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第25話

 ラヴィソンは夕餉も摂らずに眠り続け、夜半過ぎにふと目を覚ました。  色んな夢を見たような気がする。子供の頃に見た風景、成人の儀式で受けた杯、旅の途中で発見した妙な葉っぱ。やがてそれらの柔らかい色彩が視界いっぱいに広がって、ゆったりと混ざり合っていき、ほのかに光った。なんと美しいのだろうと眺めていたら、眠りから浮上していた。    そっと身体を起こしても、珍しく騎士はそれに気づかず眠っていた。ラヴィソンは、騎士が疲れるということが意外で、それだけ過酷なのだろうと納得した。彼は寝台に腰掛けたまま腕組みをして顔を伏せて寝ており、傍に置かれたランタンも完全に消されてはいなかった。ラヴィソンが寝台を降りれば、さすがに目を覚ますのだろう。  窓のない部屋は暗く、本当に僅かにランタンの周りに光がまとわりついているだけだ。目を開けていても、腕を伸ばせば自分の指先さえ覚束ない。扉は閉ざされ、一人で外に出ることもできない。    時間の流れの感じられないこの閉鎖された場所で、だけど今、外では夜明けを迎えようとしているのだとわかる。太陽が昇れば、世界は再び動きだす。眠っていた人は起き上がり、閉じていた花は咲くだろう。陽の光を浴びて、先を見通す視野が開けるのだ。ラヴィソンは澄んだ気持ちでそう確信できた。理由など、根拠などないけれど。    ラヴィソンは、遠い祖国に再び陽の光が当たることを祈った。夜明け前の静寂。暗闇の去ることのない異国の部屋の隅で、輝く祖国を思えば、それを信じることが出来れば、何もかもに耐えることが出来る。静かに、穏やかに、こころの底から、ラヴィソンはそうなることを祈り、なぜかそれは聞き入れられるような気がした。きっと祖国は、もう一度息を吹き返すだろう。それはそれは美しい国になるだろう。        前日に、課せられた面会はあと二人であり、二人ともが女性であり、聞かれる分野も承知していたので、ラヴィソンは比較的緊張せずに王宮で過ごす事ができた。もしも万が一、昨日の暴漢ともいえる破廉恥な男に遭遇しても、動じずにいられる気がするほど落ち着いていた。  ふと、ラヴィソンの身に起こった事を護衛が知ればどうなるだろうかと考えた。知った上であの男に遭えば、自分は大きな背に匿われ、男を見ることもないのではないだろうか。そしてきっと、冷静でおとなしい護衛はその場をやり過ごした後、足元に蹲るように控えて、ご安心ください大丈夫です、もう行ってしまいましたからと繰り返すのだろう。    昼を待たずに面会は終わり、税制担当の女性文官からは自分で最終であるので本日は駐屯所へ戻ってかまわないと聞かされる。ラヴィソンは深く頭を下げて感謝を述べ、心身の疲れは軽かったのでもちろん自分の脚で部屋へ戻った。騎士はそんなラヴィソンの傍を片時も離れず、今まで以上に周囲を警戒しながら従った。  その晩の夕餉の最中に、ラヴィソンを訪ねてテナシテがやってきた。     「明日だから」   「……?」   「テナシテ、少し説明を加えて話してくれないか。殿下が驚いておられる」   「よかったですねぇ、王子様!今夜にはアンソレイエ国王陛下がこの首都にご帰還あそばされます!先触れがあって、あなた方は明日の謁見を許されたそうですよ!…………こんなもんでいいか」   「……テナシテはいかがしたのか。今、別人のようであったが」   「わざとだよ!くそ、冗談のわかんない殿下君だなっ」   「冗談であるのか、今の話は」   「ちょっと、マジで黙ってろ。話が進まねぇ」   「テナシテ、何度も言うが殿下にそのような口の聞き方は」   「じゃかあしい!」   「じゃっ?」 「テナシテ!貴様」   「じゃ?」   「恐れながら。殿下のお知りになる必要のない言葉でございます」 「じゃ……ああ、邪魔であるということだろうか」 「ラヴィソン殿下が邪魔になるなど、天地が入れ替わっても起こり得ない事態でございます」  やいのやいのと大騒ぎをしながらも、とにかく話としては明日の朝一番に、アンソレイエ国王との謁見が叶い、その場でこの度の一連のやり取りの結論が言い渡されるということだ。  ラヴィソンと騎士の胸中に、旅の終わりの実感が去来する。それは、国を出てからずっと考え続けた、求め続けた瞬間だった。  夕餉を終え、テナシテが去り、部屋に二人になっても、ラヴィソンも騎士も何も言わず、ただ静かに最後の夜を過ごした。  翌朝、ラヴィソンを迎えに来たのは何だかとても綺麗な身なりをした女性三人だった。