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第30話
移り住んだ小さな宮殿は、三人が前もって色々と用意をしておいたので、ラヴィソンは馬車に揺られてその身一つを動かすだけで済んだ。目が不自由であるということと、元々は王族だったことを踏まえて、ラヴィソンの私室には細々した間仕切りがないようにし、庭へ出る大きな開口部の足元の段差も埋めさせた。しかし庭のつくりだけは変える時間がなく、そのままであることを三人は詫びた。家の裏手にある小さな庭はとても美しい。その真ん中あたりに真っ白で滑らかな大きな石の板が少しずつ形と大きさを変えて積み重なり、それは数段あって、一番上には庭を少しだけ眼下に眺めながら寛げるように机と椅子が置かれている。視界のないラヴィソンにとってその趣向は、ただの危ない場所にしかならない。一段一段は低く、踏む場所も広いとはいえ、一歩間違えば怪我をするだろう。ただ庭を歩いているだけでつまずいて転ぶこともあるかもしれない。
「……花が咲いているのか」
「はい。宮殿に備わったお庭に、花の絶えるいとまはありません」
「……わからぬものだな、やはり」
ラヴィソンは、ダンの腕を掴んだ状態でゆっくりと家の中を案内され、今は自室だという部屋から庭のほうを向いている。風が気持ちいい。揺らされた植物の葉のささやきが聞こえる。かすかに、芳香。それでもラヴィソンは自分の知識の中に花の咲き乱れる庭を鮮明には思い出せなかった。ラヴィソンは、そんな己の見識の浅さをしみじみ思う。何も知らずに生きてきて、未だに何一つ為しえることができていない。このたびのことでほんの少しは、祖国の役に立てただろうか?粉骨砕身しておられるであろう兄王様の、幾ばくかの助けになれたのであれば、この短い人生にも誇りがもてるのだけれど。
「……綺麗、であろうな」
「はい、とても綺麗です」
「私も、その設えられたところでお茶を戴くこととする」
「はい、仰せのままに」
音や香りで、そして側仕えたちからの言葉で、美しいだろう庭を思い佇むのは、王宮の豪奢な一室にいるよりもずっと贅沢なことのように思える。この国の者は庭が好きなのだろう。髪を切ってもらった家の庭も、何だか居心地がよかった。この国に馴染まなければならない。もう、帰る場所はないのだから。
三人は、ただじっと、美しい青年をみつめていた。
そしてラヴィソンの、新しい日々が始まった。自国での生活を思えば質素であったけれど、視界のないラヴィソンにとって、今まで気づかなかった自然の気配や音が慰めとなり、また、使用人たちも朗らかで優しかったため、荒む事はなかった。側仕えの三人はよく協力して、彼にとっての最善を求めることを怠らなかった。毎晩ラヴィソンが休んでから、三人で一緒に食事をしながら意見を交し合う。
「今日、お茶のときに少しだけ甘いものをお出ししたら、全部召し上がってくださったわ。お好きなようだからいくつかご用意してみようと思います」
「よろしくおねがいします。お料理の件はどうなりましたか」
「ああ、坊ちゃまの郷土料理ね。あの国の出身の方が、ようやくみつかって、教えていただけそうです。ちょっと遠いようなので朝の仕事が片付いたら、そのまま夜まで出かけることになりそうです」
「かまいません。あまりあからさまに故郷を偲ばせるようなことはよくないと思いますが、食の細いお方ですので、できるだけお口に合うものが用意できるとよいでしょう」
「がんばりますよ!任せといてください!ダンは、いかがかしら?」
「本当に、何もわがままをおっしゃらないので、何だかおかわいそうでね……」
ダンは悲しそうに眉を下げて、肩をすくめて見せる。それはゼンもアンも感じていたことだった。
自分はそなたらに苦労を掛けるが、我慢ならぬ場合は宰相殿に伝えるがよい。私に直接に訴えても、きっと汲んでやれぬ。すまぬがそのように。
ラヴィソンはこの家に来たときにそう言ったのだ。そして、食事には注文をつけず、何が欲しいとも言わず、三人を叱ることもない。ただ淡々と、三人の言うとおりに過ごしている。寒いでしょうといえば部屋に入り、誰かが咳をすればその具合を案じ、湯浴みをどうぞと促せば、ダンが脱がせやすいように腕を広げて立ち上がる。
