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第36話

「ラヴィソン様、間も無く到着でございます」 「うむ」  ラヴィソンは少し緊張の面持ちで、まっすぐに前を向いたまま頷く。そっと帽子を取り、それを胸に抱きしめるようにして、少しずつ見えてくる景色に記憶を重ねる。 「如何致しましょうか。まず私が家に出向き、先方にご挨拶を述べた後に、彼らとお会いになられますか?」 「僕はすでに平民であり、彼らと同等であるので、着き次第僕が自分で挨拶を致す」 「承知致しました」  やがて、覚えのある庭が見えた。その前で馬車を停める。待ち構えてくれていたのか、犬が一つ吠え、二人の男が手を挙げた。そのうちの一人が家の中に駆け込んでいく。 「お手をどうぞ」 「うむ」  フォールは馬車を降りてラヴィソンの側に回り込み、彼が降りるのを手伝う。そして軽く身だしなみを整えさせてもらってから、参りましょうと促し、庭に入る柵を開け、ラヴィソンの後ろに続いた。その頃には家族四人と一匹が勢揃いして、こちらを見ている。ラヴィソンは背筋を伸ばして彼らの前まで進み出ると、懐かしい顔をゆっくりと眺め渡し、おもむろに口を開いた。 「久しぶり。元気だった?あの時は本当にありがとうね。また会えて、すごく嬉しいよ」  家族たちの笑顔は一瞬で満開になり、よく来たね、さあさあ入りなさいと、ラヴィソンを歓迎している。ラヴィソンの後ろに立位で控えて頭を下げて彼の言葉を聞いていたフォールは、動けなかった。  ……プランス殿下か……  よもや、あんなに砕けた話し方をなさるとは。もちろん悪いことではない。しかし、普段の言葉遣いに慣れていて、そうあるべき血筋のラヴィソンが、年相応の口調になるのは違和感を通り越して腰が抜けそうになった。いや、プランスもこの国においては第一位の王位継承権を持つ者だ。だからまあ、うん、異常事態ではない、のだろう。もうよくわからない。  呆然と立ち尽くしているフォールに、早くお入りなさいよーと母親が呼びかける。フォールは慌ててみんなの後を追った。 「僕の名前はラヴィソンだよ。あの時は教えられなくてごめんね」 「いいのよ、そんなの。言葉を覚えたのね?すごく上手だわ」 「うん、友達に教えてもらったの」  慣れない。慣れそうにない。何故なら、ラヴィソンは美しい声で平民の言葉を話しているけれどその表情は普段通り、すなわち、至極真面目であまり感情を浮かべないのだから。きりりとした、意志の強そうな、毅然とした美しい顔で、あのね、などとは熱いものと冷たいものを一度に口に入れたように受け入れにくい。  しかし当のラヴィソンは、言葉がうまく通じているようなので一安心し、家族たちの矢継ぎ早の質問に一つ一つ丁寧に答えている。時々は、笑顔を浮かべている。だからフォールは、やはりお連れして良かったのだと思えた。  あの頃まだまだ子供のようだった兄弟はすっかり大人びて、逞しくなっていた。二人とも軍人だという。兄のルイのほうがなんだか子供っぽくて、弟のルカが落ち着いているという二人は、口々にラヴィソンに話しかけている。今日はラヴィソンとフォールが来るというので休暇を申請したらしい。ラヴィソンももちろん背は高くなっていたけれど、彼らの変化に比べれば変わらないと言われる程度のものだ。     「ラヴィソンって言うんだね。じゃあ、ラブちゃんだね」   「らぶちゃん?」   「あだ名だよ。ラブちゃん、今までどうしてたの?あの時軍の人に連れて行かれて、怖い目に遭わなかった?大丈夫?」   「あ、うん、大丈夫。怖くない。今まで?うーんと、ちゃんとおうちにいて、友達も出来て、ご飯も食べた。旅は三日目」   「そっかそっか。よかったね」   「うん」      フォールは母親に出されたお茶を噴出しそうになっていた。必死で堪えて、おかしな声が出る。らぶちゃん。らぶちゃん?そんな馬鹿な話があってたまるか。不敬にもほどがある。そのお方をどなたと心得るのだ。などと言いたいけれど、もちろん言わずに黙っている。ラヴィソンは懐かしい家族に会えたのは嬉しかったけれど、フォールの近くにいたかったので彼の隣の席に腰を降ろした。もちろん、椅子を引いたのはその素振りを見て取ってすぐさま立ち上がったフォールだ。