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第27話
夜明けが来て、フォールはぼんやりと汚い天井を見上げていた。すぐ隣にいる男も寝てはいないだろう。背中しか見えないけれど、気配で伝わってくる。
「…………世話を掛けた」
「まったくだ」
案の定、呟くようなフォールの声に、すぐさまはっきりとした反応が返ってくる。
ここでこうしていても、何も始まらないし終わらない。フォールは先を急ぐ決心をした。大切な王子から拝した最後の御下命だ。果たさないという選択肢はありえない。はじめからそうだったのに、苦しさに紛れて取り乱し、迷いが生まれていた。自分の進む道はたった一つで、戻ることは出来ない。
身体を起こして身支度を整える。服を身につけ靴を履き、小さな荷物を持って立ち上がっても、ジャンティは背を向けて横になったままだった。
「……行く。色々、すまなかった」
「死ぬなよ」
「お前も、身体を厭ってくれ」
「死ぬなよ」
フォールにとって、自分が死ぬか死なないかはあまり関心がなかった。ただ漠然と、すべての終わりが近いと悟っていて、ジャンティもそれに気づいているのだろう。彼の身体には拷問で受けたらしいまだ癒えない傷がたくさんあって、フォールも旅の傷が残っていた。文字通りそれを舐めあうように一晩を過ごしても、死なないと答えるほど、フォールは優しくなれなかった。
「お前の作るスープはうまい。殿下もお気に召したようだった」
「あの子は好き嫌いをしないいい子だ」
「本当に、ご立派な方だ」
「守られてるよ、きっと。言葉はまじないに変わる」
「ああ」
フォールの方を見もせずにジャンティが寄越した言葉は、とても慰めになった。どうか最後まで、お望みのようなご自身でいられますように。それがきっと、彼がいつも捨ててもかまわないと言っていた尊厳なのだろう。その潔い覚悟があれば、きっとどんな目に遭おうと、彼は誇り高いままに違いない。
フォールはその宿を出立し、以前にも増して馬を駆り、王都への途を急いだ。久しぶりにそこへ帰り着いたのは、それから数日後の深夜だった。
フォールは旅に出る時に王宮から渡されていた特別の通行証を持っていたので、一番最初の門で馬を預けた以降、次々に警備を通過して行き、あっという間に中枢までたどり着いた。夜半であるという条件を加味しても、お世辞にも雰囲気がいいとは言えない。王宮の中は陰鬱で、およそ覇気というものが一切感じられなかった。旅に出るときにはまだもう少し、ましだったように思ったけれど、今となっては国の終焉を映したような虚無感に支配されきっているように思えた。
「やっと戻ったか。ご苦労」
苛立つほど待たされ、ようやく現れたのは知らない男だった。何だか持って回ったような言い方で、自分は今、国王に一番近い立場だと主張する。フォールが、旅に出る時に話した宰相殿は如何したのですかと問えば、故郷に帰られたと聞いているなどと言う。この僅かな間に、王宮は様変わりしたらしい。
「返書は」
「ここにございます」
「出すがよい。陛下にすぐにお見せせねば」
「恐れながら。国王陛下に直にお会いし、お渡し致したく存じます」
「何を生意気な……さっさと出せ!」
「呪いでございます、宰相殿。直接、お願いを申し上げます」
この男がどういう者か、探っている時間はないし興味もない。ただ、フォールは最後までやり遂げねばならなかった。ラヴィソンと引き換えた返書が間違いなく王の手に渡るのを、見届けなければ終われない。
フォールは立位のままで、新顔の宰相に対して軽く頭を下げる形で対峙していた。彼が何事か強い不満を口にし始めたところで顔を上げ、感情のない目で射る。
「夜更けではございますが、お取次ぎを願います。また、私の家族にも連絡を」
「たかが騎士風情が……」
「お急ぎください」
一瞬の拮抗。今のフォールを止められるのはラヴィソンだけだろう。最初から勝負にならない睨みあいは、宰相が目を逸らしながらわめく事で終わった。傍に立っていた警護らしき男たちに、この騎士の家族全員を叩き起こして来いと怒鳴りつけ、自分は足音高く部屋を出て行く。国王の間へ行ったのだろう。フォールは少し息を吐いて胸元に手をやり、そこに収まる書簡を確かめた。何が書いてあるのかはわからない。ヴィヴァン国の王の言葉を信じるしかない。ただもし、今すぐ援軍を送り隣国を追い払うので安心せよと認められていたとして、勝利でこの長い戦争を終えられたとして、一体何が残るのだろうかと考える。答えなどない。いや、答えは出ているのだ。
