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第24話
人気のない道を通り、人のいない庭を抜け、きっとこれが王宮なのだろうと誰もが気づくほど大きな建物に入っていく。長い廊下を移動して、ようやく文官は騎士に振り向いた。
「まさか、そのまま?その横着をしているのが王子なのですよね?この部屋の中で、私の上官がわざわざ時間を作って待っているのですが」
「横着だと?」
思わず騎士が色めき立つ。その声には怒気をはらみ、目が鋭くなる。それを見た文官は大仰なため息をつき、だから軍人は嫌いなんですと呟いた。反論しようとした騎士を止めたのは、ラヴィソンの手だ。
「降ろせ」
「……は」
「その者に理がある。私がこの様では陛下のお計らいに申し開きが出来ぬ」
騎士はラヴィソンの脚をそっと床に降ろし、彼がしっかりと立てるかどうかを気遣わしく見守った。ラヴィソンは気が張っているからか思いのほか気丈な振る舞いで、お待たせをしているようなので、すぐに取り次ぐがよいとその文官に言う。
文官はラヴィソンの物言いなど気にもならないらしく、重厚な扉を叩き、中にいる者の許しを請い、おもむろにそれを開いた。
「どうぞ、お入りください」
ラヴィソンは美しい姿勢で颯爽とその部屋へ入る。当然のように後に続こうとした騎士を文官が止めてひと悶着が起こる。中にいた上官が、好きにさせてやれと言い、騎士はどうにかラヴィソンと同じ空間にいることが出来た。
部屋の中にいたのは初老の一見穏健そうな男だった。しかしにこやかな挨拶などは当然なく、几帳面に整えられた大きな机の上で手指を組んで、ラヴィソンをまっすぐに見つめている。
「あなたが、かの国の王子ですか」
「はい」
「我が国王の命令で、あなたと、あなたの国のことを訪ねます。正直に、正確に答えてください」
「はい」
ラヴィソンに、自分の机の前に置かれた椅子に座るよう促すと、初老の男はラヴィソンの国の子供に関することの質問を開始した。騎士はぬかりなくラヴィソンの真後ろに立つ。
出生率、死亡率、男女比率、就学率、就労率、識字率といった数字から、教育機関の運営方法、どの分野に重きを置いているのか、専門的な知識はどのようにして得るのか、出自に関係なく希望する仕事に就くことは可能なのか、保護者の子供に関する義務のこと、孤児となった場合に受けられる国からの保障について等々、話は多岐に渡り求められる答えは詳細で、ラヴィソンは長い時間をそこで過ごすこととなった。騎士にしてみればなぜそんなことを聞かれるのかわからなかったし、質問の内容も理解できない部分があったのだけれど、ラヴィソンは自国のことをよく勉強していたのでたいていのことは答えることが出来た。
「よくわかりました。これで結構です。おやすみなさい」
初老の男がそう言うと、ラヴィソンは立ち上がり、深く頭を下げてから部屋を出た。夜半を過ぎた廊下は照明があるとはいえ闇が勝ち、少し怖いような雰囲気だったけれど、そこにテナシテがいてくれたので、ラヴィソンと騎士は安心感を覚えることが出来た。
「お疲れさん」
「……うむ。そうである……少し、疲れを感じる」
「部屋に戻るよ。明日からは色んな人間が異国の王子様を呼び出すから覚悟しな」
テナシテの声が優しいように思った。穏やかそうでありながら容赦のない初老の男との長時間の面会は緊張した。殴られた傷は痛みはましになっていたけれど、頭の奥が熱くて重くてだるい。身体の節々も動かしにくい。ラヴィソンがほう、とため息を吐くと、騎士は控えめに、お辛いようでしたら私がお運びいたしますと申し出る。
「……許す」
「は。ありがとうございます」
騎士はラヴィソンを抱き上げてもふらつくことがなく、とても慎重に動くので身体が楽だった。騎士の体温と疲れに負けて、ラヴィソンは部屋に戻るまでに眠ってしまった。うとうとしている時、騎士の声が何度も何度も、殿下は本当にご立派でございました、私が至らず申し訳ありませんと繰り返していた。ラヴィソンは問題ないので気にせずともよいと応えていたけれど、それはほとんど夢の中でのことだった。
