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第26話
【第二章】 消えぬ望みを胸に抱いて
ラヴィソンとの訣別のすぐあとから、フォールは自国への帰路についた。同行する三名はやはり軍関係者で、ヴィヴァン国内の案内と隣国への入国を手伝ってくれるという。もちろん野宿もしなければ密入国もない。誰から追われるわけでもない旅を、フォールはほとんど全力疾走のようにしてこなしていく。
返書を自国で待つ王に届けることは一刻を争う任務であり、それを遂げなければ何もかもが無駄になるのだと、フォールは出発に際して三人に告げた。彼らは心得たと頷いてくれたけれど、正直に言えばこれ程までに無茶な道程を辿るとは思っていなかったようだ。想定では、三日目に国境となる河に着き、刻限が合えばそのまま、うまくいかなければ翌日に隣国への船に乗るというはずが、フォールの我武者羅な行軍で二日目の朝には河に着き、急いでいるのだと散々交渉して船の出航を早めるなどということまでさせられた。
「すまん」
「……まあ、いい」
フォールは憔悴し切っていた。夜眠るどころか、馬をおりて休むことさえ気が咎める。そんな張り詰めたフォールに、最初は忠告や苦言を呈していた三人も、すぐにそれは無駄で、彼のしたいようにさせるしかないらしいと気づき、フォールについて来てくれる。
本来彼らの任務はフォールの監視と出入国の手伝いだ。そして、フォールと別れた後は各自で諜報活動に入る。あらゆる厳しい訓練を受けてきた三人だけれど、鬼気迫るフォールの様子に当てられて、短いながらも酷く辛い旅となった。
まともな大型の船に、質問さえされずに馬とともに苦もなく乗り込み、どう焦っても進む速度が同じ渡航の間、フォールはずっと河の流れる先を見つめていた。その日はよく晴れていて、波も穏やかで、海のように広い河の色や水面に映る光が鮮やかだった。いろんな思いがこみ上げてくる。馬たちのこと。王子と自分を救ってくれた親切な家族のこと。何よりも、その大切な王子のこと。河は綺麗で行き着く先はまるで見えず、フォールの気持ちなど御構い無しに雄大に佇んでいた。
「これを持っていくといい」
「なんだ?」
「この国の滞在許可証だ。まあ、この調子じゃあっという間にこの国を抜けるだろうけど、身分を検められそうになればこれを見せればどうにかなる」
無事に船が接岸し、真っ先に降り立ったフォールは三人を従えるようにして先を急ぎ、自国との国境目前で取った小休止で年長の男にそう言われた。彼は文字と印の入った小さな布切れを差し出したので、フォールはそれを素直に受け取り、懐に仕舞う。
もう二度と会うこともないだろう。それでも、ヴィヴァン国の人から受けた恩は数えきれない。諸々の思いを込めて、フォールは丁寧に礼を述べた。そして、無理を強いたことを謝罪する。
「無事を祈っているよ。どうか、気を付けて」
「お互いに」
そう言って彼らと別れると、フォールはさらに吹っ切れたように自国を目指して走り出した。
フォールは寝食も忘れて奔った。生涯ただ一人とこころに決め、絶対の忠誠を誓った我が主が、届けよとおっしゃったのだ。既にないと考えている自分の命などどうでもよく、だから騎士は相当な無理をしていた。途中でさすがに馬が弱り、それを理由に一晩宿を取ったけれど、日の出とともにまた自国の王都を目指す。フォールは結局僅か三日で隣国を駆け抜け自国に帰還した。
知らない土地であっても、自国というのは安心する。しかしそういう風に弛みそうになる気持ちをフォールは引き締めた。望郷の想いを遂げられないあの御方を思えば、のん気でなどいられない。これまで通り最短の道を最速で。もちろんフォールはそう考えたけれど、一つだけ、どうしてもすべきことがあったので少し道を外れた。
国境から程近い小さな村。
