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第42話

 ラヴィソンの生活は、変わりだした。  フォールの出現とともに光を取り戻し、訓練の末に屋外でも目を開けていられるようになり、彼と穏やかな旅をすることもできた。 「フォールは今後どのように過ごすのか」  旅から戻ってその日は、フォールはラヴィソンの屋敷に宿泊した。翌朝の食卓で、ラヴィソンはそう尋ねた。この旅を終えて、また長く離れることになるのか否か。フォールの思うままの人生を望むけれど、できれば時折顔が見たい。フォールの返事を、緊張しながら待った。フォールは居住まいを正して、真っ直ぐに美しい青年を見る。 「首都で仕事を得ましたので、今後は首都に住むこととなります」 「馬の、であるか」 「さようでございます」 「首都の、どこに住まうのか」 「軍の施設にある宿舎に寝泊まりを致します」 「それはこの近くであるのか」 「王宮の敷地にほぼ隣接する村の中でございます」 「さようか」  ラヴィソンは安堵の息を吐いた。ほとんど外を出歩かないけれど、自分の住むこの小さな宮殿が王宮の敷地内であることは承知しているので、それほど距離はなさそうだ。  フォールは旅の途中で受け取ったラヴィソンの言葉を思い出す。 「お役にたてることがあれば、どこにいても必ずおそばへ参ります」 「うむ。……安心である」 「もったいないお言葉でございます」 「坊ちゃま、フォール殿の仕事がお休みの折には、こちらへ遊びに来ていただくのは如何でしょうか?」  ゼンが給仕をしながら、穏やかにそう水を向けた。  美しい青年が、元騎士の存在を必要としていることは明らかで、その男も好ましい人物だ。ラヴィソンはまだまだ普通の人間関係や付き合いに不慣れで、誰かに傍にいて欲しいときに、具体的にどうすべきか、思いつかないことも多い。  ゼンの提言に、ラヴィソンはぱちりと大きな目を瞬き、それは大変ありがたいことであると頷いた。それを見て慌てたのはフォールだ。 「恐れながら。こちらのお屋敷にそのように気軽に参上するのは心苦しく、ましてラヴィソン様よりありがたいとのお言葉は身に余り、恐れ多いことと存じます」 「無理にとは、……言わぬ」  ラヴィソンはそっと匙を置き、目を伏せて手近な布巾で口元を拭った。フォールはどうしていいかわからず狼狽し、言葉もなくしょんぼりと肩を落とした。ラヴィソンが気落ちしたらしいことを察したからだ。だけれど、じゃあ時々遊びにきますねとなどとは口が裂けても言えない。本心はもちろん、常にお傍に。しかしこの今の状況で、それを望むことは難しいと承知しているからこそ、手も足も出ないのだ。もう彼は、まもられる必要がないのだから。  ゼンは呆れて、小さく息を吐いた。 「フォール殿、坊ちゃまはあなたが傍にいたほうが安心なさるのです。しかし、あなたにも仕事がございましょうし、軍属の身では居住地に制限がある事も承知しております。できることならこの屋敷に住んでいただければと、私個人はそう思いますが、それが叶わないのであれば、仕事のない日は、坊ちゃまに会いにいらっしゃいませんか」 「はあ……」 「坊ちゃま、フォール殿は恐縮なさっておられるのであって、ここへ来ることは嫌でも無理でもないのですよ」 「さようだろうか」 「坊ちゃまからお願いなさったら、フォール殿も通いやすいのではないでしょうか」 「ふむ」  ラヴィソンはフォールを見つめて、時間があるときは、僕に顔を見せに来てはくれぬだろうかと、いつもより少し小さな声で述べた。それから慌てて、それは僕にとってとても嬉しいことである、と付け加える。フォールは力強く頷き、ありがたいお言葉でございますと応えた。 「そのようにさせていただきたく、私の方からお許しをお願い申し上げます」 「うむ、では、そのように」 「ありがとうございます、ラヴィソン様」  ラヴィソンは、ほんの少し俯き、それから微笑んだ。