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第35話
ラヴィソンが光を取り戻したという話はアンソレイエに聞こえ、めでたいことだという言葉と共に、無理をせず静養し、今後も王とこの国のために励むがよいという達しがあった。つまり、今まで通りということだ。ラヴィソンは初めて直筆で国王への礼状を書き、そこに自身の状態と王への深い感謝を記した。
フォールは普段首都にはいないので、ラヴィソンの様子を時々教えてくださいと側仕えたちに言い残してあり、その通りゼンはラヴィソンの回復状態を時々知らせた。
目が陽の光に慣れるのは時間がかかった。太陽というのはなかなか強力だ。曇りの日でも、しばらく外にいれば目がシバシバしてくる。絶対に無理をしてはいけないと周りから言われているので、ラヴィソンは根気強く自分の目が日光を浴びても苦痛を感じなくなるまで慣らす訓練を繰り返す。そしてそれと平行して、長い間ほとんど部屋と庭の往復しかしなかった身体に筋力をつけるために、ダンやアンの手伝いを買って出た。そもそも体力如何に関わらず、食器を運んだり草引きをしたりするのは初体験なので、うまく出来ずにひっくり返ったりひっくり返したりした。側仕えたちは、ラヴィソンがどれだけ失敗しようと、怪我さえしなければ何でもないことですよと明るく笑っていた。ダンのすすめで、一緒に敷地の外まで散歩をしたり、木に登る練習さえした。
ラヴィソンに完治の兆しが見えてくると、彼らの旅の準備が着々と進められた。フォールはゼンに旅程を知らせて寄越し、それを王宮に報告すれば、道々の宿を紹介される。その宿は、ジョワイやプランス、その他のラヴィソンの友人が実際に利用して気に入っているものがほとんどで、頼めば事前に連絡をして部屋を確保しておいてくれた。
また、移動手段は馬車にしますとフォールが提案すれば、どんな馬車がいいだろうかと騒ぎになる。ラヴィソンは質素なものでいいと言うけれど、雨風を凌いで快適に旅を進めようと思えばあまり粗末なものは用意できない。御者はフォールが務めるので要らないけれど、何頭立てがいいかも意見が分かれる。ジョワイは面白がって、王族の乗る馬車を特別に貸与いたしましょうかなどと茶々を入れてきたりするので話がややこしい。
やがて準備が整い、いつでも出かけられるとなって数日。フォールから手紙が来て、仕事の片がついたので、明日お迎えに上がると知らされた。ラヴィソンはそれを聞いて、気持ちが逸るのを感じた。
「いよいよであるな」
「はい。よろしゅうございますね、坊ちゃま。決して」
「決して無理をせず、よく食べてよく休み、具合が悪くなったらすぐに帰る、であるな」
「さようでございます」
「承知している。心配は、無用であるが、致し方ないことであろう。しかし僕は必ず元気で戻るので、恐れることはない」
「はい、坊ちゃま」
ラヴィソンはその日の晩、ダンからも風呂場で念入りに注意を告げられ、アンからも寝物語のように絶対に無理をなさらないでくださいましねと懇願された。彼らの小言は、ラヴィソンにとって心地よく、その一つ一つに真剣に頷き、承知している、心配せずともよいと繰り返し、夜は更けていった。
◆
「おはようございます」
「おはようございます」
「お迎えにあがりました。ラヴィソン様のお支度は如何でございますか」
「すっかり整っております。間もなくこちらへ」
「はい。しかし、随分と立派な馬車ですね」
「ええ、まあ。結局王宮が、余っているものだから好きに使えと」
「王族の方の乗る馬車ですか」
「いえ、宰相殿や高位の文官の方などですね」
