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第15話

 地図は頭に入っている。だけど、それは古い情報かもしれないし、この大河の流域に関する知識は皆無だ。河に棲む生物の危険性、流れ、両国からの監視、攻撃、運良くバルバ側の岸へ着いたとしてその場所の治安や警備。何一つ情報がない。何より、騎士は騎士であり、舟を操ったことなどないのだ。 「殿下。どうぞ、おやすみになっていてください。夜が明ければ、バルバです」 「さようか」 「寒くはございませんか」 「うむ。エギュがいる……サージュは、寒くないだろうか」 「大丈夫であると思います」  はっきり言って、今は流されている。河岸を離れ、思ったよりも大きな櫂を水面に突き立ててなんとか流れに逆らおうとしたけれど、全くもって無駄な抵抗だった。騎士は黒々とした河を恨めしく睨んで櫂を手離し、自分の外套の中に包まれているラヴィソンをそっと解放して頭を下げる。ラヴィソンは久々の外の空気に、ぷはぁ、と大きく深呼吸をした。  真っ暗な闇の中、心地よく流れる水の音と、時々不安になる揺れを感じる。ラヴィソンにとって、舟に乗るのは初めての経験だった。日中であれば、景色も堪能できただろうにと少し惜しいような気がしたけれど、そんな状況ではないと思い直す。 「……船頭はおらぬのか」 「は。行き違いがございました。私が動かします」 「さようか」  灯りは、サージュの乗る舟の縁にランタンが一つあるだけだ。その光と月の光で、自分の前にうなだれる騎士の頭部が浮かび上がる。無造作に刈られた髪は、間近で見ても痛々しく思える。ラヴィソンは小さくため息をついて口を開いた。 「それほどまでに、金がないのか」 「え?」 「髪を売らねば立ちゆかぬほどに」 「あ、いえ。見苦しいことで申し訳ございません。思いのほか、資金は潤沢です。しかしバルバは未知の場所。たまたま先ほど寄った店で高く買うと言われたので売ったまでです。何一つ、問題はございません」 「さようか」  ラヴィソンはことの次第を飲み込んだ。しかし、胸にあるモヤモヤは晴れなかった。それが我慢ならなかったので、思うままに言葉にした。 「私に断ることなく、そのようなことをしてはいけない」  騎士はギクリと身体を強張らせた。確かにここのところ、ラヴィソンの意向を確かめずに行動することが多かった。暴走していたわけではないけれど、焦りが先行していたのだろう。自らを律し、自らに与えられた使命を全うしなければならない。自分はラヴィソンの心身を守るために存在しているのだから。騎士はさらに頭を下げて、深く深く陳謝した。 「どうぞ、お許しください。二度と殿下の判断なしにはこのようなことはいたしません」 「うむ。この度は良い」 「ありがとうございます、ラヴィソン殿下」  ラヴィソンは気が済んだ。これで今後はこのような喪失感は味わわなくても済む。ここに来てようやく、ラヴィソンは騎士のあの柔らかそうな白金の髪が気に入っていたらしいと自覚した。自分の闇のような夜のような真っ黒な髪とは違う、キラキラした髪だった。今目の前で月の光を受けているのは、同じだけれど随分と短い。それに手を伸ばして触れようかと考えて、ラヴィソンはやめておいた。  大きな河は、夜の帳の中で両岸が闇に溶けて、どこにも果てが見えず、まるで海のようだった。時折強い風が吹き、呼応する雲が月を隠し、また月を出現させる。流れに飲み込まれるように急に速度が変わり、綱で繋がれた二隻は鈍い音を立ててぶつかりながら、その度に水しぶきに濡れながら、何処へともなく流されている。  騎士はもう一度ラヴィソンの座る位置を調整して、窮屈だろうに我慢してくれているエギュの腹にもたれさせ、身体の正面側からしっかりと自分の外套でくるんだ。さらにラヴィソン自身の外套のフードを彼の頭にしっかりと被せ直す。 「おやすみください、殿下。必ず、バルバヘ」 「……うむ」  ラヴィソンは少し疲れていて、そのまま眠った。サージュとエギュも眠ったようだ。