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第38話

【第三章】 その瞳に望みを映して 「何度言ってもわかんない奴……物覚え悪すぎ。視野が狭いんだよ、なぜ先を考えない?お前の身体で守れるのはせいぜい一人。盾になって討ち死超カッケー、で?お前が死んだ後、保護対象者はどうするんだ?お前の死体をおいておけば逃走の手がかりを掴まれるかもしれない。死体の始末してる暇なんかない。そんなに死にたければ絶対に見つからないところで死ね」  自分への苛立ちに、歯を食いしばって地面を見つめるしかできない。厳しい指導はお互い本気だから。これが訓練ではなく実践であれば、死ぬのは本当に自分一人では済まされない。頭ではもちろんわかっているのだけれど。 「……食事休憩の後、訓練再開。お前はもう今日は参加するな」  フォールはその場で上官に頭を下げて、本来の仕事場である馬小屋へ戻って行く。  祖国でありとあらゆる苦痛を味わい、人生を手放したはずだった。それなのに、また光の中に戻ってきていた。目が覚めたのは、去ったはずの国の船の上だった。生きているのを後悔するほどの痛みが全身を包んでいて、呼吸さえまともにできない。悲鳴をあげたいのにそんな元気はない。耳鳴りと目眩。頭が割れそうに痛い。目を閉じているのに視界が回っている。なぜ、生きているんだ。 「絶対に死なせないから、諦めな」  声は水の中で聞くように不明瞭だったけれど、なぜか耳の奥で鳴り響いた。諦める。死ぬことを、諦める。なぜ?そんな苦しいことがあるだろうか。守りきれなかったあの美しい人のいない世界で、生き続けることは拷問以上の苛酷さだ。生きる意味など、どこにもないのに。 「あの子が生きてるのに、自分だけが楽な道を選ぶつもりか?」  カッとフォールは目を開く。ただ光しか見えなかった。顔面も頭部も何度も殴られたからかもしれない。それでも、光はあった。  ラヴィソン様が生きておられる    きっと今の自分よりも、辛いお立場で苦しんでおられることだろう。それでもあのお方が生きておられるのであれば、自分が死ぬ理由はない。死んでいる場合じゃない。  フォールはそうして一瞬目を覚ましたけれど、その後は意識の混濁を振り払うことさえ難しい状態が続いた。熱心な治療を受け、本人の強靭な意志の力を持ってしても、数日に一度、わずかな時間しか目を覚ますことができない。悪夢に魘されるようなドロドロとした不気味な覚醒と激烈な痛みを伴うその時間は、昏睡しているほうがよほど楽だと感じた。目覚める苦しみより、眠りの優しさを選びたくなる。それでも何度も、闇の中でよじ登り、這い上がろうと足掻き続けていた。こころにあるのは、あの美しい青年の輝き。  長い時間をかけて、フォールはどうにか昏睡から解放された。それはすなわち、四六時中痛みと苦痛に苛まれ続ける日々の始まりだった。声はまだ出ない。視界は狭いものの、視力は回復した。眼球の動きで意志を伝え、早く治してくれと訴える。聴力は徐々に戻りつつあった。目眩はひどく、高熱と吐き気は続く。でもそれがなんだと言うのだ。もう一度あのお方のお役に立てるかもしれない。今度こそ、あのお方のために。もう迷いはない。  安静にしろと言われている中、フォールはこそこそと自力で身体を動かそうとしていた。指を動かすことから始めなければいけないほどの重傷で、わずかに力を入れただけで身体中にメキメキと冷や汗の出るような痛みが走る。悶絶しながらも歯を食いしばり、震えながら指先に神経を集中させる。痛みに乾いた呻き声を上げてしまい、医者に見つかってこっぴどく叱られる。それでもフォールは地道に、ささやかながらも苦しい回復訓練をやり続けた。  努力が実ったという清々しい結果ではない。ただの執念だ。がむしゃらにひたすらに、生にしがみついた。勝手で過剰な訓練に医者は激怒し、呆れ、止めることを諦め、協力してくれた。何度も「あのまま死ねばよかったですね、この筋肉バカ」と冷ややかに言われたけれど。  フォールの手が上がるようになり、上半身を寝台の上で起こせるようになった。医者が目を離した隙に立とうとして転倒し、顔面を打って出した鼻血も拭いてもらえないままに手足を寝台にくくりつけられたりもした。まさに一進一退。フォールがいたのは首都の軍病院だったので、時々テナシテが様子を見に来ては「いつまで呑気に寝てるつもり?」などと言い放ち、医者につまみ出されていた。 「テナシテ、あのお方はご無事だろうか」 「は?僕が知るわけないでしょ。