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第39話
長く暮らした部屋を、フォールは片づけていた。
馬を見つけることができ、自分の気持ちに折り合いをつけ、少し段取りが変わったとはいえ、長年叶わなかった美しい主との謁見を果たすことができた。
光を失ったと聞いていたけれど、偶然にも彼がそれを再び得る場面に遭遇し、お側仕えの方々の優しさと彼らの信頼関係を目の当たりにすることができて、フォールは本当にこころの底から安心した。
自分の職場に戻り、シャルルーへの面会を申請する。運よく彼は同じ村にいて、その日の晩には顔を見ることができた。取り調べをするために出会ったあの日からどのくらいの年月が経ったのか。シャルルーはいまだに水軍を率いる重鎮であり、相変わらず軍人には見えない優男のままだ。多少、歳はとっただろうけれど。
「久しいな。報告は聞いている。よく働いてくれているようだな」
「仕事を紹介していただき、また、色々とお計らいくださったことを、こころより感謝申し上げます」
「随分と人気があるようだぞ、お前は。正式に我が軍へ入れるべきだとか、交際したいだとか、私とはどういう関係なのかだとか、幹部から新人までお前のことを聞かせろとうるさくてかなわん」
「周囲の方々にも、感謝しております」
「我が国の人間は、愛のために生きている。幸い、お前との関係が一度きりでも、それを恨みに思う話は聞こえないが、うまくやってくれ」
「本題に入ってもよろしいでしょうか」
「うん」
「長く世話になりましたが、ここを辞する許可を願います」
「言うと思った。お前の大切な子は息災であったのか」
「我が主は、常にお健やかで、そのご機嫌麗しいことと承知しております」
「ま、いい。随分長いこと馬がどうのと騒いでおったが、何もかも解決したらしいな。しかも、あの子も光を取り戻したとか」
「我が主に、光の祝福が齎されない道理がありません」
「その、お前の大事な|主くん《あるじくん》は、誰かを従えること罷りならぬ立場だぞ。まさか飯炊きでもするつもりか？」
「自分にできることは何もなく、それでも、できる限り御傍で、有事に備えて待機したいと考えます」
「有事など、あの屋敷にいる限り起こらん」
「外憂には限りません」
シャルルーは大きな椅子に背中を押し付けて、ひじ掛けに腕を乗せて首を傾げた。この大柄な男はつまり、あの綺麗な子に、どんなささやかであれ何か起こればすぐに駆けつけたいから、離れて暮らすことが嫌なのだろう。外憂に限らないということはつまり、もしあの子がフォールはどこかと零せば、すぐさまここにおりますと目の前に跪ける距離に。
「結婚でも、すればよいのではないか」
「私にとって最も大切な方は主のみ。誰かを娶ることはありません」
いやだから。その子とね？……まあいいや。シャルルーはクソ鈍い大男を見上げてひらりと手を振った。そもそもフォールは馬番だ。忠誠も忠義も、最初からあの美しい元王子のもの。引き止められる言葉はない。しかし生活力もなくこの国でどう暮らすつもりなのだろうか？本当に、あの子供に纏わるとまともな判断が難しいらしい。そういうところは、いかに訓練しても治らずじまいか。
「首都に行きたいか」
「そう願います。御取り計らいくださいませんでしょうか」
「首都で暮らすため、生活するための資金はどうする」
「貯えで何とか。いずれ日雇いのような仕事でも探すつもりです」
「そもそも、仕事を持たずに首都で家は借りられん」
「ご紹介くださいませんか」
「お前結構、遠慮ないね」
「頼れる方が、閣下しかおらず、失礼を承知でお願い申し上げております。お許しとご慈悲を請いたく思います」
全然そんなこと思ってないよな？あの主くんのためなら、本当に何でもしそうだね。何を言っても揺れないフォールに飽きて、シャルルーは用意しておいた書類を彼に差し出した。フォールはそれを受け取り目を走らせる。
「首都警護部隊の馬番に欠員がある。そこへ行け」
「……」
「お前としては、常時その子の傍にいたいのだろうがそれは無理だ。現実を見ろ。首都は広いがお前が住めるような家は王宮周辺にはない。ましてや、あの子の住む屋敷は王宮の敷地の奥だ。王族か貴族でもない限り住めん。せめて職場が王宮内であれば、多少の気は済むだろう」
