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第19話
水軍からの使者は、ラヴィソンたちが昼食のさなかにやってきた。礼儀知らずだなと騎士は思ったけれど、昼食も食べられないようなら気の毒な連中なのかもしれないと思い直す。
現れたのはすらりとした男だった。卒なく軍服を着こなしていて、そうでなければ商人か何かだと思ってしまうような優男だ。そのせいか、彼が従えているのは騎士と同等の巨躯を持つ二人だった。密航者二人を取り調べるのに、この面子が十分であるかどうかはわからない。
「お前たちか」
ラヴィソンはその者の方を向くこともなければ返事もしなかった。黙々と、小さな口に匙を運んで食事を進めている。騎士は立ち上がり、ラヴィソンを背に庇うようにして水軍と対峙した。彼らの間を取り持つように、フリックが腰の後で手を組んで立つ。
「私は水軍の……えーっと……あ、そうそう。総大将だ」
「……」
「すまんな。まだこの立場に慣れぬもので。で、お前たちが数日前、舟で河を渡って密入国した者で相違ないか」
「……ああ」
「この、警察隊のフリックから話は聞いているか?」
「ここで今から取調べを受け、御眼鏡に適えば国王陛下のおわすところへ連れて行っていただけると」
「罪人として、だが?」
「我々は地図も馬もない。実情はどうあれ、王宮近くまで運んでいただけるのはありがたい」
「その過程が過酷であっても?」
「もとより覚悟の上の旅である。使命を果たすのに、手段を選んでいる余裕はない」
騎士の背後でラヴィソンはそう言った。騎士は振り向いて椅子を引き、立ち上がる彼の後ろに控える。ラヴィソンは水軍の総大将だという男を睥睨し、それっきり何も言わない。総大将は目の前に立つひどく美しい男を驚きの眼差しで観察した。
「……名乗ることも拒んでいるらしいな」
「拒んでいるのではない。私自身に呪いがかけられているので、できないと申した」
「それを拒絶と、普通は受け取るものだ」
「普通というものの概念を述べよ」
「貴様、口を慎め!」
総大将という男は、ラヴィソンに対して威圧しない代わりに敬意の欠片も持たずに接する。騎士がその様子に我慢の限界を感じたのと同じように、謙り頭を下げることのないラヴィソンに対して、総大将の後ろに控える部下がたまりかねるように鋭い言葉を投げつけた。
騎士の手には食事で使った匙が握られている。この程度でも武器に変えることは容易い。それに気づかない水軍側でもないらしく、朴訥とした食事時の風景は、殺気に塗りこめられていく。熱を帯びるのは、たいていが従う人間のほうだ。自身の主、あるいは上司の面子にかけて、無礼を働く者を看過できない。そして、従える方は真っ当であればそれを窘める立場にある。総大将は振り返りもせずに、自分の後ろの部下に声をかけた。
「いい。情報では、この子供はかの国の国王に連なる者らしい。まあ、容赦はしないが」
「私は子供ではない」
「そうか?いくつになる?」
「成人している」
「この国の成人は十五歳だ。だけど十五を過ぎていても子供は子供だ」
「私は十五歳ではない」
「歳を答えることも出来ないのか。呪いなんてものはこの国では行われないが、厄介だな」
「我が国においても、呪いは厄介なものである」
「とりあえず、身体検査だ。危険物の所持等がないかどうかを確認する」
「危険物とは何か」
「色々あるが、こちらが判断する。おい、部屋を一つ貸してくれ」
総大将はひどく心配そうな顔をしているこの家の夫婦にそう声をかけて、ああそうだ、と呟いてからこの国の言葉でもう一度同じ事を伝えたらしい。夫婦はラヴィソンと騎士が寝起きしている個室を指差して何事か言った。それを受けて部下二人がその部屋に入り、物音からして荷物を検められているらしいと知る。騎士はラヴィソンの背後から人を殺しそうな視線で総大将を睨み続けている。総大将はといえば、そんな視線は受け流して、ラヴィソンへの質問を続ける。
