を降ろす。そこには騎士によって敷物が敷かれていた。そのまま、ラヴィソンはまた黙り込んでいる。騎士は、粛々とラヴィソンの寝支度を調える。そして、横になって欲しいとラヴィソンに願い出た。 「殿下……ラヴィソン殿下。どうか、お許しください」 「……何をだ」 「あのような狼藉を許した、私の落ち度をです。どうか、どうか……」 「もうよい」  ラヴィソンの声に力はなく、なんだか上の空のように感じた。騎士はそっとその細い腕を支えて寝台に横たわるのを手伝う。僅かに身じろぎをして、ラヴィソンは深いため息を吐いた。どの宿も、天井が近い。だけど酷く汚なかったのは最初に泊まった宿が一番だろう。 「……気の毒なことをした」 「え?」 「あの、珍妙な宿屋の者だ」 「……殿下におかれましては、案じられることのないように祈るばかりです。何卒憂慮されることのございませんように」 「これは寝言である」 「はい」 「私がバルバの国へ入り親書を渡したとして、彼の国が色よい返事を寄越すとは限らぬ。援軍を送ると返答して、それを実行しないかも知れぬ」 「……」 「例えそうなったとしても、私は二度と祖国の地を踏むことはないだろう。無駄死にである」 「……」 「その事実が我が国の中枢へすぐに届けばよいが、来るはずのない援軍を待ち続けて力尽き、隣国に陥落させられるかも知れぬ」 「……」 「我が国の窮状を訴えることは、それを知らしめることでもある。仮にバルバが強大な軍事力を有しているとして、これを契機に我が国と、あわよくば隣国を攻め落とそうとするかも知れぬ。その局面において、我が国は」 「二度とは聞きません、殿下。私の無礼をお許しください」 「何か」 「この旅から、役割から、解き放たれることを望まれますか」 「なぜ」 「私の望みは、殿下をお守りすることだからです。出来ることなら……許されるのであれば、そのおこころも、お守り申し上げたく思います」  まだ二十歳にもならない気高い王子が、不慣れな旅路を経て屈辱に塗れていく。そこから逃れたいと願うなら、そのこころが耐えられないと訴えるのなら、救い出して差し上げたい。いっそ潔く散ってしまいたいと一言言ってくれれば、その望みのままに。  騎士の静かな問いは、ラヴィソンの深慮を誘う。自分自身の中に燻り続ける疑問を湧き上がらせる。祖国を救うためにすべきは、本当にこんなことなのだろうかと。拳を振り上げ、国王の目を覚まさせ、民を見ろ、行く末を見ろと叫ぶべきなのだろうかと。自分は一体、何者であるのかと。 「……無事に、バルバへ。それが私の本懐である」 「……心得ました」 「励め」 「は。殿下、しばらく、暇を頂きたく存じます」  騎士は跪き、床につけていた拳をさらに握った。その手首は倍ほども腫れ上がり、脈動とともにズキンズキンと大きく痛む。脚の傷も異常な熱を発している。寝台に横たわる王子は、何も言わない。騎士はもう少し言葉を重ねた。 「殿下の身の回りのお世話と警護を、暫しの間ご容赦頂きたく存じます」 「……戻るか」 「必ず、ここへ」 「許す」 「ありがとうございます、ラヴィソン殿下。私の忠誠は、いかなる時でも殿下に」  深く頭を下げ、騎士は立ち上がる。ラヴィソンは目を閉じた。枕元にあるランタンの灯をどうしようかと考え、騎士はそのままにしておくことにした。明日の朝まではもつだろう。夜の間だけでも、ラヴィソンを見守る何かがある方がいい。 「必ず戻ります、ラヴィソン殿下」  ラヴィソンは何も言わなかった。騎士はラヴィソンが気がつく場所に携行食と水を並べ、静かに部屋を出た。鍵を掛けて扉に手のひらを当て、そばを離れることの不安を拭おうとした。もちろん、無理だったけれど。  一階に降りて、宿の人間に、部屋に誰も入るな入れるなと念を押し、金を握らせる。外は雨が降っていた。それでも、騎士は向かうべき方向を迷わなかった。何年も命を預けあった仲だ。考えていることはわかる。  それはもちろん、向こうも同じことだ。騎士を待ち構えているだろう。侵攻するよりも迎撃する方が有利であることが多い。 「サージュ、行こう。殿下をお待たせすることは心苦しい。早く戻らねばならない」  サージュは力強くぬかるんだ地面を踏みならし、濡れた鬣をバサリと振って応える。騎士はサージュに跨って、自分は必ず勝てると確信した。

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