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第17話

 気の済んだ老医師は、ラヴィソンの肩をポンポンと叩いて部屋を出て行った。入れ違いに部屋に戻った騎士はラヴィソンの前に跪き、深く頭を下げる。ラヴィソンにとって、誰かに傅かれることはごく日常で、特に何の感情もわかなかった。しかしこのとき、なんとなくではあるけれど、背筋の伸びる思いがした。それが、責任というものの実感だったのかもしれない。 「話を聞かせてくれ。あんたたちは何者なんだ」  フリックが口火を切って、ようやく本題に入る。ラヴィソンは椅子に腰かけたまま、騎士はそのすぐそばに膝をついた状態でフリックを見上げた。フリックは肩を竦めて、床に腰を下ろす。それで騎士とフリックの視線がうまく合うようだ。 「……身分や素性は明かせない」 「それでは困る」 「明日の朝にはここを出て行く。どうか、見逃して欲しい」 「この村を出ても、この国にいるんだろう。俺は国から仕事を与えられている。見逃すことはできない」 「先に一つ、教えてくれないか。ここはどこなんだ?我々はバルバの国を目指している」  騎士も、おそらくラヴィソンも、助けてくれた家族に何度もここはバルバかと聞いた。バルバはどこだと何度も繰り返した。しかし彼らは首を傾げるだけだった。自分の国の名を知らない国民がいるとは思えない。だから多分ここはバルバではない、どこか別の国なのだろうと予想していた。  フリックは呆れた顔で鼻息を吐き出した。 「あんたたちがどこから来たのかわかったよ」 「……なぜ」 「この国を、バルバなどと呼ぶのはあの国だけだ。そんな風に蔑むのは」  騎士とラヴィソンは言葉を失くした。バルバというのは蔑称だったのか。自国の資料や地図には、バルバはバルバとしか記されていない。それが正式な国名であると思い込んでいた。王冠を頂く者は知っていてなおバルバと呼んでいたのだろうか。 「……大変な失礼をした。申し訳ない。その……本来は何という国なんだ?」 「ヴィヴァン」 「……ありがとう、教えてくれて。ここは、ヴィヴァン……国王はアンソレイエ陛下で正しいだろうか?」 「ああ。国王陛下に会いに来たのか?」  その質問に騎士は答えなかった。フリックはどうやら国からの任命を受けてこの辺り……自分の地元の治安維持に努める立場のようだ。家の敷地から一歩も出ていないからどの程度の規模の集落なのかはわからないけれど、公用語が一切通じないくらいに中心部から離れているのに、そういう人間が常駐していて医師もいる。ヴィヴァンという国は隅々まで政治が行き届いている国なのかもしれない。 「もし可能であれば、地図を見せてもらえないだろうか。もしくは、地図や旅支度が揃えられる店を教えてほしい」 「俺の見立てでは、あんたたちは密航者だ」 「……」 「不穏な目的で密かに入国した危険人物。そんな奴らに、地図を見せると思うか?」  幸いこの部屋には三人だけだ。フリックを殺す必要はない。当身で気絶させて、窓から脱出する。どんな時でも、汚れ仕事をすることに躊躇いはない。騎士は腹に力を込めて隙を窺う。その時ラヴィソンがおもむろに口を開いた。 「私は、この国の王に会いに来た」 「!?お待ちください!」 「我が国の国王の親書を預かっている。正規の行程でこちらへ入国することはできぬ事情があり、このような醜態をさらす結果になった」 「……では、君らは自分たちの国の王族に連なる人間と言うことか?」 「さようである」  騎士は戸惑っていた。このフリックという男が敵ではないという保証はどこにもない。さらに言えば、この国の人間が善人であるかどうかなどわからないのだ。確かにこの家の家族らは非常に親切だった。しかし、相手が身分の高い人間であると知った時に、それを利用しようと思わないとは限らない。しかしラヴィソンはほどほどではあるものの、自分がここにいる経緯を語る。 「隣国より、舟で渡って参った。が、予期せぬ事態が起こり、この家の者に親切を受け生きながらえている。もちろん、できる限り褒美はとらせるが、あいにく旅路の途中ゆえ、正式に褒章などを与えることは難しい」 「うーん。俺が聞きたいのはそういうことではないんだが……とりあえず、君、名前は?」 「無礼者!このお方にそのような口を聞くなど許されることではないぞ!」 「よい。……しかし、名を名乗ることは出来ぬ。私には呪いがかかっている」  騎士はぎょっとした。親書に呪いがかかっているのは知っている。ラヴィソン以外の者の手に触れれば黒と緑の炎を上げながら、触れた者の腕もろとも燃え上がる呪いだ。しかしまさか、ラヴィソン自身に呪いがかけられているとは思いもせず、自国の王のやり方に強い憤りを感じた。