「親書を携えていると聞いているが」
「さようである」
「しかも我が国王陛下宛だとか」
「さようである」
「確かにこの国の国王陛下は大変な働き者だが、通常、そう言ったものは宰相方が受け取られる」
「親書はアンソレイエ国王陛下にしか渡さぬ。それが叶うまでは幾日でも待つ」
「目的は何だ。外交上の、例えば同盟や協定に関する話であればもう少し違うやり方があったはずだ。なぜこんなコソコソと?」
「私の目的は、親書を渡すことである。親書の内容は私の与り知らぬことである」
「何者であるか、聞く必要があるのだが」
「その質問には答えぬ」
「……その美貌と、黒い髪と黒い瞳。いつか、そんな肖像画を見た覚えがある。もしそうであるなら」
「控えよ」
ラヴィソンは毅然と言い放ち、総大将は一瞬口を噤んだ。水軍の頂点に立つ男が、あろうことか怯んだのだ。何にかはわからない。しかし、僅かとはいえラヴィソンに屈した。そうした自分に、総大将自身が驚いた。荷物の検分を終えて自分の傍に戻ってきた部下たちに、見られなくてよかったと思った。
気を取り直し、総大将はラヴィソンに部屋へ入れと告げる。騎士は即座に共にいると主張したけれど、聞き入れられはしなかった。
「話は個別にする。当たり前だろう」
「……」
「心配しなくても危害を加えたりはしない。"バルバのやり方"は紳士的だ」
触るなと言われてもそれは応じかねるがな。総大将はそう言うと部屋へ入っていった。ラヴィソンは騎士を振り返ることなく問題ないと呟いて、その後に続いた。
閉じられた扉に縋りつくように駆け寄った騎士は、自分の両手のひらを叩きつける。見張役の部下が扉から引き剥がそうと肩に手を掛けたけれど、おとなしくしているからこのままでいさせてくれと騎士は懇願し、彼は躊躇いつつも好きにしろと放してくれた。
その人に触るな。見るな。傷つけるな。怖がらせるな。
騎士は両手を押し付けた扉に額もつけて、どうか、どうか、と念じるしか出来なかった。自分はなんと無力なのか。そう呪う暇さえ惜しいほど、ただひたすらラヴィソンのことを案じる。話し声は小さく、また、恐らく扉の前に大きな部下が立ち塞がっているからだろう、何を話しているのかを察するのは難しい。終わらないのではないかと思われたその苦しみの時間は、手のひらに感じた扉を開ける気配でようやく去った。
騎士はほんの僅かな隙間のできた扉を力づくで開け、案の定戸口を塞ぐ水軍の男を突き飛ばして部屋に足を踏み入れる。そこには下着さえ身につけていない全裸のラヴィソンが立っていた。
「外道が!」
そう叫ぶよりも早く、怒りに目の前が赤くなる。そしてそれよりも更に早く身体が動き、寝台の上掛けを引き剥がすと同時にラヴィソンをくるみ、自分の腕の中に抱え込んだ。ラヴィソンは騎士のするがままになっている。
頭からすっぽりと掛け布に覆われて、ラヴィソンはようやく震えるように息を吐いて目を閉じた。
取り調べは非道ではなかった。総大将だと名乗る男はラヴィソンのおおよその正体を承知しているらしいし、部下もそれほど粗野ではない。しかし、命令に否も応もなしに従わされ、敬意はなく、向けられるのは疑いと批難に満ちた視線。配慮はされず、遠慮のない距離で服をすべて脱げと言われ、ラヴィソンはまだまだ不慣れな所作で騎士の着せてくれた服を脱いだ。肌を見られること自体はどうでもよかった。しかし、ラヴィソンにとっては乱暴と思える力加減で腕を掴まれたりあちこちを弄られることは耐え難いほどの恐怖と屈辱だった。
こんなことは何でもない。そう自分に言い聞かせ、ラヴィソンは耐えた。旅の間、何度もあったことだ。受け入れがたいほどの恥辱や苦痛に、だけどきっともっとひどい未来が待っているのだからとどうにか乗り越えてきた。そんなときにはいつもそばに護衛の巨躯が控えていて、慰めの言葉もなかったけれど、ただじっと傍にいてくれた。
