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第44話

「では本日は、この国の言葉に致しましょうか」   「うむ。では、そのように」      穏やかな天気の昼下がり。  ラヴィソンの住まう、王宮の敷地内の端にある小さな宮殿に、プランスが男女二人を連れて遊びに来ていた。彼らは元々プランスの友人で、王族に連なる者と、その家紋だけで物事が動くような貴族であると聞いている。しかし現国王の嫡男であり第一位の王位継承権を持つプランスがとても気さくである事もあって、みなラヴィソンに優しく、教養豊かで、歳もバラバラなので、会えばとても楽しいひと時を過ごすことが出来るし、プランスもラヴィソンも、その出自や立場をこのような席で引き合いに出すような無作法さはない。とても親しい友人の一人。どの人も皆、そう接している。  ラヴィソンは久々の提案に、紙とペンを手元に寄せた。     「ラヴィソンは、もうとっても上手に話せるけど、時々使わないと忘れるからね」   「うん、そうだよね。そうする」      プランスに習ったこの国の言語は、ほとんど不自由がないほどに身についていた。読み書きも出来る。しかしプランスが今言ったとおり、使わなければ忘れてしまう。だから、時々誰かが今日はこの国の言葉にしようと言ってくれて、みんながゆっくりとわかりやすくこの国の言葉で話してくれるのだ。気づいたことがあればすぐに書きとめられるように、ラヴィソンはその用意をする。     「フォールが、お仕事始めたんだよね?」      プランスがまず、口火を切る。ここに来る友人らは、ラヴィソンの目が使えない時分から通ってくれている。だから、ここのところのラヴィソン自身やその生活の急激な変化を、ハラハラと見守っているのだ。プランスは面白がっているけれど。  ラヴィソンはこくりと頷いて、発音に気をつけながら話し出す。     「うん。フォールは、馬のお世話のお仕事で、第一隊の、えっと……場所にいる」   「駐屯所ね」   「駐屯所、ありがとう」   「馬がいる場所は、厩舎。第一隊の、駐屯所にある、厩舎」   「ありがとう」      新しい言葉を、ラヴィソンはきちんと紙にしたためる。今日一日で、きっとたくさんの新しい言葉が書きとめられるだろう。     「馬のお世話の仕事なんだ?」   「うん」   「忙しそう?」   「お仕事の話は、あまりしないから、わからない」   「馬のお世話、とっても大変なのよ。立派ですわね。私も馬が好きだけど、お世話はやっぱり大変」   「僕も、馬が好き。僕も、フォールは立派だと思う」   「お休みの日は会いに来てくださるんでしょう?」   「うん。お仕事の予定を書いた紙をくれて、お休みがわかるの。僕やうちの家の人は、それを見て色々決めるの」   「そっかー。次はいつ来るの?」   「明日だよ」   「私たちも、ぜひお会いしたいわ」      ラヴィソンはそう言われて、しばし考えた。こうして集まってくれる友人たちをありがたく思う。だからこそ、みんなとの時間を大切にしたい。でもフォールはきっと、この席には馴染まないだろう。     「僕は、フォールが来たらフォールと一緒にいるから、みんなとお話が出来ないの。だから、別々の日にしてもらってるんだよ」   「……なるほど」   「うん。でも、みんなにフォールを知ってほしいの。難しいね」   「そうね。いつか、ご挨拶をさせてくださるかしら?」   「うん、待っててね」      ラヴィソンは、美しい友人に微笑む。それから、村へ行ったことがあるかと聞いてみた。  ラヴィソンは早くフォールの職場の見学に行きたいし、フォールの住む村を見てみたい。でもまだ言い出せずにいる。テナシテの祝いの品は、結局ゼンが手配してくれてテナシテの邸宅まで届けてくれた。村での初めてのお買い物は、フォール殿と一緒になさっては如何ですかと言われたので、とりあえず急ぐ贈答は彼に任せたのだった。だからラヴィソンはまだ、屋敷の外をほとんど知らない。何もかもが楽しみなのだ。     「村?どこの?」 「第一隊の人が住む村があるんだって」   「私は行ったことないわね。馬車で通りかかったことはあるけれど」   「そう」   「僕もない。家の人に、王宮の外に出るの止められてるし」   「私はありますよ。賑やかで、いいところですよ」   「遠い?」   「歩いて行かれるのはお止めになった方がよろしいでしょうね。馬車が妥当かと思いますよ」      唯一村を訪れたことがあると言う友人の方へ、ラヴィソンは顔を向けた。彼もとても優しい笑顔でラヴィソンを見ている。   「ラヴィソンは、馬に乗れますか?」   「前は乗れたけど、今はわからない」   「そうですか」   「そして、ここには馬がいないから、うーん、借りる?」   「そうですね。馬車でもいいと思いますが」   「馬が、好き。馬に乗って、たくさんは無理だけど、お出かけするのがいいな」   「そうですか。頼んでみましょうか?」      とても丁寧な言葉を話すこのカルムという男は、王宮で働いている。何をしているのか、具体的には知らないけれど、下働きや雑用係ではないだろうとラヴィソンは思っている。歳は十ほど上らしい。