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第45話

 庭と、その周辺しか試していないけれど、ラヴィソンは自分の乗馬は上達し、これなら少しくらい遠出ができそうだと最近考えていた。 「……フォールは、仕事はいかがか」 「は。馬番はもちろんですが、時折、特別に訓練にも参加させてもらっており、日々やりがいを感じております」 「さようか。何よりである」 「恐れ多いことでございます」  ラヴィソンは少し落ち着かないような気分で、皿に視線を戻した。フォールが訪れた日の昼餉どき。本日こそは、職場への見学の話をしようと昨日から決めていた。けれど、どう言い出せばいいのかわからない。アンがせっかく作ってくれた食事の味も、よくわからないほどだ。  しばらくの沈黙の後、フォールがおもむろに口を開く。 「ラヴィソン様におかれましては、馬の扱いも上達され、風の冷たさも緩んで参りました。お側仕えの皆様方のご都合もございましょうが、どうぞいつでも私の職場へお越しください」  フォールはそう述べると、座ったままとはいえ礼儀正しく頭を下げた。ラヴィソンは、自分が言うより先にフォールが言い出してくれたことに驚き、覚えていてくれたのかと安堵し、嬉しくなった。 「うむ。僕もそのように、所望する」  フォールは顔を上げて、主に頷いて微笑んだ。 「王宮の厩舎ほどの大きさはありませんが、軍馬ばかりなので趣が違います。馬のお好きなラヴィソン様も、楽しんでいただけるのではと、そのように存じます」 「うむ」 「先日お話し申し上げました通り、現在第一隊にはルイとルカがおります。彼らも、ラヴィソン様のご尊顔を拝する機会を望んでおり、お許しいただけるようでしたら」 「僕も、彼らとの再会を望む」 「ありがとうございます。彼らもとても喜ぶことでしょう」 「どのような格好で……やはり正装がよいのだろうか」   「普段どおりのお召し物でも十分すぎるほどでございます」 「さようか。しかし、みなが労働している場所へ参るのであれば、それ相応というものがあろうかと思うが」 「は」 「あんまり気張ると、むこうが畏まっちゃいますから、いつもの感じで行きましょうね」  フォールがどう説明したものかと戸惑っていたら、ダンが助け舟を出してくれた。ラヴィソンはダンに頷き、ではそのようにと応える。 「それで、……いつ」 「ラヴィソン様のご都合をお聞かせいただければ、テナシテに打診を致します」 「ふむ。このたびはフォールの働くところを見るということが主眼であるので、フォールが休みではない日がよい」 「は。他に、王宮の文官の方々等とのご予定はございませんでしょうか。あるいはご友人の皆様とのお約束など」 「なかったように思うが……ゼン」 「はい、坊ちゃま」  ゼンは完璧に頭に入っているラヴィソンの予定を、それでも間違いのないようにと胸元から帳面を取り出して確認しながら、見学にちょうどよさそうな日を選んで提言する。ラヴィソンは頷き、フォールの方へ顔を向ける。 「僕の希望は特になく、あちらの都合に合わせるがよい。……ただ、早い方が、ありがたく思う」  期待に胸が膨らみ、ドキドキソワソワと落ち着かない。愛馬とともに、普通の社会へ、平民の営みがどのようなものなのかを見学に。そして、フォールが普段どのように過ごしているのかの一端が見られるのだ。待ちきれないような気持ちがするけれど、急かすのは行儀のいいことではないような気がして、ラヴィソンは声を小さくし、俯いてしまった。  フォールはそんな青年の様子に少し戸惑い、何も問題はありませんと声をかける。 「ラヴィソン様のご希望に副えるよう、できるだけ早急に。もしお許しいただけるようでしたら、今すぐにでもテナシテに聞いて参ります」 「それほどは、急いでおらぬ。であるから、本日はここに」 「は。失礼いたしました」  側仕えたちは、フォールの相変わらずの鈍感ぶりに密かにため息をついた。全くもって、進展する様子がない。まあ、仕方がない。彼らはどちらも、恋愛感情というものに馴染みがなさそうなのだから。ゼンは穏やかに、アンは慈愛を持って、ダンは若干のもどかしさを感じつつ、彼らを見守る。 「坊ちゃん、お出かけ楽しみですね」 「うむ」 「坊ちゃんはいつも通りのお召し物で十分ですが、パルトはちょっとおめかししましょうかね。女の子ですしね」 「うむ。馬具を、変えるのだろうか」 「いえ、尻尾とたてがみを編んでやりましょう」 「ふむ?」 「お食事が終わったら、お見せいたします。さあ、しっかり召し上がってくださいね」  ラヴィソンはフォールの方を見た。フォールはニコリと笑って、ダンは何でもできるのですね、私も楽しみですと言う。  昼餉は楽しく、その後にも楽しいことが待っていて、楽しみな外出も近いうちに控えている。ラヴィソンは恵まれ過ぎた生活がありがたく、ほんの少し怖いような思いがした。 「坊ちゃん、そこは危ないです。パルトに悪気がなくてもお怪我をさせてしまうかもしれませんからね。そういうことは、やはり飼い主が気をつけてあげませんと、お互いがかわいそうですから」 「うむ。