騎士の腕の中で、ラヴィソンは自分への拷問のような取り調べが終わったのだと実感することができた。もう一人ではないのだと。
そして、問題ないから騒がなくていいと言おうと思ったけれど、できなかった。少しの間だけ、まだ護られていたかった。目を閉じても何の心配もしなくていい、誰の目にも晒されない、この瞬間だけ、息ができるような気がする。頭からすっぽりと布に覆われて、その布ごと匿われて安心する。
騎士はといえば、腕の中にいるラヴィソンが震えているように思えて、こんな目にあわせた水軍の人間を殺してしまおうかと考えていた。大切なラヴィソンに、もう危険はないので安心していいと言えるように、彼に危害を加えたものは掃討するべきだ。殺気は簡単に伝わる。総大将は飄々としたものだけれど、その部下は騎士と同じように目をぎらつかせて腰の獲物に手をやっている。不利ではあるが、勝てなくはない。開け放したままの背後の扉から、誰かが覗いている気配がする。フリックか、親切な母親かもしれない。彼らを巻き込みたくないけれど。
張り詰めた空気は、総大将の一喝で色を変えられた。
「双方引け!」
屈強な男の殺意をかき消すための、十分な声量と威圧を持って総大将が叫ぶ。そして元通りの落ち着いた口調に戻して騎士に話しかけてきた。
「いかなる理由があるにせよ、お前たちは密航という犯罪を犯した。我々にとって許しがたい」
「……」
「お前が従うその人に、我々が不愉快な思いをさせたとて、それは甘んじて受けるべきことだ」
「……」
「お前のその憤りは、我々も理解できる。|大切な国《護るべきもの》を、脅かされたのだから」
「……」
「引け」
騎士はすべての感情を切り捨ててラヴィソンを抱えあげると、部屋の隅の方へ移動し、寝台の端っこにそっと座らせた。跪いて失礼します、と囁くように声を掛けて下半身から衣服を身につけさせていく。怪我や痛む場所のないことを何度も確認し、掛けたままだった布を優しく取って上着を着せる。ラヴィソンはようやく、震える声で問題ないと答えることが出来た。騎士は自分の手元だけを見つめたまま、不甲斐ないことで申し訳のないことでございますと何度も謝る。そうやってラヴィソンの身づくろいをして、最後に自分の太ももの上にその素足を乗せた。ひどく冷えているのは緊張と恐怖からかもしれない。騎士は自分が情けなくて、ラヴィソンに申し訳なくて、白い足を手のひらで擦ったり握りこんだりして温めてから靴を履かせた。
その様子を水軍の連中は咎めることなく放っておいてくれた。総大将の目にはラヴィソンの背中がひどく頼りなくて哀れなものに思えた。
「親書は、無事である」
「……ご立派で、ございます」
騎士は切なさに涙が滲みそうになった。なぜ彼ばかりこんな目に遭わなければいけないのか。なぜ自分は彼を守って差し上げられないのか。しかしそんな懊悩は、何の役にも立たない。
「あたたかいものを、用意してもらいます」
「……うむ。そう、所望する」
「ご無礼をお許しください」
騎士はそう言うと、ラヴィソンの肩に織物を掛けて包み、そのまま抱き上げて部屋を出た。心配そうなフリックに通訳を頼んで、それを聞いた母親が大慌てで何か用意してくれている。騎士はラヴィソンを食卓に備え付けの椅子に座らせると、足元に跪いてきっちりと織物を巻き付けなおし、深々と頭を下げた。
「私も、彼らの取調べを受けねばなりません。お傍を離れることをお許しいただけませんでしょうか」
「……うむ。扉は、閉めるのか」
「いいえ。開けたままにしておきます。殿下のお声はどれほどお小さくとも聞こえます。何者かが殿下に触れる前に、私はここへ参ります」
「そうか」
では、よい。