頼んでみる、というのはきっと、彼が言えば馬がここに届くのだろう。それはなんだか、先走っているような気がした。     「家の人と、相談してみる。ありがとう」   「どういたしまして。お手伝いできることがあれば、おっしゃってくださいね」   「うん。あ、はい」      にっこりと微笑まれて、ラヴィソンも安堵の笑みを浮かべて頷く。馬という生き物を、そう簡単に云々することはおかしいし、金がかかるのであれば友人に頼ることはもっとおかしい。ラヴィソンは手元の紙に「うまのこと」と書きとめ、後でゼンとフォールに相談しようと思いながら文字を丸で囲んだ。     「カルムは、もう仲直りなさったの?」      細く白い指で茶器を持ち上げつつ、カルムの隣に座る可憐な女性が小首を傾げる。彼女はパランという名で、プランスの親戚筋と聞いているから王族なのだろう。朗らかな性格なのは、この家系ならではなのだろうか。彼女の言葉に、カルムは肩をすくめて見せただけだった。ラヴィソンは、彼が誰かと仲たがいをしているのかと心配になった。     「カルムは、けんか中なの?」   「そうですねー、うーん……ラヴィソン、けんかというのは、お互いが同じくらい怒ったり不機嫌になるものですが」   「うん」   「私の場合は、私が怒っていて、相手は怒っていませんから、けんかではありません」   「うん」   「でも、仲が壊れそうですから、仲直りをすべき状況です」   「……できる?」   「ええもちろん。私が許しませんから」      先ほどよりも深い笑みに、ラヴィソンはわけがわからず混乱した。これは恐らく、言葉の問題だろう。自分の語学力ではこの話題はまだ難しいのかもしれない。ラヴィソンは同席者らに断ってから、共通語のほうで話を続けた。     「カルムが怒っておるのではないのか」   「そうですよ」   「相手を、許さぬほどに」   「そうですね」   「それが、仲直りに繋がるのか」   「そうなんです」  だめだ。言語の問題ではなかった。ラヴィソンは首をひねって、アンの出してくれたお菓子を口に入れた。軽い甘さは、気分をよくさせる。  不思議そうな表情のラヴィソンを見て、パランがかわいい声を立てて笑う。わかりませんわよねぇ、と。     「うむ。理解が及ばぬことである」   「ラヴィソン、カルムはね、その村に好きな人がいらっしゃるの」   「さようか」   「ええ。それでね、その人のことを怒っているのよ、好きだから」   「説明を聞いても、わからぬことであるが」   「うふふ。じゃあ、教えてもらいましょうね」      パランは手のひらで口元を隠してさらに笑い、さあ、ラヴィソンにお話して差し上げてとカルムに水を向ける。聞いてもつまらないことですよと、カルムは少し困ったような顔をした。  プランスはパランと同じく事情を承知しているらしい。まだ怒ってるの?とびっくりした顔をしている。 「王宮で働く者がよく行く飲食店街があるんです。そこに新しくできたお店へ、一人で行ってみたんですが、そのとき出された食器がすごく綺麗でね。お店の人に尋ねたら、気に入ったならその食器を作っている工房を紹介してあげるよって言ってくれて」  おもむろに話し始めたカルムは平民ではない。しかし、ラヴィソンの想像を超えるような自由な生活をしているようだ。話の冒頭から、まるで読んだことのない物語のようで、ラヴィソンはいっぺんに引き込まれた。知らずにキュッと手を握り、カルムの話に聞き入っている。 「でもそれは食事時で、すごく混んでる時間でしたから、後でもう一回来てくれと言われまして。指定された通り、夜営業の前の閉めている頃合いに出直しました。裏口から訪ねましたら、そこに先ほどお話に出た、私が怒っている相手がおりまして」  ラヴィソンはコクコクと頷き、そこまでは承知した、と伝える。  外へ食事に出るのか。以前旅先で、宿泊した宿で食事をしたことがある。どこも同じような感じだったけれど、もしかしたら落ちついたところや広い店もあるのかもしれない。  プランスもパランも、そういった場所に行ったことがないので、三人はカルムの話がたいそう興味深かった。 「彼は、その食堂に野菜や果物を納めてたんですね。その時は特に何もなく、店のご主人に工房の連絡先と場所を教えていただいてすぐに帰りました」 「さようか」 「後日訪ねた食器工房が、ラヴィソンが話している第一隊の村の中でした」 「ふむ。その工房は、第一隊の関係者の営むものであるのか」 「いえ、あの村は、全員が第一隊の関係者というわけではありません。あそこで生まれ育って、軍に関わらずに生活している者も多いのです」 「さようか」  王宮に住まうのは王族だけだ。身分によって住む場所は決まり、その位を持たぬ者は去るべきだ。そういうラヴィソンの常識は、平民の生活圏においては通用しないらしい。本当にこういうことは、教えてもらい、できれば経験しないとわからないことだ。  カルムは三人を見回して、ニコリと笑って話を続けた。 「工房の方はみんなとっても親切で、私が自宅で使う程度の量でも売ってくれましたし、たくさんの製品を見せてくれました。楽しくて楽しくて、仕事の合間によくそこへお邪魔していたら、何度かに一度は彼に会うんです」 「その者も、第一隊の村に住んでいたのか」 「ええ。