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第16話

 騎士が目を覚ましたとき、何処かの部屋の中にいた。パチリと目を開き、あらゆる感覚を持って現状を確認する。  生きている。そして、寝台に寝ている。部屋は清潔で、どうやら民家のようだ。周りには誰もいない。そう、ラヴィソンの気配がない。  痛みにこわばる身体を無理やり動かして、上掛けを跳ね除けながら寝台から飛び出す。下穿きしか身につけていない自分に、たくさんの包帯が巻かれているのが見える。捕虜となったわけではなさそうだ。しかし、ラヴィソンがいない。騎士は焦りと後悔で裸足のままで床を蹴り、部屋の扉を勢い良く開けた。その向こうには、突然の騎士の登場に驚いた表情を見せる親子が、のんびりと食事の支度をしている光景が広がっていた。 「……助けてくれたのか?」  どうみても危害を加えられそうにない面々だ。朴訥とした夫婦と、息子が二人。母親が握っているのは調理用の刃物だけれど危険は感じないし、男三人から攻撃の気配もない。純粋に、親切で助けてくれたのだろうか。ラヴィソンはどこにいるのだろう。そして、ここはどこなんだ。 「ここはどこだろうか。バルバなのか?私と一緒に、若い男がいたはずだ。その人はどこだ?」  しかし答えは得られなかった。騎士は何度も質問を繰り返し、身振り手振りも交えたけれど、彼らとの会話は成立しなかった。そう、言葉が通じなかったのだ。  隣国は公用語が全域で採用されている国だった。祖国と同じだ。しかしここはどうやら違うらしい。であるならば、バルバなのだろうか?ラヴィソンはどこにいるのだろう?  騎士は言葉が通じないことをいいことに、隠すことなく我が主はどこだ、ラヴィソン殿下の居場所を知らないかとまくし立てる。家族は一様に困った顔をし、手のひらを騎士に向けてゆっくりと上下させる。落ち着けということか。これが落ち着いていられるか!騎士は痛む頭に手をやりつつ、周囲を注意深く見回した。窓の外には庭があり、家族の洗濯物に紛れて、見覚えのある自分の服が風を孕んでなびいている。荷物はどうしたのだろうかと飛び出して来た部屋を振り返れば、寝台のすぐそばに積まれている。本当に親切な人たちのようだ。どうしてこうなったのだろう。ラヴィソンはどこだろうか。自分がこの家族に助けられたときにはすでにそばにいなかったのだろうか。  騎士は不安のあまり動揺し、大きな声でラヴィソンの名を呼びながら外へ駆け出す。背後から女の声で何かが聞こえたけれど今はそれどころではない。 「殿下……ラヴィソン殿下!!どちらですか!」  庭はほどほどに広く、犬がいた。その犬が不思議そうに騎士を眺めて一つ吠える。犬は人探しが得意だと聞く。一緒に探してはくれないだろうか。騎士がそんなことを考えて一瞬立ち止まったとき、家の中から女が出て来て何かを言いながら騎士の服を物干し竿から外して寄越した。呆れた表情をしているので、見苦しいから着ろということらしい。綺麗に洗われた服はすっかり乾いていた。 「ありがとう……しかし今はそれどころじゃないんだ。殿下が」  女は騎士の言葉には耳を貸さず、さっさと着ろと身振りで促してくる。わかったわかったと騎士がズボンを履き、上着を羽織ると、女は庭の端にある小屋を指差した。そして笑顔で何か言っている。 「え……あそこに?早く教えてよ!」  騎士は一目散に駆け出した。教えられた小屋は、馬小屋だった。馬のいななきが聞こえる。大切な大切な第三王子は、馬房にいる三頭の馬を、少し離れた場所からじっと眺めていた。 「……殿下」 「うむ」  ラヴィソンは振り返らずに返事をした。農耕馬が二頭と、乗用馬が一頭。どれもよく手入れがされていて毛並みも艶やかで、目がキラキラしている。軍馬ではないからか警戒心も露わにせず、ラヴィソンを見たり、足元の草を食んだり、のんびりとしたものだ。現れた騎士を目にしても、三頭ともふさりと尻尾を揺らした程度で威嚇したりもしない。  