林のある小高い丘の上に立てば、あのころの自分の浅はかさが思い出される。あの御方の声が、どこからか響いてきそうな錯覚に胸が痛い。フォールは無理を強いている馬の鬣を撫でてやり、悪いな、少しだけ遠回りをさせてくれと頼んだ。
フォールが向かったのは、往路で泊まった宿だった。街中まで進んだところで馬を下り、ゆっくりと歩いて向かう。死んだのであれば、誰もいないだろうか。それとも誰かが生業を引き継いでいるかもしれない。あるいは、……生きていて欲しい。
祈りや願いは強くても叶うわけではない。それを身に染みて知っているフォールにとって、あの軽薄な亭主と宿の前で鉢合わせたことは、だから俄かには信じられない光景だった。
「……え。え?旦那?お帰り、なんか変わっちゃったね?」
フォールは、その幸運を目の前にして、神に感謝を呟いた。それと同時に、地面に膝をつく。頑丈に鍛え上げられた亭主の体躯は少し痩せ、不自由そうに杖をつき、立つ姿は傾いていた。それもそのはずだ。彼の片足は失われていた。
「すまなかった……!」
それ以外に言葉はなかった。ギリギリと硬い土に爪を立て頭を下げて、自分の不用意だった行動を悔いる。悔いたところで彼の身体は元に戻らないとわかっているからこそ、どうしようもない後悔で打ちのめされた。
「どうしたの旦那、おかしいぜ?腹減ってんの?とりあえず立ってくれない?俺、屈めないし、あんたを担げないし」
亭主の声は心底困惑していた。それでフォールは慌てて立ち上がった。そして、パタパタと手のひらの汚れを払ってからおずおずと差し出す。亭主はきょとんとし、すぐ嫌そうに顔を顰めた。
「ご親切にどーも。あいにくおっさんと手を繋いで歩く趣味はねぇよ」
「あ、ああ……うん。そう、か」
「そうだよ」
亭主はすっかり呆れた顔で、おどおどしているフォールに背を向けて、さっさと自分の宿に入って行った。その動きが存外速くて、フォールは慌てつつもほんの少しほっとした。自分の馬を促して、いつかと同じように前庭につなぐ。そして開けられたままの扉から、そっと宿の中に入った。
まだ陽が高いので、窓からの光で十分明るかったけれど、そこに人影はなかった。亭主本人もいないし、客がいる気配もない。食堂を兼ねているはずなのに、椅子は机の上に乗せられて、勘定場には大きな布が掛けられて、使っていないことを示していた。
「腹減ってんだろ?」
「え……ああ……どうかな」
「あ?てめえの腹の面倒くらいてめえで見ろや」
声は、奥の方に見える開いた扉の向こうから聞こえる。フォールは呆然と立ち尽くしていた入り口をしっかり閉めてからそちらの部屋を覗いた。部屋ではなく、厨房だったようだ。しかしそこも客相手に使われている様子はなく、目につく道具は今亭主が手にしている小さな鍋だけだ。
「……畳んだのか」
「しばらくな。でもまあ、ボチボチ始める」
「そうか」
亭主は腹で台にもたれるようにして自分の身体を支え、器用に何かを料理している。服のふくらみは膝のあたりで途切れているようだ。フォールはどうしていいかわからずやはり立ち尽くした。
「……あんたが謝ることじゃねぇよ、旦那」
「いや。すべては俺が、俺の不注意が招いたことだ」
「そう思いたきゃそうしとけば?俺は誰も恨んでないし、何も諦めてないけど」
「しかし」
「弟君はどうした」
「…………」
フォールは亭主の手元をぼんやりと眺めていた。手際よく何かを作り上げていくその手が失われなくてよかったと、そんなことを考えながら。
「あんたは誰を恨んで、何を諦めたんだ?」
亭主も自分の手元だけを見ていた。久しぶりに誰かの食事を作ることが意外と楽しく、なおかつ上手くできて気分がいい。鍋の中身を深皿にあけて、そこに匙を添えてからおもむろにフォールの方を見た。フォールは、何も答えなかった。
「ここに椅子はない。自分で運んでくれ。あっちの食堂で食え」
「……ありがとう」