ラヴィソンはどうにかそう答えると、自分を守るように巻かれたあたたかい織物の端をぎゅうと握り締めた。母親が何事かを言いながら飲み物を差し出してくれたので、騎士はお礼を言って受け取り、ラヴィソンの手に握らせる。それからおもむろに騎士は立ち上がり、フリックと見張りを睨めつけ、母親にどうかしばらくラヴィソンのそばにいて欲しいと頭を下げてから、ラヴィソンの座っている椅子を部屋の扉の真正面に移動させた。ラヴィソンが見たいと思った時に騎士の様子が見られるようにだ。
「すぐに済むと存じます。しばらく、失礼をいたします」
「うむ」
ラヴィソンはまだ動揺が収まらずにいたけれど、いつまでも駄々をこねて騎士を引き止めていては話が進まないことは理解しているので、許す、と答えた。
騎士は部屋へ入ると同時に、躊躇いなく着ているものを脱ぎ捨てて、好きに調べろと部下に叩きつけた。総大将は面白そうにその様子を見て、随分な大怪我だなと言った。
自分のされたことを思い出して恐怖が蘇るので、ラヴィソンは部屋の中を見ていたいわけではなかった。だけど騎士が自分の目の届くところからいなくなることも怖かった。ラヴィソンはただひたすら俯き、両手で握った取っ手のついた杯の中身を見つめていた。母親はそんなラヴィソンの肩を優しく撫でている。
「この国の人間は、怪我をしないのか。この程度で騒ぎすぎるのではないか」
「怪我に驚いているのではない。そんな怪我をするような道程を訝しんでいるだけだ」
「隣国は治安が悪いようだ」
「ふむ。まあ、そういう話も聞こえてはいるが、お前のように腕に覚えのある者がそこまで負傷するだろうか?町のケチな盗人相手に」
「さっさと調べろ。我々の目的はこの国の国王陛下に親書を渡すこと。陛下のおられる首都まで、連行してくれるのかくれないのかを決めてくれ」
総大将とやりとりをしている間に、部下は騎士の服を検分し終えたらしい。興味をなくしたように床に放り投げ、さっさとしろと言う騎士を苛立たせるほどのんびりと、騎士の身体を調べた。
当然のように尻の穴まで覗かれ、わざわざ跪かされて口を大きく開けさせられて喉の奥まで見られる。屈辱は怒りに変わる。我が主に、あの貴い美しい人にこんな無体を働いたのかと思えば殺しても飽き足らない。
部下の執拗なまでの甚振りを意に介さず、総大将は腕組みをして憤怒に震える騎士を尋問する。
「親書親書と言うが、一体何が書いてるのだ。国王陛下への直接の陳情は常識では考えられない」
「知らない。俺は我が主に随行し、護衛をするためだけの人間だ」
「懐刀ってことか?身分の高い者に幼い頃から専任の護衛がつくことは良くある話だ」
「この度の旅程における護衛が任務であり、後にも先にも、我が主に直接仕えたことはない」
「……旅は、幾日ほど続いている?」
「そんなことで、何がわかる?」
騎士はそう言いながらも、自国の城を出たあの日から何日経ったのかを数えた。なんだか遠い昔のことのようで、あっという間の旅程だったような気もする。任務を遂行することはすなわち、迅速にラヴィソンを死の淵へ追いやることに等しくて、逃れようのない終末を思えばこの旅の意義を見失いそうになる。
「この旅にあるだけで、その忠誠心は見上げたものだな」
総大将はこころの底から感心した。産まれてからずっと綺麗な場所でしか暮らしてこなかっただろう子供のような主は、服を脱ぐことも下手くそで、少し身体を触られただけで死ぬんじゃないかと思うほど真っ青な顔をしていた。唇を噛み締めて一言も発さず気丈に振舞ってはいたけれど、きっと恐ろしかったのだろうと思う。そんな彼は旅にも慣れていないだろうし、無理も利かないと想像できる。人目を避けて国境を越える旅が簡単なはずもない。こんなに手のかかる者に従い、守り、任務の域を超えて自身の全てを捧げるというのは並大抵ではないだろう。長く仕える者であったとしても、あんな風に脚を温めてやるものだろうか?