翌朝のラヴィソンの目覚めは、久しぶりに最悪だった。いつもと同じ時間に運ばれてきた朝食を口にする気にもなれず、寝台に横たわったままぼんやりとしていたら、昨日診察してくれた黒縁眼鏡の医師がテナシテと一緒にやってきて、ラヴィソンの様子を診てくれた。失態の落ち込みから少し立ち直っていた騎士は、やはりラヴィソンの上掛けを最小限しかめくらせず、医師が不必要にラヴィソンに触れないようにと目を光らせていた。
「王子様、朝ごはん食べられないの?」
「……あまり、食欲がない。用意してくれたのにすまぬが」
「でもお昼ごはんにありつけるかわからないし、おなか空くんじゃない?」
「テナシテ、それはどういう意味だろうか」
「僕は今王子様と話してるの。でくの坊はすっこんどけ」
「そういうわけにはいかない。殿下の食事が減らされるということか」
「馬鹿じゃないの、そんなわけあるか」
「では」
「言っただろ、次々に色んな人間と面会させられる。食事時なんて気にしてもらえない。食えるときに食っとけってことだよ」
「あまり無理をする必要はありませんが、食事を摂らない状況で薬を飲んでも効き目が悪いので、出来る限り食べてください」
「しかしラヴィソン殿下におかれてはご気分が優れず」
「……もうよい、わかった」
医師からの進言もあって、ラヴィソンは身体を起こして食事を始めた。騎士はそれを見守りつつ、医師が薬を置いていこうとしたので滋養のものなら持ち合わせがあると話している。テナシテは、なぜだか器用にラヴィソンの頭の包帯を巻きなおしてやっていた。
「出血は止まったな。吐き気は?」
「もう、ない」
「そう。傷が塞がるまでは押えておいた方がいいだろう。きつくない?」
「うむ」
ラヴィソンの声には覇気がない。小さな口に一生懸命匙を運んで咀嚼するのを繰り返しているけれど、とても苦痛のようだ。どうにかこうにか食べ終えて、この旅で何度か口にしている大きな苦い丸薬と、先ほど医師に処方された化膿止めと痛み止めを水で飲み込み息をついたとき、部屋の扉が叩かれた。何度か見た事のあるテナシテの部下の一人だった。
「隊長、王宮からその者たちの呼び出しがありました」
「相手は誰」
「それが……とにかく来て、待機しているようにということです」
「王宮の人間って、本当に傲慢だな。第一隊に同情するよ」
テナシテは部下を帰し、医師も部屋を出て、三人だけになってからラヴィソンと騎士に真面目な顔で気をつけるようにといった。
「夕べ探ったところでは、陛下はあらゆる部門の実務責任者に、王子様と面会するようにとのご指示を出された。とりあえず王宮に来て待機していろというのは、手が空いたものから適時お前たちを呼ぶということだろう。段取りのわからない待機は本当に疲れるから、具合が悪くなったらすぐに第三隊の人間を呼べ」
「うむ」
「王宮とこの部屋の往復の送迎は第三隊がする。他の人間についていくのはやめろ。一日中張り付いてはいられない、うちも人手不足でね。一応あっちの中でも話のわかる人間に、何かあれば知らせるように頼んではいるけど」
「それは」
「何」
「……そなたの立場を危うくする行いではあるまいな」
ラヴィソンが眉をひそめ、寝台に座ったままテナシテを見る。テナシテは呆れたように大きく鼻息を噴出して、ほっそりとした腰に手を当てて胸を反らした。
「王子様だって言ったって、所詮は何も出来ないガキのくせに、どうでもいいこと気にしてんじゃない」
「テナシテ、殿下に対してそのような」
「うるさい。いいか、ラヴィソン殿下君。誰かを気遣うというのは、自分に余裕がある人間がすることだ。朝ごはんも満足に食えないガキが、この僕を心配するなんて十年早いんだよっ」
「朝ご……朝食は、すべて戴いた。それに私のような国王に連なる人間は、よく働く平民を労い、導く立場にある。したがって」
「あーうるさい。うざい。いっそ、僕がどうなろうとお前には関係ない」
「それは違う。……うざいとは何か?うるさいよりもひどい有様を」
「失礼します。隊長、向こうから催促の者が」