「第一隊、でしょうか」
「そうだ。今はテナシテが異動して隊長をしている。頼んでおいたから、ほどほどに仲良くするがいい」
この国の広い首都を、首都警護部隊と呼ばれる国王軍の一つが守っている。首都警護部隊は五つに分かれていて、首都の中枢である王宮周辺は第一隊の管轄だ。これ以上の仕事場が他にどこにあるのかと、シャルルーは、喜びを見せない大男に些か辟易しながら話を続ける。
「我が国の首都は、治安を警察組織ではなく軍人に任せている。その意味を考えろ。仕事もない異国の人間が、長期に居座れる場所ではない。そもそも、その主くんは、お前が何もせずじっと待機する生活を望むか？」
「あのお方の高尚なお考えに、私の浅慮など及ぶはずもありません」
「そういうこと言ってんじゃない。いっそお前、その屋敷に住み込むくらいの気概はないのか」
「お側仕えの方がおられるので、あの屋敷でお役に立てることはありません」
「だったらなおさら、黙って耐えろ。誰かに仕えるということはそういうことだ」
シャルルーのこの言葉は、意外とフォールに響いた。合理的に考えれば、確かに王宮内での職にありつくのが最もラヴィソンの傍にいられる方法だ。耐えるというつもりはないが、満足ではない環境であることに慣れている。以前を考えれば雲泥の差だ。
フォールは頭を下げ、ふと思い出し、シャルルーの顔を見つめた。
「大切なことを失念しており、もっと早くにお伝えすべきでしたが、今申し上げます」
「なんだ？」
「首都に連行され、拘留されていた折には、テナシテ隊長に大変よくしていただきました」
「……よかった、な？」
「はい」
「で？」
「以上です」
それからしばらく、フォールは請け負っていた仕事をこなしていき、やがて水軍の馬番を解雇された。ラヴィソンと旅に出るのだ。ようやくその時が来た。お屋敷に手紙を出さなければ。
旅を終えたらすぐに首都で働き始めるから、その前にと部屋を片付けていたのだ。荷物は少ないのですでにまとめていて、あちこちを掃除している。
「手伝おうか、フォール」
「ああ、ありがとう。でももう終わる」
開け放した扉から顔を出したのは、割とよく話す一人だ。彼もこの国の出身ではないので、異国の人間がこの国で暮らすための知恵や手続きなんかに詳しく、また、フォールにいわゆる愛情とやらを求めてこないので気楽に食事にも誘える数少ない男だった。
がらんとした部屋を珍しそうに見まわすその男は、名をルトロという。本名はもう少し長いらしいが、異国の名前は覚えにくいのでルトロと登録しているらしい。上背のある、細身だけれどなかなかいい厚みを持った身体つきだ。仕事には真面目で、だけど、ほどほどに力を抜くことも知っているようだ。時々、木陰で昼寝しているところを見かける。
「首都に異動だって聞いたけど」
「うん？まあ、そう言えば聞こえはいいが、ただの俺のわがままで、首都にいたいんだ」
「みんな寂しがってる」
「ありがたいことだ。とても世話になったからな。ルトロはまだしばらくここに？」
「ああ、俺は別に、行きたいところはないし」
一緒になってゴミを片付けてくれながら、ルトロは淡々と答える。彼は元々どこかの国の戦闘員で、任務中に怪我をして離脱し、そのまま捕虜になってこの国に来たらしい。本人に聞いたわけではないので真偽は不明だが、フォール自身もそうなので、彼には彼の事情があるのだろう。ちなみにルトロは大型船の部品の職人だ。筏や小型の舟なら短時間で作ることもできるらしい。今日は仕事が休みなのか、いつものように木くずにまみれてはいない。
「荷物、あれだけか？」
「ああ。まああの中身も、必要というか捨てられないというか、そんな感じだけど」
「ふうん」
「ああそうだ。ここで使っていた食器があって、ルトロ、もらってくれないか」
「ああ、助かるよ」
首都でどのような生活が待っているかはわからないけれど、置いて行こうかと思っていた食器は、まだまだ十分使えるし、友人に使ってもらえればフォールとしてもありがたい。長年移動に使ってきた大きな革の袋をゴソゴソと探って、手のひら大の椀と皿を取り出す。その時一緒にひらりと床に落ちた一枚の布きれ。ルトロはそれを拾い上げる。
