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第23話

 ラヴィソンと言い合っていた男とテナシテは立位で敬礼し、他の数人はラヴィソンの腕を掴んで床に引き倒すと、肩を押さえつけた。それを見てさらに暴れた騎士は、もう一人加勢して同じように床に押さえ込まれる。ラヴィソンはあちこちの痛みや屈辱よりも、ようやく会えたアンソレイエ国王の顔さえ見られない体勢に困惑した。振りほどこうにもまったく動くことが出来ない。そんな二人の頭上から、低く落ち着いた声が降ってきた。 「お前たちか、先般より我が軍を煩わせているのは」    ラヴィソンはなんとか顔を上げようともがいたが、頭を掴まれて頬を床に押し付けるような格好にさせられている。何か返事をしなければ、陛下の機嫌を損ねるかもしれない。そう思ったけれど、ラヴィソンにできたことは小さく呻くことだけだった。そしてそれを聞きとがめた軍人から、さらに強く締め上げられる。先ほどの殴打もあって、ラヴィソンは意識を失ってしまいそうだった。 「加減をしてやりなさい。まだ子供ではないのか」  アンソレイエがそう言うと、テナシテの隣に直立していた男が、ラヴィソンの拘束を緩めるようにと指示を出す。それを受けて確かに力は弱まったものの、体勢を変えることはできずアンソレイエの方を見ることもできないままだ。どうすればいいのだ。ラヴィソンの背後では、騎士がその背に二人の男に乗りかかられ、両脇からも別の人間に押さえつけられている。  そんな状況が、妥当だと判断したのか、アンソレイエはこれ以上騒ぐなと話を始めた。 「方々から話は聞いている。ここで会うようにという陳情も、罪人に近寄るなという忠告もある。しかし姿を目にした縁があろう。特別に親書とやら、我が側近に預けることを許そう」  アンソレイエは落ち着いた声でそう述べると、踵を返して部屋を出て行こうとした。テナシテの話では、陛下は首都を離れられる。戻って来られるのはいつなのか。もう間に合わない。絶望で急速に力が抜けていく。だめだ、諦めてはいけない。ラヴィソンは床に押し付けられているせいでうまく動かない口を必死に開こうとした。 「発言を、お許し頂きたく存じます」  凛としたその声はテナシテだった。アンソレイエは見知ったその男に許しを与えた。 「恐れながら。彼らを管理していて得た情報を申し上げたく存じます」 「何か」 「この者が携える親書は、陛下ご自身の手でお受け取りにならねば、意味をなさないとのことでございます」  ラヴィソンと騎士に緊張が走る。テナシテは呪いのことを話すつもりだ。あれはこの国の人間にとっては得体の知れない薄気味悪いものでしかない。そんな話を聞いてはアンソレイエ本人が許しても、周囲の反対がより強固になってしまう。協力を請うてきたつもりだったけれど、やはり国王を前にしては異国人の密入国者など切って捨てる判断なのか。  アンソレイエはテナシテの言葉に興味を持ったようだ。きちんと身体を彼の方に向けて話を聞き始めた。 「ほう」 「何故なら、陛下が触れられるより先に別の者の手に渡りますと」  ラヴィソンと騎士はもうだめだと同時に目を閉じた。しかし耳にしたのは予想とは違う話だった。 「文字が全て消えてしまうとのことでございます」 「……真か」 「試すことは、致しておりません」 「で、あろうな」  耳も床に押さえつけられているせいか、自分の脈動が頭に響く。いや、さっき殴られたところから出血しているのかもしれない。とにかく静かな部屋の中で、ここにいる人間全員に聞こえているのではないかというくらいの大音量で、血が巡っている。  王は黙し、軍人は控えた。ラヴィソンと騎士は、祈った。     「……よかろう。私の手に、その親書を」   「陛下!危険です、何卒お考え直しください!」   「だが、文字が消えてしまうというのだから仕方あるまい」   「恐れながら。そのような奇怪な術をもつ異国の民に、これ以上近づかれるのはおやめください。親書を託された人間が、密入国などするでしょうか?」   「事情があるのだと、シャルルーが申しておったが」   「……陛下の国を護る栄誉を与えられているのは水陸両軍と我が首都警護部隊。しかし、陛下の身辺をお護り申し上げているのは首都警護部隊の中の第一隊、我々でございます。シャルルー将軍閣下におかれましては、」   「シャルルーは確かに物事を面白おかしくしようとするきらいがある。しかしあれも水軍の長。この王を危険に晒すような遊びはすまい」   「もちろん、それは。