不思議な二人だなと、総大将は思った。
「服を着ろ。荷物の中にあった短剣は没収だ。その他は危険はないと判断するから所持していてかまわない。罪人として首都に連行する」
総大将がそう言うと、騎士はいつまでも自分の身体を小突き回す水軍の軍人を突き飛ばし、床に落ちた服を手早く身につけた。まだ上着の裾が乱れているような状態で、大股で三歩、一気にラヴィソンの前へ戻って跪くと頭を下げた。
「殿下」
「うむ」
「アンソレイエ国王陛下のお住まいの近くまで移動できるようです。恐らくは早々に。何かここですべきことや、移動に必要なものはございますか」
「……ここの家のものに、改めて礼を。それから、時間があるのであれば、約束を果たすように」
「は」
ラヴィソンが落ち着いたようで、騎士は安堵した。総大将は一度戻ってから迎えに来るので、見張りをしていろとフリックに命じている。そしてなんだか気安い様子でこの家の夫婦と兄弟に何かを言っている。騎士にとってそんなことはどうでもよく、ただひたすらさっさと去って欲しいと彼らを睨みつけていた。当然ラヴィソンは騎士の身体で水軍連中からは隠されている。
総大将は機嫌よさげに、部下たちは不機嫌を露わに出ていった。扉が閉まり、彼らの去る足音が聞こえなくなってから、フリックは大きく息を吐いた。
「は……緊張した。とにかく、首都へ行けることになってよかったな」
「……ああ。それは、確かに幸運だ」
「気分のいいことではなかっただろうが、どうか堪えて欲しい。軍は国防にすべてを賭けている。彼らも必死なんだ」
「わかっているつもりだ」
それからフリックを通じて、急ではあるけれどここを発つことになったと家族に伝えてもらう。ラヴィソンは立ち上がって、礼を述べ、彼らは寂しそうに眉根を寄せている。
「名前も聞いていなかったから、教えてくれないかって」
「世話になっておいてすまぬが、それはできぬ」
「色々と、大変なんだねって」
「……いいや」
親しくした人に名乗る自由も奪われて、ラヴィソンは先を急ぐ。騎士はぐっと奥歯を噛みしめて、未知の移動のことを考えた。馬車に乗せられるのだろうか?御傍にはいられるだろうか?別々に輸送すると言われたらどうしようか?首都までどのくらいかかるのだろうか?揺れないだろうか?寒さは?食事は?
不安や疑問はたくさん湧いてくるけれど、今すべきはそれらを思案することではない。
「フリック」
「なんだい」
「お礼にはならないけれど、薪割りをさせてもらうよと伝えてくれないか」
「え?ああ、そう?出立の準備は?」
「食事は頂いたし、荷物は少ない。それに夕べ、約束したから」
騎士の言葉をフリックが家族らに伝えると、母親は少し涙ぐんでそんなことはしなくてもいいのにと笑っていた。しかし騎士の申し出を快く受け入れてくれて、じゃあお願いねと言う。
「私は、豆を剥くことができるが、致そうか」
ラヴィソンがおもむろにそう言うと、母親は彼をぎゅうっと抱きしめて少し泣いた。自分の子と変わらない年頃のラヴィソンの先行きを案じてくれたのだろう。不憫に思ったのかもしれない。
「今日は豆料理は作らないんだってさ」
「さようか」
「新しく作ったお菓子があるから、味見を頼めないかって」
「よかろう」
そして昨日と同じように、騎士は裏庭で薪を割り、ラヴィソンは騎士から見える位置でお茶を用意された。するとそこへ、父親が寄ってきた。手には大きな布とよく光る鋏がある。
「ここの親父さんは床屋なんだよ。君らの髪を整えてあげると言っている」
「さようか。許す」
「まあ、名もなきお坊ちゃんはともかく、護衛さんはひどい頭だもんなぁ」
「俺はいい」
「国王陛下にその頭で謁見なんて、かっこ悪いよ」