そしてフォールの仕事はどのくらい休みがあるのかと考え、一つの季節に二度か三度はあるのだろうか、であればよいのだがと思案した。そこへ、旬の果物を使った小さな焼菓子をたくさん携えて、アンが食堂へ入ってきた。彼女の後ろからはお茶の用意一式を大きな角盆に載せたダンが控えている。 「フォールが来てくれるなら、私も助かりますよ。だって、普段よりも坊ちゃまがたくさん食べてくださいますからね」 「そうだろうか?自分ではわからぬことである」 「一人で召し上がるより、よろしいのでしょうね」 「うむ……恐らく」  アンがテキパキと焼菓子を二人の前に並べ、ダンの持つ盆からお茶の用意を卓へ移動させながら、朗らかにそう話す。ダンもコクコクと頷いている。 「俺も、フォールがいたほうが楽しい。仕事が落ち着いたら是非通ってくれ」 「ああ……ありがとう」  フォールは、ラヴィソンの傍にいる人たちがみんな優しいという幸運を、こころの底から神に感謝した。そして、もう一度美しい主の方へ顔を向ければ、彼もこちらを見ていた。大きく澄んだ黒い目は、本日も美しく輝いている。 「ここで戴く食事も大変美味しく、お側仕えの皆様のご厚意に感謝しております。ラヴィソン様とこのように近く過ごすことに、まだ恐れ多い気持ちで一杯でございますが、大変ありがたく、……とても嬉しく思います」 「さようか。僕も、フォールが近くにいると嬉しいので、同じである」  こうしてどうにか、彼らの日々が始まった。  ◆  フォールは翌日から新しい職場に出た。シャルルーからの紹介状を提示しつつ、一般の民間人には許可されない場所へ足を踏み入れ、まずは第一隊の駐屯所へ案内される。そこに待っていたのは軍人の癖に小柄で見目麗しい、自由奔放な隊長だった。 「生きてたの」 「ああ、おかげさまで」 「ふーん。馬、好きなの?」 「ああ」 「水軍での実績と、水軍将軍閣下よりの紹介があるから、仕事に関して心配はしてない。本当は二人欲しいところだけど、閣下がお前一人で二人か三人分は働くっておっしゃるから引き受けた」 「……期待に応えるように努める」 「よろしくね。おい誰か、厩舎に案内してやって、仕事の内容説明して。その後軍医んとこで健診受させて、本日はもう宿舎へ……お前、うちの宿舎で寝泊りって聞いてるけどそれでいいの?」 「ああ、そう願いたい。俺のような立場だと、家を借りるのは難しいらしいと聞いている」 「まあ無理だね、少なくとも首都では。僕が言いたいのは、元王子様と一緒に住まなくていいのかって確認」 「あのお屋敷に住むなど、身分不相応だし、軍に携わる人間は指定の場所に住むよう義務付けられているのだろう?」 「別に。好きにすればいいんじゃない。許認可は僕の権限で行う。どうする?」 「…………宿舎に、部屋が欲しい」 「あっそ。あ、言っとくけど僕、隊長だから。こんなにかわいいけど偉いんだから、敬え」 「ああ」  そんな突然、どこに住んでもかまわないからあの屋敷にしたら?などと言われても、そうするなんて言えるはずもない。仕事の内容も拘束時間もわからないのだから、夜中や朝方に出入りすれば迷惑だろうし、そもそもあの家での役割がないから、ただの居候になってしまう。ラヴィソンの傍にいる理由がない。自分の身は自分で立てなければならない。当たり前だ。  テナシテの指示で、隊員の一人がフォールを厩舎へ連れて行ってくれて、そこにいる馬番に引き合わせてくれた。フォールとあまり年の変わらない男が二人だ。仕事の内容は水軍の駐屯所と大差ないけれど、馬の数が少ないのと、遠乗りをすることがほぼないのとで、数日に一度の夜勤当番以外は、早朝から夕方までの仕事で終わるらしい。数が少ないとはいえ、王宮を護る第一隊全員の馬だから、確かにもう二、三人の人手があるほうがいいように思える。フォールは彼らに挨拶をして、明日からよろしくと頭を下げ、ラヴィソンの住まう場所から近い位置で仕事を得られたことに安堵した。 「君は、フォール、水軍では騎馬の訓練の指導もしていたとか」 「ああ、なんとなく流れ出そのようになっていた」 「第一隊でも、その予定か?」 