住んでいましたし、聞けば、彼の畑が工房の近くだったんです。それで、偶然の遭遇が数回重なって、顔見知りになり、食事でもと誘われました」  三人は思い思いに感心の声を漏らした。これが世に言う”出会い”というものであろうか、と。なんだか奇跡のようだ。出会い、惹かれ、手を差し出す。カルムのことなのに、なんだか胸がドキドキする。パランは豊かな胸元に手を押し付けて、素敵だわ、と呟いた。 「でもさ、その人、悪い人じゃないよね?なんかこう、悪いこと考えてるような」  プランスの言葉にラヴィソンも頷く。人との出会いや縁は大切だと思うけれど、そんな簡単に誘いに応じて危険はないのだろうかと心配が先に立つ。カルムは大丈夫ですよと笑った。 「いい人でしたよ。気さくで真面目。親から譲り受けた畑を大事にして、育てる野菜や果物に愛情を注いで、晴れた空が似合うような。でもまあ、正直そんなに好みでもなくて興味もなくて」 「まあ!そうなの、カラム。お相手がお気の毒だわ……」  パランはハンカチを握って、しょんぼりとした顔をした。乙女には、とても悲しいことだったようだ。ラヴィソンとプランスは、パランの気持ちがよく分からず、顔を見合わせただけだった。 「向こうはね、私の事を気にしてくれているような素振りでした。いつも向こうから誘ってくれて、別れ際には次の約束を欲しがりますし。だけど、強引なことの出来ない人なので、気持ちを言葉にして聞かされることはありませんでしたね」 「なんて奥ゆかしい……素敵だわ、とっても。愛情深い方なのね、お気遣いのできること」  ほう、とため息をつく美しい乙女は、きっと何度か聞いた話だろうに何度でも思うところがあるらしい。その様子は可憐で可愛らしい。平和で優雅な昼下がりの、素晴らしい彩りだ。 「そうこうしていたら、ある日突然、彼が私を避け始めたんです。私としては理由がわからなくてびっくりしてしまいました。工房の近くで会っても挨拶もそこそこに逃げるように行ってしまうし、もちろん誘われもしなくなりました」  不穏な展開に、ラヴィソンは眉をひそめる。この年上の友人が傷つけられるのではあるまいか。見ず知らずの農夫……だろうか、その男によって。そんなことはとてもではないが、承服できかねる。  先を知るプランスは、のんきにお茶のお代わりをしていて、パランにもう!と小突かれている。  緊張しつつ、ラヴィソンは続きを促した。 「不思議に思いながらも、なんとなく疎遠に。そんなある日、彼と初めて出会った食堂で一人で食事をしていたら、その店の主人が私に謝ってきました。知らないとは思わなくて、ついうっかり話してしまったんだと。私はそれを聞いて、彼の態度が変わった理由を知り、そして」 「……そして?」 「烈火のごとく怒りました」 「…………なぜ」 「散々追い掛け回すように私の傍に寄ってきて、食事に何度も誘い、花だの果物だのを渡して寄越し、挙句の果てにモジモジしながら好きな人はいるの?とか蚊の鳴くような声で聞いてきておいて、逃げたのかと思えば腹も立ちますでしょう」 「逃げた。逃げたとは、何から?」 「私からです。ビビリやがったのです、あの男は」 「びびび?」 「腰が引け、怖気づいたということです」 「ふむ。なぜか」 「私の出自が、平民ではなかったからです」 「身分の差に、遠慮をしたということか」 「そのようですね。馬鹿馬鹿しいことです」 「……怒って、如何したのか。もう知らないとそっぽを向いたのか」 「いいえ」  急転直下。微笑ましく慎ましやかでささやかな交流が、一気にこの落ち着いた友人の静かなる大激怒に至る話の展開に、ラヴィソンはついて行くのに必死だった。端正な顔に柔らかい微笑を乗せて、カルムはなるほど良家の出らしい所作で茶器を持ち上げた。 「追いかけて、追い詰めました」 「……すまぬ、よくわからない」 「逃げる獲物は、追いかけて捕らえたくなるものですから」 「わかりますわ、そのお気持ち!」 「うん、それはそうだよね。逃げられると、追いかけちゃうよね」 「……さようか」  ラヴィソンは一口お茶を飲む。  友人らは満場一致で、逃げるもの追うと言う。ラヴィソンは誰かに逃げられると言う経験がないから全く分からないことではあったが、どうやら、世の中は老若男女、身分の上下なども問わずそういうもののようだ。  それからカルムは、その男を追い詰めて、今後どうするつもりだと問い詰め続けている最中だという。それはもう、毎日のように。相手は勘弁してください、そんなに怒らないでくださいと泣きながら謝っているという。 「カルムは、その男を許すつもりはないのか」 「もちろんありますよ。ある一言を、待っているのです」 「さようか。それはどんな言葉であるのか」 「それは内緒です、ラヴィソン」  お相手の方も、早く覚悟をお決めになればよろしいのにね!  パランの可愛らしい笑い声が庭に響く。プランスも、諦めが悪いよね、と頷いている。ラヴィソンはと言えば、結局完璧に理解したとは言えない話だったけれど、年上の友人が早く仲直りをして穏やかな日々を取り戻せばいいと思った。  ◆ 「馬でございますか」 「さようである」  翌日、予定通りラヴィソンの屋敷に訪れたフォールは、まず最初に馬のことを相談された。  