騎士はラヴィソンの背後に膝をついて頭を下げる。 「この度の失態を、どのようにお詫びすればよいか見当もつきません」 「よい」 「私の招いた災難であり、申し上げられる立場ではございませんが、殿下、お怪我はございませんか。どこか具合の悪いところは」 「ない。無事である」 「何よりでございます」  騎士は安堵の息を吐いた。この高貴な方に怪我などがあっては、自分を責めて死ぬしかない。  聞きたいことはたくさんあったけれど、ラヴィソンは馬たちを眺めたまま何も語らず、騎士も地面を見つめたまま何も問わずにいた。  風の音と馬たちの声だけがさらさらと流れている。そんな時間を止めたのは、先ほどの母親だった。小屋をのぞき込んで笑顔で何かを言い、手招きをしている。騎士はさっと立ち上がってラヴィソンをその背に庇う。危険がないのは承知しているけれど、警戒を解くことはできなかった。 「……恐れながら、殿下。彼らの話す言葉をご存知でしょうか」 「わからぬ。公用語以外にもいくつか学んでいるが、そのどれとも違うらしい。親切な者たちのようだが」 「はい。しかし」 「うむ。油断は出来ぬ。だが、食事は悪くない」 「……殿下、お食事をされたのですか。あの者たちと」 「食べねば飢えて死ぬ」 「お恥ずかしいことですが、その、私は一体どのくらい」 「後で話す。あの者は、食事に遅れるとひどく口うるさいのだ」  ラヴィソンはすっきりと背筋を伸ばし、騎士の背後から抜け出して馬小屋を出て行く。騎士はそれに付き従い、一緒に母屋に戻った。食卓にはラヴィソンと騎士の分も家族と同じように用意されていて、父親と息子二人が笑って出迎えてくれた。身振りでここに座れと促されたけれど、騎士はラヴィソンの隣に座って同じ食卓で同じ食事を摂るなど考えられなかったので大きく首を横に振った。  何をしているさっさと座れとばかりにやいやい言われて、とんでもないことだ絶対にできないと固辞する問答を続けていたら、ラヴィソンが静かに言った。よい、許す、と。 「しかし殿下」 「この者たちに、私の立場などわからぬ。であるから、よい」 「は!」  騎士はラヴィソンのために椅子を引き、彼が優雅に腰を下ろすのと同時に椅子を戻す。旅に出た当時は綺麗に調えられていたうなじの辺りに、今は伸びた髪が掛かっている。容姿の変化が、流れて行った日々を感じさせた。  食事は簡素ではあったけれど、量は十分で、確かにおいしかった。毒見をしようとする騎士をラヴィソンが制し、殺す気があればとっくに殺されていると諭す。家族はどうやら主従らしい二人のやり取りを微笑ましく見ていた。  言葉が通じないわりには、なんとなく和やかな食事だった。母親は家族とラヴィソンたちに等しくもっと食べろと促し、父親は騎士の傷の辺りを指さしては大丈夫かと気づかわしげだ。息子二人はラヴィソンよりも年下のようだけれど、立派な体格をしていた。兄弟は騎士の腕の筋肉と自分のを比べては、羨ましそうな顔をしている。  そんな団欒のような時間を過ごした後、騎士は自分が寝ていた部屋から荷物をすべて庭に持ち出し、芝生に腰を下ろしてひとつずつ検めた。ラヴィソンはそのすぐそばにある木陰に置かれた椅子に座って、その様子を眺めて過ごした。 「殿下……教えていただきたいことがございます」 「うむ。あの者たちが助けてくれたことか」 「は。情けないことに、警備船から逃れるところから記憶がございません」 「であろうな。気絶をしていて記憶があるはずもない」 「面目ないことでございます。お詫びのしようも」 「もうよい。……あの時、すごい光と音で、警備船の者は戦闘不能になったようだ。攻撃は止み、追いかけても来なかった。こちらの舟は、ただ流れのままに漂った」 「はい」 「私にもよくわからぬが、いくつか幸運が重なったのだろう。夜が明けきる前に、河岸へ漂着した。木や草が、河面まで伸びていて、そこにからまるように舟が止まり、そのまま朝になった」  それが二日前のことだと言う。