しかし」   「そなたらの尽力には感謝している。だが危険を感じる物事すべてを遠ざけることは得策ではない。それに」   「は」   「シャルルーと私は乳兄弟。同じような性分を、許せ」      王に許せと言われれば話は終わる。使命感に燃えていた軍人は深く頭を下げて無礼への許しを請い、王は鷹揚にそれを与える。そしてそれに感謝を表してから、部下に指示を出した。  ラヴィソンを捕らえていた数本の腕はようやく外された。相手の気が変わらないうちにと急いで身体を起こそうとしたけれど、諸々の原因で床に両手をついていても大きく左右に揺れる。しっかりしなければという焦りがますます身体を強張らせる。ここが正念場なのだ。しっかりしろと自分に言い聞かせても、ラヴィソンの身体は言うことを聞かなかった。 「どうか、放してくれ、頼む!絶対に暴れたりしない!頼む、今だけだ、頼む!頼む……!」  騎士は必死で叫び、目の前でふらふらしているラヴィソンの背中を食い入るように見つめていた。支えなければいけない。彼がやりたいことを出来るように、裏方のことは何もかも自分が。それが出来なければ一緒にいる意味がないのだから。だから今、支えたいのだ、この腕で。     「放してやるがよい」   「陛下」   「暴れればどうなるかくらい、その者も承知しているだろう。ここにいるのは精鋭ばかりだ」      そう言うと、アンソレイエは堂々とした動きで部屋の一番奥に置かれた大きな椅子に腰を降ろした。テナシテはそれと同時にその傍に跪いて控え、第一隊の男は部下に護衛を放せという指示を出した分だけ遅れてテナシテと対になるような位置に跪く。騎士は解放されるや否や、ギシギシと痛む肩や背中をものともせず、ラヴィソンを後から支えた。もうほとんど倒れてしまいそうだったようだ。ラヴィソンは騎士の腕に、身体を委ねることしかできない。騎士はそっと彼が立ち上がるのを手伝い、緩慢に歩くのに従い、また、最適な位置に跪くのにあわせてゆっくりと動いた。ラヴィソンはどうにか体裁が整ったことを確認すると、震える手で胸元から親書を取り出す。包んでいた母親の形見である布を取り払えば、長く過酷な旅を経たはずなのに、まるでついさっき認められ封緘されたかのような状態だった。     「……ヴィヴィアン国国王、アンソレイエ陛下に、我が国王よりの親書でございます。謹んで、お渡し致します。何卒、お納めください」      ラヴィソンはそう述べて、恐る恐るそれを差し出した。目を伏せ、祈りをこめて。そんなラヴィソンを背後から支えつつ、騎士も同様に深く頭を下げる。アンソレイエはもったいぶるような真似はせず、ラヴィソンと同じくらい苦労を知らない綺麗な手でそれを受け取った。ラヴィソンは親書から指を離した瞬間、なんともいえない喪失感のようなものを覚えた。ようやく渡せたという安堵から来る反動だったのかもしれない。  アンソレイエは慣れた手つきで封をひらき、書面に目を通し始める。そしてすぐに眉間にしわを寄せ、ラヴィソンへ視線を移した。     「ヴィヴァン国の王の名において、名乗ることを許そう」      その言葉を耳にして、ラヴィソンは何か違和感を覚えた。身体の何処かにこびりついていた重い澱がふと溶けて消えたような感覚だった。気を取り直し、大きく息を吸って呼吸を整え、ラヴィソンはゆっくりと正式な名乗り口上を述べる。ようやく隠さず身分を明らかにし、本名を口にすることができた。それは騎士も初めて聞くものだった。その部屋にいたテナシテを始めとする軍人たちは、思いのほか身分が高いことに驚いたようだ。ラヴィソンの国は歴史ある大国なので、その名を知らないものはほとんどいない。更に言えば、職業柄周辺各国の国防にまつわる情報は把握している。ラヴィソンたちの国が戦争中であることも思い当たっただろう。親書の中身をある程度の正確さで想像もしたかもしれない。かすかにざわめく部屋において、ただ一人悠然と座る王は、親書を隅々まで読み、元どおりに畳んで、目の前に膝をついて頭を下げる美し王子を見た。 「ラヴィソン王子。この度は遠路はるばるご苦労なことだった。そなたの国の王の親書は確かにこのアンソレイエが預かった」   「ありがたく存じます」   「事は急を要するとあるが、その判断は難しく情報も少ない」   「おっしゃるとおりであると存じます」   「私は数日首都を離れる。その間、我が王宮に……ああ、政をする場所のことであるが、そこで私以外の者が色々と話を聞くだろう。国の代表として、それに応じるように」   「はい。