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第40話
同じ日に軍人になり
同じ人に恋をした
同じように想いを伝えて
同じくらい傷ついて
二人は違う道を選んだ
◆
「久しぶりだな。首都へ、異動だとか」
「……ああ」
「初志貫徹。さすがだな」
「僕は、お前とは違う」
「わかってる」
愛する人から、想いには応えられないと聞かされて、ジュリはそれでも彼の傍にいることを選び、テナシテは彼の護りたいものの近くにいることを選んだ。
水軍の中でがむしゃらに働き、肩書きを持たない最高幹部のような扱いとなったジュリは、組織の中を縦横無尽に渡り歩いて愛する人の公私にわたる片腕として、その寵愛さえ与えられていると聞く。
一方のテナシテは、異動を厭わず各地であらゆる任務をこなし、この度、念願の首都警護部隊へ配属となった。
一緒に訓練を受けていた頃は兄弟のように仲の良かったジュリとテナシテは、お互いを意識し、心配し、考えながら、それでもほとんど会わずにきた。今日だって、たまたま郊外の駐屯所で顔を合わせただけのこと。テナシテは馴れ合うことが嫌いだし、ジュリは人のすることにあまり口を出さない。自分の目標に向かって邁進している二人が、疎遠になるのも無理はない。
二人を袖にした水軍の美丈夫は、テナシテの昇進をとても喜び、二人の再会に目を細めながら笑っている。
「やはりテナは優秀であることだ。素晴らしい。私も鼻が高い」
「……シャルルー様におかれましては、水軍将軍就任も近いとか。私の異動など、馬が子を産む程度の話であると推察いたします」
「子が産まれることも、大変めでたいことだ」
テナシテは自分の迂闊な発言をこころの中でひどく後悔した。シャルルーの顔に一瞬浮かんだ痛み。国王陛下のご側室のご懐妊は、今最もこの国を賑わせている話題の一つだ。
「我々は補給が終わればすぐに出立する。テナシテ、道中気をつけて、今後も励めよ」
「……は」
あなたの大切な国王陛下のために。
そう言おうとして、もちろん踏みとどまった。踵を返すシャルルーの背に敬礼をしながら、何年経ってもまだ焦がれる自分を、惨めに思う。彼の隣にいることを選んだ友を、羨ましく思う。
決めたはずだ。
傍にいても、あの方が自分を見ることはない。慰み者でいいからと懇願すれば、愛してくれただろう。ジュリはそれでも構わないと言っていた。実際のところは知らないけれど、ここ数年、シャルルーは常にジュリを従えて行動している。テナシテにはできなかった。初めての恋だった。好きだという感情を、そういう風に昇華する強さがなかったから。本当の愛が欲しかったから。
それでも、彼の役に立ちたくて。自分の存在を認めて欲しくて。彼が最も大切にしている男を守ると決めた。妻を愛し、側室を愛し、自分の血を分けた子らを愛し、国と国民を愛する愛情深い国王その人だ。理由は知らないけれど、シャルルーは王にどれほど望まれても首都に腰を落ち着けることはない。彼のすることは、もしかしたらテナシテと同じことなのかもしれない。
◆
「隊長」
「んー……忙しいから明日行く」
「ダメですよ。早く来いって何度も言われてるでしょ」
「僕はまだ若いし、詳細健診の対象じゃない」
「隊長職は年齢不問で対象者です。まったくもうこの人は……」
「僕の悪口なら聞こえないように言え」
「言うわけないでしょ、俺らは隊長一番、国王陛下二番なんですから」
「不敬罪で死刑」
「早くしないと、リュネットに怒られますよ」
「わかったってば」
第三隊から第一隊に異動になって馬鹿みたいに忙しい。王族の方々との距離が近くなり、その周辺貴族や文官らとも、多少は関わり合いが増えた。警戒任務を含む王宮周辺の治安維持以外のそういうことに、かなりの時間を取られることに正直うんざりしている。前任者からの引き継ぎは的確で、退役したとはいえいつでも頼れと言われているので安心感はあるけれど、配置換えに伴って引っ越した家の片付けもまだ進んでないし、部下たちも把握しきれてないし、本当に忙しくてろくに寝ていない。
それでも、ようやくここまで来たんだ。テナシテは目を通し終えた書類に承認の署名を入れて、決済済みの箱に放り込んで立ち上がる。副隊長である十以上も歳上の部下が、弟を見るような、いっそ息子を見るような目でテナシテをずっと見ているおかげで、いい加減観念するしかなかった。
「おい」
「はい」
「僕のことを持ち上げて遊ぶな」
「了解です。我々の気持ちは秘するべきだと全員に通告しておきます」
「第三隊の馬鹿どもも、そうやって遊んでたから鉄拳制裁食らわせてた。いくら僕がかわいくて歳下であっても、隊長だ。舐めてると承知しない」
「ええ、隊長がかわいいのは間違いありません。我々は隊長をこころから、歓迎し、尊敬してます」
副隊長の声に侮蔑も揶揄も感じなかったけれど、ものすごく苛立って腹が立ったので、テナシテは執務室を出るついでに彼を思い切り睨んだ。副隊長は手のひらを見せながら、本当ですってば、と困っていた。
実際、テナシテは昔から一目置かれていた。軍人とは思えない端正な容姿に、奔放な振る舞いと言動。小柄な分、体力はないだろうという大方の予想に反して、怪我をして動けない部下を担いで本陣まで帰還するぐらいのことは平気でしたし、火器の扱いもうまく、徒手戦にも強い。長さの関係で蹴り飛ばす方が得意のようだ。見た目で判断した人間は、大抵その能力に驚く。元々は参謀志望だったとかで、戦況を読むことにも長けていて、判断も早いし冷静だ。