フォールはそれを聞いて、ゼンに気づかれないように鼻を鳴らした。実は前回ここでラヴィソンに会った後、ジョワイから手紙が届いたのだ。内容は、ラヴィソンはすでに平民であるのでそのように扱うように、くれぐれも徒らに敬い崇めることのないようにという、フォールのラヴィソンへの態度に関する警告とも取れる注意に終始していた。フォールはその手紙を一読して、鼻紙にして捨てた。そんなことを指図される覚えなどない。そんな手紙をよこした張本人が、こんな豪勢な馬車を融通する、そういう捉えどころのなさが理解できないから、フォールはあの男が好かない。
庭先でフォールとゼンが世間話をしていたら、扉が開いてラヴィソンが出てきた。その後ろにいるアンとダンがたくさんの荷物を持っていて、それを次々に馬車に積んでいる。一体どういう旅を想定しているのか、結構な量だ。
「おはようございます、ラヴィソン様。本日より、お供をお許しいただき、誠にありがとうございます」
「うむ」
「ご気分は如何でございましょうか」
「すこぶるよい」
「何よりでございます」
フォールはいつも通り、ラヴィソンの前に跪いて頭を下げ、美しい青年との再会を喜んだ。ラヴィソンは、フードのない薄手の外套を身につけていて、その手にはこのあたりの国々ではあまり見ない、つばの広い帽子を持っている。そしてそれをおもむろに被って見せると、フォールに、如何かと聞いた。
「とてもよくお似合いでございます」
「プランスが、旅の支度にとくれたのだ」
「さようでございますか」
「外套のフードを被ると視界が狭まるという話をしたら、これを。日除けにもなるのでよかろうと」
「はい。とてもよいお品で、プランス殿下におかれましては、ご友人のお立場からラヴィソン様の旅路のご無事を願っておられるのだとお察し申し上げます」
「うむ。何か面白いことがあれば、戻ってきて聞かせるようにと言っていた」
帽子は、乾かした植物で編まれているらしい。細かく作られているからか、薄く柔らかそうなのに日差しをしっかりと遮ってくれる優れもので、通常は頭の部分にぐるりと巻かれてある装飾の紐が、風の強い場合には顎に引っ掛けても使えるという。ラヴィソンは、プランスに習ったとおりの説明をフォールに聞かせながら、紐を顎にかけて見せる。
「なるほど。よく作られているものでございますね」
「うむ。であるから、馬車は、外に乗る」
「…………少し、ゼン殿と相談をさせていただきたく存じます」
「よい。彼らは承知している。昨日は乗り心地を確認するのにゼンも一緒にいた」
「は」
外、というのは、馬を操るべく座る場所のことだろう。そこにはフォールが座り、ラヴィソンはもちろん箱の中の座席にいるべきだ。しかし、もう話はついていると言われればフォールに否やはない。承知いたしましたと頭を下げる。そんなフォールにアンが寄ってきて、心配げな表情でくれぐれも坊ちゃまをよろしくと言う。
「この旅のために、坊ちゃまは色々と準備をなさり、本当に楽しみにしておられました。その分もしかしたら羽目を外してしまわれるかもしれません。どうか」
「はい。危険のないように致します。必ず無事にこちらまで、あの約束は守ります」
「ええ」
「何か、ラヴィソン様の日常で気をつけることがありましたら教えてください」
「……いいえ、何も。ただひたすら、坊ちゃまのおこころが、明るく解ければいいと、そう思います」
「は。できる限り、お気持ちのいいようにお過ごしいただけるように努めます」
「どうぞ、本当に、よろしくお願いしますね」
フォールはしっかりと頷く。アンと入れ替わるようにダンが来て、彼は無言でフォールの肩を軽く叩いた。彼にもフォールは頷き返す。大丈夫、ちゃんとこの御方をこの家にお連れする、そんな気持ちを込めていた。
「フォール」
「は」
ゼンと話をしていたラヴィソンが、フォールを呼ぶ。それに応じて、すぐさまラヴィソンのそばに跪く。出発致す、とラヴィソンは言った。フォールはさっと立ち上がり、馬車の近くに蹲ってラヴィソンの踏み台になろうとした。しかしそれより早く、ラヴィソンは美しい手をフォールに差し出す。