かしこまりました」   「身体を厭いなさい」   「ありがたいお心遣いに、感謝を申し上げます」      ラヴィソンは深く深く頭を垂れて、こころの底からの感謝を伝える。アンソレイエは立ち上がり、テナシテに自分の留守中の王宮とのやり取りを許可している。そして相変わらず落ち着いた動きで部屋を出て行った。第一隊の連中はそれに続き、テナシテとその部下と四人になったところで、騎士の手にかかる重さがぐっと増した。ラヴィソンが完全に脱力してしまったようだ。一言詫びてから、騎士はラヴィソンの身体全部を腕に抱き、頭の傷を確かめる。出血は多くないけれど、浅い傷ともいえない。耐え難い憎悪が噴出しそうになるけれど、今はそれどころではない。ラヴィソンの意識はあるようだけれど、騎士はしきりにお話にならず、そのままでいて欲しいと懇願する。     「軍医を連れて来い」   「は」      テナシテの指示で部下が去ると、騎士はテナシテの許しを得て部屋の長椅子にラヴィソンを横たえた。目の前で彼が殴られたあの光景が何度も思い返される。背中が寒くなるほどの恐怖だった。大切に大切に、雨の一雫に濡らすことさえないようにと守ってきた人が傷つけられた。騎士は自失に近いほど動揺し、今何をするべきなのかわからなくなり、ラヴィソンの名を呼ぶことしかできない。ひどい怪我だったら、もしものことがあったらと、自分で自分を追い詰めるように混乱していく。  そんな風に長椅子の傍に座り込んでいた騎士が、突然吹っ飛んだ。横っ腹に激烈な痛み。壁まで転がって体勢を立て直そうとするが、それよりも先に頑丈な軍靴の踵が再び騎士を襲う。持ち主はテナシテだ。     「何を……!」   「この、役立たずの馬鹿野郎がっ!」      防御のために目の高さに上げた腕を、容赦のない強さで蹴り飛ばされる。精鋭揃いだと言ったアンソレイエの言葉に嘘はなかったようだ。比較的小柄で細身で、戦闘に縁のなさそうな印象だったテナシテの脚力は、騎士をいとも簡単に倒せる威力だった。もちろん、応戦防戦するので一方的に倒されることはないけれど。  テナシテはその小奇麗な顔を冷たく強張らせて、床と仲良くしている騎士を屑を見るような目で見下ろす。     「そんなに馬鹿だとは思わなかった。本当に軽率な動きで、お前は護るべきを危険に晒した。あの時このガキは殺されていてもおかしくない。よくもまあその程度で護衛面をしていられるね」   「……!」   「まともな訓練を受けていない、ただ大きいだけのでくの坊。いざという時にあれではどうしようもない。失望させられたよ」      騎士には何一つ言い返せなかった。アンソレイエ国王を目の前にして、緊張したのも事実。軍人たちが振りまく不穏な空気に感化され興奮したのも否定できない。自分のせいでラヴィソンに怪我を負わせたのだと思えば、再び傍に寄ることさえ申し訳なく、騎士は壁際で項垂れてしまう。そこへ軍医が入ってきた。     「……患者は一人と聞いていましたが」   「一人だ。寝てる子。このでかいのはほうっておけ」   「はい」      テナシテと同じような服を着ていて、白い腕章が巻かれている。医療要員の証だろうか。神経質そうな顔は腕章と同じくらい白く、黒いふちの眼鏡がやたらと目立つ男だった。彼はラヴィソンを診察しようとしている。触るつもりだ。そのお方に触るなと言いたい衝動と、自分にはそうする資格などないという自虐が拮抗して、騎士は動けずにいた。テナシテはそんな騎士を心底軽蔑した目つきで一瞥する。  そのとき、ラヴィソンの手がゆらりと動いた。きっと多分、意味などない。しかし騎士は呼ばれたと感じた。自分の失態を恥じ入るのは後だ。何もかもを吹っ切って、瞬時に身を起こしラヴィソンの傍へ舞い戻る。     「医師であるとお見受けする。主の一番大きな怪我は頭部だ。そちらを先に診ていただきたい」      白い腕章の男は、通常の段取りに則ってラヴィソンの衣類に手を掛けようとしていたが、それを遮る。ラヴィソンは意識はあるものの痛みと吐き気で目を開けていられず、仰向けに寝ているのも手伝って天井からの照明がまぶしく思っていた。それがふと暗くなる。顔が、肩のあたりまで一緒に布で覆われたような感触がして、無様な様子を平民に見られなくて済むと安心できた。  診察は騎士の主導で滞りなく進み、頭部の打撲は殴る側も手加減を知っているので大事には至らないだろうと診断された。出血している傷口は薬を塗られて清潔な布で押えて包帯を巻かれる。騎士が問えば、ラヴィソンは他に痛むところはないと答えた。それはもちろん本当ではなく、肩の関節はひどく痛んだし、踏みつけられたふくらはぎもおかしな感じに筋張っている。