だからこそ、若いうちから首都に配属され、異例の昇格を果たし、歴代最年少で第一隊を任されることになった。本人は最初から首都の将軍になることを目指しているのだから、至極妥当なことらしいけれど、第一隊の血気盛んな軍人たちは、第三隊隊長時代のテナシテをもちろん知っているし、かわいい子猫ちゃんと仲良くしてあげようかな、くらいの気持ちでいた者も多かった。
しかし、着任早々、ああこれは、本日付で第一隊はテナシテ隊長親衛隊となるなと悟った。第三隊のやつらが、テナシテの異動を泣いて惜しんだ気持ちがよくわかる。
「僕の命令だけを、黙って聞け。そうすれば首都は安泰だ」
テナシテの就任の挨拶はそれだけだった。そして、不敵に笑ったのだ。いや、不遜な態度をとって見せたと思っているのは本人だけで、実際は強気な発言とは不釣り合いな彼のかわいい笑顔に隊員はほぼ全員が即キュン死。命辛々生き残った者も、その後の彼の天然ぶりや小生意気さに次々に倒れていったのだ。
かわいさのあまり不埒な行動に出ようとすれば、今度は本当の意味で瞬殺される。テナシテは彼らの好意をからかわれているのだと信じていて、だからもう、全員が大事な隊長を守ることにこころを砕くほかない有様。テナシテは意図せず、新しい隊の部下を完全に掌握し終わっている。
「お伴しましょうか」
「見張らなくてもちゃんと行くからついてくるな。自分の仕事をやれ」
「了解です。お気をつけて」
「すぐ戻る。留守を頼む」
駐屯所を出て、王宮の敷地内にある医務院へ。
この国の医療の総本山で、医師全員がここに所属し、必要に応じて各地に出向く。分散させるより一箇所で、医療に対する知識を向上させる方が効率的だからだ。軍には衛生兵と呼ばれる医療の知識のある者もいるけれど、それは医療補助者、衛生管理者であり、医師ではない。民間の診療所にいるのも、軍隊に帯同するのも、王族の診察に当たるのも、医師はこの医務院から派遣される。
軍関係者は全員定期的に健診を受ける必要があるが、一定の年齢に達した者と隊長職は、詳細健診と言って心身の健康をさらに事細かに管理される。テナシテはまだその対象年齢ではないのに、隊長をやっているものだから呼び出されるのだ。そして、それが面倒だと思う程度に若くて、毎回どうにかサボろうとして周囲に諭されて渋々受けに行くことの繰り返し。
愛馬に跨って出かけて行く上官の背中を、隊員たちが微笑ましく見送る。
「副隊長、お伴しなくていいんすか?」
「やだってんだからしょうがない。うちの隊長はかわいいが、子供ではないからな」
「ほんっとかわいいっすよね、うちの隊長」
うちの隊長。それは隊員らの最大級の愛情を込めた呼び名だ。大事な大事なうちの隊長。幸いこの国の首都は平和で、外憂も内乱も想定する必要はほとんどないのだけれど、有事の際に、彼の指揮で働くことを、彼の本気で戦う姿を、不謹慎にも心待ちにしている人間も多い。誰とも馴れ合わず、だけど自分の部下を無条件に信頼し、黙ってついて来いと一人で厳しい道の先頭を行く人。些細なことで嬉しそうに笑い、よく怒る。裏表がなくて正直で、自分自身のことを語らない。彼はかわいいだけの男ではなくて、滅法かわいい男なのだ。
「あの噂、本当なんすかね」
「さあな」
テナシテが、水軍将軍シャルルーに心酔しているという噂は、本人の言葉の端々からうかがえる。間違いなくそうなのだろう。部下たちが気にしているのは、シャルルーがテナシテを気ままに慰み者にしているのではないかだとか、そういう話だ。かわいいうちの隊長が、そんな無体を強いられているとしたら相手がいくら水軍最強であっても許せない。真実如何では彼の手勢との全面闘争も辞さないと息巻く隊員がほとんどだ。
「あんなにかわいいんだから、シャルルー水軍将軍閣下じゃなくても、相手はいくらでもいるだろうに」
「まあ……いろいろ聞くが。うちの隊長は配属替えも多かったから、その度にモテたと」
「そりゃモテますよ。あんなにかわいいのに、訓練で誰よりも体力あるし強いし、教え方うまいし」
「昔は色々と奔放だったらしいが、やはり|狭い世間《首都》では弁えているんだろう」
「あー俺と付き合ってくれないかなー」
「言ってみろ。沈められるぞ」
「ですよね、一撃で」
そんな風に間違ったことが噂されているとも、慕われているとも露知らず、テナシテはボクボクと愛馬で医務院に到着し、馬番に預けて足早に建物へ入っていく。敷地内にはいくつかの棟があって、専門性で分かれている。テナシテはまっすぐに、軍医棟へ向かった。
「お疲れ様です、テナシテ隊長」
「あ、久しぶり。戻ってたの」
「はい。しばらくはこちらにおります」
「心強い。うちの隊員、よろしくね」
顔見知りと言葉を交わしつつ、テナシテは目的の部屋へたどり着き、その扉を拳で叩く。返事がないなと思った時、部屋の主であるリュネット医師が、黒縁のメガネを神経質そうに触りながら、扉を開けてテナシテを出迎えた。
「お忙しいとは思いますが、もう少し余裕を持って受診していただけませんか」
「難しいこと言うな、色々あるんだ」
「ダダこねてただけでしょう」