心得ている。僕はパルトが大事なので、気をつける。トラヴァについても同様である」  絶対にお互いが怪我をしないように。  ラヴィソンに対して周囲は、それだけは失礼があろうとしつこかろうと、何度も何度も伝える。すなわち、馬を刺激しないことや、立つ位置についてだ。ラヴィソンも彼らの心配を理解しているので、何度でも承知していると答える。そのやり取りがわかるのだろうか、パルトもトラヴァもいつもとても安心しているように見える。  ダンが馬用の櫛で、パルトのしっぽをきれいに梳かす。普段から手入れを怠っていないので、パルトの黒いしっぽは艶やかだ。そのしっぽを、ダンが編んでいく。始めはよくわからなかったのだけれど、編み進むにつれてしっぽの表面に綺麗な編み目が出来上がっていき、ラヴィソンは興奮した。 「おお……素晴らしい……どうなっているのかさっぱりわからぬ。ダンは大変な才能があることである」 「ありがとうございます。たてがみは、お教えいたしますので一緒に編みましょうね。これとは別の編み方ですよ」 「うむ……」  できるのだろうか?そう考えながら、ラヴィソンは編み目にそっと指を這わせる。全部同じ幅で細かく、ゆるみなく編みあがっていく。やがてしっぽの半分ほどまで進むと、これまた器用に留め、そこと根元に小さな飾りをつけて出来上がり。ふさふさとしていたしっぽはすっきりとまとまり、後姿はりりしくもあり、かわいらしくも見える。ラヴィソンは思わず、パルトの尻を撫でてやった。  ダンは踏み台を持ってきてラヴィソンをパルトの横へ立たせ、パルトのたてがみを一緒に梳かしながら説明をする。 「ひと房を、三つに分けます。ここで等しく分けるようになさってください。仕上がりが違ってきます。分けられましたか?」 「これで、いかがか」 「ああ、とてもお上手です。それでですね」  水を含んだ布で軽く湿らせたたてがみは、思っていたよりも扱いやすかった。慎重に、隣に立つダンの教える通り、渡されたひと房を三等分にして見せる。フォールは万が一にもラヴィソンが踏み台から落ちたりしないように、彼の背後に立って控えている。 「まず、右端のひと房を、真ん中へ」 「真ん中へ」 「はい。そして、今度は左のを、真ん中へ」 「真ん中へ」 「キュッと締めてください。緩いと仕上がりがよろしくありません」 「引っ張って、パルトは痛くはないのか」 「大丈夫ですよ」  ラヴィソンは一生懸命編んだ。正直、ダンが一人で編んだしっぽよりもとても単純な編み方だと思ったけれど、それでも難しく、何度も解いてはやり直し、パルトにも何度か辛抱しておくれと詫びつつ、ダンと全部のたてがみを編み終わると、達成感と疲労感にふーっと大きな息を吐いた。 「お疲れさまでした、坊ちゃん。最後の仕上げをいたしますね」  ダンは何本もある三つ編みをひょいひょいと斜めに交差させて、それぞれの編み終わりを留めあい、重なったところにしっぽにも付けた小さな飾りを付けた。おかげでパルトの背にはひし形の大きな網目がいくつも出来上がり、とても凝った仕上がりになった。ラヴィソンは感心して、手を叩いた。 「素晴らしい。とても素晴らしい。ダンは本当に何でもできることである」 「あはは、褒めすぎですよ。坊ちゃんもとてもお上手でした」 「パルトは元々かわいいが、ますますよろしい」  ラヴィソンは満面の笑みで踏み台に再び上がり、お前はとてもかわいい馬であると鼻づらを撫でてやった。  ラヴィソンは疲れてしまったので、手を洗い、アンにお茶を出してもらい、いつもの場所でそれを戴くことにした。そして、ダンとフォールがトラヴァのしっぽとたてがみを編んでやるのを眺めて過ごした。二人は色々と相談しながら、トラヴァにもおめかしさせていく。トラヴァも女の子だもんな、とフォールは優しく声を掛けてやり、結局、たてがみはいくつものお団子にまとめられて飾りがつき、しっぽはパルトと同じになった。ラヴィソンはさっと立ち上がってトラヴァに駆け寄り、鼻づらや首を撫でまわす。 「トラヴァも大変かわいいことである。たてがみがすっきりして、かわいい顔が殊更引き立つ」 「ですよね!あーうちの子たちが世界で一番かわいいわ」  ダンも満足げに二頭を撫でまわしている。ラヴィソンは同感であると頷いた。  ◆  馬たちをおめかしした二日後に、ラヴィソンの見学は決行となった。お供はトラヴァに乗ったダンだ。  その日の朝、ラヴィソンは緊張していつもよりもずっと早く目が覚めてしまった。いつも通り馬小屋へ行き、二頭に、本日は遠くへ出かけるのだぞ、なんと、フォールの職場を見に参るのだ、お前たちは本日もかわいいことである、と話しかけながら朝のお世話をした。  朝食を済ませて、アンは動きやすい服装をラヴィソンにさせ、相変わらずつやつやの髪を綺麗に整えて、ゼンと二人、笑顔で彼らを送り出した。 「遠出とは言いましても、坊ちゃん、それほどではありませんし大きく言えば同じ王宮の敷地内です。どうぞ、あまり緊張なさらず。着くまでに疲れてしまいますからね」 「うむ」 「いいお天気で何よりです」 「うむ」 「お昼ご飯は、駐屯所でフォール達と一緒に戴けるんですよ。