必然的に兄弟も同じテーブルに着き、ようやく四人は落ち着いて話を始められた。母親と父親は、そんな彼らをニコニコしながら眺めている。フォールは相変わらずよく世話を焼いているなあ、ラヴィソンは相変わらずかわいいなあ、と。     「フォールは、前に一回、訓練で会ったもんね?」   「ああ」   「そうなの?」   「いつだったかなー?俺がまだ訓練学校にいた頃だから、うーん」   「フォールは、訓練する人だったの?」   「そうだよ。馬の扱いとか騎馬訓練の先生」   「先生」      ラヴィソンはその事実に驚いて、隣にいるフォールをじっと見つめた。フォールは、もちろんいつもの共通語のほうで、そのような仕事を致しておりますと説明した。     「さようか。大変立派なことである」   「恐れ多いことでございます」   「えー何?ラブちゃん、ちょっと言葉遣い変わってるね?」   「ああ、そなたらは、共通語を学んだか」   「うん、軍ではそれが基本だからな。ラヴィソン、変だぞ、言葉遣い」   「そのようなことを言うのはそなたらだけである。であるから、僕の言葉遣いは少なくとも、共通語を使う間はおかしいはずはなかろうと思う。この国の言葉はまだまだ不慣れかも知れぬが」   「そうかあ?なんか仰々しいぞ。てゆーか、フォールはなんなの?ラヴィソンの何?」   「あのな、お前ら。このお方は大変尊い血筋であり、俺はお供をさせていただいている立場なんだ。特にルイ、ら、ラブちゃん、など、おかしな呼び方をするんじゃない。きちんとラヴィソン様とお呼びしろ」   「よい。僕は平民であり、彼らのしたいようにさせるがよい。ラブちゃんと言われたことがないので適切かどうかは判じかねるが、悪意はないようである。呼ばれれば我が事であると、返事を致す所存である」   「あ、そうか。ラブちゃん、他所の国の出身だもんね。お国訛りかもね。やっぱりこの国の言葉にしたほうがいいよ」   「さようか」      訛りなどではもちろんないのだけれど、フォールは諸事情を説明することを諦めた。したってどうしようもないのだから。それよりも、ラヴィソンがとても楽しそうなのだからそれでいい。自分にとっては誰よりも高みにあるお方だけれど、ラヴィソンがみんなに愛されていればそれでいいのだ。そこに王族への敬意がないことなど、問題ではないのだ。……多分。  そうこうしていると、母親が満面の笑みで料理を運んできた。それはもう、大変な量だ。色々な皿がどんどんテーブルを埋めていく。兄弟も母の手料理は久々らしく、歓声を上げている。     「あんたたち、これはラヴィソンとフォールのおもてなしなんだからね。ラヴィソンの分、食べちゃダメだよ」   「へーい」   「あ、豆。僕、まだ、剥けるかな?剥こうか?」      ラヴィソンは煮豆の皿を見つけると、母親のほうを振り仰いで小首を傾げた。その様子に、母親はむぎゅっと彼を抱きしめて、いい子だねえええ!!!と叫んでいる。     「いいんだよ、ラヴィソン。今日はお手伝いしなくても。さ、ゆっくりしっかりお食べ」   「うん」   「いっただっきまーすっ!!」      ラヴィソンは兄弟の大きな声に驚きながらも、真似をし、美味しい昼食をおなか一杯になるまで楽しんだ。  その後は、村の人がラヴィソンたちの顔を見に来た。ラヴィソンたちは覚えていないけれど、助けてくれたのはこの家の家族だけではないし、彼らがこの家に滞在していたとき、毛布や食料を近所の人が分けてくれているのだ。だから、フォールはそれを聞いてみんなにあの時はありがとうとお礼を言い、ラヴィソンも、ありがとうねと頷いてみせる。村人たちはラヴィソンのその美しく端正な容姿から零れるひどく親しげな言葉にすっかり虜になって、急いで自宅にとって返してまた食料を持ってきて、帰り道に食べなと渡してくれたりした。  陽が傾く前に、切ってあげようねと、父親が鋏と椅子を持ち出すと、ラヴィソンはその椅子を代わりに持ち、父親の後ろについて行った。あの時と同じ空が見える庭で、ラヴィソンは髪を切ってもらい、フォールは遠慮したのだけれど、その様子を感慨深く眺めていた。  夜になり、夕飯の支度が整い始めるころ。家にやってきたのはあの時世話になった母子だった。子というには随分と貫禄の出たフリックは、あの時と変わらない人懐こい笑顔で、ひさしぶりだなと言った。