興味ないし」  フォールの質問には誰も答えなかった。テナシテが知らないはずがない。不安は募る。居ても立っても居られない。  ああ、どんな暮らしをなさっておられるのだろうか。辱めに耐えておられるのか、惨めな思いをしておられるのか。自分は何かの役に立つだろうか?  病院にいては情報収集さえままならない。フォールは寝る間も惜しんで努力を続け、医者がげっそりした顔で「もう出ていってください」と言うまで無理を続けた。その頃はまだ、呼吸はできる、どうにか立てる、一人で何かが食べられる、という程度の回復状態だったけれど、そこまで来てしまってはもう、入院などしていられなかった。実際、何度も脱走しようとして、すでに遠慮をなくした病院勤務の軍人に取り押さえられたりしていた。  フォールの後ろ盾は水軍将軍シャルルーだ。将軍という最高位の軍人である彼の後見があったので、フォールは異国人であるのに住まいを得て、期限なく当面の生活費も貸付られた。一人でただひたすら自分の身体と戦う毎日。以前と同じでもまだ足りない。腕も脚も、前より太く強く。起きている間中、フォールは訓練に明け暮れて、長い努力の末にようやく元の体力と筋力を取り戻した。 「働くがいい、護衛。この国では役割を果たさないものは生きていけない」  ある日ふらりと現れたシャルルーはそう言った。フォールにしてもありがたい話だ。あのお方のいるこの国を離れるわけにはいかない。そのためには職について収入を得る必要がある。 「そもそも俺をなぜ、この国へ連れて来たんだ」 「お前の祖国で、お前が生き延びられる道がなかったからだ」 「……助けてくれたことを、感謝している」 「お前が死ななくてよかったことだ。もしも死んだら、お前の死体を海で弔うかあの子のもとに届けるか、私は真剣に悩んだし部下に怒られた」 「……死体の処分をあなたの世話になることがなかったことを幸運に思う」 「ああ」 「────あのお方は、ご無事であるのだろうか」 「さて。この私であっても事実を確かめるすべはないが、王宮周辺の噂では、光を失った異国の美しい男が、ひっそりと暮らしていると聞く」 「光を……!?それは、なぜ!なんという……!!」 「知らん。ただ少なくとも、その異国の男は孤独ではあっても、不遇ではない。盲いたことは同情するが、そのことに我が国も我が国民も関係ない」 「では、病か。他にお加減のお悪いところは」 「知らんと言った。お前はまだあの子の護衛でいるつもりか?」 「……そんなこと」  フォールは緩く首を振った。そんなことが許されるとは思っていない。今更おめおめと、なぜあのお方に侍ることができようか。まだ何も考えられはしなかった。ようやく普通の人間らしい身体に戻っただけ。この国で生きるあの美しい青年のために自分が何ができるのか。償うことはできるのか。それは今から探すことだ。 シャルルーは、消沈している大柄な男を眺めてふと目元を緩める。こいつは今後、どう変化していくのだろうか。生きる意味を見つけられるだろうか。 「生き延びるとは思わなんだ。死なずとも、まさか動けるほどに回復するとはな」 「え?ああ……とても、親切にしていただいたから、お陰様で」 「仕事を世話してやろう、護衛。……ああ、違う。フォールか。この国にいる以上、裏切りは許さんが」 「ああ」 「お前があの子と会うことは、しばらく叶わぬだろう。この私にもだ。まずは励むがいい。然るべき時が来たら、私を呼べ」  最初は馬番だった。首都から離れた水軍の屯所の厩舎に連れていかれて、そこで馬の世話をした。馬はたくさんいて、全部をきちんと面倒を見れば朝から晩まで仕事は続いた。好奇の目で見られながらもフォールは黙々と働き、不平も言わず、いつもこころの中で美しい主のことを考えていた。  それから少しだけ信用を得て、雑用係の人手不足もあって船の掃除も手伝わせてもらえるようになったけれど、基本は厩舎にいた。馬たちをずっと走らせないでおくと鈍るから、馬番の仕事の一つとして調整がてら乗って走ることもある。それを見ていた軍人の数人が、騎馬のコツを教えて欲しいと非公式にやってきたのが始まりだ。  ああだこうだと言いながら、馬の扱いを教える代わりにこの国の言葉を教えてもらう。この国では徴兵制度がなく、軍事に携わるのは全員志願した結果だ。やる気はあるわけだ。だから、ほんの少しの訓練でほとんどの人間はすんなりと苦手を克服していった。それがやがて噂になり、近隣の駐屯所からも人が尋ねて来たりした。