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第32話

 ラヴィソンは、目を閉じ、何も見ないままで過ごしていた。ラヴィソンは何一つ仕事はできなかったし、もし目が使えていても王族としての振る舞いと治世術しか身につけていない。ただひたすら、アンソレイエ国王の恩に報いたいという思いで静養していた。時々王宮からやってくる医師は、診察しては、思い悩むことなくこころ穏やかにいることを考えてくださいと言うばかりだ。  事情を知らないヴィヴァン国の人は、いつからか目の不自由な異国の美しい王子が王宮の片隅に住んでいるらしいという噂を耳にして、同情し、出入りする商人たちはその邸宅の側仕えたちを通じて季節の果物を渡したり、何かと気にかけていた。そんな中でも、国王の側近であるジョワイがラヴィソンを気にかけていて、ほとんど興味本位ではあるけれど、彼の生活の面倒を細々と世話し続けていた。その付き合いが長くなった今でも、なぜかラヴィソンは全く彼にこころを許しはしないのだけれど。  本日もラヴィソンが興味を持ちそうな本を携えて訪ねてきた。本はゼンが受け取り、わざわざお越しくださいましてありがとうございましたと頭を下げて追い返そうとしたけれど、ジョワイがその程度で引き下がるはずもない。勝手知ったる様子で機嫌良さそうにラヴィソンの部屋に向かった。 「ラヴィソン、仕事をしませんか」 「…………」 「否か応か、答えるお口はあるでしょう?」 「仕事とは、何か。辱めを受けるくらいであれば、飢えて死ぬ」 「なんて極端なんでしょうねー……でも、今のお返事は面白かったので、国王陛下に報告しましょう」 「仕事とは」 「あなたの考える、辱めとはなんですか?」 「王族に相応しからぬ所業を無理強いされることである」 「ふむ。では、あなたは今王族ですか?」  ラヴィソンは、日中ずっと座っている一人がけのソファの肘掛に、短い爪を立てた。何度も何度も、確認させられる。身に染み付いた気位と自尊心を、すでに奪われた立場なのだと。第三王子として生きようとするのを窘められ、今の自分を忘れるなと必ず言われる。 「…………王族、では、ない」 「そうですね。あなたはもう自分の生まれた国には帰れない。だから、この国で生きていくほかはない。平民として、ですよ」  ジョワイは決して、哀れな経緯でここに打ち捨てられた美しい王子を辱めたいのではない。確かに多少は、屈辱に頬を紅潮させる様を楽しんではいるけれど、それはお駄賃のようなものだ。  この国に、親書と逞しい騎士とともに現れたときは目が見えていたはずなのに、今は一人で庭に出ることもできないこの王子を、ジョワイは意外と好ましく思っていた。多分、甥っ子と同じ年だからだろう。生意気で高飛車な物言いも、冷たく刺々しい気配も、まだオトナになりきれない男の子特有の虚勢だと思えば可愛いものだ。怖がって逆毛を立てて、尻尾が倍ほども膨らんでいる捨て猫と同じ。  だからこそ、できるだけ早く、この国で生きる術を身につけさせてやらないと、彼はきっと死んでしまうだろう。弱って死ぬのではなく、溺れて死ぬ。泳ぐためには、息を止め、手足を自分で動かすことを学ばなければいけない。そうすればきっと、楽にどこまでも息継ぎをしながら泳いでいけるようになる。 「私は」 「僕、と言いましょうか。平民のほとんどの同世代の男は、自分のことを僕、と言います」 「…………」 「僕は、何ですか?ラヴィソン」  そもそも、ラヴィソンにしてみれば、たかが国王の側近であるという男に、名前を呼ばれることさえ受け入れがたい。ましてや敬称もなしに親しげに。最初は返事もしなかったけれど、ジョワイは楽しそうにいつまでも、ラヴィソンが根負けするまで名前を呼び続けた。今はもう、諦めたことの一つだ。姓も忘れなさいと言われた。ここではあなたはただのラヴィソンだと。  ラヴィソンは深く息を吸って、何もかもどうでもいいのだと自分に言い聞かせる。 「僕は、何をさせられるのだ」 「仕事ですね。うちのお抱えの絵師が、あなたを描きたいと言うので、被写体をお願いしたいのですが」 「肖像画か」 「まさか。平民の肖像画の需要はありませんよ。絵師の個人的な道楽でしょう」 「…………」 「何も裸になれと言うのではありません。例えば、そうですね、庭に出て座っているとか、その程度です。目が見えなくても危険はありません」 「……触られるのか」 「さあ?多少、体勢の調整で触るかもしれませんが、そのくらいの接触は普通ですよ」 「平民であるからな」 「そのとおりです。