フォールが彼とガッチリ握手を交わしている間に、ラヴィソンは医師である母親のほうへ駆け寄り、こころからの感謝を述べる。     「あの時、診てくれて、本当にありがとう。すごく助かったよ。僕は言葉を覚えたから、自分でお礼が言えるんだよ」   「そうかい。偉くなったね、僕ちゃん」   「あ、僕はね、ラブちゃんなんだよ」   「ラブちゃんかい。随分かわいい名前だね」   「そうかな?わからない。名前はラヴィソンなの」   「ラヴィソンね。いい名前だ。今はどこも痛くないのかい?」   「うん」   「身体も、こころも?」   「こころは、時々痛い。痛いなあって思うけど、でも、友達とか周りの人のこととか考えると、痛いけど大丈夫に思える」   「無理してるのかい?」   「わからない。だけど、辛くないよ」   「そう」   「うん。ありがとう」      医師はあの時のことを思い返して、あんな目に遭いながらこんなにまっすぐに持ちこたえたラヴィソンを褒めてあげたい気持ちになった。ちらりと、相変わらず大きな図体をしている護衛を見れば、彼もどうやら医師の診察は不要のようだ。よく出来た二人だと感心する。     「久しぶりだな、フリックだよ。覚えてる?」   「うん、あの時はありがとう。ありがとう、は、フリックに習ったね」   「…………そうだな。名もなき坊ちゃん、今度は名前を教えてくれるか?」   「ラヴィソンだよ。でも、家の人はフリックみたいに坊ちゃんとか坊ちゃまって呼ぶ。でも、ルイはラブちゃんって呼ぶってさっき決めてた」   「えーっと……共通語で話しても?」   「無論である。まだまだこの国の言葉は難しいので、こちらのほうが意思の疎通は早かろうと思う」   「な、るほど……」  フリックはなんともいえない表情でフォールを見る。フォールはもちろん、フリックと目を合わせなかった。やがてみんなで楽しい夕飯となり、ラヴィソンはおいしいおいしいと何度も言って、いつもよりもたくさん食べていた。  翌日、ラヴィソンは朝早くに起きて、フォールや兄弟たちと庭に出て転がっていた。フォールは何か敷物をと騒いでいたけれど、ラヴィソンは兄弟の真似をしてそのまま芝生に転がってみる。チクチクするけれど、気持ちがいい。プランスに貰った便利な帽子のことを兄弟にも説明し、ラヴィソンはそれを頭に被ったり顔に乗せたりして適時遮光しながら、庭で寛ぐ時間を満喫していた。そんなとき、フォールが寝そべるラヴィソンのすぐ側に膝をついて、声を掛けた。ちょうど腹ばいになって自分の手の甲に顎をのせ、目の前に見える芝生を観察していたところだ。頭上から声を掛けられることも、もう気にならなくなっていた。     「何か」   「は、お忙しいところを恐れ入ります。実は、ひとつお詫びがございます」   「何か」   「確実な約束ではなかったので、事前にお知らせを致しませんでしたが、実は」    フォールの声は、お詫びだというのに暗くない。ラヴィソンはころりと転がって、半身を起こしつつフォールのほうを見た。視界が広がったと同時に、ラヴィソンは弾かれたように立ち上がり、帽子を飛ばして走り出す。フォールはゆっくりと腕を伸ばして空に舞ったラヴィソンの帽子を捕まえた。そのころ、ラヴィソンの腕は、馬たちを抱きしめていた。     「サージュ!エギュ……!」      庭の端に、二頭の馬が佇んでいた。        それからというもの、ラヴィソンはサージュとエギュからひと時も離れなかった。彼らが餌を食む隣で自分も簡単なものを口にし、ずっと庭で一緒にいる。  家族たちは、フォールの説明に納得して、ラヴィソンにかまうことをしなかった。既にいのちを諦めていた相棒と、生きて再会できたのなら、離れがたいという気持ちがわかるからだ。フォールは彼らの気遣いに感謝し、馬たちとラヴィソンの側に黙って座って彼らを見守っていた。その手にはラヴィソンの帽子がある。  馬も、ラヴィソンのことを覚えているらしく、鼻面をラヴィソンに押し付けたり、太い首を摺り寄せて、はくりと甘咬みさえして、彼の存在を確かめる素振りを見せた。ラヴィソンが何度も名を呼んで抱きつけば、脚を踏み鳴らして応えたりした。ラヴィソンはあまりにも衝撃的な現実に思考も身体も追いつかず、興奮のあまり咳き込んでしまうほどだった。