「自分に与えられた仕事は馬の世話だから、そのような指示がなければ厩舎にいる」 「君の訓練を受けた人間がうちにも何人かいて、甚く褒めていた」 「え?ああ、そうか。役に立てたなら何よりだ」 「無欲なんだな」 「そうでもない」  案内してくれた隊員はフォールよりも年上のようだけれど、人当たりもよく、穏やかな男だった。厩舎で馬を借りて、ポクポクと医務院と言われる医者の本拠地のようなところへ連れていかれた。水軍で仕事を得た時もそうだったので、仕事初めに健康を調べられることは驚かなかった。それよりも、自分を診てくれたのがラヴィソンが初めて首都を訪れ、アンソレイエへ親書を渡そうとして第一隊の人間から暴力を振るわれた時に診てくれた男だったことに少し驚いた。最初気がつかなかったのは、眼鏡がなかったからだ。向こうから挨拶をされて、ようやく思い出した次第だった。それと同時に、あのとき狼藉を働いた者に対する怒りも再燃した。まだ第一隊にいるのかどうか確認しなければいけない。 「あの時の子、あなたの主人でしたか、最近視力が戻ったとか。よかったですね」 「ああ」 「あなたも、ここまで回復するのは予想外でした。随分無茶な努力をなさったとか」 「詳しいな」 「あなたの主治医は私の師匠です。ちっとも言うことを聞かないと、当時から笑っていましたね」  白皙の医師は、テキパキと健診を進め、結果は後日と言い渡して早々にフォールを開放してくれた。廊下で待機していた案内役の隊員に、フォールは早速、当事の人間がまだいるのかどうかと問う。 「何人かいるが、隊長は退役されている。今の隊長の前にもう一人別の方がいたから、随分前の話だ。しかし、それは任務の正当な遂行だろう。怨まれる筋合いのものではないと思うが」 「……確かに」 「俺は当事第一隊にはいなかったけれど、名前も名乗らず身分も明かさない密入国者を、国王陛下に引き合わせるなど、やはり承服しかねる」 「……そうだな」 「水に流してくれというのは無理か?」 「……ご本人に、お伺いしておく」  ラヴィソンが一言、そのことはもうよいと言えば、フォールはどれほど許しがたいことでも忘れるように努める。しかし、そうでなければ絶対になかったことには出来ない。今度必ず、ラヴィソンに確認しよう。そうこころに決めて、フォールは今後生活することになる村を案内してもらった。  馬で駆ければそれほど時間はかからず、活気のある村だ。第一隊に所属する人間を中心に、その家族の住む家や様々な飲食店などがあり、首都の中心地だけあって以前いた水軍の拠点よりもさらに拓けているような印象だ。住人の職業ゆえに、治安はよく、また、よそ者はすぐに気づかれるという。フォールが馬で通れば、案内の隊員に村民から気安く新入りさんかーと声がかかる。 「だいたいみんな優しい人だから、なにかあったら頼ればいい。ただ、悪さをするとあっという間に知れ渡る」 「気をつけるよ」 「噂は回りが速い。それはもう、驚くほどだ。王宮の奥に住む、いじらしい異国の青年についても、みんなだいたい知ってる。あの屋敷に出入りするのはこの村の商人が多いし、使用人の人がこっちに買い物なんかにも来るから」 「……」 「フォール、君があの青年の関係者だと、すぐに知れるだろう。誤解しないでほしいのは、みんな彼には同情的で、何か役に立てないかと、そう考えているだけなんだ」 「……俺の聞いた話では、あの屋敷に住まうお方は、外歩きをなさらない」 「そう。目が悪いとか、身体が弱いとか、人付き合いを望まないとか、噂は様々だ。だが、本人を見たことがあるのはごくわずか。だからこそ、君にいろいろ聞くだろう」 「あのお方のことを、みだりに話す気にはなれない」 「好きにすればいいが、あまり角を立てないでいてくれると助かる」  フォールは黙った。  わずかな期間であればともかく、長く住んでいれば人の口の端にのぼるのは止められるものではない。それが、異国の王族出身者であればなおさらだろう。悪気がないということを信じるならば、広く見ればラヴィソンの味方だとも言える。