何よりも、従えている名もなきお坊っちゃんの体裁が悪いだろう。そんな風に言われては、騎士に反論の余地はない。父親の握る鋏が気にならないといえば嘘になるけれど、今ここにいる一家とフリックは敵ではないと自分に言い聞かせて無理やり警戒をほどく。ラヴィソンは落ち着いたもので、大きな布で首から下を覆われながら、あまり短いのは好まぬので、ほどほどにするがよいと父親に注文をつけている。通訳を受けて父親はラヴィソンの髪に触れ、頭を撫でて、かっこよくしてあげるよと笑っている。騎士はその様子を目の端に捉えながら、薪割りに精を出す。
ラヴィソンは、こんな庭先で風に吹かれながら髪を切るとは、平民とは存外風雅なものだと考えていた。鋏が自分の髪を切り落とす音を心地よく思い、高く晴れ渡る空を見上げればじっとしていなさいとでも言いたげに父親の手がそっとラヴィソンの頭を正面の位置に戻す。小気味よく響くのは薪を正確に叩き割る音だ。ハラリハラリと黒い髪が落ちていく。ラヴィソンは頭を動かさないように用心しながら、味見をするように言われている菓子をそっと口に入れた。
「ふむ。もう少し甘くてもよいが、大変結構である」
暇でもないだろうに、フリックは見張りとは思えない配慮とともに通訳に徹してくれていて、ラヴィソンのその言葉を台所仕事をしている母親にまで伝えに行っている。ラヴィソンが食べたことのない味の焼き菓子をモクモクと咀嚼して味わっていると、父親が茶杯を指差す。お茶も飲めということなのだろう。ふむふむ言いながら、ラヴィソンはお茶とお菓子を楽しんで、時々勢いよく飛び跳ねる薪に驚かされ、そうしていたら先ほどまでの恐ろしい緊張がほぐれていった。誰もラヴィソンを慰めようと構ったりはしないけれど、それぞれのさりげない気遣いがこころに染みるような思いだった。
「ああ、いいね。サッパリスッキリだね」
「鏡を」
「はいはい」
ラヴィソンの髪を整え終えると、大きな布をバサバサさせながら父親がラヴィソンの頭を撫でて髪を落としてくれた。側で眺めていたフリックは、自分が指図したのでもないだろうにいい出来だと笑っている。フリックと父親が鏡を持ってくれて、ラヴィソンは首を捻ったりしながら自分の様子を確認する。普段気になっていた襟足の跳ね返りが綺麗に収められていて、ラヴィソンは大層気分がよくなった。
「よい出来である」
「はい、じゃあ次は護衛さんだな。……薪はもう、そんなに要らないんじゃないか?」
熱心に勤しんだおかげで、しばらくくべるのに困ることはないだろうと思える程度の薪が出来ていた。騎士はフリックの言葉に頷き、汗を拭いて、よいしょとその場に腰を降ろした。椅子に座ると父親の背では切り難かろうと思ったからだ。ラヴィソンに横顔を見せるような方向で座った騎士は、なんだか小ぶりの岩のようだった。父親は少し苦労して騎士に布を巻きつけて、刈り取られて無残な状態の騎士の髪の毛を指で摘んだり櫛で梳いたりして見せる。
「なんでこんな風になったのかって」
「え?ああ……邪魔だから、そう、切ってもらったら、思いのほか根元から。うん」
「名もなきお坊っちゃんに?」
「まさか!」
「だろうね」
短い髪を伸ばすことは出来ないので、長い部分を切ることで整えるしかない。長いとは言っても長くはない。父親はそれでも見事な手さばきで鋏を操り、サクサクと綺麗な音をさせて騎士の不恰好な頭は様変わりしていく。
ラヴィソンはその様子を、見るともなく眺めていた。自分の護衛についている者の髪など興味はなかったけれど、これ以上短くされるのは何だか困る気がしたのだ。だから、もしもすっかり坊主にでもされそうであれば、一言言おうと考えていた。それは杞憂に終わったらしく、父親は上手い塩梅にやってくれたようだ。騎士本人はあまり気にしていなかったようだけれど、ラヴィソンとしては無理やり奪われたような有様だったのが、非常に短いなりにまともな状態に戻ったのが嬉しかった。