報酬がありますので、生活の足しになるでしょう」  生活の糧を自分の身体で得るのか。平民にはお似合いの「労働」というものだろう。ラヴィソンは疲れきった顔で、ごく僅かに二度、頷いた。ジョワイはそれを見てさすがに胸を痛めたけれど、手加減するにはこの課題は優しすぎる。まだまだ、あるのだ。ラヴィソンが越えるべき試練は、たくさんある。 「友達が必要ですか?」 「…………何を言うたのかわからぬ」 「友達です。私はあなたの友達のつもりですが、もっと歳の近い」 「……要らぬ」 「友達のいない人生は、大変に過酷ですよ」 「友達は」 「はい」  ラヴィソンは、どうしようかと悩んだ。そして、もう誰にも咎められないという自分の立場を思い出す。自分は天涯孤独な一人の平民なのだ。 「……友達は、ある日出会った人間と話をして、そして、友達になるものであると承知している。宛がわれるものではないはずだ」  祖国での、王族としての厳しい制約のある生活の中で、周囲の目を気にしながらこっそりと読んだ私小説がいくつかあった。手に入れてすぐに読み、読んですぐに、燃やした。書かれている物語は信じがたい世界で、魅力的だった。だからこそ、そんなものを読んではいけないと教えられ、実際ラヴィソンがそんな物語に胸を高鳴らせたなど誰も知らない。だけど、きっともう、誰もそんなことは言わないのだろう。  鮮やかに脳裏に刻まれた世界で、"友達"は自然発生する、何の拘束力も持たない不思議な人間関係の一つだった。同じくらい不思議だったのは"恋人"だ。そちらはもっと不可解で、出てくる件はあまりの難解さに飛ばし読みをした。  ジョワイは少し驚き、満足そうに微笑んだ。 「はい、正解です。しかしあなたの日常で、ある日誰かに出遭うのは難しいでしょう。きっかけをと申し上げているのです」 「きっかけ」 「ええ。私の甥っ子があなたと同じ歳です。少々やんちゃですが、悪い子ではない。一度二人で話をしてみますか?」 「…………」  そんな恐ろしいことができるか、とラヴィソンは思った。何も見えないこの状況で、得体の知れない男と二人で話をする。暗殺や誘拐を警戒しないのか。そこまで考えてから、ラヴィソンはため息をついた。  平民の自分を暗殺したり誘拐したりする人間はもういない。もしそんな被害に遭っても、誰も心配などしない。 「その者に、会おう」 「ええ。楽しくなりますね」 「何がか」 「仕事を得、新しい出会いを待つ。刺激があって楽しいでしょう?」  ジョワイの言葉は理解できなかった。自分の身体で生活の糧を得る行為が、孤独を誰かに埋めてもらわなければならない哀れな境遇が、楽しみになるなどありえない。 「今日はとてもいいお天気ですよ」 「そのくらい、目を閉じていてもわかる」 「そうですか。では、よい一日を」  ラヴィソンは、自分の人生に、よい一日などあっただろうかと物思いに沈んだ。  ジョワイが帰った後、ゼンがラヴィソンのところへ来て、宰相殿の甥御殿がこちらを訪ねたいとのことですが、いかが致しましょうかと確認した。ラヴィソンは即答できずに黙り込む。 「無理をなさる必要はございませんよ、坊ちゃま」 「……ゼンは」 「はい」  わからないことは人に聞きなさいと、ジョワイはよくラヴィソンに言っていた。知らない、わからないのは恥ずかしいことではないし、人の意見に耳を傾けるのはいいことだと。ラヴィソンは緊張を覚えながら、ゼンに問う。 「ゼンは、いかが思うか」 「宰相殿のお言葉を拝借すれば、坊ちゃまのお友達に、ということでしたが」 「うむ。そのように聞いている」 「私はその方とお話したことはございませんが、少なくとも、粗野であったりすることはないようでございます」 「さようか」 「ダンがついておりますので、坊ちゃまが怖い思いをなさることはございません」 「……うむ。そのことはいつも感謝している」  感謝を怠ってはならないと、ジョワイに言われるまでもなく、ラヴィソンは本当にいつもありがたいと思っている。ただ、それを口に出して伝えるのが大仰なことのように思えたので、言わないでいただけだ。王に連なるものからの感謝など、大変な名誉だから。しかし、自分は既に王族ではないので、伝えても差し障りはないのだろう。ゼンはにこりと笑って、にこりともしない美しい青年に頷いた。 「いいえ、よいのです。ダンは坊ちゃまをお守りできるのが嬉しいのです。アンは替わりたいくらいだと言っております」 「アンは女性だから、そのような役割には不向きであると考えるが、その……いかがか」 「この国では女性でも軍人になったり致しますから、性だけで仕事を分けられるのは本望ではないかもしれません」 「さようか。