「……お辛いご経験をなさったのだし、ここは異国です。坊ちゃまにとってこころ穏やかにはいられないのでしょう」
「ええ……わかってるんですけどね。俺、ちょっと、どうしていいか、加減が」
「きっと、良かれと思ってすることは受け入れてくださるし、お気に召さなければ叱ってくださるわよ」
「そうですね。……実は今日、散歩でもしませんかってお話したんです。坊ちゃんも頷いてくださって」
「あら、いいじゃない」
「でね、今日はお庭周辺を、その内馬を用意して、少し遠出でもしましょうかって言ったら、急に行かないと。馬がお嫌いなら致しませんと伝えて、改めてお誘いしたんですが……もう、よい、行かぬ、の一点張りで」
失敗しましたよね。ダンは自嘲のため息とともに頭をかく。ゼンとアンは、なんと言っていいかわからなかった。どんな気持ちで散歩を断ったのか、誰にもわからない。ただとにかく、馬の話はよしましょうということで示し合わせる。こころの傷の場所を知らない以上、気遣いは大きいほうがいい。
「気にしないように、ダン。君の朗らかさや明るさは、お慰めになると思います」
「はい」
「まだまだこれからよ。大丈夫。坊ちゃまは、きっといつか微笑んでくださるわ」
「そうですよね。坊ちゃんを、これ以上悲しませる人が現れないようにしないと」
「現れませんよ。誰も、これ以上あの御方を苦しめる権利などありません」
精一杯お仕えしましょう。三人は頷きあい、気持ちを新たにした。
朝ラヴィソンを起こすのはアンの役目だ。私室に入り、寝台への視線を隔てる薄布の向こうに声を掛ける。ラヴィソンはいつも起きていた。アンが側に寄れば、ゆっくりと身体を起こす。顔を拭き、髪を整えるのもアンがする。朝の食事を手伝い、着替えをし、そうすればもう、昼の食事までは何もすることがない。ラヴィソンはたいてい、一人掛けの柔らかくてすわり心地のいい椅子に座って過ごす。その椅子は窓の側にあるので風や光をかすかに感じることが出来て気が紛れるのだ。時間の流れがわかるから。
昼の食事が済むと、天気のいい日は庭に出る。ダンに支えられながら石でできた小高い場所に上がり、そこに置かれた椅子に腰掛けて、お茶を飲んだりして過ごす。数日のうちに、お茶くらいは誰も側にいなくても困らなくなった。それでも彼から三人全員の目が離れることはない。ダンは庭の手入れや掃除をしながら、アンは部屋を整えながら、ゼンはその日の食事や近所で起きた小さな出来事の話を携えて、ラヴィソンのことを見守り続けた。
日が暮れるころ、ラヴィソンは部屋に戻り、食事を取り、ダンに手伝われながら風呂に入る。他にすることがないので、ラヴィソンはその時間を長く取った。ダンはラヴィソンの身体を念入りに磨き、時々歌を歌ってみたり、本を読んでみたり、ラヴィソンの疲れや緊張がほぐれればいいと思いながら一緒に過ごす。そして、今日一日のことや明日のことを、ゼンが報告をして、ラヴィソンは寝台に横になる。
ラヴィソンは、彼らのこころづかいをしっかりと受け取っていた。そしてそんな彼らを信用することで、不安の一部を解消することが出来た。陛下からの御下命のあるまでは、療養に焦ることはあっても、この家にいる限り不愉快な思いをしたり怖い目に遭わなくて済む。自分の無力さに腹が立つけれど、今となっては誰かに縋らずには生きていけないのだから仕方がない。自尊心は、もう何の役にも立たないのだし、三人はラヴィソンが惨めな気分になるようなことは決してしなかった。
その思いやりが、時々、どうしようもなく悲しくて辛いときがあって、だけどそれは本当に贅沢なことなのだと、自分はとても恵まれているのだと、現状を嘆くなどもっての外だと、ラヴィソンは誰にも何も言わないままに過ごしていた。ラヴィソンが、何かに耐えていることは承知している三人は、その傷が癒えることを祈りながら、静かな生活を切り盛りしていた。
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