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第28話

少し時間が前後します ◆  出立時に少しごたごたがあったけれど、アンソレイエは首都を離れた。ごくごく稀にある、静養だ。わずかな日数であるとはいえ、政務が止まるのだから、その日が近づくにつれてアンソレイエ本人含めて周囲は慌ただしかった。だから、異国から何やら訳ありらしい者が二名、通常とは違う方法で入国したという話を聞いても、彼らが会いたがっていると聞いても、会ってやってくれないかと言われても、そもそも身動きが取れなかったのだ。 「シャルルー水軍将軍閣下がお見えでございます」 「通せ」  一国の王と会うのは容易ではない。例えそれがこの国に三人しかいない将軍という立場で、国王軍の一つを動かし領海河全域の安寧を預かる男であったとしても、だ。アンソレイエは首都での当面の政務をすべて終え、静養先へ向かう直前、政の場である大王宮内の自室で支度をしているところだった。王の自室にまで入り込める人間はほぼいない。そこに平然と現れるのが、シャルルーの乳兄弟としての、たった一つのわがままだ。 「失礼いたします」 「追いかけてくるのだな」 「はい。明後日、そちらへ参ります」  アンソレイエは満足げに頷き、着せかけられた上着の腰ひもを自分で結びながらシャルルーを振り返る。静養はいつも同じ場所で、それは大きな河の中州だ。当然水軍の管轄になり、その警護も首都警護部隊から現地で引き継がれる。毎回、シャルルーは全日程ではないものの、アンソレイエと一緒に過ごす。それは警護のためではなく、あくまでも私的に休暇を得てのことだ。アンソレイエが命令ではなく、そうして欲しいと言うから。 「ご出立間近の時に、恐れながら参上いたしました」 「あの話か」 「は」 「首都に戻ってから会う。それでよいか」 「ほんの一目でいいのです。何卒、本日、彼らに陛下の貴重なお時間を賜りたくお願いを申し上げます」 「シャルルーはいつも、無理ばかり私に強いる」 「恐れ多いことでございます、陛下。私のすべては、陛下のおこころのままに」  本当は、シャルルーはあまりアンソレイエに何かを頼むことはない。ましてや、彼の判断の再考など、願い出ることは一度もなかった。アンソレイエにはそれが少し嬉しくて、シャルルーを困らせたいような気がした。実際にわがままなのはアンソレイエの方だ。そもそもの立場が違うので、わがままというのにも語弊はあるし、実際アンソレイエに自由は少ない。 「私の予定は変えられぬ。これより第三隊の駐屯所を経由して移動が始まる。時間はない」  静養とはいえ、その予定のためにあらゆる関係者が準備を進めてきている。変更は難しい。特に警護者は、もし今予定を変えれば対応に追われて大変な目に遭うだろ。それを知らないシャルルーでもないだろうに、アンソレイエは不思議に思った。シャルルーは頭を下げたまま、穏やかに言葉を繋げる。 「彼らは第三隊の駐屯所におります。そちらで、ひと時だけでも」 「さようか」 「親書を……何か書簡を、陛下にお渡ししたいとのことでございます」 「さようか」  そこへ、第三隊の駐屯所までアンソレイエを連れていく者が姿を現す。すべては予定通り。それらは忠実に実行されていく。 「わかった。では、そのように」  シャルルーはその返事をもらって、深く頭を下げた。その姿勢のまま、偉大な王が出かけていくのを見送る。彼の無事を祈りながら。  移動中にシャルルーからの依頼を聞かされた第一隊が、王の安全を思うが故に先走り、ラヴィソンたちを退けようとしたけれど、結局アンソレイエはシャルルーとの約束を果たし、輝くほど美しい王子から受け取った親書を持ったまま、静養のために首都を離れた。  この、アンソレイエが治めるヴィヴァンは新興国の部類に入る。しかし親書を寄越した大国は、歴史深く、それだけ文化も成熟していると聞く。些か封建的であるらしいけれど、国土に恵まれ、三方を海に囲まれた地形を活かして海運を発達させ、富を築き、他国との貿易で様々なことを吸収して発展してきたらしい。  しかしその歴史に対する自負が大きかったのか、国交を結ぶ相手を選ぶようなところがあり、またそういったある種の狭量さが近代においては災いしているとも聞こえていた。ヴィヴァンは、かの国から選ばれなかった国だ。現王アンソレイエは二十数代目の統治者であるけれど、それでもかの国の半分に満たないほどの歴史しかない。