ラヴィソンは流れている間も流れ着いてからも、その美しい手で舟底の水を少しずつ外へ出し続けたらしい。倒れた騎士がほとんど水没しそうになっていたからだ。騎士は気を失う直前、馬たちとはぐれた時に大量の水が舟に流れ込んだことを思い出す。 「殿下、親書は……!」 「無事である。きちんと油紙に包んであった」  騎士は安堵した。ラヴィソンは今借り物の、おそらく息子の服を着ている。腰のあたりに小物入れがついているズボンなので、そこへ入れて肌身離さず持っていると言った。あの頼もしい母親はラヴィソンの着ていた服も洗ってくれたようだ。  その後、舟の底で死んだように横たわる血まみれの騎士とその隣に佇むラヴィソンは、魚を釣りに来たこの家の男三人に発見される。舟底に溜まった水に血が溶けていたので、騎士の出血が実際の何倍もに見えて慌てて救助された。家に運ばれ、医者を呼ばれ、言葉が通じないことがわかって密航者だろうと気付いたはずなのに、騎士に意識が回復するまではそっとしておこうということになったらしい。ラヴィソンはびしょびしょだった服を着替えさせられて、怪我がないとわかるととにかく食べなさいと食事を与えられたという。そして二晩が過ぎ、騎士は目を覚ましたのだ。  騎士が身体に括り付けていた荷物もずぶ濡れになったらしい。そのほとんどは乾いてはいるけれど、濁流を吸って無残なことになっていた。ラヴィソンの礼服一揃いと自分の礼服一揃いは、雨除けの外套で包んでいたので皺だけで済んでいるが、騎士の母親の持たせた織物は二枚ともぼろ布のようだ。金はなめし皮の丈夫な袋に入れていたので無事。地図は開けない状態になっていて、インクが溶けてしまい、何がなんだかわからない紙くずと化している。短剣は何とかなりそうだ。あとで綺麗に洗わなければいけない。  とにかく現在地を把握したい。そして、できれば汚れてしまった織物を洗いたい。あとは、馬が要る。旅が終わったわけではないのだ。感傷的になっていてはいけない。あの二頭は、もういないのだから。  そこへ、親の手伝いが済んだのか息子たちが寄ってきた。一人はラヴィソンにお菓子を手渡して微笑んでいて、もう一人は騎士に腕相撲を挑まんと袖を捲って鼻息を荒くしている。  遊んでいる場合でないのは確かだけれど、今できることがないのも事実だ。騎士は兄らしき方と芝生に腹這いになって腕相撲をし、連戦連勝を重ね、両手でやってもいいぞと身振りで挑発したりもした。やがて弟も参戦して、二人がかりであっても、利き腕でなくても騎士は勝った。悔しそうに、でも楽しそうにしている兄弟に、もっと鍛錬しなければいけない、腕立て伏せや懸垂をしろとその場でやって見せれば、彼らは競うようにして真似をする。  ラヴィソンはそういう光景を不思議な気持ちで見ていた。平民の兄弟とはこのようにして過ごすのか。また、昨日今日会ったような人間と、このように笑い合って遊ぶのか。とても理解できない。危なくはないのだろうか。  どっすんばったんと遊んでいたら、いつの間にか夕方になっていた。母親が大きな声で息子たちとラヴィソンたちを呼んでいる。騎士は干していた荷物を丁寧に集めて回り、低くラヴィソンに告げる。 「殿下。明日の朝、出立致したく存じます」 「……ああ」 「どうやらここは本当に平和で、異国への警戒心がありません。できるだけ早く、離れるべきであると考えます」 「で、あるな……わかっている」  侵略を受けたことがないのか、あったとしてもそれは遠い遠い昔のことなのだろう。言葉も通じない異国からの密航者を家に泊めて食事をさせて寝起きする場所まで与えるなど、無防備に過ぎる。万万が一にも、そんな優しい彼らに危害の及ぶようなことがあってはならない。これ以上、周りを不幸にしながら進むのは本意ではないのだ。  母屋に戻れば、食事の支度はまだ半ばで、母親がラヴィソンにたくさんのそら豆の入った大きな器を押し付けてきた。テーブルに座らせ、一つを目の前で剥き、同じように全部やれと言っているようだ。とんでもない話だ。