彼らは、フォールのほうにも顔を向け、ふるんと尻尾を振って見せた。     「エギュ、サージュ……」      サージュとエギュは、ラヴィソンのためか、よく座っていた。それでも時々立ち上がってユラユラと庭をうろつく。ラヴィソンは、馬が立ち上がれば自分も立って背中や首を撫でてやり、座れば自分の身体を預けるように両腕を広げて密着して、大きな馬体を抱きしめるようにじっとしていた。時々名前を呼び、鬣を指で梳いては何事かを囁いている。目を閉じて、体温を、鼓動を、本当にここにいてくれるのだと確認しているかのようだ。馬たちはラヴィソンのしたいようにさせていた。    エギュとサージュはあの日、河に流されて、フォールたちが漂着した村よりもはるかに下流の村へ打ち上げられた。サージュは舟に乗っていて、エギュは傷つきながらも何とか泳いでその舟から離れることなく、二頭は同じ道を辿った。下流の村では、どこから来たのかわからないけれど立派な馬だったし、二頭ともに衰弱が見られたので、村人が総出で怪我の手当てをして餌を与え、色々と世話をして、長い間村の拾い物として大事にしてきた。エギュの脚の傷は深く無理は出来なかったけれど、サージュはよく働いたし、二頭の仲がよかったので、エギュにも軽い荷物を運ばせたりして、その村では重宝されているという。    フォールはこの国へ戻ってきてから間もなく、二頭の馬を探すことを始めた。生きているとはもちろん思っていなかったけれど、最期の様子だけでもわかれば、骨の欠片だけでも手に入ればと、仕事の傍ら休みのたびに、大きな河沿いの村々を訪ねて回っていた。こちら側に漂着したとは限らないので、隣国に足を伸ばしたりもして、本当に長い時間を掛けて、ようやく最近、拾い物として馬を二頭、村で飼っている集落があるという話を聞いて、サージュとエギュに再会できたのだ。  ラヴィソンほどではないにせよ、その時のフォールも同じように、何度も馬を抱きしめ、何度も名を呼び、何度も詫びた。怖かっただろう、すまなかったと。  きっと今、ラヴィソンもそのようなことを繰り返しているのだろう。フォールはこの馬たちはいつも、自分よりもずっと優しく、ラヴィソンのこころを癒してくれるとつくづく思っていた。     「フォール」   「は」      ラヴィソンがようやくフォールを呼んだのは、陽が傾き始めた頃だった。馬たちは立ち上がって、庭の外を見ている。そこにはいつの間にか質素な馬車が一台停まっていた。     「……エギュとサージュは、もう帰らねばならぬのか」   「許可は貰っております。もしラヴィソン様がお望みであれば、エギュもサージュも首都に連れて帰ってかまわないとのことでございます」      フォールは二頭を大事にしてくれた村と交渉して、本日、ここへ二頭を連れて来て欲しいと頼んでいた。それと同時に、引き取ることは可能だろうかとも打診していた。もちろん最初は難色を示していたけれど、事情を説明すると理解してくれて、会ってから決めるということで了承してもらったのだ。二頭はもう、歳をとっている。下流の村の人たちは、仕事が出来なくなったとしても最期まで面倒を看たいという意向だったけれど、最期くらいは元の主人のところで暮らすのもいいかもしれないと譲ってくれたのだ。    ラヴィソンは二頭を代わる代わる撫でてやり、しばらく黙っていた。     「……彼らとは、ここで別れようと思う」   「……」   「エギュもサージュも、とても綺麗な毛並みである。艶々である。どこにも傷はなく、身体もしっかりしていて、きっととても大事にされているのだろう」   「は」   「あの時、僕が、僕の手が、届かなかったことを、何度も詫びた。長い間ずっと辛く思い、しかしその苦しみは生涯背負っていくべきであると覚悟していたけれど、本日こうして会うことが叶い、直接詫びることが出来た。彼らに、許してもらえたような気がする」   「は」   「……彼らには彼らの暮らしがある。この顔を見よ。とても穏やかである。きっと今しあわせなのだ。僕はそれで本当に十分で、これ以上の喜びはない」   「は」   「彼らは、なんと呼ばれているのだろうな」   「聞いてまいりましょうか」   「いや、よい。よいのだ。