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第13話
翌朝ラヴィソンが薄い眠りから浮上した時、部屋の中には誰もいなかった。ゆっくりと身体を起こせば、傍らで消えそうになっているランタンが見える。ラヴィソンはそれを消す方法がわからなかったので、炎が力尽きるまでじっと見つめていた。
それも済み、部屋の中を見渡す。寝台から降りようとして、靴を履かなければいけないことに気づいた。プラプラと心許なく揺れる自分の素足を眺めて、揃えて置かれた靴を見て、おもむろに足を入れたはいいけれど、踵がうまく収まらない。グイグイギュウギュウ押し込んで、紐を結ぶのは諦めて、寝台から降りて立ち上がった。一歩目で紐を踏んでつんのめりそうになる。
ふう、と息をついて騎士の残して行った荷物に近づくと、水と食べ物が並べて置いてあった。ラヴィソンは騎士がいないことをようやく受け止めることができた。
王宮を出た時から、とっくに孤独であると認識していたつもりだったけれど、それは誤った見解だったようだ。ラヴィソンは重たい水筒から少しだけ杯に水を移し、それを口に含んだ。そのあとはじっと部屋の片隅の椅子に腰掛け、ただひたすら待っていた。
騎士が戻ってきたのは、三日後の朝だった。
ラヴィソンはまだ明けきらない時間であったけれどポカリと目を開けた。わずかに視線を扉に移せば、音もなくそれがゆっくりと開いていく。危害を加える侵入者であるとは不思議と思わなかった。案の定、現れた影はよく見知った巨躯だった。ぎこちない動きで騎士は入ってきて、ラヴィソンの寝台のそばに跪いた。ラヴィソンは寝台の上で姿勢を伸ばして座り、騎士の口上を待った。
騎士は大きく深い呼吸を幾つか繰り返して、かすれた声を出す。
「……ただいま、戻りました」
「ああ」
「急な暇乞いを、お許し頂き、感謝のしようも、ご、ございません。この数日、ご不自由を……おかけしましたことを、どうぞ……」
「よい」
「……は」
「……まだ、早い。もう少し寝る。最近の私は、少し寝坊のくせがある」
「さようで、ございますか」
「起こさぬように」
「は」
ラヴィソンは自分で横になって、自分で上掛けを引き上げた。そっと目を閉じ、ほんの少し動かないでいると、やがてズル、ズル、と妙な音が聞こえ始め、最後には重たい音を立てて静かになった。そっと目を開けて床を見れば、大きな騎士が倒れている。跪いたまま、意識をなくしたようだ。ラヴィソンは思案した。具合が悪いのか、ただ眠っているだけなのか、近寄ればわかるものなのだろうか？
ラヴィソンはそうっと寝台を抜け出し、ちょっと躊躇ってから、素足のままでペタリと床に降り立った。ペト、ペテ、と足音をさせつつ騎士の頭の方へまわり込む。ランタンが使えないので、窓からうっすらと射し始めている朝陽だけが頼りの部屋の中で、騎士の顔ややわらかそうな白金の髪や、とにかく至るところが汚れているのが見て取れた。拭いてやろうかと考えて、積み上がった荷から端っこの出ていた適当な布を力づくで引っ張り出す。それでもって、とりあえず手近なところにあった騎士の大きな肩をグイッと拭う。騎士はうう、と呻いた。そしてその程度で汚れは取れなかった。ラヴィソンは早々に汚れを取り除くことを諦めて布を手放し、寝台からフカフカの織物を引きずり下ろすと、騎士に掛けてみる。二枚あるうちの一枚を身体の下に、もう一枚を身体の上に掛けて使っていたラヴィソンだが、騎士の体積には小さかったようだ。そういうものかと頷き、もう一枚を騎士に掛けて、ようやくなんだか寝ているような態に調った。それでラヴィソンは満足した。
騎士が目を覚ました時、世界が暗かった。騎士はラヴィソンの元へたどり着いた記憶がなかったので、自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。目を開けているはずなのに、なぜ真っ暗なんだろう。夜なのか？凝り固まった手脚の関節を無理やり動かし、痛みに悶絶しながら、周囲を探る。人の気配が間近にある。しかし警戒しようとは思わない。ああ、戻っていたのか。騎士は安堵とともに、ゆっくりと身体を起こした。徐々に世界に光が射す。
「……目が覚めたか」
「は……」
