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第48話
ラヴィソンと家の者は少し戸惑っていた。
本日は、ルイとルカがラヴィソンの屋敷へ遊びに来ると事前に知らされていて、アンは張り切って昼餉の用意をしていた。本当はフォールも一緒に来るはずだったのだけれど、馬のお産の手伝いに駆り出されて、それが終わり次第ということになったと言う。それはいい。それは構わないのだけれど、例によって前触れなしにプランスたちも来てしまったのだ。
ラヴィソンにしてみれば誰も彼も友人だから、その来訪はいつも嬉しいしありがたい。しかし、ルイとルカは国王軍所属の軍人だ。この国の第一王子であるプランスは、おいそれと顔を合わせるべき人物ではなく、まして同じ場所で一緒に食事など考えられない。
「ごめん、ラヴィソン。先客があるとは知らなくて」
「うむ、そういう日もあるのだ」
「そうだよね。ごめんね。出直すよ」
「いえ、我々が失礼いたしますので、殿下はどうぞそのまま」
「そういうわけにはいかないよ。こういうのは早い者勝ちでしょ?」
どちらも正しい。そもそもラヴィソンに約束を取り付けていたのはルイとルカだし、先に来ていた。だけれど、身分はプランスが圧倒的に上で、彼らを従える立場にあると言ってもいい。その立場ゆえにプランスは自由な時間が少なく、突然の来訪は致し方ないという部分もある。
以前のラヴィソンであれば、王族であるプランスを何も考えることなく優先しただろう。王族なのだから当たり前なのだ。でも、今のラヴィソンはそうではない。幸か不幸かはわからないけれど。
「皆で食事というわけには参らぬのだろうか。ルイとルカにおいては、プランスたちと初対面であり身分のこともあろうが、僕にとっては等しく大切な友人である。この機会を、よいものにできればありがたく思う」
「あー、でもね、ラブちゃん、さすがにね」
「ラブちゃん?ラヴィソンはそう呼ばれているの?いいかもー」
「そう呼ぶのはルイだけである。気に入ったのであれば、プランスもそう呼ぶがよい」
「人の真似っこはしない主義なんだよね」
「さようか」
そこへアンが、庭のテーブルにお茶を用意したとラヴィソンに伝えに来る。ラヴィソンは応接間の椅子から立ち上がり、お茶ぐらいはよかろうとルイとルカに顔を向ける。彼らはとんでもないと首を振った。いつもの様子とはかけ離れた緊張した面持ちの彼らに、これ以上無理強いは酷だろうとラヴィソンは思った。
「では、すまぬがプランス、パラン、日を改めてくれるだろうか」
「ええ、しかたありませんわね」
「だね。うん、また来るよ」
「わ-!ラヴィソン、それはダメ俺らが帰るから殿下とパラン様と過ごしてくれ俺らはいつも暇だからー!」
「待って、現役の軍人が暇なはずないよね?」
「は、もちろんです、殿下。国防に貢献すべく、我々が日々の訓練を怠ることはございません」
「プランス、あなたが共にとそうおっしゃったらよろしいのよ?そうすればこちらの方々も、私たちと食事なんて御免こうむりたいと思ってはいても、お付き合いしてくださるわ、お仕事だと思って」
「えーイヤイヤはやだよー」
「パラン様、我々はそのような」
「もう、よい。お茶が冷める。プランス」
「わかってるよーからかっただけじゃん!ルイ、ルカ、お邪魔しちゃうけど、僕らも一緒に食事してもいいかな?」
かくしてこの国の王族二人と、国王軍の精鋭軍人二人にラヴィソンという茶席が始まった。
「昼餉のころには、フォールも来るだろう」
「はい、坊ちゃま。皆様方のお食事のお支度は万全に」
「うむ」
ソワソワヒヤヒヤとやり取りを見守っていたアンに、ラヴィソンは少し笑って見せる。アンも、ホッとしたように微笑み返す。若者が集まれば賑やかになる。それを少し失念していた。ラヴィソンが友人たちと騒ぐ。そう、ラヴィソンだって、ごく普通の若者なのだから。
その後、ルイとルカは緊張でお茶に全く手を付けずにいたけれど、プランスとパランがもう少し気楽に頼むねと笑い、どうにかこうにか頷いている。