ラヴィソンが誰かの手に落ちて、彼が自分に連なるものであると知られないようにと手を打ったのだろう。その呪いは、ちゃんと解けるのだろうか。  フリックは心底気の毒そうな顔をして、何度か深く頷いた。 「では、質問を変えよう。目的は何だ?あんたらの国ではどうか知らないけれど、ここでは国王陛下に謁見するのは簡単ではない。ましてや身元不明の異国民であれば、なおさらだ」 「アンソレイエ陛下に、親書を渡すことである」 「俺が預かり、然るべき人間に託すことはできるか?」 「親書とは、そのような扱いをすべきものではない」 「君ごと、君をくっつけて渡さなけりゃいけないということか」 「…………さようである」  騎士はもうほんの少しでフリックに殴り掛かるところだった。ラヴィソンをまるで親書の付属品のように言った。それはすなわち、真実でもあった。だからこそ、本人を前にそんなことを口にしたことが許せなかった。怒りに身体が震えたけれど、ラヴィソンが話をしている相手を叩きのめすのははばかられる。じっと、必死にその激情をやり過ごした。  フリックはのんきにも見える様子で、どうしようかなぁと呟いた。そしてポンと自分の膝を叩く。 「いずれにせよ、君とその大きな護衛さんを野放しにはできない。見逃すこともだ。通常であれば俺は上官に報告して君らを国外へ退去させる必要がある。しかし、どうやら扱いは難しそうだ」 「……私の話に偽りがないと考えているのか」  身元不明の異国民。なのに、その話に疑問を挟まないつもりなのだろうかとラヴィソンは不思議に思った。その場しのぎの言い逃れかもしれないのに。フリックはきょとんとしてラヴィソンを見返す。そりゃそうだよ、と簡単に。 「なぜか」 「なぜかって……俺も素人じゃないんでね。嘘つかれるとわかるんだよ」 「ほう」 「護衛さんは君を守ることにすべてを賭している。そんな人間を前にして嘘をつくような男は、そこまで大切にされないものだ」  ラヴィソンはフリックの言葉がよくわからなかったけれど、偽りを述べていないと信用されていることに安堵した。騎士はまだ、フリックの無礼さが受け入れがたいと感じていた。 「夜も遅い。護衛さんはひどい怪我だ。今日はここでお暇するよ。明日の朝また来る」 「……」 「この家の人は、この辺りでも指折りのいい人たちだ。彼らに迷惑のかかるようなことはしないで欲しい」  フリックは遠回しに、逃げればどうなるか覚悟しろと脅しているようだ。騎士にとってそれは何の効力もなかったけれど、ラヴィソンはその言葉を真摯に受け止めてしまったらしい。こくりと頷き、約束しよう、との言葉を渡した。 「ところで、この国の通貨は公用通貨でよいのだろうか」 「この辺ではあまり出回ってないけど、使えなくはない」 「さようか。手持ちは公用通貨のみである。彼らに謝礼として渡せるのはそれだけであるので」 「わーお、ちょっと待って?お金はきっと受け取らないよ」 「先ほども述べたとおり、正式な褒章は難しい。他国であるので、土地や位も」 「そうじゃない。えーーっとね……護衛さん、わかるよな?」  フリックは呆れたように眉尻を下げて、騎士の方を見る。フリックに同意するのは癪だったけれど、騎士はラヴィソンに対して頭を下げ、この度のことで褒美を出す必要はないだろうということを伝えた。 「他国の民とはいえ、私への善い行いに何もしないということはできぬ」 「は……恐れながら、彼らは我々の立場を知っていて親切にしたのではございません。平民はよく、自分たちの出来る範囲であれば深く考えずに困っている人を助けます。我々をこの家に泊めてくれたことは、大きな功績として讃えられるものではなく、ささやかな日常の優しさであると存じます」 「……よくわからぬ」 「ただ一言、感謝をお伝えになればよろしいかと存じます。お立場を明かさずとも、そのお言葉だけで十分でありましょう」 「彼らが気の毒である」  ラヴィソンには見ず知らずで上下の別もわからない人間関係が理解できなかった。ましてやその恩にただ一言で片をつけるなど大変な不義理に思える。平民と住む世界を画する王族は、彼らの働きを労う立場であり、平民はそれを求めて働くのだと考えているからだ。騎士はラヴィソンの何一つも否定せず、今回は平民の気楽な話であるからと頭を下げ続けた。  ラヴィソンは釈然としなかったけれど、平民には平民なりのやり方があるのだろうと考えて、では礼を述べることとするので通訳をせよとフリックに言った。フリックは快諾し、ドアを開け放って居間へ出ると、夫婦と兄弟を呼ぶ。ラヴィソンは立ち上がって戸口のところまで進み、自分を見つめる者たちを等しく眺めてから口を開いた。 