「支えよ」
「は」
あの頃より、ラヴィソンの背は伸びた。馬車に乗るのに、踏み台は要らなくなっていた。それでも自分は蹲るべきだとフォールは思っていた。何も考えることなくそうできることが、自分の拠り所であると。しかし今目の前に差し出された美しい手は、フォールにとってすべてにおける導きに思えた。この手を、支えていいと許されること。なんという僥倖なのだろうか。フォールはてのひらを自分の服でゴシゴシと拭いてから、そっとその手を握る。うっかりすれば折れてしまいそうなほど繊細で、だけど力強く未来を掴む手だ。ラヴィソンはフォールの握るその手に少し体重を掛けて、ひらりと馬車に乗って尻を座席に落ち着けた。ほとんど揺れもなく、馬が動かないほど軽やかな動きだった。すぐにダンが寄ってきて、膝掛けはどうなさいますかと問う。
「フォールがいるので、今は要らぬ」
「はい、では、後ろの席に置いておきます」
「うむ、そのように」
「フォール、もし坊ちゃんが望まれたら、これを。ここに入れておくから」
「ああ、承知した」
ダンは、ラヴィソンの愛用の織布を丁寧にたたんで、箱の中の座席に載せる。そうしてすべての準備が整った。フォールは馬車の横に並んでラヴィソンに色々と話しかけている彼らの邪魔にならないよう、ぐるりと回ってラヴィソンの許しを得てから隣に座った。車体が傾くことはないけれど、さすがに馬が落ち着かなさそうに足踏みをする。
「行って参る。くれぐれも、過度に心配せず、僕の帰りを待つがよい」
「はい、坊ちゃま」
「そなたらの喜ぶ、何か面白いものを持ち帰るつもりである。楽しみにするがよい」
「はい、坊ちゃま」
側仕えたちは並んで、ラヴィソンの言葉に頷き、馬の嘶きを聞くと、一歩後ろへ下がった。ラヴィソンは、旅への期待はもちろんあったけれど、彼らを少し悲しませているという自覚があったので、申し訳ないような気分になった。それを察したかのように、側仕えたちは大きな笑顔で手を振り、行ってらっしゃい!楽しんで来てください!と送り出してくれる。
ラヴィソンはそれに応え、美しい手を目一杯振り返す。フォールは頃合いを見て、馬車を出発させた。
「気をつけて、坊ちゃん!いってらっしゃい!!」
彼らは馬車が見えなくなるまで手を振り、見送った。
しばらくは、首都の中を移動する。危険はないと承知しているけれど、フォールは慎重に道を選び、ひたすら首都を出るための関所へ向かった。
「フォール」
「は」
「喉が渇いたり、空腹を感じれば僕に言うがよい。アンがたくさん持たせてくれている」
「ありがとうございます。ラヴィソン様は、お腹は空いておられませんか?」
「うむ。まだ問題ない」
「は」
ラヴィソンは、王宮の敷地を離れてどんどん首都の郊外へ向かう優雅な馬車の座席から、景色を楽しんでいた。色使いや、建物の壁や屋根の素材、行き交う人たちの服装などが、祖国とはやはり違っていて興味深い。勉強してきたつもりではあるけれど、実際に目にするのは本を百遍読むよりも有意義だと実感する。やがて馬車は関所に着き、フォールは王宮から支給された通行書を見せて、滞りなく城壁を抜けた。ラヴィソンは後ろに城壁が遠ざかってから、安堵の息を吐いた。
「また、止められはせぬかと少しだけ、緊張した」
「これはご説明が至らず申し訳ありません。ラヴィソン様はどこでも自由に往来できるようになっております。なんのご心配も不要でございます」
「それは僕が平民であるからだろうか」
「ラヴィソン様であられるからと、そのように考えます」
「ふむ」