楽しみですね」 「うむ」  気を紛らわせようと、ダンは何くれとなく話しかけるけれど、ラヴィソンはすっかり緊張していて上の空だ。それがパルトに伝わるのか、彼女も落ち着きがない。だからラヴィソンの手綱を握る手にさらに力が入り、また緊張が増しているようだ。  そうこうしている間に、赤い柵が見えてきた。 「坊ちゃん、あの柵が第一隊の敷地を示す、立ち入り禁止の柵です」 「ああ……」  ラヴィソンは、せっかく外出したというのに周りの風景を見る余裕さえなかったと今さらながらに気が付いた。ダンの優しい言葉に促されて、その柵を見る。この向こうには自分の知らない世界があって、そこへ招いてくれた者がいる。粗相があってはいけないと、ラヴィソンは気合を入れなおし、背筋をすっきりと伸ばした。 「柵を、どこから超えるのか」 「もう少し行けば出入り口があります。フォールもきっとそこにいますよ」 「では、参る」  ラヴィソンはパルトの首を撫でてやり、さあ、フォールに会えるぞと声を掛け、先を急いだ。  ようやく、景色が目に入る。輝く木々とその周囲を飛ぶ鳥。柔らかい日差しと爽やかな風。ラヴィソンはダンを振り返り、照れくさそうに笑った。 「緊張が、少し、軽くなった。ダンのおかげである」 「とんでもありません。坊ちゃん、ご気分はいかがでございますか」 「とてもよい。そう、まだ僕は王宮からさえ出ておらぬ。しかし、これは僕にとってきっと大きな一歩である」 「ええ、俺もそう思います。お供できるのが嬉しいです」  ダンがホッとしたような笑顔になる。パルトとトラヴァの足音も軽やかに道を進んでいけば、いくつかの人影が見えた。手を振っている。 「ラブちゃん!こっちだよーー!!」  大きな良く通る声が高い空へこだまする。ダンは驚いて少し警戒した。パルトとトラヴァもピシリとそちらに視線を向ける。ラヴィソンだけが苦笑している。 「あの声は僕の友人である」 「は……ご友人」 「この国へ初めて来た日、助けてくれた家族がおり、その息子の内の一人である。名はルイ、弟はルカという」 「ああ、以前旅で……その……ラブちゃん、とは」 「ルイはなぜか、僕をそのように呼ぶ」  心配するでない、とパルトに声を掛け、そのまま進めば、やはり弟のルカもいて、もちろんフォールもそこにいた。柵に設えられた出入口はすでに開けられ、ラヴィソンを迎え入れてくれた。 「久しいことであるな、ルイ、ルカ」 「うん!元気だった?」 「うむ。そなたらも息災で何よりである。ご両親はいかがか」 「超元気ーラブちゃん、また来ないかしらーって言ってるよ」 「さようか。いずれまた必ずと、伝えるがよい」  フォールは礼儀正しく馬上のラヴィソンに道中ご不便はありませんでしたかと頭を下げている。ラヴィソンが問題ないと答えれば、ようやく安堵の笑みを浮かべて、パルトの轡を取った。 「私の職場である、厩舎にご案内いたします」 「うむ。テナシテに来訪を知らせずともよいのか」 「は。彼は今外出しているらしいので、後程」 「さようか」 「パルト、いい子だ。トラヴァも、今日はさらにめかしこんでかわいいな」 「アンが、飾りを増やしたのだ」 「ええ、そのようでございますね」 「ラヴィソンの馬、いい馬だね」 「うむ、わかるか。さようである。これがパルトで、ダンの乗っているのがトラヴァという名である。どちらもとてもかわいい」  ラヴィソンとダンは馬に乗ったまま、パカパカと案内されていく。ルイとルカはのんびりとラヴィソンに話しかけ、楽しそうに笑っている。だからラヴィソンの緊張はほぐれていき、自分の馬たちのことを兄弟に話して聞かせる。道を進んでいけば、だんだんと馬の嘶きが聞こえ始めた。パルトとトラヴァは自然と足を止め、ラヴィソンとダンは馬を降り、二頭に落ち着いていいと声を掛ける。 「俺たちは、訓練に戻るね。またあとでね、ラヴィソン」 「出迎えのために手間をかけたか。すまぬことをした」 「俺たちが早く会いたかっただけだよ!じゃ、あとで!」  兄弟は駆けていき、あっという間に遠くなった。あれではもし、追いかけて捕まえたくなっても追いつかない。彼らを追うものは大変であろうとラヴィソンは思った。  フォールは馬を繋ぎ、厩舎の入り口へラヴィソンを促す。 「こちらが入り口でございます。王宮でお供させていただきましたあの厩舎とは規模も違いますし、いざというときにすぐに出せるように、奥行きはあまりなく、横に長い造りでございます」 「ほう」 「本日は午後から騎馬の訓練が予定されておりますので、今はその準備をしております」 「うむ」  厩舎の外には大量の馬具が並べられ、それらの点検をしているのはフォールの同僚らしい。ラヴィソンは、仕事をしている平民に妄りに話しかけては、彼らの手が止まってしまうことを承知しているので、無言で近づきその手元をじっと見つめた。  予告されていて、フォールの主……かねてより噂の王宮の奥に住まう異国の青年が現れることは知っていても、馬番たちはラヴィソンの震えがくるような美しさや気品を遠目に見てびっくりしていたのに、黙して歩み寄られてはどうしていいかわからない。