「待たせとけ!」
テナシテは突っ立っている騎士にさっさと王子様の支度をさせろと怒鳴り、勢いよくドアを足で蹴り開けて、すぐそこにいた部下に王宮からの使いに任せずお前が必ず送って行けと指示を出す。部下が承知いたしましたと応じれば、足音も荒くどこかへ行ってしまった。
「……気を悪くさせたのだろうか」
「わかりかねます。しかし今は、面会のことが先決でございます。お召し替えを」
「うむ」
ラヴィソンと騎士は昨日と同じように正装し、テナシテの部下と王宮の人間に連れられて、同じような道順で王宮へ参じたが、一緒に来てくれたテナシテの部下は王宮の建物内には入れなかった。通された部屋には誰もおらず、ぽつんと椅子が一つ置いてあるだけだった。王宮内であるのでみすぼらしい部屋ではないけれど、調度品もほとんどない、素っ気無い限りの部屋。
「こちらでお待ちください。用があれば呼びに参りますので、みだりに部屋をお出になりませんようにお願いいたします」
丁寧ではあるけれど、優しさのない声色でそう告げられて扉を閉められる。これが、二度目の停滞期になった。
テナシテに匿われていたあの部屋で過ごした時間は、とても苦痛だった。しかし事態が大きく前進したはずなのに、ラヴィソンと騎士はまた歯がゆくままならない日々を強いられることとなる。
ラヴィソンは朝から晩まで王宮にいるようになった。誰に会っても失礼のないようにと常に堅苦しい正装に身を包み、案内されるがらんとした部屋の椅子に腰掛けて、スッキリと背筋を伸ばして、ただひたすら呼ばれるのを待つ。
騎士はそんなラヴィソンの後ろに立ち、同じようにただじっと扉が開き、誰かが呼びに来るのを待っている。
誰も来ない日もあった。窓から差し込む光が移動していき、やがて赤くなり、月明かりに変わり、それでも誰も来ず、深夜になって扉を開けたのは王宮内の警備をする者と心配して探しに来た第三隊の隊員だった。
それでもラヴィソンは不平を言わず、ほんの僅かな休息をとってまた朝には王宮に戻る。焦りはあった。旅に出て以降、自国の状況に関する情報は得られず、心配と不安に押しつぶされそうだ。何もしないで座っていれば、頭の中では自国を想い、今の自分が不甲斐なく、申し訳ない気持ちになっていく。隣国との泥沼の戦争において、たちまち攻め落とされるようなことはないはずだと自分に言い聞かせ、だとしても前線で戦う民が傷ついているだろう、その家族たちの心境はとこころが落ち着く暇はない。
「失礼致します。お呼びでございますので一緒にお越しください」
「はい」
呼ばれれば、ラヴィソンは立ち上がり、護衛を伴って呼びに来てくれた男についていく。大抵は、どこかの執務室に連れて行かれて、そこで待ち構える人間と面会をする。ラヴィソンへの敵対心や警戒心を隠そうともしない者、どことなく同情的に接するもの、ラヴィソンの出自に幾ばくかの敬意を示してくれる者、感情のまったく窺えない者など、本当に様々な者たちと面会をしたけれど、みな一様に質問は細かくラヴィソンは神経をすり減らしていった。
政治や国防や法律に関することはもちろん、歴史、文化、芸能、伝統、伝説、宗教や冠婚葬祭、気候や土質、第一次産業と名産品、風俗や習慣など、多岐に渡る内容をその専門家の求める程度に正確に回答するのは本当に困難であったけれど、ラヴィソンはわからないことはわからないと述べ、絶対に予想や想像では答えなかった。
「では、君は知っているか?」
中には時々、ラヴィソンの後に立つ騎士に質問をする者もいた。騎士はラヴィソンの許しがなければ微動だにせず、ラヴィソンがお答えせよと言えば、自分で絶対に自信がある事だけを口にした。この数日に渡る面会の数々で、何を探られているのかわからない。迂闊なことを言うわけにはいかない。騎士にもその程度の配慮は出来た。
ラヴィソンの後ろには常に騎士がつき従っていて、面会中も出来る限りそばで立位で控えている騎士を、部屋の外で待っているようにと言う者もいた。そういうのはたいていが気難しそうで偉そうで、軍人風情が部屋に、本当なら王宮内にいるのが我慢ならないようだ。ラヴィソンが外で待てと言えば、騎士は部屋の扉のまん前で、主が出てくるのをじっと待つ。ラヴィソンは一人で専門家を相手に、自国のことを説明し続けた。