フォールは朴訥で、色々と事情があるらしいという噂も手伝って、最初は警戒していた人間も徐々にフォールの存在を受け入れるようになっていった。  やがてフォールに馬の扱いを習うことが訓練に取り入れられ、なんとなく、フォールを基礎訓練に参加させるようになった。まだ引退するような年ではない男が、馬番にくすぶっていることが不憫に思えた人間が引き入れたのだ。フォールとしては、自分の仕事の空き時間を有意義に使える上、祖国では自分で考えた鍛錬しかしなかったので、組織の中で系統だった動きを教えてもらえることは非常にありがたく、短時間であっても呼んでもらえれば喜んで参加した。  しかし恐ろしいほどについていけなかった。多少の自負があっただけにその自尊心は深く傷つけられたけれど、それさえありがたいと頭を下げるフォールは、言葉を使わず周囲に影響を与えていった。 「フォール!明日は休みだろう?一緒に飲みに行かないか」 「ありがとう。でも、馬の世話があるから」 「そ、そうか」  騎士として長年を過ごして来たフォールは、馬に乗って戦う術を熟知していた。そして、馬が常に良い状態である必要があるとも。自分が馬で戦場を駆けることはなくとも、水軍の彼らそうではない。いつ起こるかわからない有事を想定すれば世話を怠ることはできないし、シャルルーの口利きで入れてもらっているのだから、同僚よりは励まなければという思いもあった。それに何より、馬が好きだった。  フォールは、いわゆる軍人らとは離れて厩舎の隣に住んでいた。フォールがいる駐屯所は、水軍の旗艦的施設で、常にたくさんの人間がいて、建物も多く、自然の山や河を含めた訓練場もいくつもあって、大きな村のような場所だ。軍人とは別に、彼らの家族や、生活環境や軍事行動の周辺で働く軍関係者も多く、フォールもその一人になる。厩舎の隣の棟は、馬番だけではなくそういう軍関係者、料理人や船の整備士、小間物屋や軍靴や軍服を扱う職人なども同居していて、軍の機密事項を扱う本部と呼ばれる建物や立ち入りを禁じられている場所からは遠く、各々の職務を全うすべく、軍人らとは違った種類の戦いに日夜明け暮れている。  将軍であるシャルルーも、本来ここが拠点であるのだけれど、日常的にあちこちへ遠征しているし、いてもその帰還が周囲に知らされることはほとんどないので、言われたとおり、フォールはシャルルーと遭わないままに過ごしていた。  それは、ラヴィソンに対しても同様だった。  首都に住んでいるようだ。それも、王宮内に。シャルルーの言ったとおり、光を失い、屋敷から一歩も出ず、もう長い間密やかに静かに暮らしているという。  それは、軟禁されているということなのだろうか。それとも、目が不自由で外出がままならないのか。あるいは、他に具合の悪いところがあるのだろうか。  確かめられないことが多すぎて、不安に胸が痛い。あのお方の役に立つことを夢見てどうにかここまで来たのに、今の状況がわからない。  フォールは時々首都から売りに来る新聞を必ず買い求め、その紙面の内容をつぶさに読み込んだ。新聞売り、行商、とにかく首都周辺から駐屯所へ来る人間にできる限り接触し、金を惜しまず物を買い、異国から来た青年のことを聞く。それを繰り返すうち、フォールの真剣さと真面目さがなんとなく評判になり、向こうから情報を教えてくれるようになっていった。 「その男は、フォールのなんなの?」 「……以前とてもお世話になった方で、恩人なんだ」 「それだけ?」 「もう二度と、謁見を願い出ることさえできないかもしれないが、俺にとっては生涯、あのお方だけが主だ」  村の人や軍人たち、出入りの商人たちは、多分その盲目の青年は貴族か何かで、フォールはその家に仕えていたのだろうという推測をたて、これほどまでに強く主人を思うフォールという異国の男に同情していた。友人として力になれればという者もいれば、好意を寄せる者もいて、季節がいくつも巡る内に、ラヴィソンの日常がフォールにも届いた。  美しく聡明なその青年は、屋敷から出ず、それでも王宮から重宝されていて、ただ淡々と時が移ろうだけの日々を過ごしているという。お側仕えのものが数人いて、生活に不自由はないらしい。  フォールは許可なく首都に入ることは出来ないので、せめてもの慰めになればと、少しずつ貯めた金で楽団を頼み、彼の人が住まうという屋敷の近くで演奏してもらったりするのが精一杯だった。  それでも、生きておられる。  あのお方のために、この国で自分は何が出来るのだろうか。  フォールがずっとずっと考え続けた結果が、あの日河で別れた馬たちを探すことだった。  