フォールは少し考えてから、緩慢に亭主に近づいたかと思うと軽く身を屈めて、彼を自分の肩に担ぎあげた。何やってんの!?と暴れるのを意に介さず、動くとこぼれると言いながら、空いた手で深皿を持ち、そのまま食堂へ移動する。
「俺はな、歩けるの!」
「ああ、わかってる」
「わかってないよね!?」
「これ、食ってもいいか」
「どーぞご勝手に!?相変わらずのトーヘンボクだな!」
「うまい」
そのスープは本当にうまかった。野菜がたくさん入っていて、一切れ放り込まれている肉は分厚いのに柔らかい。いったいあの短時間でどうしてこんなものが作れるのかフォールには不思議だった。そして、ここにいない美しい人を偲ぶ。フォールの真向いの椅子に座らされている亭主は、黙々と匙を動かすフォールを眺め、小さくため息をつく。
「そんなもんがうまいなんて、よほどひもじいんだな」
「いや、これがうまい」
「……なあ、旦那。この国は戦争中で、俺は敵国の出だ。危険を承知でここで商売をしている。今まで何度も厄介事はあったし、それは誰のせいでもない。怪我をしたのは俺の不注意だ。あんたや弟君のせいじゃない」
「きっかけは俺だ」
「かもしれない。だけどそれは些細なことだ」
「些細じゃ、ないだろう」
「脚ぐらい、また生える」
「……お前、まさかそれほどの」
「冗談だ。旦那は相変わらず冗談が通じない」
「生やす手立てはないものだろうか」
「あってたまるか。俺は人間だ。あのね、旦那」
「フォールだ」
「……あ、そう。俺はジャンティですどうぞよろしく」
「あの御方は、俺の弟などではない。この国の第三王子ラヴィソン様だ」
「えー…………中々のタマだったんだな……で?守られている子は元気?」
「……そうであって欲しい」
弟などではない。本当であれば傍によることさえ許されないような、高貴な身分の人。この国の宝石。俺の、誰よりも大切な主。
フォールは黙って料理を平らげた。ジャンティはそれを黙って見ていた。
それからフォールは、皿を洗うというジャンティのために、ちょうどいい高さの椅子を探して本人と共に厨房へ運んだ。そうしておいてから、一階を掃除し、食堂からまず再開すると聞いたので、椅子を降ろして机を拭いて回ったりもした。
「あらまあ、働き者だこと」
ジャンティはその様子を呆れた顔で眺めていた。やがて日が暮れたので、ジャンティはフォールに夕飯は何がいいかと聞いてきた。
「ありがとう。しかし、もう行くよ」
「泊まっていけよ」
「ああ……でも、先を急ぐ」
本当はジャンティの安否を、現状を確認したかっただけだったのだ。ズルズルといてしまったけれど、もう発たねばならない。フォールの仕事はまだ終わっていないのだから。
大きな図体でちまちまと布巾を使うフォールの背中に、ジャンティはもう一度泊まっていけと言った。
「ジャンティ。詳しくは話せないが、俺にはやるべきことがあるんだ」
「それは御大層なことで。だけど、そういう顔をして先を急ぐ男はろくな目に遭わない。俺を捨てていった男もそうだった」
ジャンティの言葉に、フォールは何も言えず黙り込んだ。彼は自分の脚と杖で歩いて、暗くなった部屋に灯りを入れていく。
「……俺はね、あっちの国でこの戦争に携わってた兵士だ。命を預け合う同僚と、こころを通わせていた。そいつは俺を捨ててあの国を去り、俺はあの国から逃げ出してここにいる」
「……そいつは、今」
「知らない。あんたの弟君と同じだよ。知らない。だけどもう会えない」
「それでもお前はここで待っているのか」
「……」
待っているのだろう、きっと。捨てたとか逃げたとか、それはきっと正確ではなくて、何か色々と事情があって離れてしまって、だけど再び会えるのを信じてここにいる。そうでなければ、こんな場所で商売などできるものじゃない。祖国を離れ、だけど、遠くへは行けない。だって、離れれば離れただけ、会えなくなりそうだから。
フォールは白けたような顔をしているジャンティを見つめて、そうか、と呟いた。