彼女たちの後ろには、テナシテたち第三隊ではなく、親書を渡す際に大いに揉めた第一隊の隊員が控えていた。女性たちは国王直下の者たちで、才色兼備の体現者のごとく恵まれた容姿に知性を湛え、丁寧な態度でラヴィソンたちを案内した。     「我が国王陛下は愛情深く、ありていに言えば美しい女性に目がない」      昨晩のテナシテの言葉が頭にあったので、ラヴィソンは政の中枢に若く美しい女性が何人もいることにも驚かなかった。しかし彼女らが決して玉座の飾りや権威の強調ではなく、れっきとした役人であることは少し驚いた。ラヴィソンの国ではそのような女性は少なく、そもそも国王の周辺には王族と一部の宰相しか近寄れないようになっていたからだ。美しければ寵愛を受けることも出来るかもしれないけれど、そういう場合は昼間の政治の場に顔や口を出すなどほぼ皆無と言っていい。     「間もなく、陛下がこちらへ。どうぞお控えになってお待ちください」      通されたのは、思いがけないほど大きな広間だった。面会のために連日通っていた廊下を外れ、幅広の外廊下を中庭を眺めながら歩いていた時点で薄々気づいてはいたけれど、ラヴィソンはこの日初めて、ようやくと言ってもいい、正式な謁見を許されたようだ。  豪勢で重厚な扉を開き、中に入れば磨き上げられた床が輝いている。高い天井に吊られたいくつもの照明の灯を受けているからだった。扉から最も遠くに数段高く玉座が設えられていて、ラヴィソンは足音を響かせながらその前まで進み、玉座の真正面の、王からの視線をまっすぐ受けられる位置を違うことなく片膝をついた。随行していた騎士は自身の身体一つ分を空けて、ラヴィソンの斜め後に同様に膝をつく。  扉に端を発して玉座まで、道を作るかのように椅子が並べられてたくさんの人間が座っており、ラヴィソンの一挙手一投足を両脇からじっと眺めていた。  好奇。好意。好色。さまざまな視線を一身に浴びつつも、ラヴィソンは怯むことも虚勢を張ることもなくただ粛々と、審判の時を待っていた。  玉座の後の小さな扉の前に佇んでいた美しい女性がまず、王の到着を告げてから、恭しくその扉を開く。さざめきのように続いていた話し声はピタリと止み、着席していた全員が立位で敬礼をして王を出迎えた。ラヴィソンと騎士は床に着いた膝の傍に拳も着き、深く頭を垂れることで服従の意図を示す。   「待たせたか。では、はじめよう」    堂々と現れたヴィヴァン国国王は、正装をしていた。国としてラヴィソンに対峙することで誠意を見せてくれたようだ。衆人も恐らくその意図だろう。王のその意思を、精確に一度に知らしめるために。     「顔を上げるがよい、ラヴィソン王子殿下」      ラヴィソンはその言葉に感謝を述べてから、おもむろに玉座を見た。距離があるはずなのに、圧倒的な存在感はまるですぐ傍で威圧されているかのように届いてくる。笑みを浮かべ、ラヴィソンに息災かと尋ねる声は、ひどく優しいのに強かった。それを受けるラヴィソンのこころは、まったく平静で穏やかだった。   「みな、大変に親切で、御礼を申し上げる次第でございます」   「何よりだ。私が首都を離れている間、そなたが真面目に過ごしたことは聞いている。その内容も把握した。かの国の第三王子の優秀さには舌を巻くばかりだ」   「恐れ多いことでございます」      把握した、と言ったものの、アンソレイエはその内容には言及しなかった。あらゆる部門の実務責任者と面会させたのは、ラヴィソンの国のこととその王族の状況を知るためのものであり、何も語り合うために事細かに情報を取らせたのではないからだ。窮地に喘ぐ瀕死の国は、救うだけの価値があるのかどうか。その国を統べる王族はどこまで自国を愛しているのか。それらを知り、判断するためのいわば尋問。王位継承権順位と美しさで選ばれた第三王子は、偶然にも最善の人選であり、彼以外の者であればアンソレイエは今日謁見を許すことはなかっただろう。     「親書に対する返書はすでにある。最後に、私からの質問に答えるがよい」   「はい」   「我が国が、そなたの国に援助をしたとする。では王子、そなたは何をしてくれるのか」      慈善ではない。見返りは?  アンソレイエは片時もラヴィソンの美しい目から視線を外さず、答えを述べてみろと無言で迫る。ラヴィソンはそれを真正面から引き受けながら、自分の言葉で自国の命運が決まるのだと悟っていた。宰相、文官、その他諸々の王宮に関わる人間たちが固唾を飲む中で、それでもラヴィソンはこころ穏やかでいられた。  夜明けは来るのだ。祖国はもう一度、神に愛される。