「ルイとルカは、第一隊の所属なの?」
「は。我々は現在陸軍の所属でありますが、短期強化研修で首都警護部隊第一隊に仮配属されております」
「そう。優秀なんだね」
「恐れ多いことでございます」
「それも兄弟揃って。我が国の将来は安泰だね」
ラヴィソンは第一王子として人に接するプランスを初めて見た。そして、なかなか堂に入ったものなのだなと感心した。普段の様子からはあまり想像できない。ルイとルカも、まっすぐに背筋を伸ばしてハキハキと答える様は、いつもの明るく賑やかな二人ではなく、軍人としての佇まいであり、大人としての対応だった。パランは微笑みながら、その様子を見つめている。それも全く王族として正しい振る舞いだった。
「ラヴィソンは、いい友達がたくさんいるね」
「うむ。さようである。プランスとパランもその一人であり大切である」
「もー!ラヴィソンは本当にいいやつだね!」
「さようか。ルイとルカも褒めるに値する人格者である」
そうやってしばらくお茶を飲んでいたのだけれど、フォールが来ないままに昼餉となった。言伝があって、難産だからもうしばらくかかるということだった。出産が、誰かの思い通りに進むはずがないことくらいは皆が理解しているので、五人でアンの渾身の手料理をいただくことにした。その頃には、多少雰囲気も和んでいて、雑談がかみ合う程度にはなっていた。
「あ、そうだ。ラヴィソン、お見合い申し込まれたんだって?」
「その話は断った。しばらく前のことである」
「お話を戴けるのはありがたいことですけど、お断りするのがねぇ……」
「パランも見合話があるのか」
「ええ、たまに。ですけど、やっぱり、夢は捨てきれませんからお断りするんですの」
「夢?」
「ええ。運命の人に出会い、愛し愛されるという夢ですわ」
「…………それは、僕にはよくわからぬことなので助言も難しいのだが」
「愛に助言は要りませんの。きっと、目を見た瞬間にわかるはずですもの」
「さようか」
「うふふ。ラヴィソンは、フォールとはいかが?とうとう会えるのかしら?ご挨拶をさせてくださる?」
「フォールは変わらず、休みの日にはここへ来てくれる。本日も間もなく。パランとは初対面であるので、紹介致そう」
「嬉しいわ。あ、私が先日お貸しした本、もうお読みになって?」
「うむ。ちょうど昨晩読み終わったので、あとで返そう」
「面白かったかしら?」
「興味深くはあったが、すまぬ、よくわからなかった」
恋に恋するふわふわした年頃の美しい乙女は、お見合いなどではなく、衝撃的で運命的な出会いに憧れているようだ。もちろん、プランスたち男子も、今現在意中の人がいないこともあって、共感する部分はある。いつか、愛する人と巡り合いたい。愛する人に愛されて生きていきたい。それは愛に最高で無限の価値を見出すこの国の人にとっては、一番の望みだ。ラヴィソンはそういった素養がないので、パランが貸してくれた恋愛小説にもイマイチ共感できなかったのだけれど。
「まあ大変。わからないことは、よろしければお教えするので、おっしゃって?」
「うむ……パランはあの本にあったような、平民の感情や行動が、理解できるのだろうか?あいにく僕はまだ平民になって日が浅く、であるから理解が及ばぬようである。しかしパランは王族であるのに、それができるのであれば大変な努力であっただろう」
「いいえ、ラヴィソン。愛に身分は関係ありませんのよ」
「さようか」
「ラブちゃんの国では、愛し合う二人はどうするんだ?」
アンの美味しい手料理を口にして、ルイの緊張も緩んできたようだ。腹が多少膨らんだのか、饒舌になりつつある。普段にはない大食漢の出現にアンもうれしい悲鳴を上げている。
「どう、とは」
「好きな人ができたら、どんな感じかなって」
「祖国にいた頃にそのような話を聞く機会がなかったので把握しておらぬ」
うーむ、手ごわい。