フォールにしてみれば、ラヴィソンの行く手を阻むなど誰であっても許されるはずはなく、彼が自分の意志のままに振る舞えることは当たり前だったので、それを保証してくれた王宮に感謝はあれど、ラヴィソンに説明する必要はないと考えていた。ラヴィソンはよく理解できなかったけれど、フォールのたくましい横顔が満足気だったので、まあよいだろうと納得した。
「ところで」
「は」
「僕はどこへ旅をしているのか」
行き先は、側仕えたちに問うても、フォール殿からお聞きくださいと笑われた。フォールはとっくに知っているものだと思っていたので、この質問には驚いてしまう。
「ゼン殿達は、何と」
「フォールと共に行く旅であるので、全部フォールに聞くがよいと笑うばかりであった」
「さようでございましたか。あー……この国へ来た時、親切にしてくれた家族があったのを覚えておられますか」
「うむ。今でも思い出しては感謝をしている。彼らは非常に、……あそこへ参るのか?」
「は。その予定でございます」
ラヴィソンが急に黙り込んだので、フォールは慌てた。田舎道に差し掛かり、広くて往来の少ないのもあって、前も見ずにラヴィソンの方を伺う。ラヴィソンはフォールの隣で興奮に頬を上気させて、帽子をふかふかと上げたり下げたりしていた。
「素晴らしいことである。大変素晴らしい。よい旅になるに違いない」
「は」
「フォールは、フォールはこの国の言葉が話せるか?」
「は。仕事に必要でしたので、習得いたしました」
「さようか。僕も習ったのだ。使ったことはないが、あの家族と、僕は話ができる」
「それはきっと、彼らも喜ぶことでございましょう」
「突然訪れるのか?」
「いえ。あちらに泊めてもらうので、事前に連絡をしておきました。先方も、とても楽しみにしているとのことでございました」
「さようか。うむ。僕もとても楽しみだ。さようか、あの家に、うむ」
ラヴィソンは知らずに笑っていた。嬉しくて楽しくて仕方がない。ギュッと勢いよく帽子を目深に被りなおし、本当に楽しみである、と隣のフォールを見上げて笑顔で言った。フォールは彼のその年相応の様子に、旅にお連れして本当によかったと同じく笑顔で頷き返した。
ラヴィソンたちが流れ着いた後に水軍によって連行された当時、行軍は村を迂回していたのと便利な道がまだ出来ていなかったのとでその道のりは四日ほどかかった。しかし今は、新しい道が河沿いに設けられていて、安全に迷うことなく、二日でたどり着けるようになっている。フォールが馬を飛ばせば一日と掛からない。
首都を離れて、進路を北東へ。ラヴィソンは自分が日向にいる間はきちんと帽子で遮光し、フォールはその大きな身体で影を作る。並んで座ってパカパカと蹄の音を、追いかけているような穏やかな旅。
やがて最初に河の見えるところに出たとき、ラヴィソンは少し怖いような気分だった。河に、良い思いではない。暗く恐ろしい流れと、自分たちを追い詰める大きな船。夜が明けて見えたのは、血で真っ赤に染まる水に半分沈んで倒れる瀕死の護衛。そしてもちろん、別れてしまった馬たち。
「ラヴィソン様」
「何か」
「……川面の、光の反射は、眩しくございませんか」
「……少し、眩しい」
「目を閉じておられても、よろしいかと存じます」
「……疲れれば、そのように」
「は」
ここからずっと、河のそばを走る。ときどき離れたり、林に入ったりして河が見えなくなることがないわけではないけれど、基本的には河沿いの道だ。見るのが辛ければ、見なければいい。フォールはこの道を避けることも考えたけれど、何もかもから彼を匿うのが、本当に正しいのかどうかわからなくなっていた。自分とは違う角度からラヴィソンを見守る側仕えたちは、ラヴィソンを大切に大切にはしているけれど、彼の歩く足元の石を黙って取り除いたりはしない。石があるから気をつけたほうがいいと声をかけ、無事に歩けるかをすぐ側で見守るというやり方がほとんどだ。フォールはゼンに、ラヴィソン様に河を見せないほうがいいでしょうかと相談した。彼は、お嫌でしたら見たくもないとおっしゃられるでしょうと教えてくれた。彼の予想とは少し違うけれど、ラヴィソンは切なそうな表情でじっと河を見つめ、何かを考えている。この時間を奪うことがなくてよかった、この道を選んでよかったと思いながら、フォールは馬車を走らせた。