あまり警戒するのもよくないだろう。  宿舎にも馬小屋があり、非番の馬番が仕事というほどでもないけれど何となく世話をしているらしい。本日も一人非番の人間がいて、つまりフォールを入れて四人、馬のことを任される。 「常に一人が休むというわけでもない。馬の都合に合わせると、馬番の奴は言うけれど、俺達にはよくわからん。こちらの訓練のことも考えて休みを決めているようだ。四人で話し合って融通してくれ」 「ああ」 「フォールの部屋は用意できている。案内するよ」  当てがわれたのはたくさん部屋が並ぶうちの一つで、一人部屋だった。個人の生活を尊重する風習が根付いている国らしい。公衆浴場は村の真ん中にあり、そちらを使うか、駐屯所内のを使えと言われる。食事は、駐屯所の食堂なら無料でいつでも食事が摂れて、出向くのが面倒なら村の近所の店で済ませるものだという。なるほど、水軍の駐屯所よりも、よほど生活に変化がある。  フォールは少ない荷物を与えられた部屋に置き、本日はもう何もないから好きに過ごせと言われる。 「ここまで乗ってきた馬は」 「ああ、あれは好きに使っていい。汎用の馬で、アンスという名だ」 「……もし、自分の馬が欲しいと思ったら、どういう努力をすればいいんだろうか」 「うーん。軍の仕事をしている時点で、割と融通は利くけどな。君の立場の詳細を俺は知らないから、はっきりとは言えないけれど、この国の身分証を持っているか?」 「いや。仕事をしているという証明書はあるが」 「じゃあまず、その申請からだろうな。隊長経由で出すとはったりが効く。頼んでみるといい」 「ありがとう」 「馬が好きなんだな」 「……ああ。やはり、いて欲しいと思う」 「そうか」  金や衣装などに興味はあまりないけれど、やはり馬は欲しい。世話をする軍馬はどれもよく訓練されていていい馬だと思うけれど、自分の相棒が、いて欲しいと思う。何かあった時に一緒に駆ける相棒が。信頼しあえる、こころを通わせあえる馬がいれば、支えになるだろう。戦場を走ることはないとしても。 「この後はどうするつもりだ?」 「ああ……その、あの方のところへ」 「そうか」 「先触れを出さねば、敷地内には入れないのだが、融通は出来ないものだろうか」 「……フォールは結構遠慮がないね」 「すまん」  ラヴィソンの住まう小さな宮殿は、そもそも国王の持ち物の一つで、下賜されたものだ。だから当然その周辺へ近づくには、ゼン宛に先触れを出して、出入りを警備の人間に連絡しておいてもらう必要があるのだ。今すぐ行きたいこんな時、その段取りは時間がかかるし正直に言えば面倒だ。 「王宮内を警備しているのは全員第一隊の人間だ。君の友人が住む場所への人間の出入りの管理も然り。隊長に言って、早めに第一隊の関係者だという証明書をもらえば、君が王宮内をうろつくことを咎める者は減るだろう。少なくとも、止められることはなくなる」 「なるほど。じゃあ、駐屯所へ戻る」  案内の隊員はフォールを宿舎において戻る予定だったとはいえ、少し呆れた。でもまあ、悪いやつではないのだろうと諦めた。  フォールの再来に、訓練中だったテナシテは、きっちり予定通りの訓練をこなした。フォールはお行儀よくそれを待ち、その間馬を見て回っていて、テナシテが執務室に戻ったと聞いて早速その扉を叩く。 「お前さ、相変わらずだね。あのガキのためなら何でもするの、改めたら?」 「あの方はガキではない。俺の申し出は正当だと……思うが」 「そうだね。第一隊の厩舎を管理する仕事を得たんだから、その証明書は当然発行される。数日中にね」 「今欲しいんだが、可能だろうか」 「無理」 「……」 「無 理。僕に同じことを二度言わせるな。そもそもお前は明日からの着任となる。今日は宿舎で寝てろ」 「わかった。諦める。正規の手順を踏む。証明書を、よろしく頼む」 「……お利口になったご褒美に、今日だけは特別に案内をつけてやる」 「案内?」 「第一隊の人間が同行すれば、王宮内のほとんど全域の往来が認められる」 「ありがたい」 「だろうね」  そう言ってテナシテは立ち上がった。