「お前のその強さがうらやましい。俺にはできない。あの御方と離れて、どうして生きていけるだろう」
言葉にして、フォールはじっと我慢していた絶望的な喪失感に、あっという間に飲み込まれた。どうして生きていけばいいのだろう。どうして俺は、生きているのだろう。ほんの僅かな時間を一緒に旅して、今となってはそれが人生のすべてだ。縋るべきはあの御方しかないのに、なぜ俺はここにいるんだろう。
「フォール」
「騎士という身分など要らない。もうすぐこの国は滅びるかもしれない。あの御方の生まれた国が消える。あの御方ももう、おられない。何もかも、俺にとっては意味を成さないし、色がない。虚しくて苦しくて、耐えられない。あの御方の今を思えば、俺のこの辛さなど取るに足りないとわかっている。それでも、俺は弱くて、あの御方のようにはいられない。あの気高く美しい方を失って、俺は、どうすれば……!」
「ここにいたらいい」
「お前にも世話をかけた……迷惑も。本当にすまなかった。今の俺には何もない。金も渡せない。ただ、言葉と気持ちだけしか」
「いい男になったよね、フォール。言葉と気持ちは、すべてに勝る」
「力がすべてだ。俺にはない。守りたい、守るべきを守る力は」
「力があっても、許しは得られない。安らぎもだ」
「あの御方のこころに安らぎを……許しは、要らない。望まない。ただ、あの御方が、どうか……」
耐えきれないほどの苦しさは、涙となって溢れる。あの美しい人は今きっと、誰よりも孤独で辛いに違いない。それが不憫で、傍にいられないことが不安で、そんな自分勝手な思いに嫌悪するけれど止まらない。精神も肉体も、極限であるのはフォールも同様だった。堰を切ったように感情の波は大きく揺れ動いて収まらず、フォールは自分自身を追い詰めていく。
「もしもあの御方が嬲られるのなら、この手で殺して差し上げたい。あの御方が死ぬのなら、その亡骸を弔いたい。救い出すことが叶わないのなら、ただひたすら、あの御方は苦しまないでいて欲しい。強く気高いあの御方は、だからこそ、誰からも蔑まれてはならないんだ。絶対にあの純粋な美しさを、無垢な一途さを、踏みにじることは許されない。傍に……どうして俺はお傍を離れたのか!?親書を持ち帰ったところで何になる?……家族か。そうだ、俺の家族……無事だろうか……俺は……」
「フォール」
「わかってる、わかってる……」
「ああ。わかってるよ。あんたは大丈夫だ」
ジャンティはフォールの背に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
実際、ジャンティが受けた拷問を伴う尋問は苛烈で、二人の向かった先はどこかという問いに答えるまで、見ず知らずの義手義足を着けた男に執拗に的確に嬲られた。あれは痛みと恐怖の与え方を知り尽くしている男だった。ジャンティが耐えられたのはそれほど長い時間ではなく、もちろんそれは奴らにも時間がなかったからだけれど、国境へ向かったと思うとようやく口にしたとき、奴らはジャンティから情報を得ることに見切りをつけて、成果が得られなかったことへの腹いせのように足を潰し、失神するまで殴打を繰り返した。もしも時間があったのなら、ジャンティは殺されていた。彼らはいずれ死ぬだろうというところまで痛めつけたつもりだったようだが、運よくどうにか生き延びられたというだけだ。
だけど、あの変わった兄弟を恨む気持ちにはならなかったし、今こうしていても、そういう感情は湧かない。二人が必死だったことは、わかっていたから。
フォールは混乱していた。そして、弱っていた。慈悲深い男に慰めを求めるほどに。その晩は夕飯も食べずに、二人は部屋に籠って身体を繋げていた。何も生み出さない、誰も傷つけないその行為は、誰の癒しにもならなかった。
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