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第37話

フォールの過去を少しだけ ◆  真っ暗で音のない世界に、最初に戻ってきたのは声だった。男の声は、聞き取れず、聞く気にもなれず、フォールは闇に沈んだままだった。やがて名を呼ばれ、わずかに正気を取り戻す。それでも、あらゆる感覚は麻痺し、光もなく、ただ声が聞こえるだけだった。 ──聞こえるか  フォールは、返事のつもりで呻いた。そしてまた、闇に戻ろうとした。そんなフォールを、声がまた呼び戻す。 ──助けてやろう、お前を。このままではここで果てるのみ  フォールは今度は返事をしなかった。放っておいてくれ。もうたくさんだ。この人生にもう値打ちなどない。しかし声は、それを許さない。 ──アンソレイエ国王陛下に、忠誠を誓え。そうすれば、再び明るい場所へ行けるぞ  フォールはカッと目を開いた。真っ暗闇だったはずのその場所には、どこからか一条の光が差し込んでいる。だからといって、何の意味があるというのか。 「我が主は、ラヴィソン殿下ただお一人!俺の忠誠も命も、すべてあの御方のものだ!」  フォールはそう叫び、今度こそ意識を失った。声の主は、水軍総大将、シャルルーだった。シャルルーはフォールの叫びを聞き、大声で笑い、部下の制止も聞かずに自らその大男を肩に担いで、地上まで運び出した。 「立派なものだ。すでに死んでいてもおかしくないほどのこの状態で、それでもあの子供に忠誠を捧げられるとは」  地上の芝生に転がされ、フォールは駆けつけた救護班の手当てを受け始める。シャルルーは彼らに、必ず助けろと指示を出したけれど、そばにいたジュリが、顔を顰めて無理でしょうと言った。 「手も脚も、無事では済まない。あれだけ頭部に外傷があれば意識の混濁も続くでしょう。第一、ほとんど息をしていない」 「聞こえただろう、この護衛の心意気。助けてやるのが軍人の意地だ」 「意地で助かる命などありません」 「愛ならどうだ?」 「知りません」  そこへ別の部下が走ってきて、作戦の完了を報告する。シャルルーはご苦労だったと頷き、深い息を吸って空を見上げる。空は、どこで見ても美しい。  アンソレイエの命を帯びてヴィヴァンを出て数日。水軍の艦隊がラヴィソンの祖国の近海へ姿を現したのは昨日の日の出と同時だった。  砲弾の射程距離を予測しながら、一度前進をやめ、様子を窺う。援軍だとは思わずに攻撃してくるかもしれないと思った。遠眼鏡で見れば、立派な船が砲身を光らせて停泊していたからだ。しかし、威嚇しても挑発しても、一向に臨戦態勢をとることはなかった。ヴィヴァンの国旗をはためかせて、水軍は悠々と入港を果たした。  先遣隊と称した精鋭部隊が、総大将シャルルーを筆頭に王都へ入り、色々と不愉快な思いをしながらも迅速に玉座の間にたどり着く。揉めたような気がする。しかしシャルルーはこの大国の王族を、ただの粛清の対象としか見ていなかったので、テキパキと王宮内を制圧し、船からいくつか部隊を呼び寄せて王都の主要な場所を押えるようにと部下に指示を出した。その完了の報告が今だった。入港からおよそ一日。予定より少し早いだろうか。  シャルルーはといえば、部下に作戦実行を指示した後、図体のでかい護衛を探していた。処刑されたという話は、頭に豪勢な飾りを載せた男から聞けなかった。だからと言って自由になったとも思えない。監禁が妥当なところだろう。護衛が帰国してからの日数を予想して、もしも殺す目的であればそろそろまずい。水の与えられない状況で生きられる時間はあまり長くはないからだ。王宮内にゴロゴロしている警備だか警護だかよくわからないけれど、武器を持った人間を見つけては護衛の居場所を問い、ようやく見つけたのは、地中深い地下牢の中だった。 「予定通り、次の作戦を実行する。船へ連絡を。ここからは真剣勝負だぞ」 「は!」  とりあえず政の中枢を掌握したので、そもそもの懸案である隣国との戦争をどうにかしなければいけない。ヴィヴァン国と隣国の国境である大きな河にも、今頃水軍の主力艦隊が配備され敵国を威圧しているはずだ。そしてこの大国に接している陸の国境からも威嚇する。申し訳ないが、この大国の疲れ切った兵隊たちには退いてもらう。隣国の出方次第で作戦はいくつか用意されていた。どれも結果は、隣国の降伏になるだろう。  シャルルーの指示で、船に待機していた陸軍の大隊が続々と上陸し、水軍の部隊とともに隣国との国境まで駆け抜けていく。作戦の成功裏の完了を疑わない。だから、喫緊の問題はこの瀕死の護衛だろう。 「ジュリ、頼む」 「……はい」  救護班に混じって、ジュリがフォールに近づく。医療の心得があるのだ。専門家ではないから自分から治療行為を行うことはほとんどないけれど、シャルルーはその腕を信頼している。まあ、その腕だけではないのだけれど。  隣国とのにらみ合い作戦の、こちら側の指揮は一緒に来た陸軍の将軍に任せるので、国境付近の部隊の展開を終え、総員配置済みとの一報が来ると、シャルルーは先遣部隊の半分を王宮に残してヴィヴァンへ戻るために船へ引き返し始めた。港の船に戻るのが遅くなったのは、なんとか呼吸を止めないでいるフォールに配慮した移動速度だったからだ。