事前に、祖国では大変身分が高く、今もそのように扱われてしかるべき方なので、対応には配慮を願いたいとフォールから深々と頭を下げられていた。同僚たちは思い思いに立ち上がり、頭にかぶっていた帽子を外したりして一応の歓迎を示す。そのうちの一人が好きに見ていいよと恐々と声を掛けた。 「ありがたいことである。では……今は、何をしていたのか聞いてもよいか」 「緩んだり傷んだりしてないか、点検を。わずかのことが命取りになるから」 「大変立派な心構えである」 「えーっと……そう?ありがとう。仕事ぶりを褒められるのは嬉しいものだ」 「さようか。とてもたくさんであるが、これは何頭分の馬具であろうか」 「六十くらいかな。今日の訓練で使うのはその半分程度だけど、手入れと点検は全部一緒に必ず」 「なるほど」  ラヴィソンと会話したのは、馬番の中で班長と呼ばれる責任者で、テナシテからの信頼も厚い。彼はラヴィソンのことを、ずいぶんきれいな子だけれど、人との距離感が奇妙だなと思った。言葉遣いもだけれど、なんだか同じ場所にいないような気分になるのだ。こんなに近くで言葉を交わしているというのに。 「僕が使うような普通の馬具とは作りが異なるようである。以前見たサージュの馬具のようだ」 「は。頑丈さと、最近は軽さを重視して作られています」 「さようか」  後ろに控えていたフォールに話しかけるその様子は、自分へのそれとほとんど変わらない。なのに、彼ら二人は確かに同じ場所にいる。付き合いの長さゆえなのだろうか。この綺麗な若者のこころは、確かに馬の扱いに長けた大きな男のそばにある。そして、大きな男は今まで見たこともないほど満たされた顔をして頭を下げていた。主従とはこういうものなのだろうか。軍部に属しているとはいえ、直接誰かに忠誠を誓ったり従ったりしているわけではないから経験がない。もしかしたら、もっと上位の軍人は、国王陛下の前ではこうなるのかもしれない。自分の命まで当たり前のように差し出すのなら。 「仕事の邪魔をしてすまぬことである。続けるがよい。僕は見学者であるので、気にせずともよい」 「あ、うん。そうだね、何か質問があったら聞いてくれていいからね」 「ありがたい気遣いに感謝する」  ラヴィソンに見とれていた他の馬番たちも、促されて作業に戻る。フォールも彼らと同じことをもちろんするのだけれど、ラヴィソンに、この辺りをよく点検いたします、ちょうどこれが良くない状態ですので修理をいたします、と説明しながら、自分の仕事を紹介する。ラヴィソンは、目の前でフォールが仕事をしているのを見られるのが嬉しくてたまらず、何度も何度も頷き、立派である、素晴らしいことである、それは良いとフォールを褒めた。フォールは恐縮しながらも、ラヴィソンが楽しそうなので安心した。お供のダンもその様子を笑顔で見守る。時々、急に座り込むラヴィソンの上着の裾が地面につかないように気を付けながら。 「本日の訓練で使う馬を馬房から出します。危ないですので、ダンの傍におられますようにお願いを申し上げます」 「うむ。軍の馬ともなれば、とてもしっかり訓練されているのであろう。それでも、危ないのだろうか」 「は。ここにいるのは汎用の馬ではなく、すべて誰かと一対になっております。その誰か……つまり、第一隊の隊員の誰かということになりますが、その者がこれと決めた馬であればどんな馬でも許されます。いざというとき、命を預け合うので、本人の意向が最優先なのです。でございますので、その隊員の言うことしか聞かぬ馬や、それさえも聞かぬ馬もおりますので」 「言うことを聞かぬ馬と、戦地を駆けるのか」 「そういうときの相性がよければ、日常の暴れぶりを大目に見るということであると思います」  ラヴィソンはダンに促されて厩舎から離れつつ、世の中にはいろんなことがあるものだと感心した。そのような厄介な馬であっても、フォールはちゃんと面倒を見るのだろう。とても素晴らしいことだとまた思う。 「坊ちゃん、フォールは働き者ですね」 「うむ。フォールはいつも、どんなことでも一生懸命である。そういった姿勢は見習わねばならぬ」  他の馬番たちと一緒に、次々に厩舎から外へ馬が出てくる。毛の色もまちまちで、驚くほど大きな馬もいる。どれもかわいく見え、少し近づきたいけれど、ラヴィソンは言われた通り、ダンと並んで離れたままで見学していた。  馬番たちは手慣れた様子で次々に馬装を調えていく。きっと、馬具も馬ごとに違うのだろうから、それを全部覚えているのだろう。ラヴィソンはフォールばかり見ていたけれど、フォールが厩舎の奥の馬房へ入っていったりして見えなくなると、先ほど話をした男を眺めたりもした。彼ももちろん、仕事が早い。  やがて、たくさんの馬と人間が入り乱れる中で、フォールが近づいてきた。 「少し早いのですが、昼食をご用意してもよろしいでしょうか」 「うむ。フォールと一緒に戴くのだと聞いているが」 「は。恐れ多いことでございますが、ご一緒させていただきたく存じます」 「かまわぬ。外で食べるのだろうか」 「あちらの建物に食堂がございまして、そちらで。外の方がよろしゅうございますか?」 「いや。なんだか、労働中は外で食事をするようなことを本で読んだ覚えがあったので聞いたまでである。