騎士は慌てて代わろうとしたけれど、母親は騎士を裏口から外に追い出して薪を割れと身振りで命令する。そして騎士の抱えていた汚れた織物を洗濯してやるから任せろと引き受けてくれた。  親切にしてもらっているのだからもちろんそのくらいは喜んでやる。しかしラヴィソンの傍を離れたくはないし、大切な王子に豆の皮など剥かせるわけにはいかないのだ。騎士が必死で訴えると、母親は呆れた顔をし、ラヴィソンと山盛りのそら豆を騎士の目の届くように戸口のところへ移動させた。これでいいでしょう、二人ともしっかり働きなさい。そんなセリフが聞こえてきそうな笑顔で、実際そんなことを言っているのだろう、忙しそうに家に入っていく。 「殿下、私が後でいたしますのでそのままに」 「よい……働かないことは罪である……しかし……」  ラヴィソンは生まれて初めてそら豆を房ごと摘み上げた。豆とはこのように育つのか。皮を剥かねば食せぬのか。興味深いことである。そんなようなことをブツブツと呟きながら、細く白い指で丁寧に皮を剥き始めた。仕方がないので騎士も与えられた仕事を始める。その後の食事で、ラヴィソンは自分が剥いたそら豆が出てきたことに少し感動した。この豆を焼いたかまどに放り込まれたのは騎士が作った薪だ。平民とは実に働き者で、そういう国民のいる国はよい国だろうと考えた。彼らはきっとしあわせなのだろう。振り返って、自分の祖国の平民たちは、こんな風に穏やかな日常を過ごせていたのだろうか。わずかしか見られなかった自国の様子が思い出される。彼らはこんなにおいしいそら豆を食べているだろうか。 「お疲れになられましたか」 「……さようである。しかし、問題ない」  守るべきを誤ってはいけない。この第三王子という肩書を持つ身体で、自国の民を守るのが自分の使命だ。恐れることは何もない。唯一あるとすれば、途半ばで本懐を遂げられずに命を終えることだ。ラヴィソンは自分を戒め、目の前にある食事に感謝をした。王宮にいるころは考えられなかったことだ。  その後湯を貰い、父親が騎士の包帯を巻き直してくれて、夜が更けていった。朝になれば出立する。朝とは、陽が昇る頃……彼らが寝ている間にということだ。旅装のほとんどを失って野営は難しいけれど、いつまでもここにいて迷惑がかかるのは避けなければいけない。母親が洗ってくれた織物は綺麗になり、丁寧に広げられて伸びないようにして物干し竿に掛けられている。忘れずに回収して行かねばならない。  息子二人はすっかり騎士とラヴィソンが気に入ったらしく、言葉も通じないのにずっと話しかけている。素直で元気で、きっといい男に育つだろう。そんな風に微笑ましく相手をしていたら、騎士の感覚が違和感を捉えた。  すぐ隣に座るラヴィソンを背に庇い、出入り口を睨みつける。騎士の緊迫した変化に、四人家族はポカンとしている。やがて叩かれる扉。何の警戒心もなく父親が開け、誰かを招き入れた。初老の女性と騎士と同年配の男だった。 「あれは、あの女性は医師である。男は知らぬ」 「は」  ラヴィソンは騎士の背中にそう言った。自分たちがここへ来た日と昨日、女性は騎士とラヴィソンの診察をしてくれた。だから医師だろう。男の方は、年寄りの夜歩きが危ないとみての付き添いかもしれない。だけど、わからない。騎士が緊張感そのままに訪問者二人を観察している間に、彼らは家族らと挨拶を交わした。そして男が騎士とラヴィソンの方を見ると、おもむろに近づいてきた。 「警戒しなくていい。俺はこのあたりの面倒事を任されている、フリックだ。ここ数日留守にしていたから、不自由をかけてすまなかった。よろしく」  騎士とラヴィソンはびっくりした。突然公用語を話す男が現れたからだ。この土地の人間は誰一人公用語を知らないと思い込んでいた。騎士は気を取り直してフリックを観察する。 「……フォールだ。言葉が通じる人がいて助かった。とにかく彼らにお礼が言いたい。伝えてもらえないか?本当にありがとう、迷惑をかけて申し訳なかったと」  フリックは笑顔でうなずいて、四人家族の顔を等しく見ながら騎士の言葉を通訳してくれた。