「フォール!」
物思いに沈んでいたフォールが我に返ったのは、懐かしい声のおかげだ。父母は少しやつれていて、兄弟は勢いよくフォールに抱きついてくる。
「父さん、母さん……無事でよかった」
「何が何だかわからなかったんだよ、ここしばらく……お前の極秘任務とやらのおかげで、我々に危険があってはいけないからとこちらに匿われていて」
「ああ……ごめんな、迷惑をかけた」
「いいのよ、あなたがこうして戻ってきてくれたんだから。務めを果たしたのね?」
フォールは曖昧に笑い、またしばらく会えないと思うと告げた。だけど、もうこんな風に見張られるようなことはないから、村に戻って今までどおり暮らせるよと。歳の離れた弟妹は、それでもラヴィソンより年上だけれど、口々に兄貴はどうするんだ、どこへ行くんだと聞いてくる。兄は察しているのか難しい顔をして何も言わず、両親は自分の息子の処遇が腹に据えかねるようだ。それでも、ここは王宮だ。声高に不満を叫ぶのは難しい。再会の感激が収まれば、気まずいような寂しさが漂う。
「会えなくても、俺にとって家族は大事だから。どうか、みんな元気でいてくれよ」
フォールにはそう言うしかなかった。そして、自分がいなくなった後でも、彼らが穏やかに生活できることを願う。もう誰も、自分のせいで不幸になって欲しくないし、彼らを守ることはできないから。
やがて人相の悪い男が数人部屋に入ってきて、フォールと家族を引き離そうとした。彼らは命じられるまま事の善悪もわからず働いているだけなので、フォールは抗議しなかった。家族らは、フォールとはもう二度と会えないような気がして、この別れが辛くて少し泣いていた。
「大丈夫だよ。大丈夫。俺は元気にやるから心配しないで」
それ以上言えなかった。本当に家族を解放してくれるだろうか。恙無くこの先過ごしていけるだろうか。それを誰に頼めばいいのかさえわからない。フォールにとって、この国にいる王族とそれに近い者はすべて信用ならざる者たちだった。
頷きあい、抱きしめて、離れ難さを振り切るように、家族は部屋を出て行った。そしてそれからまた長い時間を待たされて、ようやく先ほどの宰相がフォールを呼びに来た。自分は身分が高いと言っておきながら、自ら動き回る様を見れば信用できる部下がいないか、そもそも絶対的な人手が足りていないかなのだろう。その両方なのかもしれない。フォールは無言で彼の後に続き、別の部屋へ向かった。
そこは、あの日初めてラヴィソンと出会った部屋だった。美しい王子の声を初めて耳にし、その柔らかい耳障りを心地よく思った。全貌の知れない任務に不信感を持ってその場にいたけれど、ラヴィソンのために扉を開けたあの瞬間、きっと自分の道を決したのだろうと思う。この御方のために働こう。ここへ舞い戻ってきて、あの日が遥か昔のことのように感じられた。
空の玉座を一瞬睨みつけてから、騎士に許される距離をとって床に跪き、頭を下げて控えると、それを見届けたかのように奥の豪奢な扉が開かれて国王が現れた。靴音と衣擦れの音、続いて座する音。もったいぶってのことなのか、王は中々、帰還した騎士に声を掛けなかった。
「バルバからの返書を、私に直接渡したいと申したか」
「……恐れながら申し上げます、国王陛下」
「なんだ」
「かの国は、バルバという名ではございませんでした」
「どうでもよい。時間のかかる任務を果たしたようなので、特別に、私のそばへ寄ることを許す。返書をこちらへ」
「………………は」
王の声は胡乱げで、ひどく不機嫌だった。フォールはそんな王の態度が不服だったけれど、こんなところで揉めても仕方がない。フォールが更に頭を下げてからおもむろに立ち上がろうとすると、先ほど家族を連れて行った男たちが入ってきて、フォールの動きを監視している。
俺は罪人か?
確かに、王に手の届くところまで平民が近寄るなど尋常ではない。ここにフォールを案内したのが不慣れな宰相だったせいで、フォールは所持品さえ検められていない。王を本気で守る気があるのだろうか?