僕にとって、エギュとサージュはかけがえのない存在で、その名を与えられたことを嬉しく思っている。今を邪魔するつもりもなく、何も……望まぬ。本日は十分すぎるほどの時間を貰った」   「恐れながら。私にとっても、彼らと旅をしたことはかけがえのない経験であり、私の馬に名をいただきましたことは生涯の宝でございます」   「彼らが末永く、達者でいてくれることを願っている」   「は」   「いつか……彼らの村まで行ってみようか」   「その際には、何卒お供させていただきたく、お願いを申し上げます」   「うむ」      ラヴィソンはようやく笑みを浮かべて、馬たちにさようならと言った。かわいがってもらうがよい、僕はそなたらのしあわせを神に祈ろうと。そして下流の村の者に、丁寧に礼を伝え、どうか彼らを今後ともよろしくと言い、馬車に繋がれて帰っていくサージュとエギュを見送る。夕陽が、少し眩しかった。ラヴィソンはフォールから帽子を受け取って被り、時々こちらを振り返りながらも小さくなっていく馬たちを、見えなくなるまで、見えなくなっても、ずっと見つめていた。    家に入ると、夕餉の用意ができていた。母親は優しく笑い、いい馬だったねと声を掛ける。ラヴィソンは頷き、いい馬なんだよと笑った。      翌朝、名残惜しい気分で、ラヴィソンとフォールは出立した。別れ際にはやはり母親は少し涙ぐんでしまい、ラヴィソンはまた来るから大丈夫だよと何度も告げる。父親も兄弟たちも、身体に気をつけて、きっとまた訪ねておいでと繰り返す。     「またね。また来るから、元気でいてね。また来るからね」   「気をつけて帰るんだよ」   「うん。ありがとう、またね、ありがとう!」      フォールも家族らに頷き、軽く手を振って別れを告げると、おもむろに馬に鞭を入れた。ゆっくりと馬車が動き出す。ラヴィソンは、まるで、新しい時間が動き出しているような気分だった。こうやって無事を知れば、離れていても寂しくはない。ここへ来れば会えるのだ。もっと下流へ行けば、サージュとエギュにもまた会える。お互い生きているのだから。    村を離れ、行きと同じく大きな河のほとりをゆっくりと首都へ向かっていく。何度か休憩をしたけれど、ラヴィソンは旅の疲れで居眠りをしてしまった。ウトウトしていたのが、いつの間にか本当に寝てしまっていたのだ。何か比較的大きな音を聞いたような気がして目を覚ますと、周囲に変化はなく、穏やかな景色が広がるばかりだった。ラヴィソンはフォールの大きな身体にもたれるようになっていて、彼の大きな手が、ラヴィソンの肩を抱いて落ちないように支えている。陽が当たらないからか飛ばされそうになったのか、同じ手で器用に帽子も摘んでくれていた。     「お目覚めでございますか」   「うむ……」   「何か、召し上がられますか」   「うむ……」      ラヴィソンはフォールの横顔を眺めた。穏やかな顔だ。護衛のときも冷静でおとなしいと思っていたけれど、今は本当に穏やかで、なんの不満や不安もないことを示しているように思われた。そう、サージュやエギュと同じに。  フォールは静かに大きな木の側に馬車を停め、ラヴィソンの身体に触れていたことを詫びて帽子を返す。馬たちを自由にしてやり、大分目減りした荷物から、お茶とお菓子を用意して差し出した。ラヴィソンはそれを受け取ることもせずに、じっと目の前の大きな男を眺めている。     「どうかなさいましたか」   「……フォールは、今しあわせであるのか」   「え?」   「長い暇だったとフォールは言うが、その間にこの国での生活をそれなりに工面してきたのであろう」   「は」   「そして今、しあわせであるのかと、問うておる」      フォールにはラヴィソンの意図がわからなかった。ただ、偽りを述べればすぐに見抜かれるだろうことはわかる。黒く輝く美しい目は、フォールの緑の目を見つめて離さない。フォールは手に持っていたお菓子とお茶をラヴィソンの座る席に仮置きし、その場で片膝をついて彼を見つめ返した。     「しあわせでございます」   「……」   「もう二度と、ラヴィソン様のご尊顔を拝することは叶わないと諦めておりました。