そこにいたラヴィソン以外の、側仕えたちも含めた全員がそう思った。プランスもパランも王族とはいえ、恋愛は尊く愛は至宝であるという概念が生まれる前から植えつけられているので、そういう話をすることに抵抗はあまりない。あけすけであるのは下品だけれど、愛のすばらしさは語りつくせないものだ。できることなら、この異国から来た美しい友人にもそれが伝わればと思う。そんな思いが身分を超えて、友人四人のこころをがっちりと結んだ。兄弟は意を得たようにラヴィソンに向かって矢継ぎ早に言葉をかける。
「ラヴィソンの国では、恋愛禁止なの?」
「そのような法律はない。不貞を禁じるものはあったように思うが」
「そっかー。じゃあ、誰と誰が愛し合ってもいいんだね!」
「法律的に問題はなかろう」
「愛し合わないと、結婚できないしね」
「婚姻は、様々な情状を勘案せねばならぬことである。従って条件の合う者同士の見合いが一般的であろう」
「えーと、貴族とか王族じゃなくてね、庶民平民の話。ラヴィソン、庶民はあんまり見合いとかしないだろ?」
「見合いをせねば、どのように婚姻に至るのか」
「恋愛、だろ?」
「仮に恋愛を経るとして、その相手は見合いで得るのではないのか」
「出会いですわ、ラヴィソン!皆、その出会いを待っているのです!運命の!」
パランがその白く小さな手を握りしめて一喝する。ラヴィソンは、以前彼女も一緒にいた席で聞いた、別の友人の出会いの話を思い出していた。しかしああいう出会いはやはり一般的ではないように思う。だからこそ、平民の生活に造詣の深いパランであっても実現できていないのだろうと。
男子はどうしたものかと顔を引きつらせる。ここはやはり、男子特有の下ネタ系で攻めるべきではなかろうか。そう考えはしても可憐で高貴なお姫様のパランの前では憚られる話になるのでさすがに実行には移せない。そう思っていたら、アンにニコニコと料理がおいしいと伝えていたプランスが、大真面目な顔をしてラヴィソンに言い放つ。
「え?ラヴィソンの国、恋愛しないの?好きな人と、イチャイチャしないの?」
さすが次期国王!愛の国を背負って立つべきお方!未来の恋愛大魔神!!
兄弟はプランスの快挙に快哉を叫ぶ。もちろんこころの中で。言われたラヴィソンはきょとんとした顔で首を傾げる。
「イチャイチャ……フキフキとは、別であるな?」
「フキフキの方が、状況によっては難易度高め」
「さようか。では、イチャイチャとは」
「うーん、こう、好きな人と、戯れあう感じ?」
「戯れ……ふざけるということだろうか」
「ちょっとちがーう」
殿下、恐れ多くも殿下が先陣を切ってくださったその突破口、無駄には致しません!情けなくも出遅れました我々が、あとに続き援護させていただきます!!
おもむろにルカが、ラヴィソンの方へ身体を向ける。
「ラヴィソンの国では、愛情表現はどうするんだ?」
「どう、とは」
「愛してる人と、どう過ごすかってこと」
「どう、とは」
「好き好き大好き愛してる!ってなった二人が、その気持ちをどうやって身体で伝え合うかってことだよ。言葉だけじゃ足りないだろう?」
誰も本人に確かめたりはしないけれど、彼が身分の高い家の出であることは、周知の事実だった。だから、例えば見合いでしか出会いが起こらないと考えることを"普通"と考えるその価値観は独特なもので、そうではなく、一般の庶民たちの間で花が咲く恋愛事情というものがあり、できればそちらが"普通"なんだと教えたい。でないと、あのでかい図体の馬の扱いに長けた男との蜜月など程遠いだろう。あのでかいのも、こういうことの機微にはとことん疎いのだから。誰かと愛し合うことは、とても楽しくしあわせなはずなのだから。
ラヴィソンは思案した。この国の人間はよく愛という目に見えないものの概念を口にする。そのことは何度も説明を受けているので理解しているつもりだ。ただ、それはこの国に限られた独特なものだと認識していたので、自国の文化や風俗に当てはめたことはなかった。
とても大切に大事に思う相手ができ、秘めてきた胸の高鳴りをその相手に伝える場合……?