世界が暗かったのは、騎士の頭部を織物が覆っていたからだった。身体にも掛かっている。誰が、と考えるまでもなく、第三王子がその手ずから織物を掛けてくださったのだと知るにあたり、騎士は感激とともに嵐のような恐縮に襲われて、痛みも忘れて飛び起きた。その途端に、騎士はもう一度倒れた。床に落ちていた布切れを踏んで足を取られたのだ。なんでこんなところにあの亭主から預かった布が落ちているんだ？そんなことを考える暇もなく、グラグラと覚束ない身体をどうにか支えて、手膝を床について頭を下げる。
「ただいま戻りましたっ」
「ああ」
「急な暇乞いをお許し頂き、感謝のしようもございません。この数日、ご不自由を」
「もうよい。聞いた」
「は」
「二日ほど前に聞いた。それ以降も、時々聞いた」
「は……？」
「うわ言で同じことを繰り返していた」
「さようで、ございましたか。お恥ずかしいところをお見せして」
うるさかったのだろうか。だから顔に織物を掛けられたのか。騎士がますます身体を小さくして汗顔の極みに目眩を起こしていると、よく眠れただろうかとラヴィソンが問う。
「……はい、恐らく。前後不覚でございました」
「さようか」
「ええっと……この織物を、殿下が」
「うむ。寝ているのか失神しているのかは判じかねたが、何れにせよ、暗い方がよく休めるかと思った。窓からの陽がよく当たるところに倒れていたので、眩しそうであった」
「なんと、お優しい……！」
騎士は感動のあまり、涙さえ流しそうになった。いや、実際涙ぐんでいた。自分の顔布さえ自分で上げられない世事に疎い王子が、まさか自分のような者を気にかけて、気遣ってくださるとは……！握りしめた拳が震えるのは、痛みのせいばかりではない。
「殿下」
「何か」
「恐れながら……今は昼でしょうか、朝でしょうか」
「昼である」
「では、昼餉の支度をいたします」
「ああ」
騎士はあちこち怪我をしていた。ここまでの負傷は久々だ。身体だけでなく、精神的にも深く傷ついていた。だからこそ、どれほど辛くても身体を動かし、日常に戻りたかった。ラヴィソンを守りながら移動する日常に。
ふらりと立ち上がり、脳天を突き破るような痛みを堪えて部屋の外へ出る。階段を降りて、宿の人間に食事とお湯をくれと依頼すれば、ひどく無愛想に顎でテーブルを指し示される。座って待っていろということらしい。騎士は勝手にブルブル震える筋肉を叱咤しながらどうにかこうにか椅子に腰を下ろして深い息を吐いた。
とにかく、再びラヴィソンの元に戻って来られた幸運を噛みしめる。随分と長逗留になってしまうけれど、今のところフロワ以外の追っ手もないようだ。明日朝に発つのは難しいし、いっそ開き直ってしっかり情報を集め、どうにかバルバへの道筋を段取りたい。
この度の襲撃は想定外だった。首謀者も、その理由も、何者かが単純に第三王子を邪魔者として消しにくるのではという危惧からは大きく外れていて、また実質問題として非常に手強かった。今もし同じような刺客が現れれば、それ以上の苦戦は必至。一刻も早くラヴィソンの本懐を遂げさせなければ、守りきれないかもしれないとさえ考えてしまう。そんな風に弱気になるほどに、騎士は心身共に疲れ切っていた。
「お待ちどう」
「……ああ、ありがとう」
「大丈夫かい、お兄さん。具合悪そうだけど」
「ああ。ちょっと転んだだけだ。薬もある」
「ああそう。面倒ごとは御免だよ」
「わかっているよ」
騎士はゆらゆらと立ち上がると、お湯の入ったバケツと二人分の食事を器用に手に持ち、ラヴィソンの待つ部屋へ戻る。軽く扉を叩いてから、肩で押すようにして入れば、ラヴィソンは椅子に座ったままで眠っていた。
居眠りなんて珍しい。騎士はそう思いながら手にしていたものを机に置き、そしてふと気づく。もしかしたら、ラヴィソンは自分を心配して寝不足だったのだはあるまいか、と。
華奢な身体をしどけなく背もたれに任せ、俯き加減に眠る王子は、この世のものとは思えないほどの美しさだ。
起こさないように、失礼のないように、最新の注意を払いつつ、ラヴィソンの優しさを本当にありがたく思い、騎士はラヴィソンを抱き上げて寝台に寝かせた。この旅路で随分とくたびれてしまったけれど、まだまだ柔らかく暖かい織物で彼を包む。