その差が埋まることはなく、歯牙にも掛けてもらえず、ヴィヴァンとしても国境を接してもおらず向こうから攻撃もないので、世界共通の慣習の挨拶の書簡程度しか交流はない。それさえ届かないこともあるほどに縁遠い国なのだ。    かの国が滅ぶと、我がヴィヴァン国に不都合があるだろうか?アンソレイエは著しい影響を受けることはないだろうと踏んだ。しかし、かの国と自国の間にある、河を挟んだ隣国が攻め落とすとなれば話は変わる。    隣国はヴィヴァンよりも更に新興で、というよりは政権が長持ちしない国なのだ。王国になったり帝国になったり、それらが民衆に倒されたりと、動乱がずっと続いていて、その度に歴史が分断されて国としての成長もままならない。ここの所落ち着いて見えるのは偏にラヴィソンの祖国と戦争をしているからだ。  あの大国を手に入れる。その強大で甘美な目標に向かって、隣国はまとまりを見せている。勝利すれば土地も文化も歴史も我が物だ。これで晴れて大国の仲間入りとなる。そう考えれば、しかも勝機が明らかであれば、勢いづきますます有利になっていくのは当然だった。  ヴィヴァンにとって、隣国はあまり仲良くしたい国ではない。河を隔てて国境を接しているので密入国も繰り返されるしそれを取り締まる様子も見受けられない。大した産業もなく交易も盛んではないのに向こうから密かに持ち込まれる不届きな荷物もあるので、文字通り水際での戦いは結構熾烈だ。一応不可侵の約束は交わしているけれど、歴史上何度かそれを一方的に破棄されたこともある。あの国は、とにかく、豊かな国がうらやましくて仕方がないらしい。しかしそもそも統率力に欠ける者が率いるので、ヴィヴァンの返り討ちにあうことを繰り返してきた。それが今、あの国を陥落せんとしている。     「厄介だろうな」      アンソレイエは呟いた。厄介だ。鬱屈した積年の感情が満たされれば、あの国は図に乗ってあっという間にこちらへ向かってその汚い手を伸ばしてくるだろう。それを握ることも払うことも、非常に面倒を伴う。     「助けるか……」      愛する我がヴィヴァン国のために。ただ、あの大国がこちらへ感謝して恩を感じて謙るようなことはあり得ない。助けたはいいが、「ご苦労だった」と一言で済ませられてはこちらのメンツが保てない。「お役に立てて何よりです」などと答えるわけにはいかないのだ。     「何を考えておいでですか、陛下」   「んー?」      間近から声を掛けられて、アンソレイエは生返事をした。平常からは考えられないほど、気を抜いている。首都を離れてここにいると、勝手にそうなってしまうのだから仕方がない。持ったままだった杯を口元に宛がいつつ、アンソレイエは声の主に微笑んだ。シャルルーはアンソレイエの望んだとおり、昨日の朝早くに追いかけてきてくれた。一人で過ごした間よりも、一緒の方がずっと、こころが休まる。 「あの美しい王子のことだ」   「珍しい。女のことかとお察し申し上げておりましたが」   「女とは考えることではなく、そばに置いて愛することであるのでな」   「愛情深いことで、何よりでございます」    慇懃な言葉とは裏腹に、水軍を統べる男がアンソレイエの隣に座る。同じ杯に同じ酒を満たし、同じように煽る。アンソレイエはこの乳兄弟の傍にいると、気が抜けてしまうのだ。それは物心着く前からの習いであるので、今さら改められるものではない。だからこそ、いくつかの季節に一度程度にしか、こういう機会を設けない。しばしばであれば、ただの虚けになると自覚があるからだ。     「シャルルーはどう思うのだ」   「助けてやりたいと、強く思います」   「なぜ」   「気に入ったからです」   「あの王子を?」   「いいえ。あの護衛をです。私の部下に欲しい」   「あの護衛が、この私に忠誠を誓うとは思えぬが」   「ではいけませんね。陛下への絶対の忠誠がなければ、この国で軍人は務まりません」   「王子から、あの護衛までも取り上げては不憫であろう」   「わかりかねます、陛下」   「さようか」      シャルルーは確かにあの護衛が気に入った。気に入ったというよりは、気になったというほうが正しい。彼のように我武者羅にひたすらに、大切な主人を守るために働く先には何があるのだろうかと。守りきれば、どうなるのか。守れなければ、あるいは。  個人としては常に守られる側であるこの国王に、その視点はないだろうと思う。