不思議なことに、誰も隣国との戦争にまつわることは聞かなかった。国防の専門家は、組織や費用、指揮系統や武器の製造と所有、基地などに関して問うただけで、現在進行中の係争への言及はなかった。ラヴィソンとしては、その件については自分のところへ情報が流れてきていないことだったので、聞かれたところで答えられなかったし、先方もそのように承知しているのだろうと考えていた。けれども実際は、アンソレイエは国王の名の下に数人を隣国へ派遣して、現状を確認させていたのでラヴィソンからの不確かで偏狭な情報を求めていないだけだった。
ある日のこと。
いつものように朝から王宮へ参じ、昼までに二人の文官との面接を終えていた。運よく二人目の女性が自分の部下に昼餉の用意を命じてくれたので、ラヴィソンと騎士は珍しく昼に小腹を満たすことができた。そのまま待機していた部屋に、呼び出しがあった。ラヴィソンとしては空白の時間よりも忙しくしていたかったので、この日はとても順調に思えて気分が暗くなる暇がなかった。
痩せ細った男に従って、いつもよりも入り組んだ廊下を通って部屋へ向かう。たどり着いた扉の前で、案内の男が騎士に廊下で待つように言う。ラヴィソンはそのようにせよと命じ、騎士は承知し、ラヴィソンは一人でその扉の中へ入った。そこは執務を行うには不似合いな、本棚もないような優雅な部屋だった。
「あなたが、遠い異国からやってきた王子様ですか」
「……そう、です」
「噂にたがわず、本当に美しいですね。どうぞこちらへ。お茶がありますよ」
「失礼致します」
にこやかにラヴィソンを迎え入れ、茶席に誘うのは、今まで面会してきた人たちとずいぶん雰囲気の違って、職業上の義務でラヴィソンと話をしている感じではなかった。着ている服も、他の人は装飾のない、裾がくるぶし近くまである上着と共布で出来た下衣で、色こそ様々だったけれど形はみんな同じだった。しかし今目の前にいる男は、もっと豪勢な衣服だ。装飾具も身につけていて、取り繕ってはいるけれど、どこか知性を感じさせない笑みを浮かべている。しかしラヴィソンに拒否権はない。促されるままに窓際の大きな椅子に座り、男はすぐ隣に座り、低い机に並べられたお茶やお菓子を勧めてくる。ラヴィソンは、この男はどういった分野の担当なのだろうか、どのような質問をされるのだろうかとそればかりで頭がいっぱいだったので、お茶やお菓子に興味はわかなかった。
「遠いところから、ずいぶんと無茶をしてこちらへ来られたとか」
「……諸々事情があり、お恥ずかしい限りです。御国におかれましては大変ご迷惑をおかけし、心苦しく恐縮しております」
「いやいや。こんなに若いのにご立派でいらっしゃる。自分の国のためにその身を投げ出すなんて見上げたものですよ」
「私には、それが役目であると承知しております」
「そうですね。人には役目というものがあります」
男は一頻りラヴィソンの美しさを褒め称え、第三王子という身分に敬意らしきものを示した。ラヴィソンはこんな風に悠然と過ごす時間の余裕は自分にはないと考えていたので、早く面会を始めてもらえないだろうかと男の賛辞をほとんど聞き流していた。ラヴィソンの意識が明瞭になったのは、男がラヴィソンの美しい手に触れたからだ。
「……なんでしょうか」
「美しい……本当に美しい王子だ。だからこそ、あなたは価値があるのでしょうね。あなたに触れられるのであれば、多少のことは便宜を図りたくなる。あなたのお願いなら聞いてあげましょう」
だからほら、楽しませてください。
男の手が、ラヴィソンの腕を撫で上げ、細い肩にかかる。その生暖かい温度に、ラヴィソンは戦慄した。
「何か、思い違いをなさっておられるのではないでしょうか。私は」
「あなたは思い上がっているようですね、王子。椅子に座って話し相手になるだけで、国家の予算や人脈、施策を思い通りに出来るとお考えですか」
「そのような、ことは」