「僕はまだ若いから、本当はこういうの要らないと思う」
「隊長職の心労から、健康に害を及ぼす可能性についてはご説明しましたよね、数年前に」
「そうだけど、心労なんか別に」
「無自覚に心身の健康に影響があるとも、言いましたよね」
「ちゃんと来たんだからいいだろ」
「こちらへどうぞ」
診察台に横柄に腰をかけて、心底嫌そうに、テナシテは顔をしかめて舌を出した。リュネットは慣れたものでついでにその舌と口の中を冷たい器具で探りながら診察する。予告なく始まる健診に、テナシテはすでに早く終わらないかなと思っていた。
感染症と精神疾患は、特に注視される。念入りな検査はそれらの早期発見が主な目的だ。あとはもちろん、怪我やその後遺症、内臓疾患も、本人からの自己申告含めて全身を診てもらえる。ありがたい制度なのだけれど、テナシテはこれが苦手でどうしようもない。
「寝不足のようですが」
「口の中でわかるのか」
「顔見ればわかりますよ。眠れませんか」
「ただの自己管理不行き届き。まだ少し、新しい職場に慣れなくて」
「寝る時間が取れないだけ、ということですか?」
「そう。問題ない」
「寝る時間がないほど忙しいことは問題です」
「おかしなことを書くなよ。元気、大丈夫、問題ないって、全部の欄にそう書いといて」
「とっても元気、と」
「よし」
書類に何やら色々と書き続けているリュネットに服を脱げと言われて、テナシテはそれに従う。どこまで?と問えば、とりあえず上半身だけでいいですと。
「お医者ってすごいな」
「そうですよ。だから言うことを聞いてください」
「フォールが退院したらしいじゃないか。来たときは正直、助からないと思ってた」
「彼の主治医は、僕の師匠です。師匠を見くびらないでいただきたいですね」
「んー、ごめん」
「はい、背中を見せてください。痛みは?」
「ない」
リュネットは、ラヴィソンが国王へ親書を届ける際の騒動で怪我をした時、診察してくれた男だ。その当時彼は第三隊の担当で、テナシテが軍医を呼べば、来るのは非番でなければリュネットだった。テナシテよりも数年若く、生真面目で、腕は確かだった。医師を示す白い腕章よりもさらに白いのではないかと思えるほど白い肌。従軍した時は、陽射しに焼かれて真っ赤に腫れ上がったらしい。あいにくテナシテは彼を従えて行軍したことはない。
「はい、いいですよ。服を着てください。下半身は、どこか診て欲しいところがなければ結構です」
「ない。問題ない」
「食事はどうされてますか」
「全部駐屯所で摂ってる」
「三食?」
「四回かな。夜食も作ってくれて届くから、残さない」
「自宅に帰ってないということですね」
「そうなるね」
「酒は」
「飲む暇ない」
「寝起きの状態は」
「え?寝起き?うーん」
診察は進む。服を直しながら答えるテナシテの様子を、リュネットは観察する。貧弱とは程遠い、長年をかけてきっちり鍛えられた身体は健康そうではあるけれど、軍医の認定を受けている以上、責任を果たす必要がある。テナシテは確かにまだ若い。でも、油断はできない。家に戻ってないのか。感心できない状況だ。毎日夜食を食べるということは、毎晩執務室に籠っているということだろう。あとで第一隊の副隊長に話を聞かなければ。
「現在、性交渉を伴う親しい相手はいますか」
「いない」
「不特定多数の人間と性交渉を行いましたか」
「してない」
「最近、性交渉を行なったのはいつ頃ですか」
「答えたくない。っつーか、こんなこと聞く必要あるの?それ聞いてどうすんの」
テナシテが健診を苦手とするのは、こういうことを聞かれるのが嫌だからだ。
そういうことに興味がない。仕事ばかりしているし、寄って来るのはからかい半分の部下たちがほとんどで、つまり自分が誰かにそういう風に求められることがないのを理解している。いい歳をして愛し合うことを知らないことを恥ずかしいと思う程度の常識はあるので、居た堪れないのだ。未だに頭にシャルルーの顔が浮かぶことも、テナシテの気持ちを薄く鋭く傷つける。
「感染症の拡大経路で、性交渉は大きな割合を占めていますから。隊内で拡がると困りますし。女性の場合は妊娠のこともありますね」
「うちの隊に、そんなにだらしない下半身の人間はいない」
「そうですか。まあ、規定の問診ですからご協力ください」
テナシテは不機嫌そうに、それでもリュネットの質問にできるだけ答えた。リュネットは仕事をしているのだから、そういう人間に迷惑をかけるのは本意ではない。最後にテナシテの緑がかった茶色い髪を少しだけ切って提出してもらい、健診は終了した。
「結果が出たらお知らせします」
「うん。ありがとう」
「今日は自宅に戻って休養をとるべきですね。どうぞ、診断書です」
「はあああ!??!」
「お大事になさってください」
軍医の認定を受けた医師の診断書は絶大な力があって、それに従わないことはほぼ許されない。半日の自宅療養が必要である、という診断は、今日働いたら除隊だよ、くらいに意味があるのだ。渡された指令書同等の、いや、将軍であっても逆らえないのだから勅命か、それをぎゅううううっと握りしめてテナシテが怒りに震えている。テナシテは普段、実年齢よりも幼い行動が多いけれど、リュネットはいつも落ち着いている。
「お前なっ、自分の診断書の重みを自覚しろ!この紙一枚で、僕は今日仕事できないんだぞ!?」