輝かしい過去に胡坐をかき続け、その床下が腐って傾きつつあるのに気づかないのだろう。こんな国のために自らの人生を投げ出したあの王子が不憫で、そうさせたこの王が情けなく思える。この一瞬に王を殺し、その首と引き換えに王子を救い出せないものだろうかとさえ考えたが、実行するわけにはいかない。王子は、この国の未来のためを思ってあの国に残られたのだから。どれほど落ちぶれても、ここはラヴィソンとフォールの大切な祖国だ。
フォールはその場で立ち上がり、まず懐から書簡を取り出し、それを両手で腹の前あたりに捧げ持った状態で王にゆっくりと近づく。それが一番不穏に見えないだろうからだ。王は平和ボケなのか鷹揚なのか、肘掛に半身を預けるようにしてフォールの手元を眺めている。
「こちらでございます」
「大儀であった」
奇しくも同じ言葉だった。なんと違って聞こえることか。フォールは書簡を王に渡し、元の位置へ戻って跪く。フォールは王がその書簡にこの場で目を通し、それについて何事か述べ、内容の一端を察せられないだろうかと期待していた。我が国と隣国の仲裁をヴィヴァンが務めてくれて、諸々片付けば王子を返す、とでも書かれていないだろうかと。しかし、王は封を切ることもなくそれをポンポンと手慰みにするばかりで一向に開かない。
王と宰相にしてみれば、この国の中枢の弱みをあからさまにするなどもっての外だと考えていたので、震えるほど待ちわびた書簡であったけれど、この騎士の前で読むことをする気はさらさらなかった。更に言えば、それよりも他にすべきがあるのだと考えていた。それはもちろん、多くを知りすぎたこの男の処遇である。
「それで、我が弟、大事な第三王子はどこだ?」
「!?」
玉座の主は、ひどく冷ややかな顔でフォールを見た。意図がわからず答えに窮していると、畳み掛けるように宰相が大きな声を出す。
「貴様まさか、殿下をあの野蛮国へ置いてきたのではあるまいな?」
ああ、そういうことか。
フォールは床を見つめていた目を閉じた。最初からあの御方の安否など、気持ちなど、斟酌するつもりもなかったくせに、なんと狡猾なのだろう。ヴィヴァンに届けたあの書簡には、まるで人身御供か付け届け程度の軽さで、あの美しい人を差し出すと書いていたのではないのか!?フォールはラヴィソンが不憫でならなくて、唇を噛む。しかしすべては推測だ。
「……ラヴィソン殿下におかれましては、かの国に残られ、この国の」
「護衛という職務を忘れて、最も守るべきを見捨てるとは」
見捨てる?あの方をみすみす見殺しにしたのは貴様らだ!
フォールはそう叫びたかったけれど、できなかった。見捨てるという言葉が、あまりに突き刺さったからだ。こいつらに言われる道理はない。ただ、自分の正義と良心に照らせば、まさしく見捨てたも同然。状況はどうあれ、死ぬ程の後悔をしているフォールにとって、その言葉はまさしく息の根を止めるような鋭さだった。
悔しさに震えて黙り込むフォールに、王は嘆息した。
「致し方あるまい。こうして返書は届いたが、下賤で野蛮な国のすることである。ラヴィソンも、この国の王族であるという矜恃を忘れたのやも知れぬ。バルバの国の慰み者として、気楽な人生を選んだのであれば、戻ってこずとも不思議はないし、アレもこの国の、この王の役に立てれば本望というものであろう」
「如何致しましょう、陛下。先般の第二王子殿下の云々では、病を得て御隠れになったということで国民に発表しておりますので、三の御方様も病であるとすると些か……」
「流行り病かと騒がれてもな」
「は。得策ではないように存じます」
フォールは自分の耳に入る会話がまったく信じられなかった。この二人は一体何を話しているのだろうか。あれほど必死に旅をして、異国でもじっと耐え忍び、この結果にこぎつけたあの御方がこの国にいない理由を相談しているのか。そんなものは決まっている。国のため、民のため、果敢に働かれた。それ以外に何があるというのだ!