「結構である」
父親が騎士から布を外してバサバサしているとき、ラヴィソンはそのように言った。騎士はびっくりして、ラヴィソンのすぐ傍まで這うようにして移動し、膝をついて頭を下げた。
「自分の身なりに思い至らず、殿下にはご不快な思いをさせ申し訳のないことでございました」
「よい。旅において、それは難しいことである」
「は」
旅の何たるかもよく知らないラヴィソンではあったけれど、身なりなど構う余裕がなかったことぐらいはわかる。騎士はラヴィソンのこころづかいがありがたく、不遇な身の上にありながら他人のことを慮れるラヴィソンにまたしても心酔させられる。
「はいはい。薪もできたし格好もついた。ちょうど水軍も来たらしい」
遠くから馬の走ってくる音がする。ラヴィソンと騎士は身の引き締まる思いだった。騎士は立ち上がり、ラヴィソンの椅子を引く。ラヴィソンも優雅な所作で立ち上がると、大きな布を丸めて抱え、心配そうな顔をしている父親に謝辞を述べた。抜かりなくフリックがそれを伝えてくれて、父親はラヴィソンの背をポンポンと優しく叩いた。身体にだけは気をつけるんだよと、フリックを通じて言ってくれる。
騎士は庭に落とされたラヴィソンの髪を、拾おうかと悩んでいた。一束、手許に置きたいような気もする。それでそう許しを請うとしたとき、この家の兄弟二人の突撃を受けて、それは言い出せないままに終わってしまった。
「俺たちが軍人さんに、あんたたちは悪い人じゃないって言っといたから安心しろってさ」
「ふ……心強い限りだ」
「俺もそう伝える。正式にな。何かの判断が下りるとき、わずかでも役に立つかもしれない。さすがに俺は、安心しろとは言えないが」
「ありがとう……本当に、世話になった」
「何かの縁だよ、フォール。あんたの忠義に、みんなこころを打たれたのさ」
兄弟は口々に大丈夫だと繰り返し、だからきっとまた会いに来て欲しいと約束をねだる。騎士は曖昧に頷き、ラヴィソンはその美しい顔になんの表情もないまま、父母を大切にし、兄弟は仲たがいをせず、日々を誠実に生きるようにと諭している。その言葉は騎士の胸の痛みを誘う。フリックも神妙な顔で通訳をした。
そして玄関先で待っていた母親は、ラヴィソンと騎士をかわるがわる抱きしめて、涙を浮かべ、辛いことがあっても、優しいこころを捨ててはダメだと言う。ラヴィソンが頷くと、母親は満面の笑みで彼に包みを持たせた。
「さっき味見してもらったのよりも、少し甘くしておいたからって」
ラヴィソンは自分の手のひらに広がるぬくもりとその言葉に、今まで感じたことのない気分を覚えた。こころがふんわりとあたたまって軽くなるのと同時に、息を吐いたら崩れてしまいそうに気持ちが儚くなる。そして、感情的になってしまいたいという思いと理性が鋭い音を立てて拮抗する。しかしラヴィソンは感情的に振舞うという方法を知らず、理性はいつもこころの支えだ。王子らしく振舞うこと。それを逸脱することは彼にはできないのだ
「この国の言葉で言おう。なんと言う?」
「何が?」
「感謝だ」
フリックは嬉しそうに笑って、ゆっくりと丁寧な発音で「ありがとう」を教えた。ラヴィソンはそれをしっかり覚えると、家族一人ひとりにそれを伝えた。言われた彼らは寂しそうだった。
「参る」
「は」
少ない荷物を担ぎ、騎士は騎士で家族とフリックに御礼を述べて家を出る。そこには総大将が待っていた。