ラヴィソンが眠っている間に、騎士は自分の食事を口に押し込み、軽薄な亭主を思い出しながら丸薬を飲む。あれほど親しくしなければ、彼は無事だったかもしれない。甘えてしまった自分の浅はかさを、後悔してももう遅いのだ。ラヴィソンのために、何もかもを捨てると決めた。それでも、関係のない人が巻き込まれることにこころが痛まないわけはない。それはきっと、ラヴィソンも同じだろうと推測できる。国のために、国命であるとはいえ、自分のために実の兄が。
「何も、考えるな」
騎士は自分に言い聞かせる。全てが済んでから、死んで詫びるしかない。動揺は判断を鈍らせる。ともすれば深く沈み込んでしまいそうな自分のことを奮い立たせるために、騎士は痛みを堪えて服を脱いだ。
噴き出した血で傷に貼りついていて、剥がすとまた新しい血が滲む。骨もあちこち折れていて、その周辺は腫れている。打撲など、していないところを探す方が難しい。だけどどれも、時間が癒すだろう。痛みはいつか消える。騎士は緩慢に裸になると、もらったお湯で身体を拭き、傷口に薬を塗って適当に布で巻き締めていった。そして新しい服を身につけていく。ボロクズのようになった脱いだ服を始末して、ようやく今回の死闘を終えられた気がした。二度と思い出したくないような、悪夢のような時間だった。死んだと思っていた親友との再会を喜ぶこともできず、この手で。
騎士は床にズルズルと座り込み、どうしようもないやり切れなさに沈んでいった。
ラヴィソンはしばらく後に目を覚ました。冷めてしまってはいたけれど、それで構わないというので、騎士は用意してあった昼餉を渡す。
「これから、どうするのだ」
「情報を集めます」
「何の」
「バルバへ渡る舟を手配しなければなりません。信頼できる交渉人を探します」
「そうか」
「もうしばらく、お時間を頂きたく存じます、殿下」
「ああ。……あまり、無理はせぬように」
「！……ご高配、痛み入ります。及ばずながら、力ある限り努めます」
「励め」
「は！」
騎士は責任感という名の心配性に拍車がかかり、ラヴィソンの傍を離れることが出来なくなった。仕方がなく、少し離れた場所まで出かけるときは、一緒に来てもらうようになった。ラヴィソンとしては、いつ戻るかわからない騎士を一人で待つのはこりごりだったので、連れ出されるほうがよほど気分が楽だ。騎士はといえば、連れ出せば連れ出したで襲われはしないだろうかと気が気ではない。機微に疎いラヴィソンであっても、その大きな背中が、肩が、警戒心を露わにしているとわかってしまうほどだ。実際、時々すれ違う人が驚いたような顔を見せている。
「……少し、落ち着きがなさすぎるのではないか」
「は。私ですか……至らないことで申し訳」
「私の身を案じていればこそであるだろうが」
「は」
「何が起きても護ればよい。そう腹を決めれば動じずにいられよう」
「……は！」
ラヴィソンの言葉に騎士は甚く感動し、まだまだ自分の覚悟が足りなかったのだ、情けないことだと猛省した。言ったラヴィソンはそれほど深く考えてはおらず、ただ自身のこころを、そのように決しているだけだった。何が起きても、どんなことをしてでも親書を届けると。ラヴィソンの静かで毅然とした佇まいに、騎士は落ち着きを取り戻すことが出来た。
そんな風にして数日を過ごし、ある日の昼に、騎士は密航を手伝ってくれる闇の請負人が集まるという酒場にいた。さすがにラヴィソンは置いてきていたが、珍しく彼は出掛けに騎士に発破を掛けるような言葉を寄越していた。
「決めかねるのであれば、私が決める。目ぼしい者をここへ呼べ」
「は」
「金でも噂でも私の立場でも、あらゆるものを利用せよ」
「恐れながら。殿下のお立場を利用するなど不敬極まりないことでございます」
「かまわない。この旅路にあるのは、私が第三王子であるからだ。そのような看板が使えるのであれば使えばよい」
騎士はそのやり取りを思い出しながら、多少顔見知りになった情報屋とともに、上手くも不味くもない食事を流し込んでいた。一仕事終えた腕のいい密航請負人が、今日辺りここに来るだろうと聞いてのことだ。様々な話をあちこちで仕入れて、騎士はその男か、もう一人別の、大きな組織の交渉人と名乗る男のどちらかに頼もうと思っていた。やがて目の前に座る情報屋が、コツコツと机を叩いた。騎士はおもむろに視線を上げ、入口のほうをそっと窺う。入ってきたのは目立たない風情の、一見気の弱いような男だった。情報屋と目配せをして、杯だけを手に、密航屋の後ろの席に移動する。側を通るときに、さりげなく紙幣を彼の手元に置いてから。