「フォール、何か落ち……」
「え？ああ、本当だ」
フォールはそれを受取ろうと手を出したけれど、ルトロはその布を凝視して動かない。どうしたのだろうか。食器をひとまず傍の机に置いて、彼の肩に手を乗せる。
「ルトロ？」
「なぜフォールがこれを持ってるんだ」
ルトロの握るそれは、以前国境越えに使えと渡され、実際役に立った布きれだ。宿泊した宿屋の亭主から受け取り、だからその亭主は隣国の兵士か何かの出身だろうと推察した。だけど、普通の人が見ればただの薄汚い布に過ぎない。
「……祖国で宿泊した宿の亭主が、国境を超える時に役に立てばと。いつか返すべきだろうと残しているんだが」
「これは俺のだ」
「え？」
「フォールは、あの国の出身なのか」
「ああ……ルトロはあの亭主の知り合いなのか」
「ジャンティが、宿屋の亭主……あの国で」
ルトロはじっとその布を見つめたままだ。フォールの聞いた話では、この布は隣国の兵士らが身につける個人識別布で、例えば自分が死んだとき、然るべき相手にこれが届けば、すなわちそれは本人の死亡通知となるらしい。受け取った当時は知らなかったけれど、似たような慣習はどの国にもあるようで、だからなおさら、フォールはこれを捨てられなかったのだ。最後に会ったあの時、フォールはまともではなかったのでこれを返すことを思いつかなかったことを後悔している。しかし、これが本当にルトロのものなら、ルトロはなぜ生きているんだろう。
「ルトロ、俺の知る限り、これは戦いで命を落とした場合に身元を特定したり、遺族へ形見に渡したりすると」
「ああ。この意匠は俺の国の軍の隊旗だ。所属と認識番号。名前は書かないのが通例で、どれほどお前の祖国と喧嘩してても、これを届ける人間は融通が利いたな」
「それでか。俺は隣国へ入る必要があって、もしうまくいかなければ使えと彼が」
「託された人間は、寝覚めが悪いだろう、届けないと。だからな」
「でも、ルトロは生きている」
「死んだも同然なんだ」
フォールは最後に会った時のジャンティの言葉を思い出していた。共に戦う同僚と、こころを通わせていたのに、捨てられたと言っていなかっただろうか。それがルトロなんだろうか。そして宿屋の亭主は、今でも彼を待っているのだろうか。
「……フォール。これを、俺に譲ってくれないか」
「なぜ？」
それを手元に置いて、眺めて暮らすというのなら、フォールは渡さないつもりだった。ジャンティのあの軽薄な態度に隠された情熱と強かさと優しさを知っている。ルトロも知っているはずなのだ。思い出に浸る人間に、前に進まない人間に、過去を取り戻そうとしない人間にはこれを渡すわけにはいかない。しかしフォールの懸念を他所に、ルトロは強いまなざしでフォールを見つめた。
「俺が、返してくる」
「……では、お願いするよ」
どうやってフォールの祖国へ渡るのか。その手段が確立されている現在とはいえ、近い国ではない。ルトロは即座に、仕事を辞めると言い出した。フォールは頷き、片付けを中断して一緒にルトロの職場へ出向き、彼が辞めることを認めてやってほしいと頭を下げる。
「ルトロがいなくなると困るんだよ……しかもこんな急にさぁ……」
「彼の代わりは出来ませんが、雑用は俺がしばらくやります。ですから、どうか」
「理由だってよくわかんないでしょ。人探しって言われてもねぇ……」
「大事なことなのです、ルトロにとって、大事な人なのだろうと思います。どうか、行かせてやってください」
ルトロはじっと黙って頭を下げ続けていたけれど、突然ガバッと顔を上げて、来たこともないほど大きな声を出した。
「お願いします！俺には全然わからない話だけれど、ずっとそう思っていたけれど、これがきっと、この国の人が良く言う愛なんだと思います。失っても、まだ、伝えたいことがあるんです！」
この国の人間は、愛に弱い。愛を探す人にやさしい。愛を守る人に協力的だ。長く一緒に働いてきた中で、ルトロが愛を口にしたのが初めてだったのだろう。親方さんはちょっと涙ぐんで、しっかりやれよと、送り出してくれた。宿屋の亭主にしてもらった恩を思えば、フォールもルトロにわずかながら金を握らせ、彼が祖国へ渡れるように奔走し、彼の代わりに働きもした。その分ラヴィソンを待たせることになったけれど、きっとあの美しい主はこの行いを否定はなさらないだろうと思いながら。