彼らは手を振り首を振って、たいしたことじゃないよ、気にするなと言ってくれたらしい。そして彼らもフリックを通じてたくさんの言葉を寄越し始めた。 「怪我は大丈夫かって」 「ああ。もう問題ない」 「食事は口にあったかって」 「どれもとてもおいしかった」 「どうしてそんなに腕相撲が強いのかって」 「鍛えているからだ。さっき教えた腕立て伏せと懸垂を毎日やれば強くなれる」 「その綺麗な男の子は何者だって」 「それは、言えない。許して欲しい」 「じゃあ、あんたは何者?」 「……それはフリックの質問か?」 「ああ、俺の仕事としての尋問だ」  フリックの目は笑っていない。騎士はそれが当然の反応だと思った。どこまで話すべきだろうか。そう思案しながらフリックの目を見つめ返していると、初老の女性が突然フリックの後頭部を叩いた。何事か叱りつけているようだ。 「お前の仕事なんか後回しだ、怪我を診るからそこをどけって言われた……」 「ふ……年上の言うことは聞くものだ」 「そう。特に母親の言うことはな」  そうか、この二人は親子なのか。フリックの母親は騎士に向かって話しかけながら、寝台のある部屋へ促す。騎士はラヴィソンとともに部屋へ入り、そこで医者に診察してもらった。フリックは通訳に徹して一切邪魔をしなかった。 「全身に打撲と骨折がある。打撲は新しいものと古いもの。膏薬を貼って様子を見るように。骨折は腫れが引いていたから比較的古いようだが接いていないから動かさないように。頭部に挫傷。血は止まったけれど傷は塞がっていないから安静にしているように。数か所の切り傷は毒物による炎症がひどい。耐性がなければそれひとつで命を落とすほどだ。それから」  ラヴィソンはフリックの通訳を驚愕しながら聞いていた。それに気づいた騎士はフリックに言わなくていいと目配せをしたけれど遅かった。騎士はラヴィソンに不要なことを知られたことに消沈する。  フリックの母親はテキパキと傷を検分して然るべき処置を施していく。丸ごと全部が怪我の見本市のような状態の騎士の診察が終わると、ラヴィソンに手招きをする。騎士は服を着ながらそれを制した。 「彼は怪我をしていません。あなたに診せる必要はない」  フリックは騎士の言葉をそのまま医師である母親に伝える。母親はにっこり笑って騎士の骨折している手首をピシリと指で弾いた。年寄りの戯れと言うにはあまりにも痛い攻撃で、騎士は思わず声を上げた。 「いぃ…………ってぇ!」 「医者は私だ。そこを退いてあの子を座らせろ、この過保護の朴念仁が」 「な……!そんなことを本当に言ってるのか!?」 「これでもうまく通訳している。いいからあの子をそこに座らせろ」 「しかし……痛!痛いよ、先生!わかったってば!!」  老医師はピシリピシリと順番に騎士の怪我を攻撃してくる。たまったものではない。ラヴィソンも慌てて騎士に退くように言った。騎士が座っていた椅子にラヴィソンが腰かけると、老医師はにっこりと満足そうに笑った。そして騎士の方を見もせずに何か言う。フリックは気の毒そうに、言いにくそうに通訳をした。 「……出て行けって」 「断る」 「……さっさと出て行けって」 「断るっ」 「よい。私なら大丈夫だ」 「しかし!」 「ただの診察である。危険はないと考える」  騎士はしょんぼりと肩を落とす。彼らがラヴィソンに危害を加えないという保証はない。目を離した一瞬で殺害されるかもしれない。そしてそれ以上に、ラヴィソンが加療が必要な状態であるのかもしれないということが不安だった。もしも彼に重篤な何かが見つかったらどうすればいいのだろう。怪我はないと言っていた。食事も摂れている。しかし、この旅程は過酷だった。それが彼の身体に負担にならないはずもない。守ってきた大切な人に、何か具合の悪いところがあると誰かに指摘されることが恐ろしいのだ。自分の至らなさを思い知らされることは、存在を、努力を、否定されることに等しい。