ラヴィソンは自分の知識の中に、ようやく、王族には認められていない、自分の感情や好みで添う相手を選ぶ制度を思い出す。
ああそうだ。あれが平民の恋愛というものだったはずだ。
そしてそれにまつわる諸事は、学んだ当事の幼いラヴィソンにとって、とてつもなく密やかで甘く、いかがわしい、人目を憚るものだと植えつけられていた。だから、頭に浮かんだ途端に、さっと顔が赤らんだ。
もちろんそれを見逃す周囲ではない。
「お?ラヴィソン、顔が赤くなったぞ」
「こりゃ珍しい」
「そなたらの質問については、みだりに言葉にするものではないと習っている」
「でもほら、な?異文化交流だよ。ラヴィソンとこでのやり方と、うちのやり方と、違ったらやっぱり教えあうほうがいいと思うし」
「それは、なぜ」
「ラヴィソンの知ることがすべてではないからさ。だろう?教えあいっこ、しようぜ」
「……うむ」
確かにルカの言うとおりだ。この国の平民として生きていくのであれば、それなりの習慣などを理解する必要があるし、それに倣うべきだろう。本で得られない知識なのであれば、友人たちを頼るのは非常に有意義に思える。きっとそういうことの書かれた本は禁書であろうから。
ラヴィソンは恥ずかしさを堪えて、自分の知識を披露した。
「こう、意中の相手と、二人になるのだ。人のいないところで、である」
「うんうん」
「……そこまでは、よいか」
「え?あ、うん。いいよ。俺らと一緒」
「さようか。したことは、あるのか」
「え?ああ、好きな人と二人に?えーっと……」
「あるのか」
ラヴィソンの黒い瞳が、友人をじっと見つめる。
待って、ラヴィソン。まだ二人っきりになるかどうかのくだりだよね?全然イチャイチャ始まってないよね?そこは、うん、えーっとね。
ルイは曖昧な笑みを浮かべて首を振った。
「……ない。ないね。まだない」
「さようか。うむ、とても、迂闊には致せぬので、それはそうであろうと思う」
「だよねー……、で?」
「物陰などの、その、万万が一にも見つからぬ場所に潜み」
「うん」
「手を、両方の手を取り合い」
「うん」
「身体を、寄せ合い」
「うん」
「頬、頬を、その、く、くっつける、のだ」
「……頬を」
「うむ……」
「……ほう」
友人たちは沈黙した。ラヴィソンの顔は真っ赤で、美しい手でヒラヒラと風を送っている。で?それで終わりなの?マジで?
「……ラヴィソン」
「そなたらが言えと申すから、述べたまでである。本来このようなことは秘すべきで、妄りに話してはならぬことである」
「…………そうか。教えてくれてありがとう」
「うむ。よいな、あまり人に言うてはならぬことぞ」
ああ、愛の神様。どうかこの美しい友人に、愛の奇跡が受け止められない程起こりまくりますように。
給仕をしていた側仕えたちも、顔には出さないものの、驚いていた。こんな認識で、どうやってフォールと夜を過ごしているんだろう。
「ラヴィソン、口づけはどうなんだ」
ルカが負けじと、別の突破口を探す。そうだ、どんな文化でも、愛を囁くなら口づけるだろう。
「どう、とは」
「したことあるの?」
「ない。しかし、あれは何かを誓ったり敬意を表したりする行為である。僕はまだそのようなことを致した事がないので、必然的に」
「いやあぁ……」
「じゃあ仮に、口づけは、口と口だよ?そういう口づけは、人前で出来るの?」
「口づけは、先ほど申した諸事と同じで、人前でするものであるという認識である。誓いや敬意は個人のものではあるが、見届けてもらうほうが何かとよいことがある。しかしそういう場合は大体靴や手や、なにか大切な物に唇を寄せるのが一般的であり、口に口づけというのは聞かぬ話であるが」
「ほっぺたぴったんこは、人前ではダメなの?」
「ルイ、そのように破廉恥なことを言うてはならぬ。ご婦人の前であるし、先ほど教えたあれは、見られては憤死も覚悟の所業である」
「不思議な国だよなぁ……」
「ラヴィソンが不思議なだけだと思う」