彼の視野には自国がそのまますっぽりと入っていて、個々人を云々するという思惑は乏しい。もちろん、気に入った女を傍に寄せるのは大好きで、自分の血を分けた子らを可愛がりはするけれど、いざというときにアンソレイエが守るべきは国であり、彼本人と彼の周囲の人間を守るのは軍人の仕事だ。シャルルーは見慣れた王の顔を、遠慮もなく見つめていた。精悍な横顔は酒の肴にちょうどいい。     「シャルルーはまだ、水辺がよいのか」   「ええ」 「……よいところであるからな」      ふん、と、アンソレイエは面白くなさそうな顔で杯を煽る。シャルルーが何度言っても首都に、自分のお膝元に戻らないのが気に入らないのだ。だからといって、強権を発動するほど馬鹿でもない。ただ、自分の思い通りにならないのがつまらないだけ。気心の知れた乳兄弟が、自分の頼みを聞いてくれないから面白くなくて仕方がない。     「私は今ここにおりますよ、陛下」   「わかっている」      シャルルーは苦笑いを浮かべる。生まれたときから王になると決まっていたこの男は、人格者で聡明で思慮深い。王冠を戴いたその日から、シャルルーはアンソレイエを王として扱ってきた。それもまた、アンソレイエの気に入らないところなのだけれど、こうしてここへ来るときだけはシャルルーは昔のように傍に座り、目を見つめて話をするので少しだけ気が晴れるのだ。     「あの国を助けるとなれば、隣国と交渉せねばならない」   「はい」   「いつの間にか小競り合いがここまで泥沼の戦争となっていた。退けと言われて退くはずがなかろう?」   「はい」   「双方なくしたものは大きい。隣国は大国を飲み込みたいと渇望し、大国は隣国ごとき相手に値しないと高をくくった」   「このままいけば、隣国が勝ちましょうね。探らせている者からの報告でもそのように」   「承知している」   「そうなれば、隣国が暴れます」   「であろうな。それは面白くない。しかし、あの大国が自ら我々に縋ったのだと、事が収まった後も認めるだろうか?」   「さて。がんばれば褒めるくらいはしてくれそうですが」   「そんなことのために、俺の軍は使えない」      アンソレイエは珍しく、子供のような口ぶりで訴えた。シャルルーはまだ穏やかに微笑んでいる。滅多にない数日の静養に、こんなことが起こるとは何の因果だろうか。これではゆっくり休んでもいられない。いや、他の政務を片付けているからこそ、腰を据えてこの問題を考えられるとも取れるけれど。     「そのようなお考えだからこそ、我々は陛下に忠誠を誓うのです」   「大国を、我がヴィヴァンに従わせるか」      最初から結論はそれだ。国という体裁と歴史を守る代わりに、属国とする。そうなれば隣国はもはやヴィヴァンの敵となる。両国境から攻めれば隣国の優勢もいつまでもは続かない。しかしそれが、あの美しく高貴な王子の嘆願に応えたことになるのだろうか。彼のすべてと引き換えにさせるだけの成果なのか?     「あの王子は、なぜあのような道程を辿ったのでしょうか」   「さあな」   「一縷の望みを託した割には、あまりに援護がない」   「であるな。どこまでも高慢ちきだからだろう」      必死で足掻いているのに、その現実を直視できず、援軍を求めることさえ片手間であるような素振りで誤魔化す。相手が誠実でないのなら、応えるこちらとてそれなりでいいと思うのが人情だろう。黙殺したところで滅びてしまえば、批判する者も消えるのだから。  彼らの自国の王子を軽んじるような扱いと、親書の文言は、アンソレイエには承服しかねるものだった。第三王子を下賜してもよいがそれなりに働きを見せるがいいと、本当にそのように書いてあったのだ。そうすれば、この大国の感謝の一滴を与えようと。腐っているのだから救いようがない。切り取って捨てるか、腐敗が全土に広まって朽ちるのを待つか、弱った今隣国に飲み込まれるのを傍観するか。どれもこれも、あの王子の清廉な決意にはそぐわない様な気がする。だからアンソレイエは悩んでいた。     「待つのがよろしかろうと存じます、陛下」   「ふん。あの王子にそう言えば、絶望に涙するだろう」   「あの王子は、陛下のお役に立つかもしれません。ですから、それまで時間を止めていただきたい」   「…………つまり同じことだろう。ヴィヴァンがあの国の中枢を握り、隣国を追い払った後もそこで政を為す」   「ええ。