馬車は王宮仕様であるからか、とても乗り心地がよかった。馬を操るための座席もフカフカしていて、だからアンはラヴィソンがそこに座ることを承知したのだろうけれど、車輪も護謨で被覆されているので、小石を踏んでもガタガタすることはなく快適だ。本来ラヴィソンが乗るべき箱の中は、屋根も壁もフカフカな中綿で覆われていて、座席は長時間乗っても疲れないように作りこまれている。その箱の後に荷台があり、アンとダンが積んだ荷でいっぱいだ。
「軍の馬車とは、違う」
「さようでございますね」
「とても速いし、静かである」
「はい」
速いのはフォールの馬の扱いがうまいからで、速度を上げても乗り心地に影響が出ない分、景色に変化のない場所は急いでいると感じない程度にできるだけ先に進んでいるからだ。そのかわり、ラヴィソンが降りたいと言えばどこででも馬車を停め、こころゆくまでその場所に留まった。フォールの予定はラヴィソンの気持ちに沿っていたらしく、ゆっくりとアンの持たせた食事をしたり、森の中を散歩したりしても、夕方には宿にたどり着くだろう。
「お菓子を召し上がりますか?」
「うむ」
「では、ご用意いたします。後ろのお席でよろしゅうございますか。それとも降りて少し休まれますか」
「ここでよい」
「は」
フォールは道端に馬車を停めて、アンが持たせた荷物の中からお菓子を取り出す。日持ちのする焼き菓子だと聞いている。フォールはついでに小さな茶碗にこれもアンの用意したお茶を注ぎ、両方を持ってラヴィソンの側へ回る。
「どうぞ」
「うむ」
なんと穏やかなのだろうか。この旅も、この男も。ラヴィソンはなんだか急に落ち着かなくなった。急に、フォールとは久しぶりに会うのだという実感がわいてきたのだ。前回の再会では驚きや安堵の気持ちが強く、フォールの変化に頓着していなかった。こんな風に穏やかに笑う男だっただろうか。いや、そうだったかもしれない。彼を見ようともしなかったあの旅においては、フォールの顔がどんな風だったかなど、最後の最後に別れを告げるまで知らないに等しかったのだから。何だか、知らない人のように思えた。あの時と今と、いったいどちらが本当なのか。もしくは、どちらも偽りで、本来もっと別な人間性なのか。
「……フォールは」
「は」
「今までずっと、祖国に、おったか」
「…………いえ」
「……」
聞いてはいけないことだったのだろうか。ラヴィソンは俯き、お菓子を口にした。軽い歯ざわりと甘さ。それが今この状況に不似合いに思える。フォールは帽子のつば越しに僅かに見える美しい青年の横顔を見つめ、お茶がこぼれない程度にそっと、馬車を動かした。人が歩くほうがよほど速いような動きだ。
「……御下命を、果たしました。アンソレイエ国王陛下のお計らいで、無事に祖国へ戻り、親書の返書を、王宮に届けました」
「ご苦労であった」
「私はその帰路における便宜の一つとして与えられていた、隣国の通行許可書を所持しており、帰還後にそれを咎められました」
「なぜか。理不尽なことである」
「疑心暗鬼であったことと思います。私が隣国の側についたのではないか、持って帰ってきた返書は本物か、色々と聞かれました」
フォールはこの旅で、自分のここに至る経緯を聞かれるだろうと覚悟していた。自分の身に起きたことすべてを話すことがいいのかどうか。悩んだ末、ほとんどを隠すべきだと結論付けた。もう終わったことだ。美しく薄倖な青年に聞かせる必要のない話なのだ。フォールは慎重に言葉を選び、ラヴィソンの中にある祖国の印象を、望郷の想いを、徒に壊すことがないように話を続ける。