ラヴィソンは最近までずっと光のない生活をしていて、だから彼のお世話には人手が必要だった。しかし、国から宛てがわれたのはたったの三人で、彼の快適な生活を支えるには、馬の面倒までは到底手が回らない。もちろんいれば便利だったけれど難しいので、側仕えたちがどこかへ出かける際には徒歩か、馬車を呼んで利用していた。  今のラヴィソンは誰も見ていなくても家具にぶつかったり転んだりする危険も減り、一人で本を読んで過ごすことも増えた。つまり、馬を養う手が空いた。そんな中、本人が馬を所望すれば、もちろん用意してやりたくなるのが側仕えたちの総意だった。 「昨日友人らが来てくれて、どこかへ出かけるのに馬がいればいいという話であった。僕も馬が好きであり、自分で面倒を見る覚悟もあるので、馬が欲しいと考えている」 「は」 「フォールはいかが思うか」  ラヴィソンの前に跪き、フォールは美しい主人の成長ぶりというか、変化に感心しきりだった。この白い手が、馬の面倒を見るなど思いもよらないことだ。それでも、どんなことでも、自分で何かをしたいと言い出すことがとても嬉しい。きっとそれは思いつきなどではなく、自分の中で熟考した結果だろうから。  フォールは頷き、微笑んだ。 「とても良いお考えであると存じます」 「さようか」 「お側仕えの皆様方は、どのようなご意見でいらっしゃるのでしょうか」 「みな、賛成してくれた。本日フォールも賛成してくれれば、王宮の方へ打診するとのことである」  ラヴィソンは安堵を覚えた。ああ、よかった。馬の管理など出来はしまいと、苦言を呈されるだろうかと心配していたのだ。もちろん、フォールがそう言うのであれば、そうすべきだろうと思っていたけれど、賛成してもらえた。 「フォールは、馬は持たぬのか」 「考えてはおりますが、まだ至りません。いずれ、と」 「さようか。馬の所有を許されれば、王宮から一頭やってくるのか、自分で選ぶものなのか、分からぬが、様々教えてくれればと思う」 「は。私でできることでしたら何なりと」 「もう、長く乗馬の機会がないので、練習が必要であると考える。フォールに習いたいが、可能であろうか。僕には、フォール以上の適任がいるとは思えぬ」 「もったいないお言葉でございます。誠心誠意、力一杯務めさせていただく所存でございます」 「頼もしいことである」  そこへゼンが二人を昼食の用意ができたと呼びに来た。まだ一緒に食事をすることには慣れず、恐縮するフォールだけれど、ゼンに頷き椅子から立ち上がる美しい青年が、本日の昼餉はフワフワのたまごを焼いてくれたはずである、と少し頬を上気させて教えてくれたりするものだから、フォールも笑顔で、それは私の好物で、嬉しいことでございますと頷き返すのだった。  やがて、王宮からラヴィソンが馬を持つことの許可が降りた。ジョワイが書面で、王宮にいる馬の中から好きなのを選べばいい、目が治ったお祝いに贈りましょうと伝えて来たので、フォールが来てくれる日に王宮の厩舎へ出向いていった。厩舎は、ラヴィソンの住む屋敷と同じく王宮の敷地内であり、政治の中枢から離れていたので、誰かに気兼ねする必要がなく、ラヴィソンにはありがたいことだった。 「寒くはございませんか、坊ちゃま」 「うむ」  ラヴィソンの馬と、家の者がみんなで乗る馬、この度は二頭を融通するということで、ゼンとフォールがラヴィソンに随行している。歩けば程よい運動程度の距離で、ここのところ珍しく少し冷たい風が吹くから、出がけに見送りがてら、ダンが内側に綿の入った軽くて暖かい外套を着せてくれた。暑くなれば脱げばいいですよと言いながら。おかげで風が吹いてもとても快適で、頬が少し冷たい程度だ。 「馬は、どのくらいおるのだろうか」 「宰相殿のお話では、たくさんいるようでございます」 「さようか。うまく、選べるだろうか」 「きっと、いい馬に出会えましょう。フォール殿も一緒に見てくださいますし」 「うむ」  フォールは黙って頭を下げて、恐縮した。  ラヴィソンは、家からこんなにも遠く離れたのはフォールとの旅以来で、信用する二人のお供があるので何の心配もなく、靴底から伝わる地面の凹凸や、風に揺れる木々のささやきや、高い空に流れていく雲を満喫しながら歩いていた。ドキドキと胸が高鳴る。今日こうして、自分の足で出かけている。そして馬を得れば、もっと遠くへ行くことができるようになる。そんな未来への第一歩を踏み出しているような気分だ。高揚し、時々駆けだしたくなりそうにさえなる。  あまり表情を変えない青年の横顔を、こんな日々を過ごす様子を、従い歩く二人は何とも言えないありがたいような気持ちで眺めていた。 「あ!あれは、あそこに見えるの馬ではないか?」 「そのように見えますね」 「放し飼いなのだろうか」 「好きにさせているのではないでしょうか」  林の中を抜けるような道を行き、木立が途切れたかと思うと、目の前に広々とした牧場が現れた。道は牧場に沿って緩やかに弧を描いていて、終わりが見えない程だ。ラヴィソンはまだ馬とも牛とも山羊とも判別できない程遠くにいる動物を見つけて、細く綺麗な指で二人に指し示し、牧場の敷地を分ける木の柵に両手を掛けると、目いっぱい身体を伸ばして見定めようとした。 「わからぬ……」  両手で筒を作って遠眼鏡のように自分の目元に当てがったりしても、よくわからない。