そうすればきっと、みなが報われる。  ラヴィソンは、おもむろに口を開く。 「恐れながら申し上げます。私は、豆の皮をむくことができます」 「……ほう」  ラヴィソンの返事を息を潜めて待ち構えていた観衆はざわめき、様々な反応を示した。憐憫。嘲笑。美しいとはいえ、密入国などを果たすような非常識な王子。かわいそうに、ただの虚け者であったのか。まだ子供なのだ、仕方あるまい。何という蒙昧。恥を知るべきだ。  騎士は顔を上げることを許されていないので、ただひたすら目を伏せたままで控えていた。身体が大きいので、前にいるラヴィソンの背が視界に入る。それをじっと見つめていた。 「豆の皮か」 「はい。それは、この国の親切な民が教えてくれたことでございます」 「さようか」 「それまで私は、豆の皮をむくなど、そうせねば食せないことなど、想像さえしたことがありませんでした」 「さようか」 「私が申し上げたことは、きっと愚かでくだらないことでありましょう。とても陛下のお役に立つようなことではないと承知しております」 「さようか」 「取るに足りぬこの私が、今、陛下にお約束できるのは、どのようなことでも致す所存であるということでございます」  ラヴィソンは立てていた膝も床につき、まっすぐにアンソレイエを見つめる。そして、そのたおやかな両手さえ、冷たい床にひたりとつけた。 「どのようなことでもお命じください。私はただひたすらに、謙虚に習い、不平を言わず、陛下に従います」  ラヴィソンはそう言うと、躊躇いなく身を傾けて、額ずいた。少しも恥ずかしくなかった。屈辱であるとも思わなかった。自分を育んでくれたあの国に、幸福な未来が訪れるのであれば、その小さなきっかけを作ることができるのであれば、これほどの名誉はない。誇りにさえ思えるのだ。騎士はこみ上げるものを懸命に堪えながら、同様にその巨躯を床に伏せる。 「何卒、我が国に、寛大なるお情けを賜りたく、アンソレイエ国王陛下にお縋りし、この通り伏してお願いを申し上げます」  絢爛な広間に、ラヴィソンの声が落ちる。観衆は誰も口を開かなかった。かの大国の、王位継承権さえ持つ王子の静かな懇願は決意に溢れ、徒に批評などできるものではなかった。ただ一人それを許されるのはアンソレイエだけだ。誰もが、偉大なる王の言葉を待った。 「……そなたの覚悟は、私が預かった。王の名において、それに見合うことを必ず致す。安心するがよい」  その結論を言渡して王が去り、玉座の近くにいた女性らが後に従い、宰相らが目配せをしつついなくなり、ずらりと並んで座っていた役人や文官らも散って行った。ラヴィソンと騎士は、しばらく動くことができなかった。  ようやくラヴィソンは顔を上げ、主のいない玉座を目にし、ああ、と一つ息を吐いた。国から、父と兄から与えられた使命は果たした。身体中の力が抜けるほどの安堵だった。必ず、という心強い言葉を聞くことができた。必ず。ありがたくて、涙が滲んだ。これ以上、何を望むだろう。 「ラヴィソン様。どうぞこちらへ」  誰もいなくなった広間に、可憐な女性の声が響いた。ラヴィソンは気を取り直して立ち上がり、声の主を振り返る。今朝ここまで案内をしてくれた者の一人だった。騎士も立ち上がり、大切な人の後ろに従う。まっすぐに伸びたその背筋を、見つめられるのもあとわずかだと噛みしめながら。  連れて行かれたのは、広間よりもさらに奥まった場所にある小部屋だった。さりげない装飾を施された机の上には、ラヴィソンと騎士の私物が載せられていた。第三隊の駐屯所の部屋にあったものだ。あの部屋に戻ることはないらしい。  そこへ、数人の男が入ってきた。一人は身分が高そうだとわかる者、あとの三人は軍服ではないものの、軍人かそれに準ずる職業だろうと想像できる風体だった。 「アンソレイエ国王陛下より、返書を預かっています」 「はい」 「あなたはこの国に留まりますから、これはその護衛に運ばせるということでいいですね」 「……はい」  立ったままのラヴィソンの背後に控えていた騎士は、ここでこの御方の傍から離れるのかと悟る。同時に、強烈な喪失感に襲われた。続いて、虚無感。死力を尽くして守ってきたこの美しい人が、目の前からいなくなる。それは、生きる意味を失うことに等しかった。そんな騎士に、男は声を掛け、懐から書簡を取り出した。 「ヴィヴァン国国王の親書です。自国の王へ、お渡しなさい」 「は」 「馬を用意させました。この三人と共に行きなさい」  見張りだろうかと騎士は考えた。しかし彼らが同行するのは隣国と我が祖国の国境までだという。その行動が、預けられた返書の内容に起因するかどうか、騎士には知る由もない。