では、替えようか」 「ダンが拗ねてしまうでしょう。坊ちゃまはアンを見くびったわけではないので、今のままでよろしいかと存じます」 「わた……僕は、アンを見くびったりはせぬ。アンは大変頼もしく、わ、……僕を、よく見てくれるので安心できる」 「はい」 「ただ、ダンの方が、アンより身体が強いであろうから、同席し警戒してくれる役割はダンとする」 「はい、坊ちゃま」  ふう、とラヴィソンはため息をついた。ゼンの意見を聞いても、自分の考えを曲げる必要はなかった。自分の判断がより明快になった。これが、人の意見に耳を貸すということだろうか。確かにとても大事なことのようだ。まさかアンが、何かあったときに自分の前に立ちはだかる役割を望むとは思いも寄らないことだった。  ゼンは、人に意見を求めたり自分のことを僕と言うようになった美しい青年を、少しだけ不憫に思った。変わらずに生きていくことは難しい状況にあって、それでも彼の思うようにさせてあげたいとこころを砕いてきた三人だ。あの飄々とした宰相に、本人の望まない変化を強要されているのだとしたら、それは許せないことだ。彼の絵を描かせに人を寄越すという話も、帰り間際に聞かされ、満足に反対もできなかったけれど、追々キッチリ拒否するつもりでいる。 「ゼン」 「はい」 「その者を、呼ぶがよい。僕には生涯、友達などできぬ。しかし、平民はみな友達がいると聞く。であれば、それに倣う機会を得るべきであると考える」 「坊ちゃま、ゼンの気持ちをお伝えしてもよろしゅうございますか」 「許す」 「坊ちゃまは、きっとたくさんのお友達が出来ましょう。それは、平民か否かなど関係ないのです。坊ちゃまのお人柄でございます。損得も上下もなく、一緒に話をするだけで楽しい気持ちになる、支えあえるお友達、出会うのは何も難しいことではございません」 「……さようか」 「はい」 「で、あるならば。…………楽しみ、かもしれぬ」 「はい、坊ちゃま」  ゼンは美しい青年の変化が、どうか良い方向へ向かって欲しいと祈りながら、彼に温かいお茶をお持ちしましょうかと微笑んだ。  それから数日後、明日うちの甥っ子をそちらへ遊びに行かせたいがラヴィソンおぼっちゃまのご機嫌は如何だろうかとジョワイからゼンのところに打診があった。ゼンはそれを、その日の昼食の席でラヴィソンに報告して指示を仰ぐ。ラヴィソンはいつもどおり、見苦しい作法にならないように注意してゆっくりと、アンに手伝われながら食事をしていた手を止める。 「……僕は、かまわぬ」 「はい。では、その旨を先方へお伝え申し上げます」 「うむ」  そして、ゼンはいい出会いであるといいですねと言い、ダンは風呂場で、自分が一緒だから安心して出会いを楽しんでくださいと言い、アンは寝る間際に部屋の灯りを消しに来たときに、明日のお客様と一緒に召し上がるお菓子は特別においしく作りますからねと言った。  ラヴィソンは、いつもは知らない人と会うとなるとすぐに緊張して不安になるのに、なぜだか明日を迎えるのが楽しみな気分で眠りにつくことが出来た。それは、生涯初めての友を得るかもしれないという期待と、もしそうならなくとも味方が三人もいるのだと思えたからかもしれない。  翌朝、いつもの時間にラヴィソンの部屋にアンが来て、いつもよりも念入りに身支度をさせた。といっても、そもそもの容姿は隙なく美しく、ジョワイからはラヴィソンには華美な生活をさせないようにと常々言われているので、一番よく似合う服を着せるという程度のものだったけれど。 「お客様は、お昼過ぎに来られるそうですよ」 「さようか」 「はい。坊ちゃま、喧嘩をなさってもよろしいんですよ」 「……すまぬが、何を言ったかわからぬ」 「でございましょうねぇ」  アンはラヴィソンの艶やかな黒髪を丁寧に丁寧に梳き、ほんの少しの乱れもなく整える。ラヴィソンの小さな頭が不思議そうに傾いて、アンはそれがとても愛おしいような気分になった。ラヴィソンの前に回り、襟元を調え、はい完璧ですと笑う。 「本日のお客様は、王宮からのぼんくらじゃございませんので」 「ぼんくらとは何か」 「おほほ。あまり優秀ではないということでございますよ」 「さようか」 「同じ年頃の男のお客様ですもの。遠慮は要りません。