ラヴィソンは至極真面目にルイを諭しつつも、まだ頬が熱くて、そんな頬を誰かに寄せているところなど、想像もできなかった。王族にはそもそも、そんなことは許されない。最初から周囲が認める相手としか会うことなはいし、結婚ともなれば当然本人以外の人間が話し合いで決めて相手を探してくるものだ。だから人目を避けて逢瀬を重ねることなどありえない。そしてそうやって夫婦となれば、国に管理されているも同然で、元々幼いころから裸を見られることは日常であるし、性行為において準備段階から本番、後始末まで世話されることは当たり前のことだと考えている。そういう、祖国の王宮の常識については何も恥ずかしくなく淡々と語り、ラヴィソンは友人たちを驚愕させた。
側仕えたちは、だから夜伽の前後もケロッとしてたのかーと納得しながら粛々と給仕を続けた。
五人が食事を終えて、お茶をすすめられている頃、ようやくフォールがやってきた。ルイとルカだけだと思っていたのに、プランスとパランがいることに驚き、食堂にさえ入らずにその場で頭を下げて控える。
「構わぬ。フォール、僕の友人を紹介するので近う」
「は」
もう一度深々と頭を下げてから、フォールはラヴィソンの傍へ近づく。そして斜め後ろに立って俯き目を伏せた。ラヴィソンはパランへ顔を向け、フォールである、と紹介した。
「はじめまして、フォール。お顔をよく見せてくださるかしら?」
「は」
本当はラヴィソンの命令が欲しいところではあるけれど、相手は大切な主の友人なのだから従うべきだろう。フォールはパランの方に顔を向け、でも彼女の顔はあまり見ないようにした。パランはその気遣いに安心しつつ、ラヴィソンの懐刀だか腹心の友だか最愛の人だか判じかねる人物を眺める。大きな身体に不釣り合いなほど細い鼻梁と白金の長い髪が印象的だ。逞しくて、謙虚で穏やかそうな好人物。パランはそう思った。
「プランスのいとこのパランですわ。どうぞ、よろしく」
「お名前をお聞かせいただき、恐れ多いことでございます、パラン内親王殿下。フォールでございます」
「この国において、王位継承権のない王族は殿下という呼称は頂きませんの。ですから、どうかそうお呼びになるのはおよしになって?」
「大変失礼いたしました、パラン様」
「いいのよ、お気遣いを嬉しく思います」
パランは優雅に微笑んで、ラヴィソンに、ようやくお会いできたわとはしゃいでみせる。
「うむ。偶然ではあるが、うまく紹介できて良いことであった」
「フォールは、馬の扱いがお上手なんでしょう?素敵ね」
「同感である。おかげで僕の乗馬の技術は中々のものとなったのだ」
「あら、私も中々ですのよ?今度一緒に遠乗りでも致しましょう」
パランがコロコロと笑い、プランスもにこやかにフォール久しぶりーと声を掛け、彼らのお茶席がまだ続いているうちに、フォールは食堂を辞して側仕えたちが食事を摂る部屋で、アンが用意したおいてくれた昼餉を食べた。ありがたい。相当の難産で、生まれるのも時間がかかったけれど、生まれてきた仔馬の無事を確保することにも手こずったのだ。幸い今は元気に乳を飲んでいるのでもう心配はないだろう。馬の持ち主である風呂屋の主人や、助けに呼ばれたフォールを始めとした馬に慣れた軍人たちも、緊張でとても疲れてしまった。その御礼として風呂を貸してもらえたので、フォールは身綺麗な状態でラヴィソンの屋敷へ来られたから逆に助かったと思っている。
「いつも美味しい食事を戴きまして、お礼のしようもありません。本当にありがとうございます」
「あら、いいのよ。たくさん作る方が上手にできるの。それに、フォールはもううちの家の人みたいなものだから遠慮は要らないわ」
アンがさらっと本音をカマしたけれど、フォールはそれには気付かず深々と頷き、確かに同じ主にお仕えする同志ではあると納得していた。フォールの考えがわかってしまうアンは、まだまだダメねぇと笑うだけだった。アンに頭を下げてフォールが食堂へ戻ると、ラヴィソンの友人たちが帰り支度をしているところだった。プランスは、長居しちゃった、やばいやばい、と焦った様子だ。彼も忙しい身の上らしい。
「じゃあね、ラヴィソン。今日はお邪魔しちゃってごめんね。でもとっても楽しかったよ」
「うむ。僕もである。遠慮せずいつでも来ておくれ。友人と会うのはとてもよいことである」