ラヴィソン様がご無事でおられるかどうかも定かではなく、私は……そもそも合わせる顔がないと」   「なぜか」   「ラヴィソン様を、辛い境遇に置き去りにしたこと、お詫びしてもしきれるものではございません」   「フォールは僕の名代で使命を果たしたのである。僕はそのように考えてはおらぬ」   「恐れながら。それでも私はずっと、もっと他に方法があったのではないかと悔やむ毎日でございました。自分の至らなさを呪い、殿下のお健やかなることを祈ることしか出来ない毎日でございました」   「……苦労を掛けたか」   「いいえ、一度も」      フォールは真摯に、ラヴィソンの問いへの答えを探す。しあわせか?もちろんだ。今ここに、大切な主が無事で生きていて、それを確かめられる。名を呼ばれる。しあわせに決まっている。有り難くて泣けてくるほどだ。    ラヴィソンは、フォールがしあわせであるのならばそれでいいと思った。長い間離れていた。彼はしあわせを得た。自分のいないところで、立派に。きっとサージュやエギュのように、誰かに大切にされているのだろう。  訣別を  今がしあわせであるならそれを守るべきだ。自分にできるのは、それが末長く続くようにと神に祈るだけ。ラヴィソンは、静かに頷き、おもむろに口を開く。 「僕は落ちぶれたとはいえ王族の血を引くものである。人々の安寧を祈る。フォールは、そのしあわせな暮らしを続けてゆくがよい」  フォールには、ラヴィソンの言葉の意味がよくわからなかった。目の前の美しい青年の存在なくしてフォールにとってのしあわせなどあり得ない。サージュとエギュを見つけ、謁見を許されたあのとき、ラヴィソンが光を取り戻したのと同時に、フォールもようやくしあわせを感じることができたのだから。 「ダンやアンやゼンも、いつか道を分かつかもしれぬ。しかし僕は、それを見送る立場である。間違っても、縋り、重荷にはならぬ。各々のしあわせを、願うばかりである」 「ラヴィソン様のおしあわせは、どうなさるおつもりですか」 「僕の、しあわせ」 「恐れながら申し上げます」  フォールは居住まいを正して、この気持ちが伝わればいいと考えながら言葉を続ける。 「ラヴィソン様は、もう護衛など必要のない暮らしをしておられます。私はこの身を盾としてお守りする以外何一つお役に立てることはありません。つまり、私はお側に侍る大義が見つからない。それでも、ラヴィソン様のおしあわせのために働きたいのです」 「……よく、わからぬ」 「ラヴィソン様のおしあわせが、どのようなことなのか、私には想像もつかないことでございます。もしかしたらラヴィソン様ご自身にも、まだ掴めていないのかもしれないとも、お察し申し上げます。しかし、ラヴィソン様はおしあわせになられることは間違いのない道理でございます」  彼の辛い過去が、報われないなどあり得ない。もしかしたら、あの側仕えたちとのささやかな生活が、しあわせなのかもしれない。であれば、それを守りたい。 「ラヴィソン様のこれからの人生において、ほんの僅かでもお役に立ちたく思います。何卒」      フォールは立ち上がり、祖国の騎士団にのみ許された王族への最上の敬意を表すお辞儀をした。     「そのように働くことをお許しくださいますよう、お願い申し上げます」      ラヴィソンはじっと黙したままでフォールを見つめる。フォールは目を伏せたまま、主の言葉を待った。     「許し、か」      ラヴィソンは呟いた。自分に誰かを許すことなど、できるのだろうか。本当は誰かに許されて生きているのではないのか。一人で生きることも出来ない無力さを、周囲が許してくれているから。     「許しを、与えることは出来ぬ」   「……は」      フォールにとってそれはもちろん絶望だった。しかし、主の言葉に反駁などしない。受け入れることしか出来ない。それがせめてもの忠誠だ。     「顔を上げよ」   「は」      ラヴィソンの顔は、やはり美しかった。これから先どんなことがあっても、絶対に醜く歪められることはないだろう。できることなら自分がその役割の一端を。でもそれが叶わなかったとしても、フォールにとってラヴィソンを大切に思う気持ちに変わりはない。そしてラヴィソンは、そんなフォールの気持ちに応えるような言葉を口にした。     「許しは、与えられぬ。しかし僕のこれから先の日々において、フォールがいてくれればと考える」   「……え?」   