騎士は気を取り直して、大きな櫂を手に月と星の位置を見上げる。出発地点はかなり上流域で、密航屋のルートとしてもこの流れを利用して、下流へ移動しつつバルバ側へ行くべきなのだろう。想像ではあるけれど、一度か二度、河の何処かでバルバ側へ一気に寄れる流れの場所に遭遇するはずだ。でなければ、人力だけというのはあまりにも非効率だし、一晩で渡り切れるものではないだろう。密航屋はそれほど屈強な身体ではなかった。  舟は、慣れていない。泳ぎだって上手くはない。それに、先日の戦闘の傷はまだまだ深く出血の続いているところもあるし、無理やり固定しているが骨の折れている場所は熱く腫れている。だが、行くしかないのだ。  騎士は目を凝らし、光の加減で川面の変化を確認しながら必死に舟を操った。一隻であればまだマシだったかもしれない。しかし固定されていないもう一隻、しかも大きな馬を乗せた小舟を牽引しながらというのは非常な苦労だった。思い通りに行かず、ぶつかり、引っ張られ、それでも一度は想像通りの流れに乗ることができて、大幅にバルバ側へ近寄ることができた。しかしそれからが地獄のようだった。  騎士は上半身裸になって、汗だくで水面と格闘し続け、なんとなく見えてきたバルバの土地を目指すものの一向に近づけない。それどころか離れていく気さえする。焦れば焦るほど、舟は思うように進まない。傷は痛み息が上がる。バルバだと思うその景色が、もしかしたらただの中洲なのではないかとさえ思える。本当に向こう岸へたどり着けるのだろうか?  このままでは日が昇ってしまう。明るい時刻に密航など、できるわけがない。とにかく騎士は焦っていた。馬は二頭とも起きているようだ。エギュはじっとラヴィソンを眠らせてくれているし、サージュは騎士を補うように辺りを見回している。心強い。諦める訳にはいかない。これが最後の試練ではないのだ。  その時、サージュが鼻を鳴らした。  騎士はとっさにランタンを手に取り、消す間も惜しんで水中に投げ捨て身を伏せた。遠くない場所に船が見える。こちらの二、三倍はありそうだ。密航……かどうかはわからない。警備船かもしれない。幸いにもこちらには気づかれていないようだ。息を殺してただひたすら、その船の動向を伺っていると、ふっと船の灯りがぶれたように見えた。そうかと思うと、あっという間にどんどん離れていく。それはもう一瞬と言ってもいいほどの出来事で、すでに船は月光を乱反射する水面に映ってさえいない。遠く、バルバの方角へ去って行ったのだ。特別な流れに乗ったのだろう。  今すぐ同じ流れを捕まえなければ、この旅は失敗する。悲鳴をあげる身体を叩き起こして、騎士はさっき船が勢いに乗った場所よりもひとまず上流を目指して必死に漕いだ。水の動きに逆らい、途中で違う流れに巻き込まれないように、全身の痛みと疲労を堪えて死にもの狂いで河をのぼる。流石にラヴィソンも目を覚ましたようだ。騎士の外套にくるまったまま、エギュの横腹に身体を預けて辺りを見回している。フードで視界が狭いのか、捲り上げたそうに端っこを指先でつまんだりしている。その様子を視界の隅に捉えながら、騎士は船を操り、ラヴィソンへ声を掛ける。 「殿下、揺れて、申し訳ありません。起こして、しまいました、か」 「……少し水の音が気になっただけだ。問題はないのか」 「は。正念場で、ございます」 「さようか。励め」 「は!」  鍛え上げた肉体のあちこちが絶叫している。腕は限界をとうに超えている。息は上がり、肺が押しつぶされそうに喘いでいた。水とはこんなにも重く厄介なものなのか。それでも、それでも、前へ。  騎士の必死の行動は身を結び、小さな二つの舟はようやく先の船が加速した場所の少し上流までたどり着いた。騎士は漕ぐのを止めて櫂で方向を調整し、闇の中で月明かりに光る水面を睨みつけて、間違いなく目指す流れに乗ろうとがんばった。そして、突然見えない何かに引っ張られるようにぐんっと勢いを増し、舟が急激に進み始めた。騎士は心の中で快哉を叫んだ。成功だ。これで多少はバルバヘ早く近づけるはずだ。  