ゼンはニコニコしながら、この先に入り口がございますよ、牧場に入れば、もっと近づくことができるでしょうと先を促した。 「では、参る」 「はい」  ゼンはさりげなく、ラヴィソンの捲れてしまった外套を整えながら、馬と牛と、鶏もいるのではありませんかねぇと話す。ラヴィソンは、とても大所帯であることだと感心しきりに頷き、先ほどまでよりも心持ち早い足取りで、どんどんと道を進んでいく。  作業場所なのか宿舎なのか厩舎なのか、とにかく大きな建物が見えて来た。その頃にはまばらだった動物の数は増えていて、柵越しのすぐそばにもいるのでラヴィソンは時々立ち止まって、彼らをじっと見つめては口元に手をやりながら微笑んだりしていた。知らない動物もいて、眺めているだけでとても楽しいし、動物たちも見かけない一行に興味を示すかのように寄って来たりする。 「彼らに悪気はなくとも、お怪我をなさったりすることもございますので」  フォールはどうかもう一歩、柵から距離をとってくださいますようにと頭を下げる。ラヴィソンは承知した、と応え、手を伸ばしたい衝動を我慢し、少し離れて動物を観察しつつ、ようやく牧場の入り口にたどり着いた。  辿ってきた道はそのまま牧場の周囲を巡るように続いている。ラヴィソンたちは、入り口を示す開閉式の柵を前に立ち止まる。建物の方へ伸びる分かれ道の向こうから、手を振りながら、男が一人こちらへ駆けて来た。 「ゼンさん!」 「これはどうも、ご無沙汰をしております」 「相変わらず、お元気そうで何よりです!話は聞いてます。君が、あの宮殿に住んでるラヴィソン君かな?」 「こんにちは。そう、僕がラヴィソンだよ」 「こんにちは、初めまして」  いろんな人から勧められて、ラヴィソンは牧場で働く者たちにはこの国の言語で話しかけることにした。それが奏功したかどうかはわからないけれど、日に焼けた顔は、とても愛想よく笑った。 「この国の言葉が話せるんだね。上手だね」 「ありがとう。お友達に習ったの」 「そう。プランス殿下かな?話し方が似ているね」 「うん。知ってる?」 「知っているよ。殿下の馬もここにいるし、ご本人もたまにいらっしゃるからね」 「そっかぁ」  男の案内を受けて一緒に建物の方へ歩き出しながらも、フォールは久々に聞いたあどけないようなラヴィソンの話し方に動揺した。気を紛らわそうと、隣を歩くゼンに、お知り合いですかと問いかける。ゼンはニコニコとしながら頷いた。 「そうなんです。以前、私も軍の仕事をしていたことがありましてね。ブロンは、ああ、彼の名前ですが、その頃軍人でございました」 「そうなんですか」 「ええ。割りと多いのですよ、こういった王宮周辺の仕事は退役軍人が」  ラヴィソンは自分できちんとブロンの名を教えてもらい、今日の自分の心づもりを話して聞かせている。ブロンはがっちりした身体を少し不自然に左右に揺らしながら歩いていて、それを後方から見ながら、ああ、脚が悪いのだなとフォールは思った。 「今日はね、僕の馬と、おうちの馬を探しに来たの。一人ではわからないから、フォールとゼンが一緒にきてくれたんだよ。みんなで選ぶの」 「うん、聞いてるよ。どんな馬がいいのか決めた?」 「どんなって?」 「毛色とか、オスかメスか、種類もあるしね。今までに、馬を持ったことはあるかい?」 「あるよ。とってもいい馬だった。名前はエギュっていってね、今は違うところで暮らしているけれど、この間会ったら、やっぱりとってもいい子だったよ」 「そうか」 「フォールの前の馬はね、サージュっていうの。サージュもとっても賢くていい子だよ。エギュとサージュは仲良しで、今も一緒にいます」 「じゃあ、エギュやサージュのような馬がいいのかな」 「うーん……違ってもいい。僕は、代わりを探しているんじゃないの」  元軍人は声を上げて笑い、ラヴィソン君は立派だねと言った。  ラヴィソンたちはまず厩舎へ案内された。牧場内に建物はいくつもあって、たくさんの動物の鳴き声が聞こえてくる。馬が一頭、柵から首を伸ばしてブロンに甘える。ブロンはその鼻面を撫でてやって、ラヴィソン君だよと紹介してくれた。 「ブロンは、全部の馬を覚えているの?」 「馬は覚えてるね。牛も覚えてるかな。鶏と豚は無理」 「すごいね」 「お仕事だからね」  話している間に厩舎に着き、高い天井と広々とした間仕切りの中で、思いの外快適そうに過ごす馬たちがいた。空いているところが目立つのは、今は半分が牧場で遊んでいるからだという。 「全部の馬の世話を一度にはできないからね」 「たくさんだから?」 「そう。爪を掃除してあげたり、たてがみを梳いてあげたり、順番にね」 「うん」 「馬を飼ったら、そういうお世話はおうちの人がするんだよね?そういう係の人がいるの?」 「おうちの人に手伝ってもらうけど、僕がするつもりだよ。できるかな?」 「そう。お世話はとても大変だよ。でも、ラヴィソン君の頑張り次第できっと苦じゃなくなるよ」 「うん。がんばる」  そしてブロンは、この建物の中の馬と、今牧場に放している馬ならどれを選んでもかまわないと言う。ラヴィソンはびっくりした。入り口の方を振り返れば、広い牧場の見える範囲だけでも数え切れないほどの馬がいて、この厩舎の馬房もたくさんある。全部を見て回るなど不可能で、どう選べばいいのかわからない。ラヴィソンは斜め後ろを見上げた。 