「国を代表して陛下に陳情に来られ、陛下のお留守の間に王宮の人間と恙無く面通しを」
「ええ、さようでございます」
「しかしこちらとしても、見返りもなく異国を助けるなんて出来ぬとは思いませんか」
「……さようでございます」
「今まで会った者たちが、どんなことをさせたか知りませんが」
「何も。ただ、私の知る話をせよと」
「なるほど。それであなたはそれに従った」
「はい」
「では変わりなく、今は私に従えばよろしい」
男の手が、ラヴィソンの肩を抱き寄せる。ぞっとした。想定していなかったわけではない。それでも、得体の知れない下劣な男の慰み者にされるのだと思えば、しっかりと持っていたはずの覚悟も崩れそうになる。無礼な痴れ者と撥ねつけてしまいたい。このまま嬲られて嗤われ、惨めに打ち捨てられる自分に残るのは、祖国のためだというほんの僅かな言い訳だけだ。誰へともない、自分さえ騙せぬ無意味な言い訳。
ラヴィソンはこれから自分に及ぶだろう汚らしい行為を想像しただけで全身に怖気が走った。
「わかりますね?抵抗したり、大きな声を出すのはお互いのためにはなりません」
耳元でささやく男の声が、荒い鼻息が、ラヴィソンにとって耐え難く不快で震えるほど気持ちが悪かった。助けてと叫べばどうなるのだろうか。しかしラヴィソンの喉は絞められたように声が出なかった。
男の手が、きちんと整えられたラヴィソンの襟元にかかる。髪の色と同じく漆黒の正装はラヴィソンの気品を際立たせ、気高く何より美しい。それを暴きたいという劣情を煽ってしまうほどに、禁欲的で清廉だ。
太ももを撫でられ、膝を掴まれて脚を開けと言われても、この男は何を言っているのかと、ラヴィソンはもはや現実を受け入れることが出来ずにいた。逃げたい。この破廉恥な男を突き飛ばして、扉を開ければ。
「何のためにここにいるんです、王子?」
ラヴィソンはそれこそ、見えない剣で刺されたような痛みを覚えた。
何のために。自分は何のために。自分など、いない。要らない。だから、祖国を守りたい。そのためなら、地を這うこともなんでもない。そう誓っただろう?
身体は震え、こころが凍てつく。何も考えるな。ただほんの一時のこと。身体など、汚れれば洗えばいい。減るわけではないのだから、安いものだ。そうだろう?そうなんだ。
「王族というのは、特殊な閨房術を知るという……こんなに美しい異国の王子のそれを味わうことが出来るなど、役得であるな」
男は卑しい笑いを漏らしながら、ラヴィソンに服従を迫る。身体を開き、密やかである場所を晒し、自分を悦ばせろと強いる。ラヴィソンは何もかもを諦め、僅かに膝を緩めた。大したことじゃない。目を閉じていれば終わることだ。何も見なければいい。男は興奮に呼吸を乱しながら、ラヴィソンの脚の間に割り込むようにして細身にのしかかり、滑らかで上等な生地の上からその身体を撫で回している。
大丈夫だ、我慢できる。後で湯浴みをすればどうということはない。孕む心配もない。
ラヴィソンは自分自身に呪いをかけるかのように、こころの中で繰り返し呟いていた。祖国の民を思えば、こんなことはなんでもないのだと。自分はこのために存在するのだと。
わずかに寛げられた襟元から、男の指が入り込んでラヴィソンの素肌に触れる。べたついたその感触だけで、ラヴィソンは吐きそうなほどの嫌悪感を覚えた。
嫌だ。触るな。私は
「何をしているのです」
ぞっとするほど低い声が響き、ラヴィソンは思わず目を開けた。首を捻れば、部屋の入り口に男が立っている。それは、一番最初に面会をした文官だった。彼の後ろで、ラヴィソンをここへ連れてきた痩せ細った男がバタバタと慌てている様子が見える。ラヴィソンにのしかかっていた男は、弾かれたように起き上がり、さっとラヴィソンから距離を取る。咳払いをし、自身の乱れた服を整えている。ラヴィソンもその機を逃さず身体を起こし、小さく小さく強張らせて顔を伏せた。
「何を、とは……いやしかし失敬ですぞ。この部屋の使用は私が」
「恥を知りなさい!」