「この度の働きには、大変感謝している」  フリックはそれを家族に伝え、家族は楽しそうに笑っている。騎士はラヴィソンの後ろに控えながら、フリックはラヴィソンの言葉そのままを伝えてはいなさそうだと考えた。彼らはそのまましばし談笑し、どうやらフリックたち親子は別れを告げているようだ。 「じゃあ、お二人さん。明日の朝もう一度ここへ来るから」 「……」 「この家の人たちもね、遠慮せず怪我が治るまで居てかまわないと言っている」  そう言うフリックの隣で、この家の母親が大笑いしながら何かまくし立てている。フリックも母親の話を聞いて笑っている。 「大怪我してるのに薪を割らせてるから、もう嫌になっちゃったかもしれないけどねって」 「いや、そんなことはない!親切はありがたいし、怪我など大したことではないから、お手伝いは問題ない。何か出来ることがあるほうが気が楽だ」 「じゃあ明日も薪割りしてねって」 「ああ、承知した。そのくらいいくらでもする」 「じゃあ、明日も居るってことで。おやすみー」  はめられたっ。騎士が何か反論する前に、フリックは自分の母親を促して帰ってしまった。失態だ。別に約束をしたわけではないけれど、夜陰に紛れて姿を消すのに心残りを一つ自分で作ってしまった。 「……休む」 「は」  騎士は部屋の中へきびすを返したラヴィソンに頭を下げて控え、その後家族らに身振りでもう休むと伝える。彼らは口々に何か言っている。扉を閉めれば、二つある寝台のうちの一つにラヴィソンが腰掛けている。騎士はその足元に跪き、許しを得てからその靴を脱がせた。 「……彼らに黙って出て行くことは、すべきではないと考える」 「……」 「世話になっているし、褒美もやれないのであればせめて礼儀を欠くのは避けたい」 「……危険、かもしれません」 「……で、あるな。よい。寝静まれば、出て行く」  ラヴィソンの願いを叶えたい。ほんの些細なことでも、可能であるならば。騎士はラヴィソンを促して横にならせると、その足を揉んだ。精油はもう手元にはないので手のひらで撫でるだけ、ほんの少し指圧するだけのことしかできないけれど、こころを込めて貴い人の足を労わる。情けなくも石つぶての投擲を頭に受け、気を失うなどという失態を犯した。そんなことがあったのに、無事でいてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいだった。騎士にとって、ラヴィソンは本当に大切ない人なのだから。 「……事情を、話してみてはいかがでしょうか」 「事情。どこまで」  ラヴィソンは騎士の意識が戻ったという安心感と、足を揉まれて血の巡りが良くなったのとで睡魔に襲われつつあった。声が少し掠れる。騎士はそれを耳にして、足を揉むのをやめてそっと上掛けを直し、ランタンの火を小さくした。ドアの向こうも静かになっている。 「先を急ぐ旅であるから、長逗留はできないと……身分も素性も明かせないから、未明に出立したいがどうかそっとしておいて欲しいと」  言いながら騎士は、そんな矛盾があるだろうかと考えた。できるだけ周囲とは距離を取るべきだ。馴染みになればなるほど、彼らに塁の及ぶ危険が高まる。善良すぎるほどのあの家族は、きっと襲われれば一溜まりもないだろう。そうなれば、フリックを始め、この村全体が悲しみと憎しみに染まる。恨まれるのが怖いのではない。無用な諍いも殺戮も、誰も望みはしないのだ。 「……それを彼らに伝えるには、やはり先ほどの男に頼む他はない」 「は」 「この未明に密かにここを離れることはせず、明日の朝あの男と話をする」 「は」 「……怪我は、傷は痛むのか」  騎士は驚いた。自分の不甲斐なさで負った傷を、ラヴィソンに気遣われてしまうなど恐縮のあまりに目眩を起こしそうだ。ただひたすら頭を下げ、床を見つめながら低い声で否と答える。 「恐れ多いおこころ遣いに、お詫びのしようもございません。どこも、たいした傷ではありませんので、問題なく」 「しかし、あの医師の言葉においては大変な負傷であると」 「慣れておりますので、骨が砕けようと血が出ようと、この旅に、殿下にお仕えさせていただくのに、わずかな支障もございません」  ラヴィソンは薄闇の中で綺麗な天井を見上げたまま、血が出たり骨が砕けることに慣れてしまったのは自分のせいなのだろうかと考えた。何か労いの言葉を、あの家族よりも先にこの護衛に与えるべきな気がして、だけど、思いつかなくて何も言えなかった。  そんなラヴィソンに、騎士は静かにもうおやすみくださいと囁く。ラヴィソンは、まだこの旅は続くので、追々与えればよいだろうとして、目を閉じて眠りについた。

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