気に入らなければそうおっしゃられてかまいませんよ」 「……よくわからぬ」 「無理にあちら様に合わせる必要がないということでございます」 「……」 「合わない二人でもお友達にはなれますが、無理をしているとその友情は続かないことが多いようです」 「……」 「ですから、気楽に、坊ちゃま」 「うむ」  ラヴィソンはいつもの一人掛けの椅子に座ったまま、アンの言葉を理解しようとした。そして、これからやってくる者に遠慮なく接することが出来なければ、自分は友を得られなかったぼんくらになるのだろうかと考えた。  ラヴィソンはなんとなく落ち着かない気分で昼食を終え、その食器が片付けられていく音を聞いていると、来客を告げる呼び鈴の音がなった。鼓動が、少し早まる。いつもの通りゼンが応対に出ているのだろう。アンとダンはラヴィソンの部屋にいる。このころには気配で、三人の誰がどこにいるかくらいはわかるようになっていた。 「お客様でございます、ラヴィソン坊ちゃま」  案の定、ゼンが丁寧な物腰で来客を部屋へ案内してきた。ラヴィソンはいつもの椅子からゆっくりと立ち上がり、一歩だけ前に出て、部屋の入口のほうへまっすぐに向く。 「ようこそ」  美しいその歓迎の言葉は、側仕えの三人の胸に誇らしく響いた。そして、その言葉を送られた客人はにっこりと微笑み、お邪魔します、と応える。 「初めまして、ラヴィソン。僕はプランス。握手をしてもいいかな?」  許す。そう言いそうになってラヴィソンは思わず黙る。家にいる三人は何も言わないけれど、ジョワイにはよく注意される。許す、というのはあなたの立場で使うべき言い回しではないのですよと。誰もあなたの許しなど求めていませんからと。プランスはラヴィソンの反応を気長に待ち、彼が美しい手を差し出し、どうぞ、と応えると、ようやくラヴィソンに近づいてその手を握った。 「僕はね、目の見えない人に会ったのが初めてだから、失礼があるかもしれない。気に障ったら教えてね」 「……うむ」 「ありがとう」  ラヴィソンは、優しくも力強い握手に、少し感激した。そして、よろしくね!とポンポンと肩を叩かれてびっくりした。そんな二人の様子を見届けると、三人はうんうんと頷き、それぞれの仕事に戻っていった。 「綺麗な庭だね」 「ああ……さようである。お茶を、いつも庭で頂くが、プランスも共にいかがか」 「喜んで!」 「では、そのように。アン、支度をしておくれ」 「承知致しました」 「ダン」 「はい」  アンとダンはラヴィソンの呼びかけにそれぞれに応じる。アンは一礼をして部屋を辞し、ダンはラヴィソンの隣に立ってその手を自分につかまらせる。 「目が見えないと、危ないね」 「さようである。しかし、もうずいぶん慣れたし、このように手伝いがあるので、危ない目に遭ったことはない」 「そっか。よかったね、いい人たちがそばにいて」 「……さようである」  ラヴィソンはその時こころから、やはり自分は恵まれているのだとしみじみ思った。そしてもちろんダンも、客人とラヴィソンの言葉が嬉しくて、あとで二人に報告しようとこころに決める。  慣れたとはいえ、二人は慎重に石でできた階段状の台へ上がり、ラヴィソンはゆっくりといつもの椅子に腰を下ろした。プランスは邪魔にならないように一緒に上がることはせず、ダンが降りてきて彼に片膝をついて促してから、軽やかにラヴィソンと同じテーブルについた。十名程が座れる大きなそのテーブルを誰かと囲むという出来事に、ラヴィソンの気持ちは高揚した。 「失礼いたします。坊ちゃん、おひざ掛けをどうぞ」 「うむ。プランスも、必要であれば用意するが」 「僕は平気。ありがとう」  ラヴィソンは声のする方へ顔を向けて、こくりと頷いて見せる。別に寒いわけではないけれど、この織物がそばにあると安心するのだという話を、いつかプランスにしてみようかと考えていると、その優しい暖かさが太もものあたりに乗せられた。ダンがお背中は寒くありませんかと気遣うと、問題ないと二度頷く。 「プランス」 「うん?」 「僕は人と会うのが苦手なので、いつもダンにそばにいてもらっている。本日もそのようにしたいがいいだろうか?」 「いいよ。ラヴィソンは人見知りなの?」 「……かもしれぬ。目が見えぬと、少し、気持ちが落ち着かぬことがあるのだ」 「僕のことは気にしないで、ラヴィソンの好きにしていいよ。嫌だったら言うから」 「うむ」  人見知り、と言うのとは多分違うのだろうとラヴィソンは思った。そもそも、旅に出る前までは、誰かと会うことは務めの一つだった。だから、好きも嫌いもなく、会えと言われた人間に会って、責務を果たさんと話をする。相手の素性をこちらが知らないこともなかったし、王族の一員であるラヴィソンと面会するほどの人間は限られている。