思わずラヴィソンも首をすくめるほど獰猛な一喝。面会した時の知的で穏やかな様子からは想像できない迫力だった。実際、ラヴィソンに不貞を強いろうとした男は驚きか恐怖かで固まってしまっている。
「あなたの所業は承知しています。金のあるのをいいことに、有る事無い事で圧力をかけて弱き者を慰み者にしている。あなたのような下劣な人間が、この国の子等の前途を潰すのです」
「は……ははは。なるほど、お偉い文官長様は違いますねぇ。しかし勘違いをなさっておられる。これはこの異国から来た王子が誘って来たのですよ。王宮の人間を買収するのに金が足りぬから融通せよと。対価は自分自身。やはり、密入国などをするような者は卑しいことですなぁ」
ラヴィソンは頭を殴られたような衝撃を受けた。自分はなんて馬鹿だったのだろう。この数日、いやもっと以前から、あらゆる手段を使って積極的に周囲と交渉すべきだったのだ。金と色事を条件に、情報と援助を得るべく動かなければならなかった。浅はかさに、考えの足りなさに、ラヴィソンは自分を責める。
「正式な国書を携えた他国の王家の人間に、このような下劣な行為に及んだこと。今度こそ咎めなしでは参りません。貴様のような破廉恥漢を野放しにはしない。どのような言い訳を並べようと、絶対に報いを得るだろう」
圧倒的な威圧感と共に毅然と言い放たれ、反論も勝ち目がないと悟ったのか、ラヴィソンには理解できない言葉で何かを吐き捨てながら男は慌てて出て行った。その背を見送ることもなく、ラヴィソンは自分の胸元をぎゅっと強く握り締めて小さく震えている。恐ろしかった。この国へたどり着いてからというもの、自分の境遇が嫌というほど身にしみる。覚悟を試される。どうしてこんなことにと叫びたい。
「……大丈夫ですか」
声を掛けられて、ラヴィソンは気の毒なほど身体をびくつかせた。初老の文官はそれを痛ましく思い、憐憫のため息を吐く。ラヴィソンにとってそれは、自らへの批難にしか感じられなかった。ひどく惨めで、恥ずかしさに本気で消えてしまいたい。どんなことをしてでもと大見得を切ったくせに、いざとなれば恐怖で震えるほど弱い自分は、本当に情けなくて、誰にも見られたくなかった。
ラヴィソンは背を丸めて、自分の胸元から手を離さず、顔を伏せたままでどうにか声を発した。震えるのは、隠しようがなかった。
「お見苦しいことで、大変な、失礼を」
「あなたに非はないと考えます。謝られる必要はない」
「ご高配に、恐れ多く、感謝いた、し」
「落ち着いて。少し、落ち着きましょう。あなたは傷ついたのだから、今は思うとおり振舞ってもいいのですよ」
「このたびは私の不甲斐なさに、お詫びの、お詫びを、」
「落ち着きなさい」
ラヴィソンの口からは、この場で言うべきだろう言葉がボトボトとこぼれるけれど、頭の中は真っ白で何も考えられなかった。ただひたすら、後悔していた。こんなところを見られて、このたびの交渉に影響がでたらどう挽回すればいいのか、もっときちんと対応していれば何か有利な材料が手に入れられたかもしれない、さっきの男はどのくらい国政に権力を及ぼせるのか。だけど、あの時はどうしようもできなかった。怖かったのだ、何もできないほどに。
どうしてうまくいかないのだろう。護衛の騎士は、あんなに立派に自らの職務を全うしている。王子であるはずの自分は、もっとがんばらなければいけないのに、これでは何の役にも立たないではないか。
こころも身体も尊厳も捨てるという言葉に嘘はない。覚悟もしていた。なのに、どうして、怖気づいてしまうのか。
「……」
文官はそっと、ラヴィソンを驚かせないようにそっと水差しの水を杯に移して、ラヴィソンに勧めた。立ったままでは怖いだろうかと、ラヴィソンの座る長椅子の傍に膝をつく。
「水をお飲みなさい。何も入っていません。ただの水です。飲めば少し楽になれます」
「いえ、私は、そのように」
「お飲みなさい。これはこの国にいるために必要なことです」
ラヴィソンには文官の言葉が理解できなかったけれど、国という言葉に反応し、ただ反射のように身体を動かし、こぼしながらも与えられた水を口にした。