仕事の休みに頼み込んで駿馬を借り、日の出とともに河べりの村を訪ね歩くことを始めた。自分のいる場所が水軍であることも幸いし、さりげなく聞き出した河の隣国との国境の警備船の出没水域を把握する。そこから下流の全域を、とにかく捜索する。  一日で探せる範囲は限られている。  だからと言って、フォールの休みはほとんど一日しかないから夜には帰還しなければいけない。二日以上の休みがあれば隣国へ行く許可をもらって遠出した。  休みの日は欠かさず一日中出かけ始めたフォールの行動を、訝しむ人間ももちろんいた。すなわち国内の情報を収集してよからぬことを画策しているのではあるまいかと。自軍に属する者の不祥事に敏感な上官らは、フォールの行動を監視し、彼の行き先が大きな河の流域周辺に限られていたので、近隣の隊に偵察させたりもした。結果は、常に同じ。何やら馬を二頭探しているらしい。 「私はお前を将軍閣下から預かっている。休みだとはいえ、完全に自由、というわけにはいかない」 「承知しています」 「……外出の許可もきちんとしているし行先の虚偽もない、隣国への入出国申請に問題もない。馬を探しているというのは本当か」 「はい」 「必要であれば、馬を譲ってやるが」 「ご厚意に感謝いたします。しかし、自分が探すのは、新しい相棒ではなく、昔手放した馬です。生死も定かではありませんが、墓でもいい。見つけたいのです」 「…………見つけてどうする」 「償いを。自分の過去に、過去の罪に、幾ばくかの……許しを得たいのです」  そう言って、フォールは息を吐いた。あのお方の許しが得られるはずもなく、それを望んでもいなかった。しかし長く色々なことを考えていて、すべての行動があの美しく薄幸な青年のためであり、そうする間に少し歳をとった。このまま二度と、馬たちにもあの美しい主にあうことも叶わないまま、自分は異国の地で死んでいくのだろう。残りの時間を、馬を探すことに費やすことで、今度こそ人生を手放すときに、自分の犯した罪を神が少しでも許してくれればと思った。目を閉じるときに、あのお方のしあわせを祈る、その許しが欲しかった。 「お前はとてもよく働いてくれている。誰もお前を、疎外したいとは思っていない。仲間だと、そう考える。だから、協力が必要であればそのように」 「ありがとうございます」 「…………手伝いたいと、何人もの申し出がある。私もそう考える。もちろん哀れみでも同情でもない。お前に敬意を表してのことだ」 「……もったいないことで、恐縮です」 「幸運を。そしてお前がその幸運を手にして、望みを叶えることを祈っている」  上官の差し出した手を、フォールは一瞬躊躇ってから握り返した。そして彼は、方々から勝手に集まってきた河沿いの村々の馬に関する情報がしたためられた書類の束をフォールに差し出す。そもそもこの国では、馬は登録制で、警察と国軍が管理把握している。商用と軍用は完全に、民間農耕馬等はある程度。 「何かの参考にしてくれ。情報の出どころも書いてあるから、何かあれば本人に問い合わせることを許可する」 「ここまで、親切にしていただく理由がなく、戸惑います」 「正直に言えば、私もだ。しかしどうやら、我々はお前が好きらしい」 「自分にこのように良くしてくださることで、お立場に影響があることは本意ではありません」 「そこまで愚かではない。我々も、我々の上官も。何か自分に重責を課したとして、それを本当に果たしたいと考えるのであれば、使えるものは何でも使うべきだ。時間を無駄にしてはならん」  軍人ではないフォールは、この上官に敬礼は許されず、感謝を込めて頭を下げた。  誰でも、気にかけている人間から頼られるのは嬉しいものだ。フォールがそれ以来、今まで以上にこの国の言葉を教えてもらいたがるようになり、小さな頼み事や質問をするようになった。彼に世話になった者や好意を持つ者は喜んでフォールを手伝ったけれど、馬を探し出すにはさらに長い月日を費やさねばならなかった。  それでも、フォールは神に許されたらしい。  待ちわびた馬たちとの再会。何年かかっただろうか。毛の色も少し変わり、フォールと同じだけ歳を取った馬は、元気で、フォールを覚えていてくれた。 「サージュ……エギュ……辛い思いをさせて悪かった。生きていてくれて……ありがとう」  あのお方は、喜んでくださるだろうか。繊細なその精神を苛む重しがひとつ、消えるだろうか。美しい瞳が輝くだろうか。

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