当然、彼らは王族に対する敬意を払ってもくれていた。だからそういう状況以外で人と会い、話をするというのが、まだまだ自分は不慣れなのだろうと思った。しかも相手は、上下の別が明確ではないのだ。  プランスは聡明そうな受け答えの中にも親しみやすさがあり、さすがに国王の側近の血筋だと思わせる育ちの良さを窺わせた。さっぱりとしていて、裏表がなさそうで、ラヴィソンはまだ知り合って時間も経っていないのに、プランスの人柄を好ましく思った。 「はい、お待ちどうさまでございます。お茶のご用意ができました」  アンが楽しそうな声でそう言いながら、二人の座るテーブルにひらりととっておきの綺麗な布を掛け、その上に食器を並べていく。甘いお菓子のにおいに、思わずラヴィソンの頬が緩む。 「ごめん、僕は甘いものは苦手なんだ」  プランスは、きっぱりとそう言って、自分の前に置かれた皿をすいっと押しやった。アンは丁寧に詫び、その皿をどけ、ではお茶にお砂糖も入れられませんでしょうか?と続けている。ラヴィソンは、アンのお菓子が本当に美味しいと思っているので、それを試そうともしないプランスが、とても勿体無いことをしているような気になった。 「プランス、アンの作るお菓子は大変美味しい」 「そうなんだ。でも僕、甘いものは苦手なんだよね」 「さようか。しかし、できれば一度試してみてはいかがか」  誰かの主張を、こういう風に曲げさせようとしたことはかつて一度もない。そもそも第三王子だった時分にこんな風に意見を言う者はなかったし、だからその意見を変えさせようなどと考えたこともない。ラヴィソンは、初対面の青年の奔放な朗らかさに感化されるように、考えもなしに自分の考えを述べた事に驚き、そして少し早まっただろうかと後悔した。  アンは真っ青になった。異国から来て密やかに過ごしている地位を持たないラヴィソンと、プランスとの立場の差は歴然である。喧嘩をしてもいいと嗾けはしたけれど、まさかラヴィソンがこんな早々に、しかもおそらくは自分のために、プランスに指図をするとは想定外だった。ラヴィソンとプランスの両方が納得できるようにこの場を収めなければいけない。アンと側にいたダンはそのための言葉を必死に探した。 「あの、プランス様、これは」 「ふーん。じゃあ、少しいただいたほうがいいかな」 「うむ。口に合わねば食べるのを止めればよいので、その方がよろしかろうと思う」 「ラヴィソンは、アン……?の作るお菓子が好きなんだね」 「さようである。であるから、そなたも好きであればよいと思う」 「そっかー」  目の見えぬ美しい青年と、この年頃らしい溌剌とした高貴な青年は、大人たちの心配を他所にうまく馴染んでしまったらしい。アンは緊張と安堵から卒倒しそうになった。ダンはそんなアンの背中を支え、給仕を!給仕を!と囁いている。なんとか気持ちを立て直したアンは、改めてプランスの前に皿を置き、そこにお菓子を一さじ盛る。本日は蕩けるように柔らかく仕上げたクリーム状のお菓子で、その上にサクサクした小さな焼き菓子を更に乗せて、一度に口に入れるという趣向だ。そのように説明をしながら、先にプランスの皿を、それからラヴィソンの皿を仕上げる。プランスが変わったお菓子だね、知らないなあと感想を述べている間に、アンは頃合になったお茶を二人の茶杯に注ぎ分けて、テーブルから一歩離れて頭を下げる。 「どうぞお召し上がりくださいませ」  プランスは匙を手に、じっとラヴィソンを見つめた。手助けが必要だろうかと案じたのだ。しかし、アンは毎回まったく同じ場所に食器を配置するので、ラヴィソンは誰にも頼らなくとも間違いなく匙を取り上げることができたし、自分の目の前に置かれた皿の端に軽く指を乗せて確かめると、迷うことなく優雅にそのお菓子を口に運んだ。プランスはその様子にひどく感心し、アンににっこり微笑んでから自分の皿に向かう。 「……いかがだろうか?」  今日もアンのお菓子は美味しいし、初めての食感を楽しんだけれど、ラヴィソンは、少し怖いような気持ちでプランスに問う。無理をさせただろうかという気持ちがあるし、好みというのは人それぞれだから、彼の口に合わなくても仕方がない。だけど、アンのことを思えば、おいしく食べてくれればいいと思った。 「うん、おいしい。そんなに甘くないんだね。ラヴィソンのと違うのかな」 「さて、どうであろうか……アン」 「恐れながら。プランス様のお皿には、最後の仕上げの甘い蜜を控えさせていただいております」 「ああ、だから僕にはちょうどいいんだね。