「常に近くに、とまでは、言わぬ。これは側仕えたちも同様である。それぞれにしあわせに生きていくのがよい。しかし、時々は僕の顔を見に来てくれればよいと、そのように考える」   「……」   「これまで色んなことが起こり、少し……大変な日もあった。教え込まれた考えを変えることは難しく、であるから、何事においても好きも嫌いもないのが普通である」   「……」   「しかし、今の僕には好きなものが多い。執着を捨てよと言われ続けてきたけれど、大切に思うものが増えてしまった」   「みな、ラヴィソン様が好きで、大切に、お慕い申し上げております」   「うむ。それが心地よく、ありがたいと、もう僕は知ってしまったのだ」      ラヴィソンは明るい笑顔を浮かべた。それは、太陽など足元にも及ばぬほど眩しい笑顔だった。     「僕が苦しいとき、フォールにそばにいて欲しいと思う。それは僕の望みである」   「必ず。今度こそ、必ず」   「うむ」      ラヴィソンはとても爽快な気持ちで、声を上げて笑った。何も望みはしないと、それが当たり前で生きてきた。そのことには何の不満もない。だけど、自分勝手な望みを言ってもいい相手もいるのだと知った。それを許してくれる人もいるのだと。フォールが無理をするのは本望ではない。だけど、余った時間を少し分けて欲しいと言うくらいは、もしかしたら許されるのではないだろうか。  フォールは、自分の願いを許可されるかたちではなく、ラヴィソンの望みを叶えることが出来るのかと思うと、感激で胸がつまり、どうしていいかわからず立ち尽くすばかりだった。ラヴィソンはそんなフォールをふむふむと眺める。     「フォール」   「は!」   「僕の、望みをもう一つ聞いてはくれぬだろうか」   「何なりと、お申し付けください!」   「うむ。では、そこにあるお菓子を所望する。フォールも共に、がよい」   「は!」      フォールはお菓子とお茶を改めてラヴィソンに手渡すと、馬車の荷台のほうへぐるりと回って自分の分を取り出し、自分の席へぐるりと移動して座った。ラヴィソンは満足を覚えて、とてもおいしいのだぞとフォールに教える。     「アン殿の、こころがこもったお菓子でございますから」   「さようである。アンは時々怖いことがあるけれど、とても優しくて、僕は好きである」   「は。私も好きです」   「僕はダンもゼンも好きである」   「私もでございます」   「お菓子も好きである」   「はい」   「僕は、本当に好きなものがたくさんになってしまった」   「恐れながら。それはラヴィソン様の人生が、豊かになっていかれたということであると、お察し申し上げます」   「さようか」      ならば、結構なことである。  ラヴィソンがそう言うと、フォールは同感でございますと頷いて、大きな笑顔になった。ああそうか、とラヴィソンは思った。この笑顔が、自分にとっての本当に望むものなのだと。    旅の帰路は順調で、予定通りの日にラヴィソンの邸宅にたどり着いた。到着を知って飛び出してきた三人の中で、他を押しのけて真っ先にラヴィソンを抱きしめたのは、誰あろうゼンだった。     「おかえりなさいませ、坊ちゃま!」   「うむ、今、戻った」 「ご無事で何よりでございます!」 「うむ、む……むー……くるし、い」      戻ってきた。過去は戻らないけれど、帰りを待っていてくれる人のいる場所に、戻ることが出来た。短い間だったけれど、ラヴィソンにとってとても感慨深い旅になった。     「旅は、よいものであった」      側仕えたちは、泣き笑いでそうですかそうですかと何度も頷いている。フォールも、ようやく肩の荷が降りた気がした。今度こそ、ラヴィソンを、ラヴィソンの笑顔を、守り通すことが出来たようだ。     「とてもよい旅であり、僕は次の約束さえ得た。目標もである。今度は、みなで行くのは如何だろうか」      ラヴィソンの言葉に、側仕えたちは、どこまででもついてまいりますと答え、お疲れでしょう、さあ家に入りましょうと、美しい青年をあたたかい家に迎え入れたのだった。

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