ラヴィソンに何かあったら、自分は息ができなくなるだろうと騎士は考えた。  思い切れない騎士が立ちすくんでいると、老医師はふと微笑み、何事かを騎士に言った。フリックはそれを正確に通訳する。 「お前が守ってきた宝物は輝いている」  騎士は老医師を見つめ、背筋を伸ばして彼女の前に座る美しい王子の後姿を見つめた。何一つ威厳のあるものを身につけていないにもかかわらず、鮮やかに輝くのは彼が生まれながらに宝石で、国民の、騎士の宝物であるからだ。  騎士はそっと部屋を出て行った。  ラヴィソンは騎士の出て行ったのを音で知ると、医者の方をじっと見た。そもそもラヴィソンの身分で平民と視線を交わすことなどありえないのだけれど、この二日間で医者はラヴィソンの目を診察として覗き込んでいたし、この家の一家はニコニコと目を見て話しかけてくる。無礼であると怒る気力もない。自分は自国を離れた時点ですでに王子として扱われる人間ではなくなっているのだろう。 「……もう大丈夫だって」 「うむ。私はどこも痛くない」  優しく微笑む医師は、ラヴィソンの両手を握った。少しかさついたあたたかい手だった。全く理解できない、だけど耳触りのいい言葉で、彼女が何事かをラヴィソンに言う。後ろに控えているフリックが、同じように穏やかな声色でそれを伝えてくれる。 「怪我をしていないのはわかっている。だけど、怖かったでしょう」 「……何も、怖くなどない」 「一緒にいる人があんなに怪我をしたら、心配で怖くなる。だけどもう大丈夫。彼は強い」 「あの者は私の護衛である。旅の途中で、その任務を放棄することなどない。従って、心配などしていない」 「自分を守るために誰かが傷つくのを、平気で見ていられる人間なんていない」 「……」 「だけど、誰も傷つけずに生きてはいけない。だから、自分を責めてはいけない」 「……馬が」 「馬?」 「一緒にいた馬が、二頭、あの河で流された。一頭は私の家が私に宛がった馬だ。もう一頭は、あの者が長年一緒に生きていた相棒だ」 「そう」 「私の旅に関わらなければ、サージュとエギュはあんな目には遭わなかった」 「そうかもしれない」 「あの者も、あんなに怪我をして、相棒を失くすことはなかった」 「自分を責めてはいけない。あなたは、あの護衛さんの大切な人なのだから」 「私は、使命を果たさなければならない。それに伴うあらゆる犠牲は私の咎である」  ラヴィソンは震えながら大きく呼吸をした。こんなことを話すべきではない。だけど、自覚はなかったけれど壊れそうだったのだ。まさしく命を投げ出して自分を守る騎士はどれほど苦労をしているのだろうか。冷たい河に飛び込んだエギュはどれほど辛かっただろうか。主人と離れ離れに流されていくサージュはどれほど怖かっただろうか。彼らを受け止めることが自分にはできない。だけどしなければいけない。自分のために働くすべてに応えなければいけない。人の上に立つ王族は、それができなければ値打ちがないのだ。申し訳ないと思っても、謝って済むことではないし謝るべきではない。そんなことで自分を紛らわせてはならない。だけど、でも。 「怖くは、ない。何も恐れていない。覚悟はできているのだから」 「そう」 「ただ、できることなら」 「何だい?」 「…………何でもない」  傷ついた人たちのこころが、身体が、癒える日を願う。叶わないけれど、それでも祈る。すべての痛みを自分へ。使命を果たすから、必ずやり遂げるから、彼らに平穏な日々を。わずかな希望が、自分の昏い先行きに意味を齎す。私は何もいらない。だから、どうか。 「よく食べて、よく眠ることだよ」 「……うむ。心得ている」 「あの護衛さんは優秀だ。安心してよさそうだ」 「さようである」  騎士は部屋の外で扉にもたれて、ラヴィソンの声を聴いていた。そして、彼のこころの傷の深さを思い、辛いほどの気丈さを知り、彼のこころが安らかにあることを切望した。

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