「あら、フォール。私たちもう失礼しますの。どうぞまた、お会いする機会がありますように」
「ルイとルカも、仲間に入れてくれてありがとう。君たちの忠誠を嬉しく思うよ」
「は。本日は大変光栄なことで、今後とも一層励む所存でございます」
フォールはただひたすら頭を下げて、主と、この国の王族に謙る。ルイとルカもさすがにいつもと様子が違うので、おかしいような気分だった。やればできるものなのか、であればやはり、ラヴィソン様への態度も改めさせねば。そんな風に考えながら。
友人たちが皆帰ってしまい、ラヴィソンは賑やかだった空気が少しずつ落ち着いていくのを感じた。ふう、と一つ息をついて、改めて傍に残った大きな男を眺める。もう昼下がりだ。ラヴィソンにとってフォールの非番の日は貴重で、だけど本日はゆっくりと話す時間がいつもよりずっと少ない。前回もそうだったので今宵はやめておこうと思ったのだけれど、夜伽をと、フォールに言ってみよう。ラヴィソンがそう考えていると、フォールがその場で片膝をついて頭を下げる。
「ラヴィソン様」
「何か」
「本日、私の住む部屋の近くの風呂屋の馬が仔を産みました」
「めでたいことである」
「は。それの手伝いをしており、こちらへ参じるのが遅くなりましたことをお詫び申し上げたく思います」
「構わぬ。出産は一大事。フォール程馬の扱いに長けた者であれば、それを手伝って欲しいと望むのが通常であろう。その働きは甚大であったことと思う。ご苦労であった」
「ありがたきお言葉に、恐縮の極みでございます。つきましては、そのことで非番が半分潰れましたので、明日も休んでかまわないとのことでございます。そのように、させていただいてもよろしゅうございますか」
そのように。つまり、明日もここへ。ラヴィソンは嬉しくて、フォールは見ていないのだけれどコクコクコクと小さく何度も頷いた。そして、そう望むと、声に出す。そうしたらフォールがようやく顔を上げて、少しほっとしたように笑ってラヴィソンを見た。
「ありがとうございます、ラヴィソン様」
「うむ。僕も、フォールとの時間が増えたので嬉しいことである」
「まあああ、フォール!明日もお休み?だったら今夜はここにお泊まりなさいな!ね!ゼンさん!ゼンさーん!フォールが明日もお休みですってー!!だからお泊りですよねえええ!!!」
食堂の片づけをしていたアンが、辛抱たまらず二人に声を掛ける。とうとうお泊りだわ!なし崩し的に住めばいいのよ!アンは口から洩れそうになる本音を押し殺し、ゼンを呼びに軽快な足取りで食堂を出ていく。あっけにとられた主従は、しばし彼女の去った方角を眺めていたけれど、先に我に返ったラヴィソンがフォールを見つめた。
「無理がなければ、アンの言うとおりに」
「は……お側仕えの方々の、私への過分なご対応には恐縮しきりでございます」
「よいのだ。みな、フォールがいると喜ぶ」
「寛大なお言葉に感謝を申し上げます。そのようにさせていただけることを、しあわせに思います」
「うむ」
その後、最近頻度が下がっていた乗馬の練習をした。馬たちもフォールの顔を見て機嫌がいいようだ。もちろん、ラヴィソンの機嫌もいい。パランがフォールを褒めてくれたし、彼らとの食事の時間も楽しかった。少し、恥ずかしい思いはしたけれど。
広い庭の周りをゆっくりと馬を歩かせながら、フォールが実は、と改まった声を出す。
「近々、自分の馬を所有できることとなりました」
「さようか。めでたいことである。良い馬と巡り合えたのであるな」
「は。色々と探しまして、ようやく。今度、乗って参ります」
「楽しみである。その馬にも、僕が名を与えてもよいだろうか?」
「ああああ、ありがとうございます!ぜひ、ああ、あの、卑しいようなことでお恥ずかしいのですが、ラヴィソン様から頂戴できる名ほど良いものはありませんので、ですがどうお願いをすればよいかと」
あまりないフォールの慌てぶりに、ラヴィソンはきょとんと目を見開き、そして笑った。あはは、と少し声を立てて、朗らかに。フォールは手綱を握りしめたままその様子に見惚れ、一瞬恥ずかしさを忘れた。