止血剤も手持ちのものでは追いつかないほどの傷と、明らかに絶食による衰弱。何よりも多分、本人に生きる気力がなさそうだ。よほど徹底して破壊されたのだろう。身体と矜持、生きる意味を暴虐の果てに壊されれば、助かりたいと望まないのも無理のないことかもしれない。生きたところで地獄だと、知っていればなおさらだ。 「閣下、急報です。こちら側の国境付近及び我が国の領河両方で、一部隣国との接触があったとのことです」 「接触」 「詳細は、まだ入っておりません」 「我が水軍全隊に通達。命を落とすのはこのシャルルーに対する謀反とする。死んでも討たれるな」 「は!」 「今回の一連の作戦の、最終的な展望を忘れるな。隣国は、絶対に従わせる。どちらが上か、思い知らせろ。圧勝でなければ意味がない」 「は!」 「あと、陸軍の将軍閣下には、奮闘を期待してると発破をかけておけ。あの方は褒められて伸びるらしい」 「……は!」 「ジュリ」 「まだです」  救護班は、ただでさえいつ心臓が止まってもおかしくない大男の治療に必死だった。移動は負担が大きかったらしい。今動かすのは、とどめを刺すに等しいだろう。シャルルーは焦りも見せずに、助けてやってくれと言った。ジュリも救護班も返事はしなかった。 「馬をもう一度引いてくれ」 「は」  シャルルーは、大きな護衛の応急処置が終わるまでの時間を無駄にせず、単騎で近辺を走り回った。豪勢な船はもぬけの殻で、港に漁船の類も生活感のある建物もなかった。だけど小高い丘から眼下に望む景色は豊かそうに見えた。一体どういう国なんだろう。その情報収集も分析も、シャルルーの任務ではない。シャルルーは手綱を引き、愛する船に引き返した。 「ジュリ」 「発ちます。これ以上、事態が好転することはありません」  ジュリは、相変わらず渋い表情のままだ。フォールは、血の気のない顔をして死んでいるようにしか見えない。そのフォールを、数名が慎重に担いで船に運んでいく。ジュリはため息をついた。波を操ることはできない。海に慣れない人間が瀕死であるのに、航海に耐えられるとは思えない。 「なぜですか、閣下」 「本懐を、遂げさせてやりたいんだ」 「この作戦でこの国は戦火を逃れる。見届けられはしなくても、それで十分ではありませんか」 「さあな。もしも死んだら、海に返すのとあの子供に届けるのとどちらが親切だろうか」 「長い付き合いではございますが、閣下。今までかつて閣下の親切心がいい方向に働いたことは一度もございません」 「え?そう?」 「準備完了!出航いたします!」  苛立ちを隠そうともせず、ジュリは鼻を鳴らして踵を返すと、さっさと船に乗り込んだ。シャルルーは馬に乗ったままひらりと船へ飛び乗った。そして馬を部下に預けた頃には、船は全速で沖合へ向かって進み始めていた。 「潮風は身体にいいらしいぞ、ジュリ」 「恐れながら、閣下のように、巨大な鉛玉を腹に被弾しても海水で消毒して済ませるようなご立派な軍人ばかりではないんです。ほとんどは常人なので」 「そうか。その護衛、怪我が治れば私が鍛え直そう」 「……ヴィヴァンへ無事に帰還する。総員、何があってもシャルルー様に舵を任せるな」 「は!」 「ジュリは失礼だな。私は」 「閣下。あの大男を死なせたくなければ何卒、絶対に、ご自慢の操舵術をご披露くださるのはお控えください。我々も死にたくありませんので」 「ジュリは失礼だと思わんか。私は」 「おい誰か、見張りについてくれ」 「私にか。私に見張りをつけるのか」  後ろから撃たれることもなく、船はできるだけ揺れの少ない航路を探しながらもできる限り急いでヴィヴァンへ向かう。船上では救護班がつきっきりでフォールの手当と看病を続けた。容態は一進一退。何度も心臓は止まり、死んだり生き返ったりというのが本当のところで、回復など望むべくもないような状態だ。しかし、あの時同行した人間が何人もいて、この護衛を助けたいとみんなが望んだ。 「ジュリ」 「出て行ってください」 「様子を見に来ただけだ」 「閣下、今は手が放せません。ご遠慮ください」 「おい、護衛、いつまで寝ているつもりだ」  大国を出てまだ一日だ。ジュリの緊張や焦燥は神経を焼き、シャルルーの勝手を許せるいつものこころの余裕は消え失せていた。治療の邪魔をするシャルルーを部屋から追い出すために、ためらいなく剣を抜く程度には。このクソジジイと呟くと同時に、立ち上がりざま切っ先をシャルルーの鼻先に突きつける。シャルルーは、ジュリの短気は治らないものかと不思議に思いながらも、それを避けもせずに、壁際で寝るフォールにさらに声を掛けた。 「ここで死ぬ気か。迷惑な話だ。貴様の役立たずぶりには呆れ果てる」 「閣下!ジュリ殿!」 「いいか、護衛。貴様の大事にしていたあの子供は、我がヴィヴァンで生きている。たった一人でだ。貴様の忠義もその程度か」 「出て行ってください!」 「辛い目をみて生きるなら死ぬ方がマシか。あの子供は、その自由さえないが」  シャルルーは目の前で目をギラつかせているジュリを見やり、ひどく寂しげな顔で笑った。他のものが気づかないほど小さく、愛してると囁いて、そのまま部屋を出て行った。  フォールが目を覚ましたのは、ヴィヴァン到着の直前だった。

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