ありがとう、アン」 「恐れ多いお言葉でございます」 「ラヴィソンの言うとおりにしてよかったよ。おいしいね」 「何よりである」  本当に、何よりだと思った。そして、ラヴィソンはとてもとても嬉しい気持ちになった。思わず、にこりと微笑むほどに。滅多に表情を崩さないその美しい顔に笑みが浮かぶのを目の当たりにして、プランスはもちろん、アンもダンも、我が目を疑った。それほど美しい笑顔だった。当のラヴィソンはのん気なもので、アンの今日のお菓子は、確かに特別に美味しいので、大変結構である、といつもと変わらぬ口調で感想を述べている。  二人は、最初の出会いをそんな風にして過ごし、それから時々、プランスはラヴィソンのところへ遊びに来るようになった。彼は自分の父親の仕事の手伝いをしているらしく、それの合間に遊びに来る。だから、急に時間が空いた時などは、ジョワイを通じてゼンに前もって打診し、返事をもらってから訪れるというやりとりが追いつかないことがある。そんな時、プランスはふらりと一人でやってきて、「ラヴィソンと会える?」などと玄関先で問うのだった。  身分の高い彼を無下に追い返すことなどできるはずもなく、ゼンは大慌ててラヴィソンの部屋に走り、如何致しましょうかと指示を乞うのだった。 「僕はかまわぬ」  ラヴィソンは、こういう不確かな日常を楽しむ余裕があった。相手がプランスだから安心しているということもある。彼は本当に親切で聡明で、とても明るいので一緒にいると楽しい気持ちになれるのだ。それに、この国の平民の生活をよく教えてくれるので勉強になる。 「急に来てごめんね」 「いや。お父君のお手伝いはよいのか」 「うん。テキトーかまして逃げてきた!」  プランスの言葉は、ラヴィソンの理解を時々超える。とりあえず、義務は大体果たして密かにこちらを訪ねてきた、という解釈でいいのだろう。昼下がりだったので、ラヴィソンはいつも通り庭でお茶を飲んでいた。そのテーブルにプランスが着く頃、来客を聞いたらしいアンがパタパタとやってきた。 「いらっしゃいませ、プランス様」 「急に来てごめんねー」 「いいえ、そんなとんでもないことでございます。お茶を召し上がりますか?お菓子をご所望でしょうか」 「走ってきたから暑くて。冷たい飲み物を作ってくれる?お菓子は要りません」 「承知致しました」  アンは恭しく頭を下げて、自分の仕事場へとって返す。ラヴィソンは、冷たい飲み物など、水以外に飲んだことがあっただろうかと考えた。 「ラヴィソンは今日、何してたの?」 「特に何もしておらぬ」 「そっか」 「プランスは、お父君のお手伝いをする以外の時間は何に費やしているのか」 「うーん。勉強かなー。あとは、友達に会ったり」  勉強か。ラヴィソンは兼ねてから考えていたことを、思い切ってプランスに伝える決意をした。 「実は、プランス」 「はい」 「僕も学びたいことがあるのだ」 「偉いね」 「その……教えてはくれぬだろうか」 「僕が?」 「こちらへ来る時に少しでかまわぬのだ」 「何を?」 「この国の、言葉を」  時々面会に来る王宮の文官たちは、皆共通語が話せるので不自由はない。しかし、聞かされる地名や言い回しが独特なことがあって、それについて質問すれば大体、語源はこの国の独自の言語文化にあるのだと言う。  もう帰る場所はなく、ここで生きるしかないラヴィソンにとって、今後アンソレイエ国王陛下の御恩に報いる時に、そういったことも理解しておいた方が良いのではないだろうかと考えていたのだ。給仕にきたアンは、プランスの前に細長い硝子の杯に入った冷たい飲み物を置きながらその話を耳にして、ラヴィソンの常々の志の高さに感心するとともに、彼は気を抜き休まることがないのではないだろうかと案じた。 「いいよ」 「大変ありがたいことである」 「他にもある?」 「うむ……できれば、歴史なども学びたいのだが、それは難しかろうと思う」 「なんで?」 「私が為すべきは、この国のことを学ぶことではないからである」 「ふーん」  そう言って、ラヴィソンはまた自分のことを私と称してしまったと反省する。気をつけてもまだまだ治らない癖は、自分の不完全さの現れのようだ。 「……無理を、言うただろうか」 「全然!まあ、僕も家の手伝いがあるからそんなに期待されても困るんだけど、ラヴィソンからお願いされて嬉しいよ」 「さようか」 「ラヴィソンはしっかりしてるから、わがままも言わないし。だけど、歳は同じだけど僕をお兄ちゃんだと思って頼ってくれていいからね!」 「ならぬっ」 「え?」 「わた……僕の兄だと、口にしてはならぬ。