「僕はどのように選べば良いだろうか」 「は。恐れながら、やはり気性の優しい、従順で賢い馬がよろしいかと存じます」 「馬は皆、優しく賢く従順という認識である」 「時折、主人の言うことを聞かぬ奔放な馬や、知らぬ者であっても食べ物をくれれば警戒心をなくす馬もおります」 「さようか」 「ブロン殿が先ほどおっしゃったどんな馬がいいかというお話でございますが、ラヴィソン様のご希望を伺えばある程度絞り込んでくださるのではないかと存じます」 「なるほど。では」  ラヴィソンはブロンに、気性の優しい、賢い馬がいいと伝えた。二人のやりとりを黙って聞いていたブロンはその言葉に頷き、フォールの意図をなんとなく悟る。この大柄な男は、どういう関係かは知らないけれど、可愛らしい青年のことが心配でならないのだろう。馬好きの退役軍人は、この男のような馬であれば良いのではないだろうかと思った。 「じゃあ、ラヴィソン君、俺が何頭か選んでこようか。その中で気に入ったのがいればいいし、ダメならもう一度別の何頭かを選んでくるよ」 「お世話をかけるね」 「かまわないよ。大事なことだからいくらでも協力するし、時間を惜しんではいけない」 「はい」  じゃあ少し待っててねと言い置いて、ブロンはまず厩舎の中から馬を選び始めた。ラヴィソンたちは一度厩舎の外に出て、木でできた長椅子に座って、ブロンが十頭近い馬を引いてくるのをそこで待っていた。 「どれも優しくて賢い馬だよ。だけど、誰か一人を主人とした事はないから、従順かどうかは俺にもわからない」  ラヴィソンは一頭一頭の目を見つめ、触ってもいい?と声に出して聞いてから、そっと手を伸ばして撫でてみる。反応は本当に様々だった。ラヴィソンの手を噛もうとして、ゼンとフォールが慌てたこともあった。ラヴィソンは、この馬は自分と相性が悪いのだなと思っただけだったけれど、フォールは結構長い間その馬に懇々と何事かを説いて聞かせていた。  ブロンに十頭ほどを選んでもらってその中からラヴィソンが数頭を選ぶ。それを三度繰り返し、厩舎の中の馬からラヴィソンは直感で四頭を選んだ。それから、ブロンは柵を開けてラヴィソンたちを牧場の中へ案内し、歩いて回りながらこの馬はどう?と紹介していく。ラヴィソンは真剣に、一生懸命選び、広い牧場の中で時々休憩しながら、結局合計七頭の馬を選んだ。じゃあ、この中で最終的に選ぼうねと、ブロンはラヴィソンをその七頭に順番に乗せてくれた。久々の乗馬にとても緊張したけれど、高い位置に視線が上がることも、ゆらゆらと馬の動きを身体で感じられることも、ラヴィソンにとって懐かしい喜びだった。  そうして三頭にしぼった。さて、これ以上、何を基準に選べばいいのだろうか。ラヴィソンは居並ぶ馬たちをゆっくり眺め、腕を組んで黙り込む。その時、別の飼育員が何頭か馬を引いて通りかかり、そのうちの一頭がラヴィソンのそばにふらふらと寄り、頭を下げてラヴィソンの背中に鼻面を押し当てるように甘えた。ラヴィソンはびっくりして、前につんのめり、慌てて振り返って突然の歓迎をして寄越した馬を見た。その馬を引いている飼育員は笑いながら、すみませんねぇと声をかける。 「……この馬は?」 「ああ、そいつも優しくて賢いよ。でも」  ラヴィソンは体勢を立て直して、いたずらをした馬に手を伸ばした。馬は大人しく撫でられ、目を細めてゆらゆらとしっぽを振る。そのしっぽも体毛も鬣も、全部が白っぽい馬だ。ラヴィソンは、通じ合っているような気分がしてとても嬉しく、運命のような出会いだと思った。 「この馬に致す」  ラヴィソンが微笑んで、その馬を見つめた。大きな目を瞬き、馬はラヴィソンの気持ちに応えているかのようにも見える。しかしすかさず、フォールがラヴィソンのすぐそばに跪いて頭を下げた。 「恐れながら」 「何か」 「その馬をお選びになることを、お考え直しくださいますようお願い申し上げたく、何卒」 「何故か」 「……新しく、相棒との縁を結ぶ晴れの日に、水を差すことをお許しくださいますでしょうか」 「許す。申せ」 「その馬は、きっとラヴィソン様よりも早く、天に召されるでしょう」 「……続けよ」 「は。どの馬を選んでも、先に旅立ちます。それは避けられぬことです。それでも、一緒に過ごす時間がある程度長く充実していれば、悲しみは深くともその日を迎える時、馬に感謝と優しさを持って送り出せることと思います。しかしその馬では、ラヴィソン様のおこころの準備をするいとまもないかも知れません。……その馬は、老いております」 「……」 「いつ別れが訪れるか、誰にもわかりません。しかし、……お辛い思いを、なさるかも知れないという私の浅慮でございます。差し出がましいことを、どうぞお許しください」  ラヴィソンは日を改めると言って、その日は結論を出さなかった。命あるものをやり取りするにあたっての、自分の覚悟の小ささを反省した。ブロンは、いつでも何度でも、見に来ていいからねと言ってくれた。  それから数回、ラヴィソンは牧場を訪れ、馬たちを眺めて過ごし、いつも老馬は優しくラヴィソンを迎えてくれた。好きなものと必要なもの。相手のことと自分のこと。ラヴィソンの気持ちはようやく固まった。 