「お前の祖国だ、フォール。何か家族や友人に言付などはないか」
「ジャンティに、よろしく伝えてくれ。いつかきっと、ラヴィソン様と共にお前のスープを戴きに行くと」
「ラヴィソン？」
「俺の生涯の主だ」
「必ず、伝える。色々とありがとう、フォール」
「気を付けて行けよ」
「ああ」
晴れやかに、だけど少し緊張した面持ちで、ルトロは出立した。フォールはそんな彼の幸運を祈りながら見送った。
◆
「寒いー……」
ここ数日やたらと寒い。この国が一度壊れてからもう何年経っただろうか。隣国……すなわちジャンティの祖国との戦争は終結し、遠くからやってきたやつらが今はこの国を治めている。庶民の生活に多少の変化が見え始めたのは最近だ。景気云々というほどではないけれど、悪法が消えていき、あくどいことをしなくとも生きていける世の中になってきた。ジャンティの営む宿は、戦争が終わったあおりを受けてしばらく閑古鳥が寛ぎながら大合唱していたけれど、ここのところ普通の旅の客が泊まるようになり、最近は肩身が狭そうだ。
まだ泊まり客は寝ているだろう。その間に朝飯の準備をしなければいけない。寒いとどうしても筋肉と関節の動きが鈍くて、調理場の寒さが身に染みる。火をつけて回りながら、早くぬくもれとブツブツ呟く。
その時、表玄関を誰かが通る気配がした。音はない。木戸を開ける音も砂を踏む音も。普通の客じゃない。
ジャンティはあちこちに隠している護身用の細身の刃物を手元に引き寄せた。物取りではないだろう。数年前のことを思い出して、失ったはずの脚が痛むような気がした。
息を詰めて、侵入者の現れるのを待つ。厨房の入り口をじっと見つめ、影を先に目にし、開けたままのその扉に現れたのは、上背のある男。
「…………あいにく満室なんですよ、お客さん」
「……そうか」
「帰ってくれませんかね。こんな朝っぱらから迷惑なんで」
「明日は、空いているだろうか。いつなら」
ルトロが言葉を繋ごうとしたその時、鈍い音と共に顔の真横の壁に刃物が突き刺さった。ジャンティは白けた顔で、気だるそうに、癖の強い甘い栗色の髪をかき上げる。
「お客さん。迷惑だって言ってるんだから」
「なぜ俺の識別布をフォールに渡した」
先ほどと全く同じ位置に、もう一本刃物が突き刺さる。殺意も怒気も感じさせず、消えろと伝えるやり方は昔と変わらない。ルトロの知る、ジャンティだった。
「脚を、怪我したのか。それは戦争で？」
今度は正確に、ルトロの眉間に刃物が飛んでくる。長年荒事から離れているルトロには避けるのが精いっぱいで、髪と顔が切れた。それでも避けれらたことが奇跡だ。何せ、ジャンティの投擲する手元はほとんど動いていないように見えるのだから。
「……フォールが、いずれ必ず、ラヴィソンという主と共にお前のスープを」
「部屋はない。話すこともない。帰ってくれ」
「俺にはある」
「出ていけっ！！」
絶叫に近い声だった。ジャンティの頬に赤みが差す。ルトロはその場で両膝をついて、ジャンティを見る。
「俺は、生きてる。あんたもだ」
ルトロが大きく後ろに吹っ飛んだ。片足が不自由だとは思えない速度でジャンティが動き、ルトロを蹴り飛ばしたのだ。木でできた義足が折れるほどの強さで蹴られ、厨房の入り口から大きな音を立てながら食堂へ転がっていく。ぶつかった椅子もろとももう一度蹴り飛ばされて、さすがにルトロも悲鳴を上げ、頭を壁に強打して気を失った。
暗くなる視界にジャンティを捉えながら、隊長は相変わらずだなぁとルトロは思った。留めのように腹を踏まれ、その激しい痛みにさえ、懐かしさを覚えながら。
ルトロが目を覚ました時、一瞬どこにいるのかわからなかった。がやがやと、壁越しに人の気配がする。視界が低い。見回せば、厨房の奥の隅っこの床に、壁にもたれて座らされていた。蹴られた肩やら脇腹やらが痛い。ジャンティを目線で探せば、ちょうど厨房に入ってきたところだった。ルトロを蹴るのに義足を折ったからだろうか、杖をつきながら歩いている。まだ少しぼんやりした頭で、ジャンティの脚の怪我を気づかわしく思った。立ち上がって手伝おうと近づけば、きっと自分はもう一度沈められて、今度は庭に放り出されるのだろう。ジャンティならきっとそうする。