「恐れながら、陛下」
「慎め。貴様のごとき騎士風情、陛下に何かを申し上げるなど僭越も甚だしい」
「しかし……!」
国王はこのやり取りを面白くなさそうに見遣り、ふんと鼻息を吐いて、何でもよかろうと言った。
「勉強がてら他国に行かせたら、見初められたということでよいのではないか」
「は……」
「もしくは、そうだな。元々奔放な性質であったので、あちらで淫らな遊びを覚えて戻ってこなくなったとでもしておけばよい。アレはなんだか国民に人気がある。容姿のせいだろうとは思うが、であるからこそ、艶事を囁いたほうがわかりやすかろう。不慮の事態で命を落としたとするよりも、この国を捨てて行ったとしたほうが後腐れがなくてよい」
「それではあまりにラヴィソン殿下の名誉が貶められます!」
フォールは思わず大きな声を出していた。奔放で淫らだと?なんと言う侮辱。怒りが全身から噴出し、フォールの周りに湯気が立っているようにさえ見えただろう。ラヴィソンに反駁の機会がないのをいいことに、切って捨てようというのか。それらはすべて、自らの後ろ暗さ、自信のなさの裏返しだ。何の努力も覚悟もないくせに、好転の機運だけは我が物とし、内心の焦燥や下心は隠したくて必死になっている。卑しく惨めな精神でありながら、自分だけは偉くて強いと勘違いしていて、そう見せかけるためには他者を辱めることに躊躇いがない。
ラヴィソンのように、何もかもを賭せとは言わない。それでも、一国の王として、為すべきを為した者を顕彰するのは当然ではないのか。ラヴィソンは国を挙げて讃えられるべきであって、でまかせの謗りを受けさせられるいわれはない。彼の行いで、今この国は救われようとしている。その事実を捻じ曲げるつもりなのか。
フォールは強烈な敵意を込めた視線で、何の敬意も払わずに玉座に座る男の目を睨む。遠く離れたこの場所で、フォールに護れるものはラヴィソンの名誉だけだ。祭り上げて欲しいのではない。ただ、よくやってくれた、ラヴィソンのおかげで助かるのだと、あの美しい王子を心底から労って欲しかった。彼の苦労を、そのほんのわずかだけでも酌んでくれれば、あの御方だって報われるに違いないのだ。
しかしラヴィソンの長兄は、不愉快そうに顔を歪める。
「あまねく国民は、この王の庇護の下にある。ましてや騎士団は私の直轄。王に刃向かうなど正気の沙汰とは思えぬ」
「まったくでございます、陛下……」
「いかなる立場であれ、ラヴィソン殿下の名誉を傷つけることは承服いたしかねます。殿下におかれましては、不慣れな旅と異国の地で大変なご苦労の果てに陛下よりの親書を届け、先方より返書を賜るという任務をご立派に全うされたのです。この事実を」
「随分と情が移ったようであるな?我が弟に。なんぞ、褒美でももろうたか」
「……?」
フォールの陳情を遮って、書簡をユラユラと振り回す男は、心底くだらない話だと言わんばかりの顔でフォールを見おろす。彼から投げつけられた言葉が咄嗟には理解できず、フォールは黙った。男は、国を統べる者としては大変に品のない所作で、嘲るように短く笑った。
「いいように誘惑されて、アレに骨抜きにされたか?逃亡に手を貸せば抱かせてやるとでも。それともあるいは、言うことを聞けば逃がしてやると嘯いて手籠めにでもしたか」
フォールは今見ている世界が、脆い石でできた虚構に思えた。それほどの衝撃と虚しさ。この男のせいで、あの御方の必死の奮闘が徒爾に終わると悟った。一瞬遅れてフォールを満たしたのは雑じり気のない純粋な烈火のごとき憤怒だった。燃え上がり、それはフォール自身をあっという間に飲み込んでいゆく。その気配に、愚かな男二人は気づかなかった。
「男色など、この王にはまったく理解のできぬ薄気味悪い趣味である。しかしまあ、我が弟ほどの美しさがあれば、そのような気になるのかもしれぬな。下々の者のことは不可解である」
「恐れながら。陛下にはそのような汚らしい行いを案じられることのございませんよう」
「ふん……いずれにせよ、もうおらぬ者。この騎士にも、必要な情報は残らず差し出させるように」
「御意にございます」