「僕は最初に選んだ三頭の内の、黒い馬を選ぶこととする」 「は」 「しっぽもたてがみも黒く、顔の、鼻のところに、白い筋のある馬である」 「は」 「……いつか来るとわかっている別れでも、辛いことであろう。しかしそれまでのたくさんの季節を、僕はあの馬とともに大切に過ごす所存である。あの馬も、僕を選んでくれるだろうか」 「きっと」 「僕の元へ来て、よい日々を過ごしてくれればと願うばかりである」  そうして、晴れてラヴィソンは馬を手に入れた。家の馬はゼンが、最初の三頭の内から白毛を選んだ。ラヴィソンの屋敷が、また少し賑やかになった。  ◆  もともと早起きで、アンが朝、部屋に来る頃には目を開けて待っているラヴィソンだったけれど、馬が来てからというもの、簡単に着られる服を用意してもらい、それを自分で着ることを覚え、早朝から馬小屋へ出向いて馬の世話をすることを始めた。  怪我をしないために絶対にしてはならないことがあると、みんなに寄ってたかって何度も同じことを言われ、ラヴィソンはきちんとその言いつけを守り、お世話全部を一人ですることはまだできないけれど、ダンと一緒に水を汲んであげたり、自分でできることを精いっぱいやった。ブロンの言う通り、何も苦にはならなかった。 「パルト、トラヴァ、本日はフォールが来る日である。僕は楽しみだけれど、そなたらはいかがか」  ダンが飼葉を担いで小屋を行き来する中、ラヴィソンは二頭に向かってそう話しかける。名は、両方ラヴィソンが与えた。自分の考えた名でみんなが馬を呼び、馬がそれに反応するのを見るにつけ、胸が高鳴る。本当に可愛いことである、とラヴィソンはことあるごとに口にするようになった。 「パルトは、本日も僕を乗せてくれるか。少しは上手くなったように思うのだが、まだまだであろうか」  ラヴィソンの黒い馬は、艶やかなたてがみをふさふさと揺らしながら首を振るって見せた。言葉など通じないに決まっているのに、なんだか会話が成り立っているような気がする。ラヴィソンは二頭を思う存分撫でて、朝食のために屋敷へ戻る。側仕えたちは、少しづつ健やかに変化していく美しい青年を、見守ることが本当に楽しかった。 「少し、休憩に致しましょう」 「まだ僕は疲れておらぬ」 「そろそろパルトに水を与えた方がよろしいかと存じます」 「ああ……まだ、パルトにまで気が回らず、無理をさせるところであった」  フォールが来る日は、馬の扱いを教えてもらうことに終始するようになっていた。世話の仕方や躾け方、馬具の扱い、そして乗馬の練習。フォールは教え方がとても上手く、さらに馬と会話ができるのではないかと思うほど馬の扱いも上手く、なおかつ、ラヴィソンと長く馬に乗って旅をした経験上、彼の乗馬の癖も熟知している。そんなフォールに熱心に習ったので、ラヴィソンは馬も自分も楽に乗れるコツをすぐに身につけることができた。選んだ馬は間違いなく賢く優しく従順で、トラヴァもフォールに乗られるととても生き生きと走る。ダンも時間のある時は一緒に色々と教わっていて、そこにアンやゼンが様子を見に来てお茶の用意をしたりするので、フォールのいる日の庭先はとてものどかで時々笑い声の聞こえる場所となる。  フォールに促されてパルトから降り、飲み水を用意してやってから、ラヴィソンは自分も休憩をとることにした。恐縮するフォールと共に、いつもの場所でお茶を飲む。ほう、と息をついて空を見れば、本日も晴天だ。 「お疲れではございませんか、坊ちゃま」  アンがニコニコと、小さな焼き菓子を差し出す。ほんの少し食欲が増して、ほんの少し身体に肉がついて、最近は背が伸びたようにも見える。そんな美しい青年は、相変わらずの佇まいで頷き、問題ないと答えた。 「少しは、上達しただろうか」 「ええ、見違えるほどですよ。何より、パルちゃんが、坊ちゃまを大好きなのが傍で見ていてもよくわかります」 「さようだろうか……であれば、いいのだが」 「仕草でわかるそうですよ。パルちゃんは、坊ちゃまのことをずっと見てますし、すり寄ってきますしね。かわいいですね」 「うむ」 「トラちゃんもいい子で、でも賢いから、ダンは時々いたずらをされているみたいですね」 「仲が良いのはよいことである」  パルトはラヴィソンにべったりと甘え、なおかつ、頼もしいほどにラヴィソンを守ろうとしているように見える。トラヴァはダンが一番よく乗るし、世話のほとんどをダンにしてもらっているのでよく一緒にいる。しかし、作業をするダンの背中をちょっと押したり、素知らぬ顔で通せんぼをしたりして、ダンを困らせることもある。その様子はとてもかわいく、時々ラヴィソンが声を立てて笑うほどだ。  休憩の後、もうしばらく乗馬を習い、陽が傾き始めたので、練習は終わりとした。馬たちから馬具を外してやり、一通りの面倒を見てやり、そうこうしていればもう夕餉の時間が近い。夕餉が終わればフォールが帰ってしまうので、ラヴィソンはいつもこのぐらいから少し気持ちが塞ぐような思いがする。日中が、一日が、とても楽しいだけにその反動なのだろうか。 「ラヴィソン様。こちらへ、どうぞ」  フォールが差し出したのは手ぬぐいだ。ラヴィソンは洗って濡れた手を、それで拭いてもらう。丁寧に優しく、でもしっかりと拭いてくれる。相変わらずいつも穏やかでおとなしい男だとラヴィソンは思っていた。  その時ふと、ラヴィソンは少し前の友人たちとの会話を思い出した。逃げる獲物は、追いかける。