「しばらく、取調べがありました。それに応じている間に、アンソレイエ陛下はラヴィソン様との約束を違えることなく援軍を送ってくださり、私は彼らによってこの国へ戻されました」
「なぜ」
「わかりかねます。ただ、今は軍部で、馬の仕事を少しさせていただいております。もしかしたらその為だったのかもしれません」
「さようか」
すべて嘘ではないとはいえ事実とは異なる話を聞かせることは、もちろん本意ではない。しかし、フォールが受けた苛烈な私刑を、罵声を、伝えて何になるというのだろう。今こうして側にいることを許されている。それがすべてだ。過去など、もういい。
「早々に、この国へ戻っていたのであるな」
「は」
「では、祖国が、その後にどのような道を辿ったのかも知らぬのか」
「は。ラヴィソン様にご報告できることは、ヴィヴァン国の援軍助力であの戦争は終結したということくらいでございます」
「さようか。────祖国の、発展を祈るばかりである」
呟くようなその言葉は、フォールの胸を締め付ける。ラヴィソンの中にある、美しい祖国と偉大なる王族。それは誰にも奪われることなく、彼の中で続いていけばいい。フォールはラヴィソンのこころが、これからずっと穏やかであることを願った。
「もう一つ、よろしゅうございますか」
「なにか」
ラヴィソンはその小さい口に、焼菓子の残りを入れて頷いた。茶碗が空になっていたので、フォールはそれを受け取り、自分の懐に片付ける。
「祖国で宿泊した、おかしな薬を寄越した素っ頓狂な宿屋の亭主を、覚えておられますか」
「無論である」
「彼は、生きています」
ラヴィソンはパッとフォールを見て目を瞠る。そして、しばらく黙ってから、するりと脱帽すると、なんとありがたいことであろうかと呟き、美しい目を伏せて神への感謝を口にした。その様子は、それこそ神子のように典雅で美しかった。フォールはこのことをいつ言おうかと悩んでいたのだけれど、ようやく伝えられて少し気が楽になった。生きている。しかし、無事ではない。詳しく聞かれてはどうしようかと思ったけれど、ラヴィソンはそれ以上何も言わなかった。生きているというだけで、ラヴィソンにとっては奇跡のようなことだったからだ。
「あの者にも、世話になった」
「は」
「これからも、達者であればよいと、そう願う」
「遅くなりましたが、あの亭主も、ラヴィソン様のご無事を祈ってくれておりました。謹んでお伝え申し上げます」
「さようか」
時々強く吹く風が、少し和らいだような気がした。ラヴィソンは帽子を頭に乗せ直し、よい旅であると言った。フォールは頷き、少しずつ馬車の速度を上げていく。
ラヴィソンは、長く続いた隣国との戦いは終わり、知る由もないけれど祖国はきっと輝きを取り戻し、だからこの元護衛は、従来あるべき穏やかな性格に戻ったのだろうと納得した。当時の悲壮で深刻な態度は、あの状況における特殊なものだったのだと。ラヴィソンは帽子のつばを傾けて視界を広げ、隣の大男を眺めた。白金の髪はうなじの辺りで一つに束ねられ、それが背中に長く伸びている。横顔で際立つ繊細な鼻梁、大きな口は優しい声を発し、大きな目は緑で、ラヴィソンのことを優しく見つめる。フォールは黙って自分を見ているラヴィソンに、どうかなさいましたかと、内心緊張しながら問いかける。尊い身分は失ったかもしれないけれど、フォールにとっては大切な主であり、漂う気品は万人を魅了する。
「フォールは、肥えたか」
「……は」
「さようか。道理で少し、印象が違うと思うた」
「御見苦しいことで、申し訳ありません」
「見苦しくはない。貧相よりはよほど良い」