やがて、食事を終えた密航屋が、ふーっと大きな息を吐きながら、ギシギシ言う椅子の背もたれにグッと身体を預けるようにして、背中で騎士に接近した。お互い顔も見ずにやり取りを始める。
「何人？」
「二人と、馬が二頭」
「馬はよくないね。何かあったときに暴れられると、船がひっくり返っちまう」
「そうか。では、いい。他所に頼む」
「全額、前金か？」
「そりゃ無理だ。お互いお友達じゃないからな」
「渋るねぇ……人間二人で、普通は五百だ。馬は一頭で三百もらう。馬はあっちに行ってから買ったほうがよっぽど安上がりだぜ？」
「前金で八百。向こうに着いたら残り三百を払う」
「前金で千」
「くどい」
「お兄さん、いい身体してる。連れて行く馬も大きいだろう。船の手配が必要だ」
「……わかった」
「お兄さんと、連れが一人……女？男？」
「何故？」
「女は色々、誘惑が多くていけない」
「男だ」
密航屋は身体を起こして立ち上がると、カウンターで酒を二杯買った。それを手に、今度は騎士の正面に座る。彼は情報屋と目配せをして、一杯を騎士の前に置いた。
「男二人と、馬が二頭。前金で千、着いたら三百」
「計算が出来ないのか」
「この条件なら、今夜乗せてやってもいい」
「……決まりだ」
騎士は低く呟き、頷いた。密航屋は自分の手にある杯を一気に飲み干して、ゴトンという音とともにテーブルに戻す。騎士は微動だにしなかった。ただじっと、密航屋を眺めている。
「船を操るのは、お前一人で？」
「いや、相棒がいる」
「男か？」
「女房だ」
「誘惑が多くはないのか？」
「誘惑してきてくれる分には問題ない」
密航屋は初めて闇稼業に身を置く人間独特の下卑た表情を浮かべ、何の気負いもなく騎士に時間と場所を指定すると、さっさと店を出て行った。騎士がおもむろに自分の前に置かれた杯をどけると、その下から複雑な模様の入った紙片が現れる。
「それ見せないと、乗れないよ」
隣に座っているだけで金がもらえるという素晴らしい職業の情報屋は、もっともらしい顔で教えてくれた。騎士はそれを胸元に仕舞いこみながら情報屋を見る。そして、彼はどういう男かと尋ねてみた。
「もともと、隣の国の人らしいよ。でっかい犯罪の使い走りやって、国外追放。だから、向こうの国の警備の穴を熟知している」
「女房も？」
「ああ。女房が、悪い女みたいだよ」
「へぇ。じゃあ実質、女房が仕切ってるんじゃないのか？」
「さあねぇ」
すっとぼけて見せても、表情が肯定している。尻に敷かれているという自覚もなく、女房の言いなりで密航請負なんて危ない仕事をやっているんだろう。騎士はさらに、待ち合わせに指定された桟橋付近の情報を聞き出して、情報屋に金を握らせて席を立ち、足早にラヴィソンを待たせている宿に戻った。
「今宵、出立いたします」
「……さようか」
「危険がないわけではありませんが、何があってもお守りいたします」
「ああ」
「……サージュとエギュは、連れて参りましょうか、それとも」
「サージュとエギュを置いてはどこへも行かぬ。聞くまでもないことである」
「失礼いたしました。承知しておりますのに、確認をしてしまいました」
「……馬と一緒では、渡れぬのか」
「いいえ」
「馬がいないほうが、身軽であるのか」
「……正直に申し上げれば、そのとおりでございます。馬を載せる分だけ大きな船が要り、馬は小さく丸まって船底に身を潜めることも出来ませんので」
「できぬか……できるのではないか、サージュとエギュなら」
「…………できかねるかと、存じます」
「そうか？そうだろうか？練習をさせておけばよかった。練習すれば何でもできよう。彼らだけが見つかっては気の毒である」
「は。段取りの悪いことで申し訳のないことでございます」
騎士はしきりに首をひねるラヴィソンに、とりあえず、馬は泳げますと伝えておいた。ラヴィソンはその言葉で、少し安心した。その後、荷物を出来るだけ小さくまとめ、月が天辺に昇った頃、騎士たちはそっと桟橋へ出向いていった。
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