あの国が良くも悪くも動かないように」  アンソレイエは手元の報告の書簡に目を落とす。指示通り、一日に数人ほどが面会しては、その面会者が聞き取った大国における様々な分野の現状と分析、我が国との比較を書いて寄越してくる。さすがに大国だけあって、様々な制度や設備は整っているようだ。第三王子の把握している限り、国が破綻するほどのほころびは見当たらない。しかし、現状は瀕死の状態。それももう何年も、抜き差しならない状況が続いているらしい。なぜか。     「施政者が無能か、国民が怠惰か、どちらだろうな」   「わかりかねます。しかし、あの国を掌握するのは骨が折れましょう」   「そうか?」   「穏便に、というのは何事においても強硬な対応よりも面倒であることと存じます」   「つまり、制圧することは難しくないと」   「陛下の軍に、対抗できる国ではないと考えます」   「誇らしく思っているよ」   「恐れ入ります」      確かにあの国を、穏便に従わせるのは難しいだろう。格下であると微塵も疑わない小国の言うことを、歴史ある大国の中枢が受け入れるとは思えない。たとえそれが国を救うためであっても無理だろう。そういう頑なさが、この事態を招いたのだと、いったいどのくらいの者が理解しているのだろうか。     「あの美しいいけにえのために、骨を折るか」   「……それが最善かと存じます」   「なぜ」   「あの国は、我が国とは違います。その独自性を失くすのは惜しいように思います」   「守るべきと?」   「一度失えば、二度とは戻りません。歴史とは、文化とは、そういうものであると考えます」   「ふむ」  シャルルーは軍人なのに、随分とそういうことに造詣……というか理解が深いようだ。アンソレイエとて、美しいものを破壊して悦に入る趣味はない。ただし、取捨選択には慎重だ。残すべきと捨てるべき、密なのであれば、捨てるべきが増えるのは仕方がない。アンソレイエの思案を酌むように、シャルルーは微笑んだ。 「真ん中の、腐ったところだけ切り捨てて、他のところはそのままに。空いた部分はゆっくりと周りが埋めるもよいでしょうし、取り急ぎ新しいもので埋めるのもよいでしょう。そのうち馴染みましょう」   「ああ」   「あの王子においては、いずれにせよ、二度と祖国を見ることはありませんでしょうが」      シャルルーは杯を静かに傾けて、言葉を探す。自分の中の漠然とした思いを言い表して伝えるのは中々難しいものだ。     「根の腐った植物は、枯れるしかありません。しかし、まだ綺麗な芽を一つ切り取って、綺麗な水につけておけば、いずれ育ちます」   「ああ」   「腐った王族を根絶やしにするのは、手っ取り早いようですが禍根が残ります。我がアンソレイエ国王陛下には、侵略者のようなお振る舞いは不要であると存じます」   「ふ……シャルルーは甘いな」      アンソレイエは、シャルルーの提言の根拠が自分の名誉を守るためであることがひどく嬉しく、その気持ちのままに隣にいる乳兄弟にもたれかかる。いつもいつも、公私にわたって彼は自分を守ってくれる頼もしい男なのだ。シャルルーは軽く目を伏せて、甘いのではありませんよと言った。     「第三王子以外をすべて切り捨てるべきだと、申し上げているのですが」   「うん?腐った連中だけを切り捨てろと言ったかと。国と国民を、保護するのだろう」   「恩を売るのが得策であると、卑しい考えでございます」   「お得なのはいいことだと、お前の母もよく言っていたではないか」   「お恥ずかしいことでございますね」      アンソレイエの乳母はシャルルーの実母だ。彼女は非常に優秀な料理人で、その腕一本で王宮の大厨房を任せられるまでに働いた。快活でいて厳しく、思いやりのある女性だ。現役を退いた今は、首都に定食屋を構えて毎日おいしい食事を作っているという。     「久々に、乳母の作るご飯が食べたいな」   「伝えておきましょう」   「その席には、シャルルーもいるように」   「承知いたしました、エル」      アンソレイエをエルと呼んだのは、シャルルー母子だけだ。今では誰も呼ばない。シャルルーはどのくらいぶりかもわからぬほど久々に、疲れた顔のアンソレイエをそう呼んだ。懐かしい呼び名は、アンソレイエにこの上ないこころの休息を与えた。

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