「医師としては、大変望ましいことです」
「忙しいんだよ僕は!」
「自己管理もできなくて、第一隊の隊長は荷が重すぎるのでは?」
「───!!!」
黒縁の眼鏡を神経質そうに指先で押し上げてテナシテの反撃を悠然と受けるリュネットに、返す言葉などない。大人しく駐屯所へ戻って、副隊長にこの診断書を見せて自宅療養。握りつぶそうものなら、次に来るのは要入院の診断書かもしれないのだから。軍医を敵に回すのは、時としてものすごく厄介な結果を招くのだ。
「……わかったよっ!ちょうど眠かったんだ、あああああ嬉しいっ!!」
「隊長」
「まだ何か!?」
テナシテの頭の中はこの後の段取りの組み直しでいっぱいだ。とにかく急いで戻って、書類だけは持って帰って、あ、ご飯は?駐屯所に食べに行ってもいい?そんなことでグルグルしていた。
「先ほどの問診の答を、聞いたからではないんですが」
「なに」
「今、特定の方がいないのであれば、僕とおつきあいしていただけませんか」
「……は?」
一気に頭が冷える思いだった。テナシテの目が、座る。長い付き合いで、頼りにしている仲間だと思っていた。いつも仕事の話しかしなかったけれど、気を許していた。だからなぜか、裏切られたような気がした。
テナシテはリュネットの目の前で診断書を引き裂いて、ひらりと放り投げる。
「ふざけんな」
「悪ふざけで、こんな大事なことは口に出来ません」
リュネットの言い分はもっともだ。だけど、ふざけていてくれた方がいくらかマシだ。相手にする必要がないから。今までと変わらずにいられるから。次の健診も不安なく受けられるから。テナシテは床に落ちた診断書を踏みつけて、無言で部屋を出て行った。
◆
「隊長」
「うるさい」
「もー。健康管理は仕事のうちでしょ?早いとこ詳細健診の結果、聞きに行ってくださいよ。医務院から事務方に、ガンガン催促来てるんですから」
「どうせ全部"大丈夫"って書いてあるからほっとけ」
「そんな結果聞いたことないですよ」
「僕は元気だから心配ない」
「そうでしょうけどね、あ」
「……部外者が勝手に入ってくるな」
あれ以来相変わらず執務室に籠もって仕事をして、詳細健診の日のことは考えないようにしていた。
幸い軍医を呼ぶようなことも起こらず、破いた診断書に関するお咎めは聞こえてこず、だからリュネットとは接触せずに済んでいる。そうやって距離を保ち、そのうち第一隊の担当軍医が変われば、何もなかったことに出来る。テナシテが第三隊を離れる少し前に、リュネットは第一隊担当に変わっていて、テナシテの異動はそれを追いかけるような格好になり、付き合いが長く続きすぎただけだ。
会わなければ、忘れる。
テナシテは経験上、感情はそんな風に風化しないと身を持って痛感しているのだけれど、それはきっと自分が特殊なだけで、世間一般の人間関係ではそうなっているはずだと考えていた。
だから、その段取りをぶち壊しにするリュネットの突然の来訪が、恐ろしいほど癪に障った。
「副隊長殿。お邪魔して申し訳ありませんが、健診結果の報告ですので席を外してくださいませんか」
「承知いたしました。自分の力不足ゆえ、隊長への負担が大きく、軍医殿にご足労をおかけしたことをお詫び申し上げます」
「僕はかまいません」
「謝る必要はない」
「では、失礼します」
テナシテは、副隊長が出て行って執務室の扉が閉じられ、密室に二人きりになっても、顔も上げずに書き仕事を続けていた。リュネットはわずかにずれた眼鏡をそっと押し上げて、テナシテの机の前に立ち、持参してきた書類を開く。
「全部大丈夫、とはいきませんでした。しかし、直ちに加療等の必要はありません。日常生活において注意していただきたい点がいくつか」
「あとで読むから、置いていけ」
「隊長職においては、ご自分が倒れたときの周囲への影響くらいは考慮すべきであると思います」
「僕はそれほど軟弱ではないし、影響を与える周囲の範疇にお前は含まれない」
「第一隊所属の人間の健康管理は僕の仕事ですが」
「変えてもらえば?」
「嫌ですね。あなたのことを、他の軍医が診るなんて絶対に」
「用が済んだらさっさと帰れ」
「済んでません。これからです」
「暇だな」
「ええ、実は本日非番ですので」
バキンと音がして、テナシテが顔を上げ、ゆっくりと椅子の背にもたれかかる。折れたペンを机に転がし、真正面からリュネットを見た。真っ白な肌に、鈍い銀色の髪。青い目は眼鏡の向こうからじっとテナシテを見つめている。そしてふと視線を逸らすと、手にしている診断結果に目を落としながら、再び口を開いた。
「執務室での管理仕事のほかに、通常訓練にもほぼ参加しているとか。であれば一日四回の食事は量としては問題ありませんが、空腹を感じない時の夜間の食事はなさらないほうがよろしいでしょう」
「ああ」
「以前負傷した背中ですが、やはりまだ多少、周辺の筋肉の太さに追いついておらず、左右のバランスが整っていません。医務院に通うか、ご自身で意識して鍛錬するかどちらかを」
「ああ」
「休みを取っていないそうですね。他の隊員も休みにくくなりますし、休息は必要です。規定の通り非番を入れてください」
「ああ」
「…………僕はそれほどまでに罪深いことをしましたか」