小奇麗な顔をして、顎をツンと上げて、それが隊長であればなおさらだ、と言った。  ◆ 「とても久しいことである」  ラヴィソンと側仕えたちは、フォールが帰った翌日にまた訪れたことを歓迎し、彼とともに現れた軍人にしては小柄で小奇麗な顔をした男も、客人として招き入れた。  ラヴィソンは王宮の文官らと面会の最中で、それが済んで彼らが辞してから、ゼンに彼らの訪いを告げられて、ほんのり頬を赤くして、フォールらが部屋に入ってくるのを待った。そしてテナシテと再会した。 「あのときはとても世話になり、感謝している。息災であったようで何よりである」 「久しぶりだね。具合、よくなったんだって?」 「うむ?ああ、目のことであろうか。さようである。長く周囲に面倒を掛けてきたが、突然よくなった」 「そう。大変だったね」 「僕は、特段不便なく生活をして参った。ここにいる者たちのおかげである」 「あ、そう。王宮の文官どもに、知恵を分けてあげてるって聞いてるけど」 「知恵というほどのことではないが、先ほどのように、時折来客があり、僕に出来ることは望まれるままに」 「相変わらずだね」 「テナシテも、相変わらず親切である」 「はは。そんなこと言われた事ないね」 「以前と、同じ仕事をしているのだろうか」 「まあ、大体。ちょっと勤務地が変わって、王宮一帯を見張ってる感じ」 「さようか。では、知らずに僕も世話になっているのだろうか」 「だね。それで、明日からはこの馬好きも、僕の管理だから」 「フォールとともに働くのか。それは楽しそうである」  ラヴィソンは大きな目を輝かせて、本心から羨ましく思った。誰かと一緒に労働することは、なんだか苦楽をともにするような感じがする。自分はフォールと働くなど出来ないので、テナシテが羨ましいのだ。  テナシテはといえば、軟禁のような生活をしているとはいえ、いつまでも身につけた考えや常識は変わらないものなんだなと妙に感心した。ラヴィソンは、警戒心がなさ過ぎるし、普通の人が味わう人生の苦労や折り合いのつけ方というものを知らなさ過ぎる。もちろん、今後それを知る必要はないだろうとも思うけれど。 「フォールは、馬の世話だけではなく、馬の扱いの先生が出来るのだ。テナシテは知っているだろうか」 「あーうん、聞いてる。僕がどんなもんか、実際に確認してから検討する」 「さようか。僕はフォールがそのように働くところを知らぬが、見てみたいものである」 「見学くらいならいいよ」  テナシテがあまりにも軽く答えるので、ラヴィソンはきょとんとした。お茶の用意を並べていたアンは、それを聞いて、思わず声をかけそうになったほどだ。屋敷の主人と客人との話に口を挟むなど無礼千万。相手がフォールならまだしも、第一隊の隊長なのだから。でも、坊ちゃま、やりましたね!と言いたかった。 「見学とは」 「フォールが馬の世話したり、騎馬を教えたり、うちの訓練でへばったりしてるとこ、見たければ見にきていい」 「……どこへ」 「うちの駐屯所。ああ、おぼっちゃまは、お外殆ど出ないから知らないんだよね。駐屯所が、王宮の敷地内にあるの」 「以前、寝起きをしていた、窓のない」 「あれは第三隊の施設だから別。このお屋敷から、うーん、おぼっちゃまが歩くとどれくらいかなー?ちょっと長い散歩くらいだけど、馬なら」 「僕は長く馬に乗っていないので、今も乗れるかはわからぬ」 「この大きいのに乗せて貰えば?」 「馬に二人で乗るのは、娘や子供のすることである」  先ほどからテナシテは客人扱いでラヴィソンと話しているので、フォールは勧められた椅子に座ってはいるものの、黙って俯き加減に控えている。  自分の仕事ぶりなど、この美しい青年にとってはつまらないものだろうとフォールは思った。それでも、庶民のすることをご覧になりたいともし望まれれば、もちろん送り迎えくらいは買って出るし、自分がやらなくともきっとダンがするだろう。フォールはラヴィソンは本当に馬がお好きなのだなと考えていた。 