そうだ。では、追いかけてきて捕まえて欲しいと思えば、逃げればいいのではないか。なるほど。  ラヴィソンはくるりと踵を返すと、一目散に庭を走り出した。フォールは呆気に取られてラヴィソンの背中を見送るしか出来ない。ラヴィソンが振り返ると、自分が走った分だけ遠くにフォールが見える。おかしい。ラヴィソンはまたくるりと方向を変えて、元の場所まで駆け戻った。 「フォールは、逃げる獲物を追いかけて捕まえたくなる習性はないのか」 「は……恐らくないようでございます」  フォールはそう答えながら、この美しい青年は自分のことを猫や犬と間違えているのだろうかと思った。しかしラヴィソンはひどく真剣なようなので、フォールも真面目に返す。目の前で毛糸の玉が転がっても、それに飛びつく習性はないのだから。  ラヴィソンは、そういう者もおるのだなと何度か頷いている。そして二人は夕餉の用意ができたと呼ばれ、食堂へ向かった。  それ以来、ラヴィソンは時々、思いついたようにタタタッと走り、しばらく離れてから振り返って、首を傾げながら戻ってきたりするようになった。フォールは、美しい主の本意がわかるわけではないけれど、どうやら何度も、"逃げる獲物を追う男かどうか"を確認なさっておられるようだと気がついた。気がついたら、考えてしまう。追うのか、追わないのか? 「恐れながら」 「なにか」 「逃げる獲物を追いかけて捕らえたくなる習性、のお話でございますが」 「うむ」  ある日の夕餉の最中。フォールは思い切って自分の考えをラヴィソンに述べた。自分のような者が考えを述べるなど僭越であるとは承知の上で、だけれど、ラヴィソンの確認作業に協力したいと思うからだ。 「私にはやはりそのような習性はなく、そもそもラヴィソン様におかれましては獲物ではございません」 「なるほど」 「で、ございますが、ラヴィソン様が私から離れていかれようとなさると、それを止めたいような衝動に駆られます」 「さようか」 「止めることを、お許し願えますでしょうか」 「許す」  それからも、ラヴィソンは突然フォールの傍から走って離れることを繰り返した。しかし止めることを許すと言って以来、決まって一歩目が着地するよりも先にフォールの腕が後からラヴィソンの腰を抱えるので、僅かも離れることが出来ないうちに捕まえられるようになってしまった。  普通に行動しているときは傍を離れようが走ろうが、止められることはない。さっぱり理解できない。  そのうち、ラヴィソンはよくわからないけれど、フォールも自分も、友人たちとは違う感性のようだと納得し、逃げれは追うかどうかはわからずじまいだ。何故なら逃げる前にあっさり止められるし、抱きかかえられたところで結局は失礼いたしました、ご無礼をいたしましたと地面に降ろされ、フォールは夕餉が終われば、やっぱり帰ってしまうのだから。  フォールはといえば、なぜラヴィソンがそんなことを始めたのかわからなかったし、離れていく彼を追いかけたいとも思わなかった。これがもっと密やかでフォールを欺いてでも逃れようとしていれば、確かに本能を煽られて瞬時に捕まえていたかもしれない。そしてどうかなさいましたでしょうかと跪き慈悲を乞うただろう。それにそもそもラヴィソンは逃げていない。走っているだけだ。  しかし、すぐ傍におられたのに、軽やかに遠ざかっていく後姿を眺めていると、戻ってこられるとはわかっていても、少し寂しい気持ちがした。止めてもよいと許しを得たので、フォールはラヴィソンが"フォールの傍からいきなり走り去る遊び"を始められたら止めさせていただくことにした。もちろん遊ぶ意思なく、理由があってラヴィソンがどこかへ行くときはそれを邪魔したりはしない。  ラヴィソンは気づいていないようだけれど、彼はこの遊びで走ろうというときは、必ず両手を握り締めて肘を曲げて構え、こころの中で「よーい、どん!」と言っているのだろうなと容易に想像できる動きをするのだ。つまり、前後に腕を振ってから駆け出す。だからすぐにわかるので、「どん!」あたりで後から抱きとめる。そうするとたいてい驚いたように「なぜわかるのだ」と名残惜しそうに手足をパタパタと動かしながらお聞きになられる。フォールはそのたびに「そのような気が致しました」と答えるのだった。  逃げる、追う。そんな話もすっかり忘れた頃、乗馬の練習の休憩中に、パルトが庭の柵を軽やかに超えていってしまったことがあった。実際はひらひらと舞う蝶を追っただけで、逃げたわけではない。だけれど、それを見たラヴィソンはびっくりして、思わず少し乱暴に茶器をテーブルに戻して大慌てでパルトを追い、そんなラヴィソンをフォールが追った。  もちろん、パルトは柵のすぐそばで蝶を眺めていて遠くへ行ったりはしなかったけれど、その時初めてラヴィソンは知ったのだ。 「逃げるものは、追いたくなるのだな。よく、わかった」 「恐れながら。逃がしたくなければやはり、追うものかと存じます」 「なるほど。さようである」  未だに白く美しい手が、艶やかな黒い馬を撫で、あまり驚かせるのではないと相棒に笑っている。  その後しばらく、フォールはいつか見たように懇々と、パルトに何かを説いていた。

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