テナシテは何も答えず、肘掛に載せた自分の手で顔を支えるようにして、首を傾げた。着ているのが官給の軍服でなければ、とてもではないが軍人には見えない。小奇麗な顔は珍しく無表情で、リュネットの言葉が届いていないかのようだ。
普段落ち着いていて感情を余り出さないリュネットでも、思い切っておつきあいを申し出て、叩きつけられたのがふざけるなの一言では、同僚が気を使う程度には落ち込んだ。嫌だとか、無理だとか、何かしらの返事さえもらえていない。だからこうして、最後の勇気を振り絞って訪ねてきた。年上の首都最強と謳われる現役軍人への気持ちは本物だから。
「罪深いかどうかは知らない」
「僕は、ずっとあなたが好きでした。僕をそういう対象として、見ていただけませんか」
「そういうことに興味ないし」
「真剣に、お話しています。僕の決意を、茶化さないでいただきたい」
テナシテはその時ようやく、リュネットの手が震えているのに気がついた。
睨まれても拒まれても避けられても、ここまで自分に食い下がるとは思わなかった。所詮、医者だ。一緒に戦う軍人たちほどの頼り甲斐は感じないし、細い細いとからかわれるテナシテよりもさらに細い身体は、背は高いものの蹴れば吹っ飛ぶだろう。ひ弱ではないけれど、あの方とは似ても似つかない。なのに、なぜここまで。
「茶化してはいない。むしろ、僕をからかっているのだと思っていた、他の馬鹿どもと同じく」
「いいえ。本気です」
「みたいだね。余計に性質が悪い」
「なぜ、申し出を受けてくださらないのでしょうか」
「言ったよね。興味ないの」
「それは、叶わない恋に囚われておられるからでしょうか」
「お前に関係ない」
関係ない。この感情は、選択は、僕だけのものだ。誰にも、あの方にだって、関係ない。
テナシテはもう一度リュネットに出て行けと告げた。しかし彼は、諾とは答えず、もう一歩踏み出してきた。
「試用でかまいません。しばらく、僕とおつきあいしていただけませんか」
「しつっこいな……なんなの?いくら僕がかわいくても、誰にでも優しくすると思ったら大間違いだから」
「僕にだけ優しくしていただければそれでいいです」
「僕の話聞けよ、タコ」
「試してください」
「僕の話」
「僕の話を聞いてください。最初で最後ですから、お願いします!」
最後には両手のひらを机につけて、テナシテが思い切り顎を引くほど前傾姿勢で、リュネットは頼み込んできた。真っ白な頬が赤みを帯びて、いくら色恋に疎いテナシテでも、ああ、本気なんだなと理解し、なんだか今まで同じようなことを言って寄越した奴らとは、違う気がした。無碍にできるほど軽い感情ではないのだと。だけどそんなことは、よくわからない。断り方も、知らない。
「……わかった。お前の話は預かる」
「本当ですか?ありがとうございます!」
「うん、だから今日は帰って。僕は忙しい」
「明日非番ですよね、食事に行きましょう」
「非番でも仕」
「診断書が必要でしたら届けますが」
「…………わかった。食事な」
「ええ」
「わかったから、帰れ」
「はい」
さっと体勢を元に戻し、ずれてもいない眼鏡を神経質そうに触り、手にしていた結果報告の書類をテナシテの机に載せると、リュネットはではまた明日、と言った。
押し切られたとはいえ自分の言動を、その押し切られたという事実を、テナシテはまだ信じられなくて受け止められなかったけれど、表情に乏しい色白の医者が、どことなくホクホクと嬉しそうだからもうどうでもいいやと脱力した。どうせ、何も変わらない。
「おい」
踵を返し、執務室を出て行こうとする薄い背中を呼び止める。彼は几帳面にも机のそばまで戻ってきて、なんでしょうかと答えた。
「僕の前で、あの方の話をするな」
「……なぜ」
「僕の命令に質問するな。従わないなら、殺すよ」
テナシテの目が、本気だった。リュネットは居住まいを正して、承知しましたと頷いた。言いたいことはあったし、脅しに屈したわけでも納得したわけでもない。ただ、お試しとはいえ長年の想いが叶ってようやくテナシテとおつきあいができるのだ。水辺でボケっとしてるおっさんの話などする暇はない。
◆
「隊長……」
「情けない声で呼ぶな。なんだ」
「ひどいです、隊長……俺、俺というものがありながら……」
「そうですよ!あんな吹けば飛ぶようななまっちろい奴とー!!」
「暇そうだね、お前ら。走ってこい」
「たいちょおおおおおお!!!」
「おい、手ぶらで行く馬鹿がいるか。その辺の土嚢三つ四つ担いで走れ」
テナシテは吹聴して回ったりしないし、リュネットも然り。しかし、どこかからか話は漏れた。当事者二人に隠すというつもりがなかったからかもしれない。
噂が広まるのは早かった。リュネットは宣言どおり、翌日の昼前にテナシテの自宅に迎えに来て、第一隊の隊員が根城とする村にある、普通の食事処で一緒に昼ごはんを食べたのだ。一人が気づいたら、あっという間だった。目撃情報多数。あまりにも信じられない光景過ぎて誰も近寄ったり声を掛けたりできなかったのだけれど、店の前には人だかりが出来たほどだ。珍しいテナシテの私服にも、隊員は悶えていた。
一報が聞こえた第一隊は阿鼻叫喚。首都の西方を守る古巣の第三隊でもそんな馬鹿なと叫びながら馬を駆る隊員が続出したという。