呪いのようにそなたに不幸が訪れる」  ラヴィソンの顔は蒼白だった。プランスはびっくりして固まってしまった。もう随分親しくなったような気がしたけれど、ラヴィソンがこんな風に感情的になるのを初めて見た。それはアンも、庭にいたダンも同じで、言葉もなくその美しい顔が辛そうに曇ることこそ、耐え難い不幸のように感じられる。 「……すまぬ」 「……あ、ううん。えーっと、そうだね、気をつける」 「うむ……僕は、プランスの不幸を望まぬ」 「もちろん僕も、そんなのは嫌だしラヴィソンの悲しむことはしないよ」 「プランスは、自分のために日々を過ごすがよろしかろうと思う」 「友達の笑顔は、僕にとって大切なことだからね」  プランスは、悲痛にさえ見えるラヴィソンを励ますように明るい声を出し、じゃあ早速、とラヴィソンに単語を教えようとする。ラヴィソンはそれを止めて、慌てて誰か、と呼んだ。この頃には、プランスと会うのにダンに同席してもらわなくとも平気になっていた。しかし同席を命じられていなくとも、来客中であることには変わりないし、その客はとても身分が高い青年なので、三人の誰かが必ずすぐ側に控えている。その日はたまたまダンがその役目を務めていたので、ラヴィソンの呼びかけに返事をしながらラヴィソンのもとへ駆け寄った。 「ダンでございます」 「僕は今から、プランスにこの国の言葉を教えてもらう。せっかくの機会を無駄にしたくないので、ダンは側にいて、内容を書きとめてくれぬだろうか。プランスのいないときに復習できるように」 「承知いたしました、坊ちゃん。ダンがお手伝いさせていただきます」 「うむ」  ラヴィソンは、プランスがいるだろう方向へ顔を向けなおし、中断させてすまぬ、始めておくれと頷いた。プランスが、ラヴィソンの興味のある分野から覚えていこうかと提案すると、ラヴィソンは髪を揺らして再び何度も頷いている。ダンは、美しい二人の青年の友情を微笑ましく、また感心しきりに見守った。  その日の晩の湯浴みは、いつもよりも長かった。ラヴィソンが、ダンを相手に、教えてもらった単語を諳んじられるまで繰り返したからだ。ダンを含めた三人ももちろんこの国の言葉を話せるので、プランスの来ない日には新しい単語を教えて差し上げることもあった。そうこうしていると、ゼンに王宮から知らせが届いた。内容は、ラヴィソンが望むのであれば、あらゆる分野の勉強をさせてかまわないから申し出るようにというものだった。プランスがジョワイに進言してくれたのだろう。その話をゼンから聞かされたラヴィソンは、ありがたいことであると呟いた。 「誰かが……我々の内の誰かということでございますが、書物を朗読してお聞かせするより、先生を呼んで直接教えていただいたほうがよろしかろうと、宰相殿はおっしゃっておられます」 「…………うむ。そう望む」 「ではそのように、お取り計らいくださるようお願いをいたします」 「この国の言葉は、プランスに習っているので不要である」 「承知いたしました」  勉学に勤しむというのは、ある意味贅沢なことだ。ましてや独学ではなく、誰かに教えを乞うことができる環境というのはとても恵まれている。ラヴィソンは、そんなことを自分が望んでもいいのだろうかと悩んだけれど、いずれ陛下のお役に立つべきだという思いから、その方法を選んだ。理由をつけて自己研鑽を惜しんで無為の時間を過ごす事の方が、陛下への背信に思える。 「その先生方への給金は、僕が支払うのでそのように計らうがよい」  ラヴィソンがあまりにも自分は何も持っていないと認識しているようなので、先般ゼンは、あなたの持参金はとても大きな額ですよと伝えてみた。実際、ラヴィソンの祖国が供出した取引のための金はまるまる残っていたし、フォールは自分が工面した金も含めて全部置いていったので、このまま倹しい生活を続けるのであれば、そこから側仕えたちの給金を払い出したとしても一生困らない状態だ。しかしラヴィソンは日常生活における金銭の授受の経験がほとんどないので、どういうことにどれだけの金が必要かわからなかった。だから、ゼンからそのように聞かされたところで、自分の持参金の額では少なくとも自立し自活することには遠く及ばないだろうと考えていた。しかしいくらかあるのであれば、こういう時にこそ使えばよいと伝える。  ゼンは、彼はそれでいいと思った。わからないからこそ、弁え、戒めて、清潔な精神で過ごせるのだ。この先の人生が不確かな彼に、金はいくらあっても足りない。