次の瞬間、宰相は遠くの壁まで吹っ飛んでいた。フォールの大きく硬い拳は、宰相の顎を砕いて怒りの一端を知らしめたのだ。邪魔を払い、玉座の男に踊りかからんとするまで瞬き二つ分ほどの時間だった。しかしその刹那、フォールは脚に衝撃と熱を感じた。続けて肩。警備による発砲だった。鉛も火薬も貴重なので、銃はほとんど出回っていない武器だけれど、この国の王を守ることには配備されているようだ。この瞬間に躊躇わず撃った警備の人間は優秀であるといわざるを得ない。もしくは思わず撃ってしまうほどの恐怖を感じたのかもしれない。フォールの短剣が本懐を遂げる直前で、畳み掛けるように取り押さえられた。
フォールはこの時痛みを感じていなかったので、なぜ自分の身体がうまく動かず、無様にも羽交い絞めにされたのかが理解できなかった。座ったままの王冠を被った男が、殺すことは許さぬと言ったせいか、とどめを刺されることもなくただ数人に寄って集って手足を拘束される。フォールは吼え、それでも前へ進む。血が男の着る豪勢な衣装にまで飛び散ると、非常に不愉快そうな顔をして見せた。
この男を、許さない。背中と腕と脚にしがみつかれながらも、フォールは止まらなかった。棍棒で打たれても玉座に座る男から目を逸らさず、肉が裂けても怯まなかった。太く長い腕を伸ばし、間違いなく殺すつもりで襲い掛かるけれど、その指が、わずかに届かない。悔しさと不甲斐なさで壁さえ震えるほど咆哮する。
「殿下を侮辱するな!貴様のような卑しい性根の者に、あの御方を蔑む資格はない!」
「何という野蛮な……まるで獣であるな」
さすがに王族といったところか、自分に加護があると信じて疑わないのだろう、殺意をまともに向けられて迫られているのに、玉座の男は眉を顰めて顔を背けただけだった。
「あの宰相はもう使えぬな……どいつもこいつも、この王を喜ばせることのないことだ」
「ラヴィソン様はそのすべてを捨てて、この国のためにあの国に留まられたのだ!その御英断を、御決意を……貴様のごとき鄙劣な輩が踏みにじることなど絶対に許さんぞ!!本気でそのようなことを喧伝し殿下を愚弄するのなら」
貴様を必ず呪い殺してやる!
覚えているのはそこまでだ。身体中の血が、細胞が、怒りと憤りで滾りひどい熱を感じた。我武者羅に暴れ、叫び、意識が戻った時には枷をつけられて真っ暗な部屋に閉じ込められていた。
誰かの声が聞こえる。どうやら見張りの交代をしているようだ。どのくらい失神していたのだろうか。黴臭い臭気とともに、鉄錆びた血の臭いが漂っている。フォールが目を覚ましていることに気付いていないらしく、油断していたのだろう、最初に入ってきた男は一人だったし抜き身の剣を持っているわけでもなかった。フォールは彼が最も近づいたときを見定めて素早く上半身を起こし、動くほうの腕を振って枷につけられた鎖を空に舞わせると、一瞬のうちにその男の首に巻きつけて締め上げた。さらに続いて入ってきた者たちも沈めようとしたけれど、床に縫いとめられた身体ではそれ以上動けず、棍棒で強かに打たれてしまう。
「起きたのなら取調べだ」
低く冷たい声でそう告げられて、更に鎖で椅子に固定され目隠しをされて、その椅子ごと別の部屋へ運ばれる。そこではいかにも拷問の好きそうな男が、フォールを一日中痛めつけられながら様々な質問を投げつけた。
ヴィヴァンからの返書には、確かにこの戦争においてこの国が負けることのないように手を打つと記されていた。それを読んだこの国を統べる者は、苛立った。何という曖昧な記述だろうか。我が国の送った親書を真面目に読めば、このような返事はあるまいと憤る。そしてこれ以上の情報を得ようと、フォールを折檻するように指示を出したのだ。あの国の軍力は如何ほどか、その内のどのくらいを派兵してくるのか。それにはどのくらいの時間がかかるのか。焦りはすでに極限に達し、ラヴィソンの祖国は息絶える直前だったのだ。この歴史ある大国が、恥を忍んで助けを求めているというのに、なんという不義理なのか。くれてやった第三王子では足りぬのか。ジリジリとした焦燥は、しかし何も解決せず、ただ日を追うごとにフォールへの拷問は酸鼻を極めていった。フォールの荷物の中に隣国の滞在証をみつければ、諜者に成り下がったかと暴虐はとどまるところを知らない。情報などより、ほとんど私刑の有り様で、それでもフォールは何一つ語ろうとはしなかった。ラヴィソンのこともあの国のことも、尊重する気のない者にはわずかも聞かせたくなかったからだ。