「私の立場で言えたことではありませんが、あなたは少し休まれるべきだ。わかりますか」
「申し訳のないことでございますが、よく、わかりかねます」
「夜は眠れていますか」
「我々に寝食を宛がってくれる彼らは、非常に親切で、とても感謝しております」
「……食事は、喉を通りますか」
「この国の方々におかれましては、どなたも大変よくしてくださり、私が自らの使命にまい進することが出来るものそのおかげであると承知しております」
「王子」
「はい。ありがたいことであると、承知しております」
「……」
ラヴィソンの言葉に覇気はなくどこか虚ろで、まるでぼそぼそと呪文を唱えているかのようだ。文官に呼ばれてようやく顔をあげたものの、肌の色は紙のように白く、美しい黒目は輝きを失っている。視線を交わしているのにまるで上の空だ。気丈で気高く、立派な受け答えのできる王子だったのに、今目の前にいるのが別人のように思える。
「……お辛いでしょうね」
「お恥ずかしいことではございますが、我が国の現状は嘆かわしく、国王に連なる立場である以上国民を思えば辛くなります」
「あなたのことですよ」
「国のために、成すべきを果たせないのであれば、こんなに辛いことはないと」
「あなたが、ですよ、王子」
ラヴィソンは確かに辛かった。それは目の前にいる文官が、自分の失態をアンソレイエ陛下に耳打ちし、自国への援助を取り付けられなかったらどうしようと不安だからだ。図らずもさっきの男が言っていた。そうだ。何を躊躇う必要があるのだ。あらゆる手段で、この状況を打破しなければいけない。ラヴィソンは頭の奥に鈍く重い痛みを感じながら、ガタガタ震える手で文官の袖の端を掴んだ。
「お、恐れながら。僅かではございますが、金を用意することが、できます。私に出来ることは、何でも致します。どうか、どうか、ご容赦を、賜りたく……!」
ラヴィソンは恐慌状態にあった。そもそも、自分がなぜ毎日のように質問攻めに遭うのかも理解できていない。こうしている間にも自国の状況は悪化の一途を辿っている。自分は正しいことをしているのか?何が成功で何が失敗なのか?この男の許しを得られればまだ僅かに希望は残るのか?それとももう絶望すべきなのか。
文官はこころの底からラヴィソンに同情した。まだ年端もいかないような子が、どうしてこんなに震えないとならないのだろうか。犠牲とはこういうことを言うのだろう。小賢しく立ち回ることも知らず、ただひたすら素直に真面目に国を想う王子が、自我を殺して自らを捧げるなど耐え難い惨劇だ。文官はずっと長い間、子供の教育や保護の仕事をしている。だからこそではないけれど、ラヴィソンの境遇が気の毒で仕方がない。
「何も問題はありません、王子。先ほどの男は頭がおかしいのです。どこにでもいるでしょう、変なのは。あなたの正当な使命において、その遂行に汚れた金も裏取引めいたことも不要です。そんなものに応じる人間は、この王宮にはおりません」
「しかし、では」
「謝るのはこちらのほうです。あの下衆は、あなたの邪魔をしました。信じがたいことに、あなたを自分の下劣な欲のために辱めようとした。処罰されるのは近いでしょう。あなたがもし望むのであれば、気分を害されたと堂々と訴えればよろしい。正義はあなたにあり、ほんの僅かの謗りも受けません」
「それは、それはできかねる。私はこの国に縋る思いで!」
「承知いたしました。王子、あなたの寛容なこころに王宮を代表してお礼を申し上げます。事を荒立てずにおいてくださって感謝いたします。繰り返しますが、あの男は二度と現れません。どうぞ、ご安心ください」
「……どう、すれば」
「あなたは立派にご自分の仕事をなさっておられる。この部屋で起きたことは、あなたを傷つけましたが、あなたの仕事に悪影響はありません。その点は私が保証いたします」
「………………真で、しょうか」
「傷ついたあなたを癒すのは、私には難しいことです。あなたの立場は複雑で理解が及ばない。ただ一つ言えるのは、あなたは疲れておられるということです」
「わかりかねます」