ざわめいていた人の話し声が少しづつ減っていき、聞こえなくなった。窓からの日差しを考えれば、おそらく宿の朝食が終わったのだろう。気を失っていたのはそれほど長い時間じゃなかったようだ。ジャンティが手加減したのだろう。死ぬほど痛いけど。
コツリ、コツリ、と杖を使って厨房と食堂を何度も往復し、どうやら皿を下げてきているらしい。やがて厨房の扉は閉じられ、ジャンティは洗い物を始めた。水の跳ねる音。食器が軽くぶつかる音。床に座るルトロから彼の顔は見えない。
本当に宿屋の亭主なんだな。
ルトロは目を閉じてむかしを少し思い出す。祖国ではその当時、若い男のほとんどは戦争に行った。他にすることがなかったのだ。勉強もできないし手に職もない。実家に金があるわけでもないので食い扶持を自分で稼ぐには、たいてい兵士になるほか道はなかった。たまに死にそうな目に遭ったりもしたけれど、隣国との戦争において激闘というのはほとんどなく、どこか油断の付きまとう毎日だった。
ルトロが兵士の中でも強いと認識され始めた頃、ジャンティと知り合った。彼はいくつか年上で、自分より背は低いものの、分厚い身体は鍛え上げられていて、その能力は頭抜けていた。その上薬学の知識があるものだから、彼は非常に重宝されていた。彼と同じ隊にいれば、戦闘で怪我をしたときも、糧食で食あたりを起こしたときも、もう助からない状態で楽になりたいというときも、彼が何とかしてくれるのだ。薬を渡すとき、ジャンティはいつも優しい顔だった。それがどんな薬であっても。
ルトロはそんな彼に惹かれた。彼自身を癒せればと思った。ジャンティは最初はルトロの好意を全く意に介さなかったけれど、いつの間にかこころも身体も許してくれるようになった。
あれは、ジャンティが隊長になってどのくらい経った時だっただろうか。
「目が覚めたならさっさと帰れ」
もの思いに耽っていたルトロの頭に、ばしゃんと水が降ってきた。見上げれば、ジャンティが逆さになった茶杯を片手にこちらを冷ややかに睨んでいる。洗い物は終わったらしい。離れてからずっと考えていた再会はこんなものではなかった。現実というのは厳しい。それでも、またあえた。
ルトロはだらしなく床に座ったままの状態で、投げ出していた足を横に滑らせジャンティの杖を弾き飛ばした。それだけでこの男がよろめくはずはない。案の定片足になってもビクともしないジャンティに、それでも驚いたらしく隙ができていた。その一瞬を逃さず、服を掴んで引く。踏ん張りが効かない、脚を失った右側の腰のあたりの服を、思い切り。かしいだ身体を、今度は両腕で引き寄せる。咄嗟に壁や窓枠を掴もうとした手を封じて、自分の身体の上に倒れ込ませた。もしもジャンティがどこかにまだ刃物を飲んでいれば、その切っ先を受け止めることになっただろう。しかし幸い、重くて固くて懐かしい男が降って来ただけだった。衝撃であちこち痛くて息が止まったけれど、ぎゅっと抱きしめる。
「お前みたいなクズ、殺す価値もない。さっさと出ていけ」
「すまなかった」
「フォールもフォールだ。あの野郎、恩を仇で返しやがって」
「あいたかった」
「死にぞこない」
「死ぬならあんたに殺されたい」
寝返った上官に部下を殺せと言われて、ためらいなく自分で作った薬を飲もうとしたあんたに。
周囲を味方だったはずの敵に囲まれて、二手に分かれる作戦をとったとき、俺の識別布を取り上げて、どうせ死ぬんだからもらってやると笑った。もしも死なずに済んだら、褒めてやるから取りに来いと言ってくれたあんたに、今ここで殺されるなら本望だ。
「は……勝手にいい思い出にしてんじゃないよ。俺はあの布切れ、知らない旅の男にくれてやったんだよ、要らないから」
「あんなものに、意味なんかない。俺はここにいて、あんたを抱いてる」
腕から逃れようと暴れるジャンティを死に物狂いで抱きしめたまま、あー痛い、骨折れてんだろうな、とどうでもいいことが頭をよぎる。隊長以下、全員戦死。その知らせを聞かされた時の絶望と、怒りが蘇っては魘された。ああ、生きていてくれた。生きてきてよかった。だったら、手に入れたい。