「名など、欲しければ言えばよい。すでに平民である僕がつけたところで値打ちなどなかろうが、僕は馬が好きなので、かわいがる馬に自分で名を与えることも好きである」
「ラヴィソン様に戴く名であれば、値打ちは一等でございます」
「うむ。ではその馬を見てから考えよう。何かよい名が浮かべばいいのだが」
「ラヴィソン様に戴く名であれば、よい名であるに決まっております」
「さようか」
であればいい。
ラヴィソンは唇に笑みを残したまま、愛馬の首を撫でてやる。本日も、よい一日を過ごしている。しみじみとそう噛みしめながら。
やがて楽しい夕餉が始まり、それが終わるとラヴィソンがフォールに今宵夜伽をと言い残して食堂を出ていった。フォールは立ち上がって頭を下げて、主を見送った。そして、調理場の方から出てきたダンが、ラヴィソンの後を追う前にフォールに向かってパチンと片目をつぶって見せた。
実は夕餉の始まるより前にダンに呼ばれて、夜伽の後のラヴィソンの寝支度と湯浴みを頼まれたのだ。ダン曰く、事後の様々も含めて夜伽だと思うと。そう言われると、確かにそのような気もして、フォールは考え込んだ。
「そのー、なんだ、あれだ。本日はいかがでしたかとか、食事のあとアンさんが必ず聞くだろう?夜伽もやっぱりああいうの必要だと思うんだよね」
「なるほど」
「だったら、湯殿で汗をお流ししながらそういうのって、合理的だろう?」
「なるほど」
「それに、あの、あれだ。フォールのおつとめがいつ終わるかわからないから今は待機しているけど、俺たちも、フォールが坊ちゃんの就寝までお世話してくれるとなれば、安心して他の仕事が終われば休めるし」
「なるほど」
「どう、かな?」
フォールは太い腕を組んで、黙り込んだ。この件に関しては、ダンの独断ではなく、もちろんアンとゼンにも了解を得ている。ゼンは少し難しい顔をして見せたけれど、まあ、いいでしょうと頷いてくれた。
フォールがおもむろに口を開く。
「俺はこのお屋敷の方々が、俺にまでとても親切なので申し訳ないと思っているんだ」
「全然気にする必要ないぜ?みんなフォールが好きなんだから」
「本来静かにお過ごしになるこの場所に、俺みたいなのが入り込むことで、君たちの手も煩わせているだろうし」
「全然そんなことないって。坊ちゃんも楽しみにしてるんだし」
「だから、少しでもお手伝いができるのはありがたい。でも、ダン、君の仕事を横取りするような気がして心苦しい」
「…………いやもう、ほんと、やることいくらでもあるし、フォールがずっとこの家にいてくれれば、やって欲しいことなんて他にもいっぱいあるんだけど」
「そうなのか?人手が足りないのか」
「余裕はない。坊ちゃんのために、して差し上げたいことはキリがない」
「同感だ。手伝わせていただく」
「うん、それでさ」
ここからは、俺の独り言みたいなもんなんだけど。
ダンがそう断ってから少し声を低くした。ずっと気になっていたことがあった。以前ラヴィソンのお供でフォールの職場へ行ったとき、フォールへの秋波をチラチラ感じた。フォールは堅物ではないので、押されたら押し倒されるんだろうという気もしている。
「あのさ、えーっと、大きなお世話だろうけど、坊ちゃんの夜伽をつとめるようにもなったんだし、綺麗な身体で、いてもらえると助かる」
「臭いか?風呂は毎日入るんだが」
「いやそうじゃない。フォールは臭くない。今日は特にいい匂いがする。じゃなくて、なんていうかな……仕方ない部分も、あるとは思うんだけど、そう、大切な人を守るために、剣を握り、相手を倒さなきゃいけない。だけど、血で汚れた手で、大切な人を抱きしめられないだろう?」
「……抱き、しめ……?ないから……わからん。すまん」
「……あー……うん、なんかごめん。忘れてくれ」
ダンの例えは全く意味をなしていなかったし、当然フォールにも言いたいことは伝わらなかった。ダンはただ、フォールがそこら辺の人間と軽率に関係を持つのは控えて欲しかっただけなのに。
フォールはそんなやり取りを思い出しながら、ゼンとアンにご馳走様でございましたと頭を下げる。