文官は、ラヴィソンに面会すべき人間があと二人であることを知っていた。そして彼らは、長話を好まないことも。指が白くなるほど力をこめて、袖の端を握り締める異国の王子に休息を与えるにはどうすればいいのだろうか。
「王子が面会すべきはあと二人です。彼らは本日、持ち場へ出かけております。従ってもうお帰りになって差支えない」
「しかし、ここに」
「いても意味のないことです。大丈夫です、何もあなたの国に不利益にはならない。送り迎えをしている軍人も、無駄に待つ必要がないので助かるでしょう」
「しかし、私には役割が」
「考えればお分かりになるはずです。もう今日は誰もあなたを呼びに来ません。駐屯所に戻り、英気を養われるべきだ。残りの二人は女性で、一人は税制、もう一人は治水などの土木事業を担当しています。少しは参考になりますか」
「ええ……ええ、非常に助かります」
「国王陛下は近々お戻りになられます。あなたの厳しい日常も一区切りつくでしょう」
「…………なんと、御礼を申し上げればよいか……」
初老の文官は軽く頷き、ゆっくりと立ち上がった。国同士の付き合い方などどうでもよかった。ただこのけなげな異国の王子の先行きが、少しでも明るければと願うだけだ。
「先般あなたから聞いた話は、非常に興味深く参考になりました。その御礼が申しあげたくてあなたを探していただけです。気にしなくともよろしい」
ラヴィソンにもう一口水を飲むように促し、あなたの護衛を呼び入れますから、一緒に帰るようにと言い置いて、文官は去って行った。入れ違いに入ってきた騎士はラヴィソンの元に一目散に駆け寄り、その足元に跪いて深く頭を下げる。
「先ほどの男性が、今日はもう戻るようにと私に」
「…………うむ。大変親切なことで、本日はもう呼ばれないからと」
「……」
ラヴィソンの様子がおかしいことはすぐにわかる。バタバタと人が出入りし、この部屋で何かあったのだとは思う。しかしそれを、騎士の立場でラヴィソンに問うことなどできるはずもなかった。初老の文官は騎士に、ラヴィソンを休ませてやるようにと言っていた。もちろんそれは騎士にとっても望むところだ。この美しい人のこころは無事なのだろうか。
「…………あの男性の言葉に偽りはないと考えるので、本日はこれで辞することとする」
「は」
「…………この身を運ぶことを許す」
「ありがたき幸せに存じます、ラヴィソン殿下」
騎士はさらに深く頭を下げてから、長椅子に身体を預けているラヴィソンをそっと抱き上げた。装飾のためだろうか、柔らかい織物が椅子の背に掛けられていたのでそれを拝借し、ラヴィソンの肩から頭部、顔の辺りまでそっと覆う。ラヴィソンはそうやって視界を遮られることで安心して目を閉じていられた。
騎士は大切に大切にラヴィソンを抱き、心得たようにどこからか現れた第三隊の隊員とともに駐屯所へ戻った。騎士は部屋に入るとラヴィソンを寝台に座らせて、手早く堅苦しい正装を解いていった。彼の身体に異常がないことを検分させていただきつつ、うっ血痕ひとつないことに心底安堵する。ラヴィソンは一言も発さず、ただされるがままに裸になり、騎士の手で寝巻を着せられ、気が付けば天井を見上げて上掛けを掛けられていた。
「万が一王宮から呼び出しがありましたら、お声をおかけいたします。それまではどうぞ、お休みください」
自分の脚で歩くのが億劫なほどに擦り切れた精神状態で、ラヴィソンは騎士の声や体温が少し安心させてくれたと知る。動悸は収まりさっきの出来事を冷静に思い出せるほどには落ち着いた。疑い出せばきりがないけれど、今日はもういいのだという文官の言葉を信じることにした。今はただ、目を閉じていたい。閉じていても、大丈夫だと思えるから。明日からまた、励むから。
「あと、二人だそうだ」
「さようでございますか」
「アンソレイエ国王陛下は間もなく戻られると」
「さようでございますか」
「うむ」
それだけ言って、ラヴィソンは目を閉じる。騎士はそっとランタンの明かりを絞り、大切な人の安息を祈った。
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