「ああ、くそ……大人しくしてくれよっ」
「なんで俺が大人しくしてやらなきゃなんないんだよっ！」
「無事な方の脚も折ってやろうか！」
「上等だ！臆病者のクソガキが、できるもんならやってみろバーカ！」
あらゆる動きで、ジャンティはルトロを攻撃しようと暴れ、ルトロは負けじとそれをかわす。あの頃より、間違いなく小さくなった身体。きっとお互い様だろう。
「なんで戻ってきた」
食料も火薬も補給路を断たれてジリ貧の中、お互い死を覚悟した。本当は自分の識別布を彼に渡したかった。死んで残せるのはそのくらいのものだったから。だけど、ジャンティの識別布は戦死を偽装する作戦ですでに使っていたので手元になくて、だからルトロのを寄越せと頼んだ。彼がどこで死んでも、これでずっと自分のものだと。生き延びるとは思わなかった、お互いに。
識別布が手元にある限り、それはルトロの墓標だった。引き出しの奥底へしまいこんで、それでもずっとジャンティを苦しめてきた。兵士の生死不明はすなわち、死んだに等しい。識別布を取り上げたことで、あいつはどこの誰かもわかってもらえず討ち棄てられたのかもしれない。
そもそもあの作戦は失敗だった。俺が、殺した。
ずっとそう考えていた。二手に分かれようと言い出したのはルトロだった。離れたくなかった。俺から離れるつもりか。そんな女々しい邪念が、きっと状況を悪くした。罠に気づいたときはもう遅くて、爆風に吹っ飛ばされて、目が覚めたら一人だった。
「あんたに褒められたかったから」
「は。死んでないなら、新しい人生を始めればよかったんだ。過去に囚われるなんて馬鹿げてる」
「過去じゃない。あんたに、だ」
「ああそうかい。縁でも鎖でも切り刻んでやるよ。いくらでも開放してやるから好きなところへ行け。出て行け」
「ほんと、ちょっと黙っててくれよ。相変わらずだなぁ……」
手加減すると逃げられる。いつもそうだった。そもそも力関係は物理的にも立場的にもジャンティの圧勝だ。全力でもかなわない。彼が、許してくれない限り。
ルトロは自分の腹の上に跨るように乗っかっている元上官の両手首を、彼の腰の後ろでがっちりと握り、自分の腕で挟むようにして身体を捕らえる。色気もへったくれもないけれど、甘い抱擁など今は無理だ。
ジャンティはといえば、身体が鈍るにも程があると、自分に呆れていた。この程度の力で押え込まれるなんて、信じられない。目の前にいる背の高い男は、こんなにも強かっただろうか？下から見上げられて、思わず眉間に皺がよる。
「手を、放せ」
「暴れるだろう」
「放せ。肩が痛い」
ルトロは甘い。せっかくの捕虜に情をかけたがために逃げられることもあった。馬鹿な男だ。今もほら、さっきよりも力が弛んでいる。あとちょっと。そしたら振りほどいて、人相変わるまで殴ってやろう。
ジャンティがそう企んでいたら、ルトロがふと笑った。虚を突かれた。だから手首が自由になっても殴れなかった。ルトロの空いた両手は、ジャンティの頬を包んで、もう一度笑う。
「悪いこと、考えてる顔だな」
殴ることは出来なかった。ルトロが優しく抱きしめてきたから。服の裾から手が入り込んできて、肌を撫でられたから。ガチガチの股間を、尻に押し付けてくるから。唇が重なったから。
「あいたかった。抱きたかった」
「調子の、いいこと……言ってんじゃ、ねぇ……！」
「見つけた。もう絶対逃がさん」
「お前、なんかに」
「いい宿だな」
「クソッ！」
震える手で、ジャンティはルトロの横面を叩いた。思わぬ反撃に、ルトロは痛い、と呟いたけれど、笑ったままだ。
「あんたが亭主で、うまい飯とよく効く薬で客呼んで、俺は裏庭でひなたぼっこ、な」
「ふざけんな」
「夢が叶うな」
ルトロの長い指が、ジャンティの頬を伝う涙を拭う。ぎゅっと抱きしめて、くちづけて、一緒に厨房の床に転がる。
「愛してる」
「うるせぇよ、早漏の役立たずが」
「いつの話をしてるんだ」
ルトロがまた笑って、ジャンティの服を引き裂いたのと、ジャンティの平手がルトロに叩きつけられたのは同時だった。
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