本当の気持ちとしては、彼に雇われ、誰憚ることなく彼に尽くしたいところだけれど、彼のこれからを第一に考えれば、三人は自分たちの満足はいいから、このまま国に雇われて、その範囲で精一杯ラヴィソンを助けようということで団結している。ラヴィソンの金は、誰も触らずそのままに、大切に保管されている。  ジョワイからの書簡には、ラヴィソンの扱いは王宮にあるので、王宮の者が教えにいく分には費用はかからないとある。お互い様ですからねと笑う宰相の顔が思い浮かぶ。 「先生方へのお給金は、必要ないようでございます」 「なぜか」 「この国では、学びたいと望む者はお金が不要なのでございます」 「では、その先生方はいかにして生きるのか」 「学ぶ者ではなく、学ばせる者から収入を得ます」 「いずれ僕が誰かに学を与えたいとなったとき、僕が金を出せばよいということか」 「さようでございます」 「……大変結構な仕組みである。その仕組みをお作りになられた陛下に、感謝を申し上げる」 「僭越ながら、私のほうから謹んでお伝え申し上げておきます」  ゼンは頭を下げながら、きっとこの美しい青年は、あっという間に何もかもを吸収してますます聡明になっていくのだろうと確信した。  プランスはもうすっかり誰かを通じて来意を告げることを放棄し、少しの時間だったりのんびりしたり、こまめにラヴィソンの邸宅を訪れるようになった。時々ラヴィソンの勉強中に来ることもあり、王宮を生活拠点としているらしいプランスはその先生と顔見知りであることも多く、一緒になって勉強したりするなど、二人はだんだんといわゆる普通の友人らしいような気安い関係を築きつつあった。  本日はプランスは昼餉の時間の前に来たので、ラヴィソンの部屋で一緒に食事を摂っていた。側仕えたちは総出で、彼らの様子を微笑ましく見守り、そのお世話に勤しむ。 「あのね、ラヴィソン。今度僕のお友達も、一緒にここへお邪魔してもいいかな」 「……かまわぬが」 「そう。よかった。実は先日、つい自慢をしてしまって。そうしたらみんなからずるいずるいと言われてさ」 「自慢」 「うん。すごく素敵なお友達が出来たんだよーって」 「…………それは、事実と異なるように思うが」  ラヴィソンはそっと匙をテーブルに戻して小さな声で呟いた。その途端、プランスがえ!?と叫ぶ。 「なんで!?」 「なんで……とは」 「僕はラヴィソンと友達だと思ってるのに、ラヴィソンは違うの!?そうだったの!?ひどいよ、ラヴィソン!」 「なぜ僕がひどいのか?」 「ひどいじゃないか!僕の独りよがりだったんだね!友達だと思ってたのにー!」 「落ち着くがよい。事実と異なるのは、素敵だという部分である。僕はプランスがここに足を運んでくることを大変ありがたく思い、楽しみにしている。であるから、その」 「……」 「このような出会いを、ありがたいと、そのように承知している」 「ラヴィソンはまだわかってない」 「さようか……」  プランスは椅子を鳴らしてラヴィソンのそばに寄り、美しい手をしっかりと握った。ラヴィソンはびっくりしてプランスの方へ顔を向ける。プランスはその顔にちょっと見とれる。 「ラヴィソンは、本当に素敵で、僕の自慢の友達だよ」 「……」 「僕はこころからそう思ってる。だから、それを否定するのは僕を否定するのと同じだよ」 「……うむ。僕は、……僕もプランスをとても大切な友達だと、思っている」 「ほんと?よかったー!最高だね!!」 「さようである」  ラヴィソンはプランスのあたたかい手をギュッと握り返し、得難き友を得た自らの幸運を神に感謝した。アンは少し涙ぐみ、ダンは密かに涙を流し、ゼンは胸の詰まるような気持ちで目をしばたかせていた。  ラヴィソンは側仕えたちにとても大切にされ、友人にも恵まれ、勉強の機会を得ることで様々な分野の知識を自分のものとし、それを元に王宮の文官らへの助言や提言も質を高めていった。本人に自覚はなかったけれど、十分にヴィヴァン国に奉公をしてくれていると判断され、王宮から相応の給金さえ与えられるようになった。その話をゼンから聞いた時でも、ラヴィソンは、このようなささやかな働きで得られる金などきっとわずかに過ぎず、感謝はもちろんするけれど、それでこの身ひとつさえ養うことは難しいのだろうと考えていた。  ゼンたち三人は何も語らず、ラヴィソンのこころ穏やかな毎日だけを祈り、家を切り盛りし続けた。  ラヴィソンが目を閉じてからたくさんの季節が移ろっていき、くり返し、彼の暗闇での生活は長くなっていった。

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