そして、ラヴィソンは小さく声をあげて笑った。その様子はこの世の春を思わせる。フォールは、ありがたいお言葉でございますと言い、笑顔で頷いた。
やがて、馬車は予定の宿に到着した。
「……僕の知る宿とは、違うようである」
「は。恐れながら、私もこのような立派な宿とは知らず……何でも、ラヴィソン様のご友人方が色々と候補を挙げて選んでくださったようでございます」
「さようか。彼らのすることなら、優雅であっても仕方あるまい」
「は」
プランスを通じて知り合った友人たちは、目が開いてから何度も見舞いに来てくれている。彼らは一様に綺麗な身なりをしていて、もちろん王族ではなかったけれど、王宮に出入りする人間だった。だから彼らの紹介する宿の天井が低くて汚いなど、あるはずがないのだ。
食事は宿の一階の併設された食堂で摂った。とても賑やかだったので、フォールは店の人に頼んで部屋で食べようとしたのだけれど、ラヴィソンはかまわないと言う。
「は……あまり、落ち着かぬ雰囲気でございますが」
「よい。平民とは如何なものか、実際に知ることが肝要である」
「は」
しかしラヴィソンは面食らってしまう。なぜこんなに狭いところに犇いているのか。さらに、こんなに狭いのになぜみんな大きな声を出すのか。目の前に置かれた食事は悪くない味だったけれど、確かに落ち着かない食事時間だった。フォールはただひたすら、酔っ払いが寄ってこないように目で周囲を威嚇していた。
「なかなか、平民とは陽気であることだ」
「は……恐れながら、彼らは飲酒しておりましたのでなおさらでございましょう」
「さようか。それは結構なことである」
ラヴィソンにとって誰かと酒を飲むことは、めでたいときや儀式など、晴れの日に限るという認識だった。なので、飲酒するほどいいことがあったのであればそれは結構だと言ったまでだ。フォールはよくわからなかったので、彼に湯浴みをすすめ、ラヴィソンはそれにおとなしく従った。
「とてもいい宿でございますので、こちらは不要でありますね」
「いや、それをこちらへ」
フォールは自分が置いていった織布がまだラヴィソンの手元にある事をありがたく思いながら、しかし部屋は暖かく寝台もふかふかで毛布が二枚も備わっているので、それを片付けようとした。先ほどまで膝掛けに使っていたラヴィソンは、横になったままでそれを所望する。フォールは毛布の上からそれを掛け、皺のないよう綺麗にする。
「これでよろしゅうございましょうか」
「うむ。よい」
「は」
「僕はこの織布があると落ち着くようなので、いつもそばにあるのがよいのだ」
「は」
「これと、母の形見の布は、ずっと携えている」
「ご母堂様の形見のお品と同じに扱われるとは、恐れ多いことでございます」
フォールは恐縮しながら、ラヴィソンの寝支度が整ったので灯りを小さくした。楽しく快適な旅路ではあったけれど、ラヴィソンは疲れていたらしく、すとんと引き込まれるように寝入った。フォールはそれを確認してから、自分に与えられた寝台に腰掛けて、恵まれた一日に感謝した。
ラヴィソンが夜中にふと目を覚ますと、小さな灯りに大きな身体が浮かび上がっていた。ああ、フォールがいるのか。そう思うとこころが軽くなり、穏やかになる。ウトウトと、長い瞬きを繰り返しながら、なんとなくフォールの横顔を眺めていたら、その巨躯が動いて視界一杯になる。大きな手が丁寧に、ラヴィソンの上掛けを整えて、遠慮がちにトントンと肩の辺りを優しく叩くと、ラヴィソンは満足を覚えて再びゆっくりと眠り始めた。