そうやって暗闇の中で、フォールは失意に溺れていた。
傷が治らない。殴打を受けた痕は腫れあがり、血はじわじわと流れ続けている。骨に異常のある場所の痛みはひどく、全身は火がついているように嫌な熱りに包まれている。その痛みを感じないほど意識が薄れていき、痛みのおかげで意識が戻る。その繰り返しだった。最初に撃たれた脚の感覚はすでにない。千切れたのだろうかとさえ思う。確かめようにも腕が拘束されているし、閉じ込められているのは真っ暗な部屋だ。見ることも触ることもできない。フォールは、もしそうならジャンティの脚が代わりに生えればいいのにと考えたりもした。自分は目を開けているかどうかもわからないような暗闇の地下房。仰向けに横たわる床は岩盤がむき出しでいつもじめじめと濡れている。背中に伝わるその薄気味悪い冷たさが不快で、だけど熱をはらむ身体にはちょうどいいような気もする。
俺は死ぬのか。
フォールは朦朧とした頭で漫然とそう考えていた。あの旅の間、これと同じくらいの大怪我を何度もした。しかしこんな風に動けなくなり、いつまでも治らないということはなかった。身体は正直だ。治したところでどうにもならないとわかっていて、手足が千切れようと立っていなければいけないという事態ではなくなって、だからきっとこうやってゆっくりと死んでいくのだろう。
あの御方はどうしておられるだろうか。
煌きのように甦るのは、あの時拝見したお姿だ。漆黒の正装を一部の隙もなくスッキリと着こなして、簡素な椅子に腰掛けて、美しいとしか表現しようのないほど美しい黒い瞳で自分を見てくださった。お顔立ちも、漂う気品も、透明な光に包まれているかのようだった。思い出せば、こころが穏やかになっていく。その反面、あの美しさが損なわれてはいないだろうかと不安になる。最後までお守りしたかった。それだけがフォールには心残りで、今でも辛くて苦しい。微力であっても、あの御方の傍で、心身がお健やかでいられるように尽くし続けたかった。
寒い思いはしておられませんか
あの国においては温暖なようだけれど、寒い日もあるだろう。母親の持たせた織物は二枚ともあちらへ置いてきた。お足元だけでも温めるのにあれをお使いいただけたらいいのだが。
空腹ではありませんか
お育ちの良さからか、旅の粗食はお口に合わなかったようだが、最初はともかく、ほとんど黙って召し上がってくださっていた。あの国の食べ物は如何だろうか。きちんと食事を供されているだろうか。甘いものはお好きだったようだから、時々はご所望になられるかもしれない。ひもじいことでは、お身体に障るから。
お辛いでしょうが、どうか……どうか────
こころの灯りが一つずつ、消えていくような思いだった。暗い。暗くなる。自分にはもう何もないけれど、彼には未来と希望を諦めないでいて欲しい。美しいあの御方は、この先どれほどの人物に成長なさるのだろう。
不甲斐ないことで申し訳のしようもございません
何一つ役に立てなかった情けない自分を、このまま野垂れ死にすることを、許して欲しいとは、望まない。ただ、ああ……死ぬ前にもう一度、お会いしたかった。もう、祈るとか願うとかいう気力はなく、そう思っていた。お言葉をいただけなくとも、ご尊顔を拝見できなくとも、かまわない。あのすっきりと伸ばされた背を遠くからひと目。ただそれだけでいいのに。
両手足はもちろん、首にまで重く頑丈な枷を嵌められ、重傷で立つ事もままならない。地下深く何重にも柵や檻や錠に阻まれて、陽の光も二度と見られないだろうと諦観している。けれど、太陽などよりもずっと、あの背を望んだ。目じりを伝うのは、天井から落ちる滴だろうか。
あの大切な名を、呼びたかった。夜空に輝く綺羅星のごとき存在の名を。しかしもう唇は動かず喉は潰れて、もし呼んだとしても届くことはない。
暗闇はゆっくりと、フォールの存在を塗りつぶしていった。
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