しかし、その次の瞬間、いくつもの風を切り裂く音が聞こえた。 「密航だ!捕らえろ!」  誰かが怒鳴る声が聞こえた。その声に重なるように、続けざまに矢が飛んできて舟の周りに着水し、鋭い水しぶきを上げている。どうやら沿岸を警戒していた奴らに見つかったらしい。警告もなしに矢を放つとは、なかなか容赦のないやり方だ。  それでも警備船はどんどん遠ざかっていて、流れに乗って加速し続けるこちらが追いつかれることはないはずだ。騎士は安堵はしないまでも、落ち着いていた。月が明るい夜とはいえ、この暗闇の中、勢いに乗ったこちらの舟を闇雲に撃たれても、このまま離れてしまえば危険はひとまず回避できる。騎士はラヴィソンに覆いかぶさるようにしてただじっと流れに任せていた。  気味が悪いほどの加速と揺れ。遠ざかりつつあるとはいえとはいえ、怒号が響いている。騎士はラヴィソンに聞こえなければいいのにと願った。  ラヴィソンは騎士の外套の中でさらに自分の外套のフードを被っているので、視界は真っ暗で状況がよくわからなかった。ただ、何者かに見つかって何らかの攻撃を受け逃げているらしい、ということはわかる。エギュに預けていた自分の身体を、騎士がその身を呈して守ろうとしているらしいこともわかる。だから、時々何かが舟にぶつかる硬い音がしても、矢が迫ってくる不気味な音が鳴り止まなくても怖くはなかった。分厚い外套越しのくぐもった音だから、現実感がなかったのも幸いした。人の声もするけれど、内容までは聞き取れない。  ザーザーゴウゴウと激しい音をさせながら河は二隻の小舟を軽々と運んで行く。警備船はもうそのほんの一部が見えるのみというほど離れてしまい、攻撃も止んだ。この流れに乗ってそのまま進んでいいのだろうか?それとも何処かで脱して方向を帰るべきなのだろうか?騎士はラヴィソンを庇いながらも、そんなことを考えられるだけの余裕があった。しかしそれは長くは続かなかった。 「動くな、エギュ!おとなしくしろ!」  エギュが突然、身体を起こそうと暴れ出した。大きくない舟に無理やり馬一頭と人間が二人も乗っているのだ。ましてやエギュは人間二人分の何倍もの重さがある。わずかに動くだけでも舟が傾くのに、暴れられては転覆するのは一瞬だ。最初に比べれば遅くなってはきているけれど、穏やかな流れではない。  騎士はラヴィソンをエギュから離し、自分の腕に抱き込んで、もう片方の腕でエギュを撫でて抑えようとした。大きな音と水しぶきを立て激しく揺れる舟は今にもひっくり返りそうだ。ラヴィソンはあまりの揺れに驚いて、自分もエギュに一言言って聞かせようとバサバサと二枚分の外套の中から顔を出す。その途端にバシャンと頭から水を被ってしまう。騎士は突然現れたラヴィソンの頭部を守るように抱え込み、外套を被せようとした。その時、ラヴィソンは見た。明るい月明かりの下で、自分たちの乗る舟とサージュを乗せた舟を繋ぐ太い綱が緩んでいるのを。思わず手を伸ばして、サージュの乗る舟の縁を掴もうとしたけれど、届かなかった。 「綱が……サージュ!」  騎士もようやく状況が飲み込めた。しかしエギュが動くせいで、サージュの方へ手を伸ばしたり綱の端を引き締めることも出来ない。ラヴィソンが振り落とされないように抱えて、自分も落ちないようにするのが精一杯だ。綱は河の流れに屈するかのように、ズル、ズル、とどんどんほころんでいく。その度にサージュの乗る舟と騎士達の舟の間に距離が生まれ、そこに大量の水が流れ込んで新たな渦を作り、それがさらに二隻を遠ざけようと暴れまわる。ラヴィソンは騎士の腕から抜け出そうともがいているけれど、騎士の腕は全く外れなかった。  流石にサージュも落ち着きをなくし、舟の上で身じろいでいる。そのおかげで舟が揺れ、綱のほころぶ速度を上げてしまっている。騎士は大きな声でサージュにおとなしくしていろと叫んだ。その声に刃向かうように、エギュがとうとう本気で身体を起こそうとする。  だめだ、動くな  騎士がそうエギュに命令しようとしたその時、耳元を何かが高速で通過したかと思ったら、エギュの前脚の付け根あたりに矢が刺さった。  