食堂とは、宿のような」 「は……もう少し……何と申し上げればいいか……騒がしく、慌ただしい場所でございます」 「……さようか」  ラヴィソンにすれば、フォールとの旅で経験した宿の食堂での食事は大変に騒がしかったし、慌ただしかった。やはり何事も自分でやってみなければわからぬものだ。あれ以上の状況で、食事ができるものか、試さねばならない。 「ダンもともに」 「はい。ありがとうございます。ご一緒させていただきます」  フォールの案内で食堂のある建物に向かうすがら、同じく食堂へ向かう隊員などと次々に顔を合わせる。彼らは一様にラヴィソンを見て言葉を失くしていた。  隊員らはこの国の王族に近いところで仕事をしているので、王族の姿を見ることも多いし、貴族もよく見かける。彼らは大体が美しい。特に王族は、その血を一滴でも受け継げば美形になると言われているほど、麗しい一族だ。そんな王族を見慣れた隊員たちが驚くほどの美しさで、ラヴィソンは周囲を圧していた。自然と道を譲り、ラヴィソンを見つめてしまう隊員たちに、フォールは目顔で遠慮してくれと伝える。それで隊員らは気づくのだ。ああ、これがあの。なるほど、と。  食堂に入るとすぐに、ラヴィソンは手を洗った。その時に使った石鹸も、その手を拭いた手ぬぐいも、ダンの携えた布袋から次々に出された。フォールはそれを見て感心し、隊員らは従者に手を拭かせるラヴィソンの振る舞いに驚きつつ注目していた。 「ラブちゃーん!」  フォールが食堂の、できるだけ人の少ない方へ案内しようとしたとき、頼もしいほど能天気な声がラヴィソンを呼んだ。見れば、ルイとルカが手を振り、その隣にはテナシテが座っている。六人掛けだからだろう。頭数合わせに隊長を引っ張ってくるとはなかなかの手腕だ。こうなると、食堂のど真ん中であっても断れない。フォールはダンと目配せをして、ラヴィソンをそちらへ案内した。 「ラブちゃん、席取っといたよ。一緒に食べよう」 「席を取っておく?」 「いい席は早い者勝ちなんだ」 「いい席とは……座る場所は、決まっておらぬのか」 「空いてる、好きなところ座っていいんだよ。ご飯も、自分で時間を見つけて食べないとダメ。仕事と訓練、みんな割り当てが違うから」 「自らの予定を自らで段取りをつけて管理をするというのであれば、非常に感心なことである」 「んー、そんなに難しくない感じ。平たく言うと、食いっぱぐれないようにってこと。お腹減るとへばるでしょう」 「くいっ、ぷ……?」 「馬好きのお坊ちゃん、見学はどうだった?」  ルイとルカの話に不思議そうに首をかしげたラヴィソンに、テナシテが割って入る。フォールはラヴィソンに一礼をしてから、食事を取りに行った。ラヴィソンはテナシテの言葉に応えながら、ダンの引いた椅子に座る。 「テナシテには感謝している。このような機会を、非常にありがたく思う。僕は仕事の邪魔になることを承知しているので、できるだけ静かにして見るだけのつもりであったけれど、質問を受け付けてくれ、快く仕事を説明してくれたので、厩舎で働いていた者にも感謝している」 「希望があれば基本的に許可するから、見学自体は珍しくないし特別扱いでもない。だから、そんなに大げさに感謝されると痒い」 「虫だろうか?痒みを我慢するのは大変である。ダンが良い薬を持っている」 「ご飯食べたら、騎馬訓練見るんでしょ?馬好きの大きな人、活躍するよ」 「活躍とは」 「見ればわかる」 「楽しみである」 「その後、基礎訓練があるけど、それも見れば?」 「うむ。その時もフォールは活躍するのだろうか」 「さあ?」  ルイとルカが代わる代わる、自分たちも一緒に訓練だから見ててねと笑っている。そこへフォールが戻ってきた。ラヴィソンの食事の好みも食べられる量も把握しているつもりだけれど、この場での選択肢は極めて少ない。無理を言って、少しづついろいろ盛ってもらったけれど、全部は無理だろう。 「普段アンさんが作ってくださるような食事ではございませんので、お口に合うものだけ、お召し上がりください」 「よい。本日はみなと同じものを、フォールが普段口にしているものを戴くのがよいのだ」 「は」  薄い四角い盆に乗ったいくつかの小皿や椀をしげしげと見つめ、同じく盆の手前に置かれた匙を手に取る。ダンはテキパキと持参した茶を茶杯に注いでラヴィソンの傍に置く。そして、料理の大体の材料と味付けを簡単に説明した。ラヴィソンの知らないものがほとんどだった。その様子を、ルイとルカとテナシテは、不慣れなんだねーと言いながら眺めていただけだけれど、周囲はものすごく好奇の目で見ている。  その中には、ラヴィソンを知る者の視線もあった。彼が初めてこの国で国王アンソレイエに会ったあの場所にいた者だ。当時、ラヴィソンについての一切に関して他言無用と、直属の上司である隊長ではなく、その上の将軍から直々に、一人一人呼ばれて顔を見て命ぜられた。だから、彼らはラヴィソンがかの大国の王族であることも知っていたけれど誰にも言わず、ラヴィソンは事情を知らない人たちの噂によって、どこか遠い国の貴族ということで落ち着いている。  