頬もひりつくように痛い。しかしそれ以上に頭が痛いのと、このくらいであれば騎士が後で何とかするだろうと考えた。医師とはいえ、こちら側に好意を持たない連中の一人なのだから、出来る限り接触したくないという思いも強い。騎士はただ一言、承知いたしましたと言い、医師にこの後の養生のことを確認する。     「あまり動かないこと。速やかに出血が止まらないと後々面倒になる。今以上に痛みや吐き気が強くなるようならもう一度診ます」   「ありがとう」      騎士はテナシテを見て、言葉を探す。テナシテは冷ややかな眼差しのまま黙って騎士を見返す。     「……部屋へ、戻ってもいいだろうか。主を休ませたいのだが」   「……妥当だね」   「それから」   「なに」   「助けてくれてありがとう」   「お前のような護衛しかいないことが、この子の不幸だね」      テナシテは吐き捨てるようにそう言うと、軍医と部下に二人を部屋に連行すると告げている。騎士はラヴィソンにかけていた手ぬぐいをそっと外して、痛々しく包帯を巻かれた頭部を包み込むようにして顔を隠し直すと、お身体に触れますことをお許しください、部屋までお連れ申し上げますと囁いている。そうしてラヴィソンを慎重に慎重に横抱きにし、ゆっくりと持ち上げた。騎士は旅の途中でラヴィソンが熱を出したときのことを思い出した。ラヴィソンもまた、その頃のことを思っていた。  テナシテとその部下が先導し、応接間を出ようとした矢先、そこへまたしても人が入ってきた。     「国王陛下よりのご命令で、お迎えに参りました。王宮へ客人を案内します」      騎士はびっくりして、腕の中の大切な人をぎゅっと抱きしめてしまった。客人、とは。あまりの急変に言葉もない。テナシテを見遣れば、ものすごい形相で苛立ちを表している。     「この二人は王宮の客人ではない。僕の責任で管理すべき者だ。寝泊りはこの第三隊の屯所内とする」   「お好きになさるがいいでしょう。とりあえず、私は彼らを王宮へ連れて行きますので悪しからず」   「悪しからずじゃないし!僕の話を聞け!」   「相変わらず、軍人は粗野でお話が通じませんね。そちら、大きい方、抱いているのはお連れですか」   「え?あ、あの、我が主です。しかし怪我をしていて今休もうと」   「そうですか。後にしてください。私の上官が呼んでおりますので、一緒に来てもらいます」   「いや、ですから怪我をしているのです。先ほどその医師も安静にするようにと」   「ええ、ですから後で安静になさればよろしい。参りますよ」      テナシテはとうとう苛立ちを壁と床に脚でもってぶつけた。その衝撃で、天井の隅からパラパラと埃が落ちる。騎士としては医師の言葉がなくとも、血が止まり痛みが軽くなるまではラヴィソンに寝ていて欲しかったので、この強引な何者かの言葉に従いたくはなかったが判断がつかない。騎士の戸惑いを察して、テナシテが地を這うような声で忠告を寄越す。     「そのムカつく男は、王宮の文官だ。僕たち軍人を毛嫌いしている上に、元来融通とか気遣いという概念がない。たとえお前たちが瀕死であっても上官が連れて来いと言ったというその事実以外頓着せず、連れて行くという目的を果たすことしか眼中にない」   「つまり」   「……その子には酷だが、行くしかない。そいつの上官は、そいつ以上に曲者だしな」   「……」      ラヴィソンが騎士の服を弱弱しく引く。騎士がそっと布越しに、それでも近すぎる距離なので顔をそむけるようにしてラヴィソンに耳を寄せ、どうかなさいましたかと問う。     「私は、問題ない。その者に従うがよい」   「……ですが」   「きっと、先ほど陛下がおっしゃられていたことの始まりであろう。誰かが話を聞くから応じるようにと。私に猶予はない」      文官はまだですか、早くしてくださいと、感情のない声で催促をしている。騎士はラヴィソンの意向に沿うことがすべてだ。また、テナシテもそうするほうが得策だというようなことを言っている。行くしかあるまい。  騎士は無言でテナシテに目配せをして、ラヴィソンを抱いたまま文官の後に従う素振りを見せると、彼は呆れたようにさっさとしてくださいと言い、足早に歩き出した。騎士はラヴィソンが揺れないように細心の注意を払いながらその足取りを追う。テナシテはほんの僅かに気の毒そうな表情で彼らを見送った。

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