「名もなき罪人とその護衛、密入国の罪で首都へ連行する。元来であればこのような犯罪はこの地の警察組織の管轄だが、何やら訳ありであるようなのでそのような措置となる。首都へ入ったのちは、身柄は首都を護る組織へ移管される。我が国王陛下に謁見できるかどうかは定かではない」
「よい」
「罪人の移送は、手足を拘束し顔を布袋で覆い口元には猿轡。さらに重罪人は様子を晒されながらその道をゆくのが定石だ」
「……よい。好きにせよ」
「いいえ!絶対にそんなことはさせません!おい、そのような扱いは許さんぞ!」
「護衛の許しなど必要ではないし、そもそも罪人の納得など求めていない。事実を述べるのみ。が、しかし、運がいいというのは本当のようだ。本来の移送用の馬車など持ってきていないので、頑丈だけが取り柄の軍用馬車だ。晒そうにも壁も扉も固くて取れん」
総大将はあっけらかんとしてだから普通に乗っていればいいと言った。本当は一人づつだが、一台しかないので一緒に乗れとも。騎士はからかわれたのだと知って激昂し、総大将に掴みかかろうとした。ラヴィソンが止めなければ罪状が二つか三つ増えていただろう。
「よい。先を急ぐので早く出立せよ」
「指揮権はこっちだからな!?」
「私が乗る馬車はどれか」
急ぐのだ。ラヴィソンは独り言のようにそう呟いた。早くしなければ国が危うい。目的の国に入れたけれど、首都へ移動し、国王陛下に謁見して新書を受け取ってもらい、色良い返事をしたためた返書を自国へ運び民草を救う。それにかかる日数を思えば、時間が足りない。何もかもが間に合わなくなるかもしれない。そうなれば全てが徒労に終わる。
騎士に外套を着せられ顔布を巻かれて、促されて向かった先には二十名ほどの厳しい男女が並んでいた。みな、ぶしつけな視線でラヴィソンと騎士を舐めるように観察してくる。騎士は殺気を隠そうともせずに周囲を無言で威嚇し、自分の外套でラヴィソンを匿う。馬車には彼ら二人と、見張りが一人同乗するという。
四人乗りだというそれは本当に頑丈そうで無骨なものだった。同乗者が扉を開けてさっさと乗れと言うと、騎士は無言でそのすぐ傍に蹲った。ラヴィソンはその背を踏んで車内に収まる。軍人たちはその様子を驚愕の表情で見ていたけれど、騎士もラヴィソンも気づかなかった。騎士は車内に座るラヴィソンに近くに寄ることを詫びてから乗り込み、出来る限り壁に身体を押し付けるようにしてラヴィソンとの間に隙間を作る。騎士はそうやって狭い中に一緒にいることへの申し訳なさで四苦八苦していたけれど、ラヴィソンは、半べそをかきながらこちらを見ている兄弟たちを窓から眺めていた。
彼らに何も渡さなかったことは本当によかったのだろうか。彼らに危害を加えないという話は信じていいのだろうか。心配ばかりが胸に溢れていく。
「……」
無意識のうちに、ラヴィソンは覚えたばかりの言葉を口にしていた。届くはずもない。聞いたのは騎士と見張り役の男だけだ。周囲の人間が騎馬し、隊列を組んで走り出す。それに先導されるように馬車は唐突に動き出した。家族らは何かを叫びながら手を振っている。わからない。もう二度と会えないのに、伝わらない。ラヴィソンは窓に両手を押し当てて遠ざかる彼らを見つめるしか出来なかった。何を言ってくれたのだろう。ああもう、姿さえ見えなくなっていく。
「……自分たちがいつも幸運を祈っているから、きっとうまくいくと、言っていた」
見張りの男がそっぽを向いたまま、教えてくれた。騎士は自分の中にわきあがる感情を持て余して俯き、ラヴィソンはその見張りの男に、美しい声で先ほど覚えた言葉を下賜した。
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