彼の目が見えなくなったという話や、王宮に重宝されているという話、だけれど、一歩も屋敷から出ずに暮らしているという話も聞こえていて、それぞれに様々思うところはありつつ、いくつもの季節が過ぎて行った。本日、彼を再び目にして、ほとんどの者は「よかった」と思った。無事でよかった。目が見えるようになってよかった。外に出られるようになってよかった、と。そして全員が、ここまで美しく成長するのかと驚愕した。当時はまだまだ少年のようで、状況的にも溌剌とは言い難く、悲痛な叫びを聞いては不運で薄幸な印象ばかりが残っている。それが今、こんな混雑した騒々しい軍部の食堂にあって、遠くから見ても輝くようにさえ思えるほど美しい。それは外見もさることながら、こころ穏やかであることを表しているのだろう。 「フォールはいつも、ここで食事をしているのだな」 「は。住んでいる村にも食事処がありますので、夜はそちらで済ませることもありますが、日中はここで」 「さようか」 「ご希望がございましたら、ご案内させていただきます」 「うむ、ぜひ」 「は」 「ダン、これはとてもおいしいので、帰ったらそのようにアンに伝えておくれ」 「はい、承知いたしました」 「ラヴィソン、それ好き?ルイも好きなんだよね」 「さようか」 「そう!ラブちゃんお揃いだねー美味しいよねー」 「では今度、家の者に作ってもらうので食べに来るがよい。ここで戴くのももちろんおいしいけれど、僕の家の食事もとてもおいしい」 「本当?やったー!行きたい!」 「俺もー!」  テナシテも食事をしながら、うん、お菓子戴いたけど本当においしかったよねと頷く。フォールはラヴィソンが不快な思いをせずに食事が終えられるかが気がかりで会話がほとんど入ってこない。ダンも自分の役割に徹底している。  食べるのが早いルイとルカは、空の食器を前にニコニコとラヴィソンと話している。テナシテは訓練の準備があると言って先に席を立った。ラヴィソンはようやくどうにか全部を腹に収めて、ふうと息をついた。 「なかなか、よい体験であった」  ラヴィソンのその少し苦しそうな一言は、ルイとルカの笑いを誘い、フォールを慌てさせた。  その後ラヴィソンはフォールが騎馬訓練で活躍するのを見た。  広い馬場の端に、これまたダンが持参してきた簡易の折りたたみの椅子を設えてそこに座し、はた目には優雅な様子だったけれど、ラヴィソンはとても興奮していた。  蹄の音や号令で騒がしい訓練中の隊員には聞こえなかっただろうけれど、フォールが何かするたびに、ダンにあれは何かと尋ねては感心していた。 「あの赤い服を着た隊員さんがですね、多分上手にできなくて、それでフォールがコツを教えてるんです。列が、あそこだけ乱れますでしょう?」 「うむ」 「フォールが言えばうまくできるようになるんでしょうね」 「フォールはあの赤い服の男に教えておるのか、馬にか」 「どうでしょう」 「馬だと、僕は思う」 「そうですねぇ」  時々はフォールが隊員の代わりに馬に乗り手本を見せたりもする。遠目にも華麗な馬術に、ラヴィソンは誇らしいような気持だった。訓練の終わりには、列は見事に整ったまま進んでいる。  その後少し休憩があって、別の場所で基礎訓練が行われた。指揮はテナシテだ。ダンがあらかじめ聞いておいた概要をラヴィソンに説明する。基礎訓練というだけあって、非番を除く全員が毎日行うらしい。ただ、任務中の者もいるので全員一緒ではなく、いくつかの班ごとに行われる。本日午後からの班にルイとルカがいて、そこにフォールが参加しているようだ。テナシテは自分の身体が空いていれば全回の指揮を執るという。目的は体力と筋力の維持強化、基本的な連携の確認。だから、単純な動きを繰り返すけれど、もの凄く運動量が多くて大変な訓練らしい。それを日に、多ければ三回。 「……テナシテは、とても丈夫であるのだな」 「そうですね」 「……テナシテは、とても力持ちのようだ」 「はい」 「意外である」 「見た目があんな感じですからね。でも、首都にいる軍人は精鋭で、その精鋭をまとめる隊長ですから、やはり」 「大変な重責は、日々の訓練で培われた実力でもって果たしているのだな」 「そのようです」  テナシテが数人とともに、手本だろうか、ラヴィソンが考えもつかないようなことをやってのけていて、目が離せない。ものすごく重たそうな何かを持って、立ったり座ったり走ったりしているようだけれど、彼の動きに最後までついていけるものは誰もいない。軽やかに元の位置に戻ったテナシテの号令一発、隊員らは数人ずつ同じことをやり始める。誰もテナシテのようにはいかないようだ。元の位置まで戻ってくる頃には、今にも倒れそうになっている。それはフォールも同じで、ラヴィソンは気が気ではなく、ハラハラと拳を握り締めながら見守る。 「あんな無茶を繰り返しては、寿命が縮むのではあるまいか」 「確かに過度にかかる負担は健康によくないように思いますが、有事にだれかの寿命が尽きるのを見るよりはマシなのかもしれません」 「それは、そうであろうが」  単調に思える訓練は、やっている本人たちは死に物狂いだし、見学しているラヴィソンにしても生きた心地がしない。