「……僕はもう少し見識を広めるべきであると考えていた。今までは目が不自由であったので難しかったが、このたび再び光を得たので、自らの足でどこへでも出向くことが出来る。フォールが暮らすという村へも、いずれ、行ってみたいと考える」 「いいんじゃない。一人で歩いてても治安はいいから問題はない。道に迷っても誰かに聞けばいい」 「さようか」 「恐れながら。ラヴィソン様におかれましては、何卒、お一人で出歩かれることはどうかお控えいただきたく、伏してお願いを申し上げる次第でございます」  フォールはさすがに口を挟んだ。あらゆることに不慣れな主が、一人でそこら辺りを歩いてまわるなど、考えただけで気持ちが落ち着かず、仕事が手につかない。そんなフォールに、テナシテは呆れたような視線をやって、アンの出してくれた美味しいお茶を一口飲んだ。心配性のアンは、もちろんこころの中でフォールの意見に賛成している。 「危ないのだろうか」 「は。危険が絶対にないと、誰にも断言は出来ません。でございますから、どなた様かとご一緒でいらっしゃるのがよろしいかと存じます」 「さようか」 「お前が迎えに来て、送ってくればいいじゃん」  テナシテは、アンの作った美味しいお菓子を味わいながら、めんどくさそうにそう言った。アンはこころの中で、そうそう、それがいいわ!とテナシテを応援した。  最初に現れたときには多少警戒していたけれど、今となっては側仕えたちはフォールを信頼しているし好ましく思っている。何より、ラヴィソンにいい影響があり、ぶっちゃけラヴィソンがフォールが大好きなのは明らかなので、出来るだけ傍にいて欲しいのだ。どうにかこの屋敷に腰を落ち着けてくれないものだろうかとも考えている。だから、フォールの出入りが増えるのは大歓迎なのだった。しかしそんなことを知らない当人たちは、テナシテの気軽な提案も、そう簡単には受け取れない。 「もちろん、ラヴィソン様のお望みとあらば、仕事などよりもお供を優先する」 「僕の前で仕事サボる宣言するな」 「僕はフォールの仕事の邪魔をすることは本意ではなく、陰から密かに、ほんの少し見られればそれでよいと考える」 「ラヴィソン様のなさることは、そのように密やかである必要はないと存じます」  めんどくさ。  テナシテはそう呟きながら、美味しいお茶のおかわりをアンにお願いする。あまり表情を変えないラヴィソンではあるけれど、大昔に会ったあの頃よりもずっと、自分の気持ちに素直になったようだ。まあ、あの頃は生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだから、こんなのん気な話も出来なかったのだけれど、なんと言うか、このでくの坊への信頼の種類がちょっと変わった気がする。一緒にいることが楽しいし嬉しいのだろう。でくの坊は相変わらず、使命感に燃えているだけのようだから、ちっとも噛み合わないけれど。 「我々は、フォール殿がこの屋敷に頻繁に来てくださることを歓迎いたしますよ。昨日の今日で、また来てくださって、坊ちゃまもお喜びです。夜の食事はご一緒になさいますか?」 「え?あ、いえ、そのようなつもりではなく、先ほど新しい職場でいくつか話があり、それをお伺いいたしたく参った次第で」 「聞こう」  ゼンが夕飯に誘っているのに、フォールは恐縮して辞退した。テナシテは、こんなに美味しいお茶とお菓子が出るんだから、ご飯も絶対美味しいのに食べないんだーと不思議に思った。  フォールは、不愉快なことを申し上げますが、と前置きをして、自分が働くのは第一隊の厩舎で、第一隊とは以前ラヴィソンに狼藉を働いた連中であり、もしかしたらまだその当事の人間がいるかもしれないこと、昨日話したとおり、自分の寝泊まりする場所はここから馬で通える程度の距離にある宿舎であること、仕事の休みは五、六日に一度の頻度らしいことなどを話した。 「お前馬鹿?第一隊の隊長は僕だ。