翌朝も快晴だった。ラヴィソンは早くから目を覚まし、フォールに支度をさせて、テキパキと出立する。この日はいくつか村の中を通り抜けた。一日目は村の側を通っただけだったので、ラヴィソンは幾分緊張しつつも、ヴィヴァンの豊かな村民の暮らしを観察できて非常に楽しかった。道があまり広くないので途中で馬車を停めることは難しかったけれど、ある村の真ん中に大きな広場があって、そこはラヴィソンたちの乗る馬車を停めても邪魔にならない程度に空き地があり、いくつか店もあったのでそこで昼食を調達したりした。
「……あの村に、少し似ている。祖国の」
「は。恐れながら、同感でございます」
「甘いお菓子は、売っていないようであるが」
「ええ……ご所望でございますか」
「いや。あれは、あそこであのように頂いたから美味しかったのであろうと思う。よい思い出であるので、ここで同じ事をしたいわけではない」
ラヴィソンは穏やかに微笑んで、フォールの差し出したこの国の郷土料理を口にする。よい思い出だと、そう言えることは、ラヴィソンに自覚はないけれど悪いことではない。苦しい渇望を、感じないでいられるということだ。望んだところで二度と戻らない祖国での暮らしを、今と切り離して受け止められているのだから。
「ふむ。少し食べにくくはあるが、よい味である」
「は、失礼致します」
両手で包みを持って頬張って食べるものだったので、それはラヴィソンが珍しい見た目に惹かれて選んだのだけれど、上手に食べるのは難しかったようだ。口の端はもちろん、なぜか鼻の頭にまでタレがついている。フォールは手拭いで、ラヴィソンが顔を汚すたびに丁寧に拭った。何度も汚して何度も拭いたので、食べ終わる頃には少し鼻が赤くなってしまって、フォールは慌てた。
「も、申し訳ございませんっご尊顔がっお鼻がっっ」
「ふむ?僕の顔がおかしなことになったか」
「ラヴィソン様におかれましては、その美貌も気品も、おかしくなることなどありえないことでございます」
「であれば、よかろう」
「はぁ……」
フォールが汗をかきながら水を差し出し、ラヴィソンがそれを飲んでいる間に、ラヴィソンが一つ食べた料理を二つ、あっという間に食べ終えた。決して見苦しい食べ方ではないのだけれど、その食べっぷりにラヴィソンは感心する。
「本当に、うまく食べるものである」
「は」
「口が、口の大きさであろうか?僕はもう少し、口を大きくする必要があるのではないか」
「恐れながら。ラヴィソン様のお口は、今のままで十分であり、また、大きくすることは難しいことであるようにお察し申し上げます」
「うむ。引っ張っては、痛かろうな」
「は。決して、そのようなことはなさいませんよう……なさいませんようっ!何卒っ!」
「ふぁようふぁ」
ラヴィソンは細い指を自分の口の端に引っ掛けて、ふにーっと横に伸ばして見せた。とんでもないことだ。アンが見たらきっと夜までお説教だろう。フォールももちろん連座だ。失礼、と短く断ってから、フォールは大慌てでラヴィソンの果敢な実験を止めさせる。
「よろしいでしょうか、ラヴィソン様、仮にお口の大きさが、仮にではございますが、足りなかったとしても、通常のお食事をなさる分には何の不足もございません。今までそうであったことと存じます。でございますから」
「もうよい、諦める」
「は」
ラヴィソンは至って真面目で、フォールも真面目だった。ただ、側にいたほかの人たちが彼らのやり取りに笑いを堪えるのは必死だった。この国の言葉を使っていないので、意味はわからないはずなのに、微笑ましさというのは伝わるようだ。
目的地である村のそばまで来ていたけれど、フォールはその手前で二泊目の宿へ入った。夕方に着くよりも朝の方がいいだろうということと、先方の家族が揃うのは明日だと聞いていたからだ。一泊目と同様、素朴ながらも広くて快適な部屋に通され、ラヴィソンとフォールはそこで夜を過ごしてから、翌朝あの村に向かった。
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