これがこの国の国民であれば、「頑張ってくれてるなぁ。頼もしいなぁ」という感想だったのだろうけれど、ラヴィソンは国防などどうでもよく、ただひたすら、怪我のないようにと祈るばかりだ。  フォールは複数で効率的に動くだとか、お互いを補完するための合理的な判断をするだとか、そういう訓練を祖国でほとんど受けずに来たので、無駄な動きや誤った行動が多く、他の隊員より体力を使う。有り余る体力で、不得意を無理やり穴埋めしているようなものと言ってもいい。だから、結局はみんなと同じようにバテバテのヘロヘロで、最終的には地面にぺしゃんと潰れてしまうのだ。  フォールがうまく動けていないなど、ラヴィソンにわかるはずもなく、フォールが苦しそうに座り込んだりすればそれだけで、あの屈強なフォールがあれほど辛いのであれば、これはきっとこの世で一番難しい訓練に違いないと、握りしめた手に一層力をこめるのだった。  基礎訓練が終わると、ようやくラヴィソンの肩から力が抜ける。まだ走る体力のあるルイとルカが手を振りながら駆け寄ってきた。ラヴィソンはダンに促されて立ち上がり、ダンは椅子をテキパキと片付ける。 「ラブちゃん、見ててくれた?」 「ラヴィソン、見ててくれた?」 「あ……すまぬ。そなたらを見るのを忘れていた」 「えーーー!!!」 「ひどいよーーー!!!」 「フォールを見ていたら目が離せず」 「もう!ラヴィソンはフォールのことばっかり!」 「そうだよラブちゃん!」 「うむ、しかし本日はフォールを見に来たので、仕方あるまい」 「お前らいい加減にしろ」  兄弟がラヴィソンにやいやい言っていたら、後ろから現れたフォールが二人の襟首を掴んでラヴィソンから引きはがした。兄弟もそうだけれど、フォールは訓練直後で汗みずく、荒い呼吸はまだ収まっておらず、身体中から熱気を放っているような状態だ。それでも、礼儀正しくラヴィソンに頭を下げて暇乞いをした。 「もう、本日の仕事は終いだろうか」 「いえ。この後は本来の馬番の仕事に戻ります」 「では」 「坊ちゃん、そろそろ」 「……さようか」  本日の見学は非常に楽しく面白く、ラヴィソンは許されるのであればまだ続けたかった。なのに、フォールはこれで失礼することをお許しくださいと言うし、ダンは帰ろうと言う。今日という一日が終わるのが惜しくて、だけれど、邪魔をするのはよくない。ラヴィソンは頷き、フォールを見上げた。 「この見学は貴重な体験で、とても興味深いことであった。フォールの頑張りは素晴らしく、しかし、身体を大事にするように」 「は。ご高配痛み入ります。至らぬこともございましたでしょうが、お役に立てたのでしたら望外の喜びでございます」 「……また、同様の機会があれば、ありがたく思う」 「いつでもお申し付けください。私の住む村へも、いずれご案内させていただきます」 「うむ」  ラヴィソンはフォールがもう一つの約束を覚えていてくれたことが嬉しかった。ルイとルカは、主従って本当に堅苦しいんだなーと二人を眺めていた。ラヴィソンはダンに声を掛け、手ぬぐいを一つ取り出し、フォールに差し出す。 「汗を」 「恐れ多くもったいないことでございます。汚れますので、何卒」 「構わぬ」  フォールはラヴィソンの行動に慌てふためき、とても受け取れないと冷や汗をかいて震えている。ダンが呆れながらも笑顔で、坊ちゃんの好意だから、返さなくていいから、とフォールに圧力をかけ、どうにかこうにか手ぬぐいがフォールの手に渡る。ラヴィソンは満足した。 「本日は大変ご苦労であった」 「恐れ入ります」 「ルイ、ルカ、いずれ僕の家へ遊びに来るがよい。便りを寄越せばいつでも構わぬ」 「ありがと!絶対行く!」 「うむ」  激しい基礎訓練を終えると、参加者はみな敷地内にある浴場へ直行する。フォールも例外ではない。汗まみれでラヴィソンの傍にいるのも気が咎める。ダンはもちろんその段取りを知っているし、陽も傾いてきたのでこれを潮としたのだ。ラヴィソンに話せば、浴場まで覗きに行くと言い出しかねないし、フォールはそれを断れないだろう。そうなると色々と大変だ。  フォールに見送られて、馬に跨り帰路をゆく。やがて屋敷に着くと、ゼンとアンが笑顔で出迎えてくれた。ラヴィソンは今日見聞きしたことを、興奮気味に話した。 「近いとはいえ、少し遠出であった。僕はパルトとうまくやれたように思う」 「ええ、坊ちゃんはとても馬の扱いがお上手でいらっしゃいました」 「そうでございますか。やっぱりフォール殿に習ったのがよろしかったのでしょうね」 「お食事はいかがでございましたか?お口には合いましたか?」 「うむ。フォールがたくさん持ってきてくれて、ダンが説明をしてくれた。少し多かったのだけれど、僕はすべて戴いた。美味しいものがあったので、アン、今度作ってはくれぬだろうか」 「はい、喜んで!」 「僕の友人が、遊びに来る予定である。僕が、うちの食事は美味しいから食べに来るがよいと誘った」 「まあ、嬉しいですねぇ」  ラヴィソンはフォールの仕事がいかに素晴らしいか、馬の先生としていかに有能か、馬番の立場でありながらとても過酷な訓練までこなしていていかに立派か、だけれど、身体を壊さないか心配だなどと、たくさんたくさん話した。