あの頃の事情は僕も承知しているが、当事者を探し出してどうこうするなんて真似、絶対させないから」 「しかし、あの時彼らはラヴィソン様に怪我をさせた」 「それは護衛についていた大男がぼんくらの役立たずだったせいだ」 「俺の失態はもちろん認める。しかしそれでも」 「もう、よい。彼らには彼らの事情があったのだろう。テナシテが収めると言うのであれば、そのように。今さら事を荒立てることは望まぬ」 「は。過ぎたことを申しまして、何卒お許しください」 「よい。……それよりも、フォールの休みは、僕の考えていたよりも多いようである」 「は。さようでございましょうか」 「おぼっちゃまは、どれくらい休みがもらえると思ってたの?」 「一つの季節に、二度か三度、……そのうちの一度くらいはこちらを訪ねてくれるだろうかと。であればよいと、考えていた」 「少なっ!そんなんじゃ、うちの軍医にぶっ飛ばされるよ」 「あ、そうだ。ラヴィソン様、本日、私はあの時ラヴィソン様の診療に当たってくれた医者に会いました」 「さようか。あの者にも世話になった。息災であったか」 「は。そのように見受けました」 「ああ、あいつならずーっと元気だよ。会いたかったら会いに来れば」 「その者も、フォールとテナシテの仕事場におるのか」 「たまに来るけど。あいつ、僕の妻だから、うちにいる」 「…………」 「…………」 「…………知らぬこととはいえ、不義理を致した。なにか、祝いを」 「いいよ、そんなの。結婚したのだってもう随分前だし。うちに来ればいるからってだけ。別に来いとは言わない」 「さようか」  ラヴィソンは記憶にある、色の白い眼鏡をかけた若い医者を思い出す。そして目の前のテナシテをじっと見つめる。この国の政治の話や法のことを長らく聞いてきて、同姓の婚姻が特別ではないことも知っているけれど、それよりも、平民はなんと気軽に伴侶を選ぶのかと驚いた。そして、なんと簡単な紹介だろうかと。家や血筋に囚われないからだろうか。どういう身分のどういう出自の人間かを、声高に聞かせて権威の一部とする必要がないからだろうか。ラヴィソンは、身近な者の婚姻を不思議に思い、やはり何か祝いの品を用意しようと考えた。 「僕はそろそろ失礼するよ。急に訪ねてごめん。でも会えて嬉しかったよ」 「僕もである。本日の来訪は、とても嬉しいことであった。また、ぜひ、来ておくれ」 「そうだね。見学の件、馬の人と話して、家の人とも話して。決まったら知らせて」 「とても楽しみなことで、感謝している」 「じゃあ、またね」  テナシテはフォールに向かって、明日から死ぬ気で働くようにと言い置いて帰って行った。それを聞いたラヴィソンは、フォールが文字通り馬車馬のごとき労働を強いられるのではないかと驚愕し、心配し、早々に見学に行かねばならぬとこころに決めていた。 「しつこいようで恐縮でございますが、どなたか、お側仕えの方と、お出かけになられるのがよろしいかと存じます。私でよろしければ、もちろんお供させていただきたく」   「うむ。フォールがそれほど申すのであれば、それが最善なのであろう。自分の不慣れは承知している。わからぬことをする場合はやはり、周囲の意見に従うべきであると考える」   「ご高配に、痛み入ります」   「かまわぬ」      ラヴィソンは興奮していた。  まず、フォールは昨日帰ってしまって、次はいつあえるのだろうかと少し気落ちしていたのに、すぐにまた顔を見ることができた。ラヴィソンが考えていたよりもずっとたくさん、これからも来てくれると言う。毎日が楽しくなりそうだ。  そして、屋敷の中しか、もっと言えば自分の部屋と庭しかほとんど知らないで過ごしてきたけれど、外出のめどが立った。以前から、村へ買い物に行くダンに同行したいと話してはいたけれど、なかなかよい顔をされなかったのだ。なのに、フォールの労働しているところを見に行ってもいいと言う。テナシテはこの辺りの治安を守っているので、彼の言葉が大きく後押しをしてくれたのだろう。フォールの仕事が落ち着いたら、たくさんの人間が働いている様子が見られる。そして、フォールの住む村へも、行けそうだ。  