テナシテは、渋々とはいえ久々の非番で前夜は自宅でゆっくり眠れたし、美味しいご飯が食べられたので上機嫌だった。会話は仕事関係がほとんどだったけれど、途切れることなく続くから、気を使わなくても済んだ。店を出るとき、部下を連れてきたような感覚でテナシテがさっさと会計を済ませようとしたら、リュネットが少し憮然としていた。
「僕がお誘いしたので、僕が持ちます」
「え?いいよ、僕が払う」
「誘ったほうが払います」
「へえ」
「次は払ってください」
「うん」
「…………次は誘ってくださいと、お願いしてるんですが」
「ああ」
食事の後は散歩でもしましょうかとリュネットが言うので、二人でのんびりと村の近くの小川が流れているような原っぱを歩いたり、冷たい飲み物を買って座り込んだりして寛いで過ごした。
その一部始終を第一隊の人間が固唾を飲んで見守り、泣きながら後をつけていた。テナシテにしてみれば、村の周辺に第一隊の人間がたくさんいるのが普通なので気にもしていなかったのだけれど、リュネットは今日は人が多いなあと不思議に思ったりしていた。
夕方になり、これから二人は一体どうするつもりなのか、まさか、まさか……!と隊員らがじりじりと距離をつめながら尾行し、全然隠れていないのだけれど、たどり着いたのはテナシテの自宅だった。声にならない悲鳴が辺りに響いたけれど、二人はまったく頓着しなかった。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
「うちで夕飯食べるなら、用意させるけどどうする?」
よく通るテナシテの声が、隊員の心臓を次々に貫いていく。彼らが泣きながら、やめてやめて初日にこれ以上は不潔よーーー!!!!と叫んだとか叫ばないとか。
首都の隊長職に就くと、比較的大きな家が用意される。それは、何かあればそこで会議をしたり、隊員を住まわせたり、作戦の拠点になったりするからだ。多忙を極める隊長のために、家のことをする人間も希望すれば配置される。テナシテは、誰かが来たときに食事だけは出せるようにと料理人は雇っていた。彼女の食事を食べることは滅多にないのだけれど。
「あ。でも、散らかってる。引越しの荷物がまだ」
「お忙しいですもんね。いえ、僕はこれで失礼します」
「そう」
「ええ。これから夜勤なので」
「は?馬鹿かお前。なんで仮眠しとかないんだよ」
「眠れそうにありませんでしたので」
リュネットは眼鏡を軽く触って、しばし考えてから身体を傾け、握りこぶし二つ分ほど下にあるテナシテのおでこに、軽く唇を触れた。非番だからと諸々の警戒を解いていたテナシテは、それを避ける事もなく受け取ってしまう。
「…………なんで?」
「え?おかしいですか?」
「わかんないから聞いたんだけど」
「立ち入ったことをうかがいますが、隊長のご両親は」
「健在だ」
「何よりです。ご両親は、こういったことはなさらないのですか」
「してた、かな」
「僕の両親もです。結婚しているか否かの差はあれど、おつきあいしている二人はああいうことをするものであると、個人的には理解してますが」
あまりに唐突過ぎて、照れるも恥ずかしいもなく、さらに夫婦仲抜群の両親のことを思い出せば、むかしから家の中でしょっちゅうお互いにくっつきあったり、さっきのリュネットのように頬や額に唇を寄せ合っていた。そうか。そうだな。あれが普通だな、うん。参考にしよう。そうすれば、経験のなさを自然に補えるだろう。テナシテはなんとなくおでこに手をやりながら、ざっくりと納得した。
「了解した」
「では」
「励めよ」
「はい」
リュネットが去り、テナシテが家に入った後、その周辺には屍がたくさんできあがっていた。
◆
「隊長……」
「おい、今日の王宮の立ち番、増やす余裕あるか」
「増やしておきましたが」
「隊長……」
「そう。悪いけど後二人融通して、大王宮の裏門に立たせといて」
「はい。一人やってますが、足りませんか」
「隊長……」
「んーちょっと、気になるから。人がいないなら僕が行く」
「いえ、自分と、もう一人行けます」
「隊長……」
「うるっさいな、なんだよさっきから!?仕事しろ馬鹿!」
「だってだって、なんでリュネットなんですか!?隊長の好みがもう全然わかんないっす!」
「はあ?僕が仕事以外で誰と何しようと関係ないだろ?本当に暇だねお前ら。ちょっと第四隊にお使いに行ってくれ」
「いやですっ!隊長のおそばを離れたくありませんっ!」
「自分もです!お使いなんてしている間に、隊長に何かあったらどうするんですか!?」
「そもそも仕事と関係ないところで誰とナニしてるんですか!?してるんですかっ!!」
「おい、誰かいないか。いないなら、僕が第四隊へ行ってくるから馬を引いてくれ」
「お供しますー!!!」
「もう、何なのお前ら……」
入れ替わり立ち替わり、第一隊の隊員が暇さえあれば、暇がなくても、とにかくテナシテにまとわりついている。仕事の鬼だった隊長が、非番の日にちゃんと休むようになった。ほとんどの場合、リュネットと食事をしたり散歩をしたりしている。人目も憚らず、その清らかな頬や額に、口づけを許してもいる。最近はリュネットがテナシテの家から出てくるのが目撃されたり、第一隊の村から離れた、つまり人の少ない静かな場所にあるリュネットの自宅にテナシテが入っていくこともあると聞く。信じられない。まさか本当に、あの色白眼鏡医師とうちの隊長がおつきあいをしているなんて……!!