側仕えたちはニコニコと笑って、よかったですね、といつまでも話を聞いていた。  数日後、いつも通りフォールはラヴィソンの屋敷を訪れた。扉を開けてくれたゼンは、いつも以上ににこやかに出迎えてくれて、先日は坊ちゃまがとてもお喜びで、ありがとうございましたとお礼を言う。 「いえ、とんでもないことです。お役に立てたようで、ホッとしております」 「本当に楽しかったご様子で、フォール殿を褒めては、我々のこともいつもよくしてくれているとおっしゃってくださって。なんだか、老いぼれとしては、胸がいっぱいでしてね。本当にフォール殿がいてくださってよかったと、感謝しているのです」  少し前のことを思えば、ラヴィソンがどこかへ出かけて楽しそうに帰ってくるなど想像もできなかった。なんとありがたいことか。フォールは少し困ったような顔で、微笑んだ。 「ゼンさんは老いぼれなんかじゃありません。それに、皆様がいらっしゃるから、ラヴィソン様も毎日穏やかにお過ごしでいらっしゃるのだと、そのように承知しておりますし、従う者として主のしあわせを、ありがたく思います。もちろん、私のためではないとも承知しておりますが」  そんな風に会話しながら、フォールは家の中に入り、いつも通りまずアンとダンに挨拶をする。アンはたいてい食堂か厨房にいて、ダンは探さないと会えないことが多い。今日は運よく二人は一緒に厨房にいた。 「お邪魔いたします」 「あ!フォール、先日は坊ちゃまを見学に誘ってくれてありがとうね。もう本当に楽しかったみたいで、お話しなさる目がね、こう、キラキラ輝いていて、こちらまで嬉しくなるようなご様子で。はー、よかったーって、本当にそう思うの」 「そんな、私など、微力で」 「いやーもう、あの時のラヴィソン坊ちゃん、フォールのことばっかりだったもんなー。あ、それはいつもだけど」 「みっともないところをお見せして、楽しんでいただけたのであればよかったけど」  側仕えたちからワイワイとお礼を言われて褒められて、フォールは恐縮しきりでどうしたらいいかわからない。そもそもフォールは何もしてない。ただ、自分の職場を紹介しただけだ。あれがそんなに楽しい娯楽になるなんて、思ってもみなかったのだ。 「さあさ、坊ちゃまがお待ちかねですから、お部屋へどうぞ」 「はい。ありがとうございます」 「あのね、うふふ、まあ、いいわ」 「はい?」 「いいのいいの!早くどうぞ!」  なんだかアンが楽しそうに、何か言いたそうに、だけどフォールの大きな背中をぐいぐい押して、ラヴィソンの元へ急かす。フォールはラヴィソンの傍へ参じてきているので断ることはもちろんなく、食堂からラヴィソンの部屋へ大股で移動する。 「フォールでございます、ラヴィソン様。本日もご機嫌うるわ……」  いつも通り窓の近くの一人掛けの椅子に座って佇んでいるラヴィソンの傍へ寄り、フォールは跪いて挨拶をしつつ、本日も美しいに違いない青年を見た。見たら、いつもと違った。艶やかな黒髪は、横の方を少し編みこみ、その留めたところに飾りまでついている。  ラヴィソンはいつも通りフォールの来訪を喜び、微笑み、その髪を指さして、いかがかと問う。 「は……ラヴィソン様におかれましては常にお美しくあられることと存じます」 「……」 「……無礼をお許しいただけますでしょうか」 「許す」 「その髪は、アン殿が?」 「うむ。ダンに頼んだが、ダンは人の髪は編んだことはないと言うのでアンに」 「は」  ラヴィソンは無言でじっとフォールを見つめた。フォールは何を言えば良いのかわからず黙り込む。  やがてラヴィソンはその細い指で、自分の髪についた飾りを持ち上げたり、ふるふるっと頭を振って見せたりした。その間もフォールはラヴィソンに見つめられ、どうしていいかわからず混乱した。  ほ、褒めるのか?もう少し詳しく感想を述べるべきか?しかし容姿に関して様々言葉にすることは不敬にもなりかねない。  フォールはラヴィソンから目が離せず、だからと言って正解を探せないまま岩と化していく。  ラヴィソンは色々としたのに、それでもフォールから自分の望んだ言葉がなかったので、甲斐のないことであると呟いた。その呟きはフォールを大いに慌てさせた。そこへ入ってきたのはゼンだ。 「坊ちゃま、フォール殿を困らせるのはよくないことであると存じます」 「そのようなつもりはない」 「ですが、やはり、ご自分のお言葉で伝えませんと」 「さようか」  ラヴィソンは美しい顔でフォールを眺め、困っておるのか、すまぬことであると言った。 「いえ、私が至らぬばかりに、ラヴィソン様のお気持ちをお察しすることができず、申し開きのしようもないことでございます」 「フォールが、おめかしをしたパルトやトラヴァをとても褒めるので、真似をしたまでである」  ラヴィソンの思いがけない言葉に、フォールは面食らい、あとから入ってきたアンやダンにも笑われた。こうしてまた、穏やかな一日が過ぎていく。

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