嬉しさのあまり、少しソワソワしてしまう。     「世界が、急に開けていくような感覚である」      ラヴィソンはその美しい目を黒く輝かせて、たおやかな手で自分の頬を撫でた。フォールがここに来ない日も、自分が見に行くことが出来る。なんということだろう。  ますます美しく伸びやかに成長していく主を、フォールは眩しいような気持ちで見つめた。     「ぼっちゃん、お出かけするんですって?」      庭仕事を終えたらしいダンが、ラヴィソンの部屋に入ってくる。フォールがいるのを嬉しそうに見て、さっきアンさんに聞きましたよと笑う。     「さようである。僕は、そろそろもう少し、周囲の状況や平民の暮らしを知るべきであると考える」   「以前から、買い物へ行きたいとおっしゃってましたもんね。でもよく、アンさんやゼンさんが納得されましたね」   「テナシテという、古い知り合いが本日訪ねてきてくれて、その者が治安はいいからよいのではないかと」   「ああ、隊長が言うなら間違いないですね」   「やはり、さようか。テナシテは大変信用されている人物のようである」   「そりゃ、あの若さでこの辺任されていらっしゃるんですから。じゃあ、買い物がお望みですか?他にどこか行きたい場所は」   「うむ」      ラヴィソンは軽く咳払いをして、きちんと座りなおし、ダンを見上げた。そして、フォールの職場の見学を予定していると述べた。     「へえ。たまにね、開放日はあるんです」   「さようか」   「ええ。彼らが普段どういう訓練をしているのか、みんなに見せて、士気を高めたり、理解を得たりするんです。でも、いつでも来ていいというのは特別ですね」   「僕は、フォールの仕事ぶりが見たいと申したのだ。であるから、あまり目立たず、遠くから、フォールが職務にまい進しているのを見守る所存である」   「なるほど。でも多分、近寄りたくなりますから、そのおつもりで参りましょうね」   「さようか。先ほどもフォールには伝えたのだが、僕は不慣れであるので、ダンの意見に従う」   「フォールはいつから仕事が始まるんだ?」   「明日からなんだ。今日は同僚に挨拶をして、健診を受けて、新しい部屋を案内してもらった」   「ああ、それで、今日はもう予定なし?」   「ああ」   「じゃあ、坊ちゃん、今日もフォールと一緒に食事が出来ますね」   「……フォールはそのつもりはないようである」   「まっさかー!そんなわけないですよ、遠慮してるだけですから、もちろん一緒にお夕飯ですよ。たくさん食べましょうね!」      ダンの笑顔が怖かったので、フォールは慌てて、ラヴィソン様のお許しがあれば、不相応ではございますが、と申し出る。ラヴィソンは、本日はとてもいいことがたくさんありすぎて、眠れそうにないことであると笑った。     「フォールの職場へは、フォールの仕事が落ち着いてから参る」   「はい」   「それで、練習がてら、テナシテの祝いの品を求めに村へ行ってもよいだろうか」   「うーん、そうですね。アンさんたちと、相談してみますね」   「うむ。よろしく頼む」    フォールと一緒に食事をすると、会話はそれほどないのに、楽しい気分になる。フォールは恐縮しきりで、ラヴィソンと同じものを同じ場所で一緒に食べることに全く慣れず、自分の気持ちに折り合いをつけることに四苦八苦している。  ラヴィソンもそれに気づいたようで、美しい顔で涼やかに言った。 「僕はすでに平民である。そして、僕自らが、フォールとともに食事することを望む。どうか、それを受け入れて欲しいと思う」  フォールは、ラヴィソンの望みを全て叶えたいと考えているので、承知いたしましたと頷き、少し照れながら微笑んだ。ラヴィソンは、今宵の夕餉は、殊更に美味しいことであると笑い、側仕えたちもしあわせな気分になった。

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