テナシテは、正直休みができたこと以外生活にほとんど変化がないので、周囲の騒ぎが理解できず、相変わらずの天然ぶりを発揮して、泣きながらいろいろと訴えてくる隊員を相手にしなかった。
「いいいいいですか、隊長!隊長は、隊長のお身体は隊長一人のものではないんですっ」
「我々第一隊の隊員がどれだけお世話になっているか!いつもありがとうございますっ」
「ああ、心得ている。体調を崩せばお前たちに迷惑がかかると医者にも言われている。だからちゃんと休養を」
「あんな奴の言うことを信用してはいけません!」
「そもそも休養してますか!?本当ですか!?運動してませんか!?」
「あのな、いくら僕がかわいいからって、軍人になって長いしお前らの上官だ。心配しすぎだ、うっとおしい」
「我々は、ご自身を大切にしていただきたいとお願いしているんです!」
「僕にはそう聞こえないけど」
仕事しろよバーカ。テナシテは迫り来る部下たちを蹴散らして、結局自分で馬を引いて第四隊へ出向いて行った。妻帯者で子煩悩な副隊長をはじめ年嵩の隊員らは、若手の暴れっぷりに苦笑いしている。かわいいうちの隊長に、いつまでもかわいいままでいて欲しい。少なくともこの隊にいる間は誰のものにもならず、みんなのかわいい隊長でいて欲しい。その気持ちはもちろんわかるけれど、年配連中は隊長にしあわせになって欲しいから、この恋らしい営みを見守りたい。任務や訓練に散っていく若手隊員は、メソメソしながら、隊長に怒られないように涙を払って仕事を始めた。
「ほんとにうるさいなぁ……」
第四隊には、近々行われる式典の際の警備体制についての資料を届けるだけなのだけれど、よくわからない大騒ぎにが面倒で警邏ついでに自分で出かけたまでだ。第一隊は基本的に精鋭揃いなので全員頼りになるし、本当は放っておいてもそれぞれの職務を全うしてくれるのだけれど、ここのところ騒がしい。
リュネットとの事を言っているようだけれど、職場に影響が出るようなことはしていないつもりだし、おつきあいといっても、若い頃から水軍の美丈夫に想いを寄せ続けていたおかげで経験がないからよくわからない。ただ、向こうが初っ端に両親という身近な存在を参考例として挙げてくれたおかげで、彼がよく頬や額に口づけすることも、そんなものかと受け入れられたし、お互いの家を行き来することも、一緒に食事をすることも、ごく自然なことだと思っている。
なぜ彼の申し出に頷いてしまったのか、今でもよくわからないけれど、結果としてはきっとよかったのだろう。
ずっと、誰とも親しくせずに生きてきた。退けたり拒んだりしたわけではないけれど、長い間あの方への感情が溢れて苦しくて、それを抱きしめるのに必死で、余裕がなかったから。
「囚われている、かな」
あの一言で、目が覚めたのかもしれない。囚われて、動けないでいる自分を、変えたかったのかもしれない。テナシテはなんだか、最近ようやく自分が"普通の人"になった気がしていた。今までは考えもしなかったけれど、真摯に望まれるのであれば、誰かとおつきあいすることは悪いことじゃない。みんながそうやって生きているんだから。
「隊長自らご足労いただくとは」
「うちの隊が、なんだかばたついてまして」
「そうでしょうそうでしょう。訓練にも身が入らないとか」
「そうなんです。陽気な奴らで、楽しそうに騒いでますよ。鍛えなおさなければいけません」
第四隊の隊長を務めるのは、首都にいる軍人の中でも高齢の部類で、とにかく柔和で人当たりがいい。第一隊の騒動に関してもいろいろと聞いているけれど、テナシテを若いときから知っていることもあって、もし本当にあの優秀な軍医と睦まじくなったのであれば本当によいことだと思っていた。しかし相変わらず、話がイマイチ噛み合わないので、この若くきれいな隊長は第一隊の連中の自分への溺愛ぶりをちっとも理解できていないようだと笑ってしまったけれど。
「式典も近いので、色々考えなければいけませんね」
「はい。ご指導いただきたく思います」
「この老兵がお役に立てることがあれば何なりと」
第四隊隊長は穏やかに笑い、よければどうぞと果物をテナシテに持たせて帰した。一応、噂の彼と一緒に食べられる量にしたのだけれど、テナシテは何も考えずにそれを駐屯所の食堂にいた隊員に振る舞った。
リュネットは時々、テナシテの家で帰りを待っていることがある。料理を頼んでいる女性と雑談をしながら、テナシテと一緒に食べる夕飯の献立を相談したりしているのだ。家で待っていては迷惑かと聞かれたとき、テナシテは思案して、迷惑ではなさそうだと思ったので、好きにしたら、と答えた。広い家だから、自分の部屋に入り込まれるわけでもない。応接間や食堂で、リュネットが自分を待つことに抵抗はなかった。