ただ黙って応と頷くだけだ。  三人は名前を名乗った。騎士はそれを虚空に響く風の音のように感じていた。  ではすぐにでも出立を。  支度は整っている。  河を渡る通行証はここにある。  国境付近まではどのくらいの日数が。  ラヴィソンも騎士も、言葉もなく立っていた。周囲の音が流れていく。旅は終わったのだ。それでも騎士は、ラヴィソンの言葉を待っていた。無事に届けよと、命じて欲しかった。その一言がすべての理由になって、疾走ることができるから。 「先に行っている」  三人の中で一番年長らしき男が、騎士にそう告げた。その心遣いに驚き、部屋を出て行く彼らに、騎士は遅れながらも礼を言う。身分の高い男は、私は後であなたを迎えに来ますよとラヴィソンに言って出て行った。  そして、二人だけが残った。まず最初に騎士がしたのは、壁際に置かれた椅子を一つ運んでラヴィソンを座らせ、その前に跪くことだった。 「お疲れではございませんでしょうか」 「……うむ。問題ない」 「何よりでございます」  ラヴィソンに問題がないのが何よりも重要だ。騎士はひたすら頭を下げ、この先のラヴィソンに問題がないことを祈った。見届けることはできない。ただ、そう祈ることしかできない。 「……アンソレイエ陛下よりの親書であるが」 「は」 「ご高配により、来たよりはましな旅程であろうと考える。しかし、平易ではないであろう」 「は」 「……励め」 「命に代えても、必ず」  ですから、何卒ご安心ください。アンソレイエのようにそう言いたかったけれど、騎士にはできない。今はただ、この書簡を自国へ持ち帰り、国王に渡して報告を。それに全力を傾ける。  ラヴィソンは、他に何を言うべきだろうかと考えた。長いような短いような日々を振り返り、護衛という使命を全うしたこの男を労うべきだろうか。それともいっそ褒めるべきか。道中気をつけよと注意をした方がいいだろうか。色々なことを考えたけれど、ラヴィソンは結局、騎士の無事をこころの中で祈るだけだった。お互いに、もうこれが最後で、きっと先は長くない。その先行きも穏やかであるはずもない。凪のようなこの時間は、息を引き取るときに慰めになるだろうか。 「長く御傍に置いてくださり、こころからの感謝を申し上げます、殿下」 「……うむ。私の護衛という命を、ここで解く」 「………………は」 「以降は、アンソレイエ陛下の親書を運ぶことにまい進せよ」 「は」 「同行の先ほどの者らにも、よろしく伝えるがよい」  この期に及んでラヴィソンができることと言えば、この騎士を送り出すことだけだった。そんな主の心中を察してか、騎士は断腸の思いで辞意を述べた。もう一度感謝と、敬意と、決意を口にする。言葉では言い尽くせないと、これほど痛感したことはない。こころを、身体を、力任せに引きちぎられるような思いだった。  騎士は一瞬黙り込み、おもむろに申し出る。 「恐れながら、殿下」 「なにか」 「たったひとつだけ、卑しくも頂きたい褒美がございます」 「申せ。今の私からは、何も出ぬと思うが」 「ご尊顔を拝したく存じます」 「…………いいだろう」  ラヴィソンは騎士のうつむく秀でた額を睨んでいた。見るがいい。落ちぶれた王子を。そして笑えばいいのだ。  騎士は更に深く頭を下げ、礼を述べ、顔を上げた。ラヴィソンは、騎士の目が緑だと初めて知った。騎士は、肖像画よりもずっとずっと美しい目をした王子だと思った。守り続けた宝石は、一片の穢れもなく輝いている。騎士はそれが嬉しかった。 「殿下」 「なにか」 「殿下のその美しい目に、卑しいものも汚いものも、愚かなものも映りませんようにお祈りしております」 「……」 「美しく気高い殿下には、美しいものがお似合いでございます」 「私は美しくないし、もう、殿下と呼ばれる立場でもない。とっくに身分は平民かそれ以下である」 「ラヴィソン様は、本当にお美しい、お強い方です」 「…………名はなんと言う」 「フォールでございます」  彼の見せたあたたかい笑顔を、きっと忘れないだろう。フォールは自分を美しいと言うけれど、強いと言うけれど、美しいほど強いのはこのフォールという名の騎士だ。もう、この笑顔以外は目にしたくない。 「どうか、お健やかであられますよう」 「…………大儀であった」  フォールは立ち上がり、最上位の敬意を示すお辞儀をして、ラヴィソンを讃えた。ラヴィソンはかたく目を閉じ、フォールが去っていく足音を聞いていた。  ラヴィソンはそれからずっと、目を開かなくなった。

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