警備船の巡回は一箇所だけではなかったらしい。騎士が振り返るとそこには先ほどと同じような船が浮かんでいて、雨のように矢が飛んでくる。それに背を向けるようにしてラヴィソンをしっかりと隠し、エギュを撫で、サージュに叫ぶ。先ほどまでの余裕などあっという間に流れ去ってしまった。 「だめだ、サージュ!サージュが!」 「殿下!危ない!」  ラヴィソンはサージュに向けて腕を伸ばした。指先さえ、届かない。その時、絶望したラヴィソンの腕を超えるように、エギュの前脚がグンと伸びて、サージュの舟に架かった。一瞬、エギュの身体が二隻を繋ぎ、距離が縮んだように見えた。だがそれはほんのわずかな間だけだった。エギュはもう一本身体に矢を受け、さらに非情な河は二隻を引き離さんと大きな力を発揮する。綱はすでに解けてしまっていた。ラヴィソンたちの乗った舟が大きく傾き、その縁が水面に達したとき、エギュは自ら河へ入った。水面とほぼ同じ高さから舟を降りたので、水しぶきはほとんど上がらなかったけれど、ドブンという低い音とともにエギュを受け入れた河は形を大きく変え、そのあおりとエギュがいなくなった反動で舟は反対側に跳ね上がる。寸でのところで転覆は免れたものの、舟底には大量の水が流れ込んだ。それらの舟の動きに翻弄されている間に、エギュとサージュはあっという間に二人から離れていく。 「いやっ……いや!いやだ!エギュ!サージュ!だめ、いやぁ……っ!!」  ラヴィソンは暴れ、絶叫した。何度も何度も馬の名前を呼んで、すでに闇に消えた彼らに手を伸ばし続ける。そんなラヴィソンを放さないようにしながら揺れる舟をどうにか落ち着けたと思ったら、騎士の背に重い衝撃が走った。同時に舟の縁が音を立てて吹っ飛ぶ。矢の次は石つぶてらしい。少しずつ速度を落とし始めた舟の周りにもドボンドボンと水柱を上げて石が降っている。騎士は必死に、暴れるラヴィソンを抱き込んで覆いかぶさり、彼を護る。文字通り盾になり、あらゆるものから護る。騎士の胸に去来するのは、無念だけだ。  腕の中の第三王子は悲壮に身を切り裂かれて慟哭しているというのに、護るだと?大切な愛馬を失い、その馬を助けようとしたもう一頭も同じ道を行った。せめてラヴィソンだけはと思うのに、彼は今きっと、馬たちを追いかけたいと願っているだろう。彼のこころが壊されていく。砕かれた繊細な精神は、あっという間に濁流に消えるだろう。抜け殻の身体は、守るべきなのだろうか。  それでもどうか、あなただけは  騎士は何度もラヴィソンの名を呼び、強く腕に抱き、飛来する矢や石の攻撃に耐える。いつまでもこうしていては捕まるのは時間の問題だ。拿捕されれば、無事では済まない。騎士は手探りで腰に巻き付けていた袋から、宿の亭主にもらったものを取り出した。ラヴィソンのものと大切なものは自分の身に括り付けていた騎士だ。自分のものはサージュとともに流されてしまったけれど、これを手元に置いていたことを喜んだ。  口で紐を引き抜き、パチリと火花が散ったのを確認してから後ろを振り向くと、狙いを定めて渾身の力を込めて警備船の方へ投げた。距離はそう遠くない。というよりは間近に迫っていた。船員の顔が月明りで確認できるほどだ。投擲した閃光音響筒が予想通りの軌道を描いたのを見ると、騎士はラヴィソンの背後から耳を塞ぎ、目を閉じてくださいと叫んだ。と同時に、鈍い音とともに側頭部に石つぶてがぶつかった。ひどい痛みと眩暈。頭の中が揺れて目の前が暗くなる。意識がちぎれていく。その刹那、周囲は昼のように明るくなり、河面がさざめくほどの爆発音と破裂音が響いた。  今のうちに、舟を漕いで逃げなければ。サージュとエギュを追いかけなければ。  騎士はもちろんそう思った。しかし宿の亭主が持たせた威嚇が奏功したかを確かめることさえできずに、騎士はそのまま目を閉じて自失してしまった。

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