僕の家に来ませんかと言われたときも、テナシテは思案した。上官の家へ挨拶や食事に行ったことはよくあるけれど、そもそも"家"というものは、軍人になって実家を出て以来、首都警護部隊に配属され、隊長職に就くまではなかった。周囲の人間も全員、駐屯所の中にある宿舎に住んでいて、だから、少し興味があった。
「うん。行く」
「まあ、隊長宅と比べれば馬小屋みたいなものですが」
「軍医の給料は安い?」
「どうでしょうね。でも、給料のせいであの家に住んでいるわけではないです」
「じゃあなんでそんな狭い家に住むの」
「環境ですね」
「ふーん」
非番の度に、リュネットはテナシテを誘う。医務院の人間の休みは基本的に定休制なのだけれど、軍医は担当の隊に合わせていくらでも変更できる。テナシテの非番に一致させることも可能で、実はそれが一番合理的なので、二人はよく一緒に過ごす。
リュネットの家に初めて行ったとき、三階建ての横に長い建物を見て、テナシテは駐屯所にある独身者用の宿舎みたいだなと思った。その三階の角の部屋へ案内されて、宿舎より広い間取りで部屋も二つあって、だから一人暮らしならちょうどいいはずなのに狭いと思うのは、大きいほうの一部屋が大量の本で埋まっていたからだった。本が傷むとかで分厚い窓掛けが陽射しを遮っていて、そのすぐそばに置かれた大きくてふかふかの長椅子の周りには、薄暗い部屋でも快適に本が読めるようにたくさんのランタンが置かれている。それ以外は壁も床も本だらけ。
「これさ、家が狭いんじゃないよね。物……本が多すぎるんだろ」
「家にいるときはほとんどここで過ごすので、快適です」
「好きなものに囲まれて?あ!これなに?」
「んー高山植物ばかり集めた図鑑ですね」
「あ、ごめん、勝手に触っちゃった……」
「いいですよ。読むための本ですから、好きなだけ触ってもらって」
「読んでいい?」
「どうぞ」
医学に関する本が半分、それ以外が半分といったところか。テナシテは図鑑が好きなので、そういう類もたくさんあって、ウキウキしながら一冊手に取った。立ったまま開くと、リュネットが長椅子を勧めてくれる。男二人が座っても窮屈ではなくて、座面も背もたれもフカフカで、なるほど、日がな一日ここで過ごすのもいい趣味だとテナシテは思った。リュネットは椅子の傍らに置いていた本を開く。
「それは?」
「師匠がこの間書いた、緊急時に大量の患者の扱いをどう判断すべきか、という本です」
「戦時とか?」
「ええ。あとは災害時ですとか」
「ふぅん。面白い?」
「ええ」
二人はそれぞれ好きな本を読んで過ごした。リュネットの家にいるときは、それが二人の過ごし方になった。
時々、読書の最中でも散歩の途中でも、リュネットがテナシテの肩に腕を回したり、頬に口付けたり、うなじの辺りの髪を触ったりするのだけれど、ある日、テナシテの唇に自分の唇を寄せたことがあった。おつきあいに慣れてきたとはいえ、さすがに驚いて、身体が硬直した。せせせ接吻……っ!?と。言葉もなくリュネットを呆然と見るテナシテに、リュネットは眼鏡を触りながら、小首を傾げて見せただけだった。そして、テナシテは両親を思い出し、うん、時々はしてたな、と自分を納得させて、動揺しながらも何かを問うこともなく読書を続けた。もうしばらくリュネットを見ていたら、彼の白い肌が首筋まで真っ赤になるのを見られただろうに、テナシテは彼の勇気には気づかなかった。
それ以外は本当に静かなものだ。おつきあいって、結構いいものだな。テナシテは図鑑の頁をめくりながら、そう思う。
どこかで昼ごはんを食べたあと部屋にこもると、どちらからともなくあくびが出て、ウトウトと居眠りしたりする。どちらかが先に目を覚まして、隣を見て、まだ寝ててもいいかな、と二度寝。夕方に起き出して、ブラブラと散歩がてらテナシテの家に夕飯を食べに行って、リュネットは帰っていく。
二人でいるときに、緊急の呼び出しがかかることもある。大体はテナシテが呼ばれるのだけれど、リュネットを呼びに来る場合もある。リュネットを呼ぶということは第一隊の隊員に何かあったということだ。基本的に怪我をしても、命に別状がなく、後遺症も心配ないのなら、当番の衛生兵の手当てで済ませる。にも拘らず軍医を呼ぶということは、当然隊長に報告が行く事態で、テナシテは現状把握の労を惜しまない。ということで、二人で駐屯所に現れたりして、隊員がさめざめと泣いたりもする。
若い二人の試用期間は穏やかに過ぎていった。
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