「本日も、とてもおいしい食事でした。あの、ラヴィソン様は、あまり進んでいらっしゃらなかったようにお見受けいたしましたが……」
「お昼にね、お友達の方々がとてもたくさん食べていて、それにつられていつもより多めに召し上がってたからだと思うわ。大丈夫よ」
「アンさんは、なんでもお見通しでいらっしゃるんですね」
「そりゃそうよー坊ちゃまのこと、大事ですもの。ところでフォール、ダンから聞いてる?」
「はい。いつも、こちらで様々御厄介になるのを心苦しく思っておりましたので、少しでもお手伝いができることはありがたいです」
「やだわ、そんなにかたく考えないでね。私たちに気兼ねなく、ぼっちゃまとその……そう、ゆっくり過ごしてくれればいいと思っただけよ。しかも今日はお泊りですもんね!」
「はい。では、行って参ります」
「はい、張り切ってどうぞ!」
ゼンは、客間に向かうフォールに同行し、今晩は部屋にあるものは何を使っても構わないので、ゆっくり休んでくださいねと説明をする。フォールは毎度のことながら完璧な準備に感心しながら、ありがとうございますと頭を下げ、湯浴みをして、いつもより何となく念入りにあちこちを洗い清めてから、ラヴィソンの部屋へ向かった。
何度目かであっても、毎回もちろん緊張はする。繰り返し寝所へ呼んでもらえるのだから一応の務めは果たせているのだろうけれど、今宵もそうだとは限らない。だからフォールは毎回一生懸命だ。
「失礼いたします、ラヴィソン様」
「うむ」
ちょうどダンが、ラヴィソンの夜着の襟元まできちんと整えているところだった。彼は満足げに頷いて深々と頭を下げると、足音も静かに部屋を出ていった。つくづくよくできた男だと、フォールはダンを尊敬さえしている。
フォールはいつも通りラヴィソンの傍に寄り、声を掛けてから、たった今着せられたばかりの夜着の腰ひもを解いて美しい青年を裸にする。そうされてからラヴィソンは寝台に上がり、フォールを近う、と呼ぶのだ。
ラヴィソンは、明日もフォールがいるとわかってはいても、今日はまだ話し足りないような気分だった。だからと言って夜伽の最中は二人ともほとんど無言だ。少しでもその不満を解消すべく、いつもフォールの胸板に背中を預けるところを、今宵は向かい合わせになってフォールの太ももの上に座った。フォールは、どうかなさいましたか?静かに問うだけだった。
「こちらを向いていた方が、よいような気がした」
「さようでございますか」
「うむ。フォールの顔も見えるし、こう、肩を持てば、自分の身体も支えられよう」
「どうぞ、ラヴィソン様のご随意に」
フォールの顔が見えることは満足したけれど、背中を包むあたたかさがないことは残念に思った。致し方がない。フォールは一人しかいないのだから。
フォールはいつも通り自分は夜着を着たままで、懐紙を手元に寄せ、香油を手のひらで温める。そして、失礼いたしますと、ラヴィソンの股間に手を伸ばす。
最近はダンが風呂場で出しますかと聞くこともなくなった。フォールの手淫にも慣れ、すぐにも訪れるだろう重たく甘い快楽を想像し、ラヴィソンはさっそくフォールの肩に両方の手のひらを乗せて自分を支えた。フォールはラヴィソンの顔を見上げたりはしないので、必然的に目の前には彼のなめらかな胸が近づく。本当になめらかだった。骨が浮くほど痩せているわけでもないけれど、凹凸ができるほどの筋肉はない。そもそも肌がとても綺麗だ。裸を見たことも、湯浴みのお世話をしたことも、着替えのお手伝いをしたこともある。だけれど、こんなに間近に見たのは初めてだ。そしてフォールは気づいてしまった。あるべき突起さえ、ないことに。
これは
フォールの手は粛々とラヴィソンの陰茎を育てつつあり、ラヴィソンもそれを受け入れて少し息を弾ませている。いつもなら彼の様子を気遣いつつ強弱をつけ緩急をつけるのだけれど、フォールはそれがもう気になって気になって、気も漫ろだった。
ラヴィソンの乳首が見当たらないのだ。男の乳首などささやかで、だけど、間違いなく誰にでもついている。それが、ない。思わずわずかに顔を寄せ、さらに凝視してみれば、あるべき場所の肌が他よりも少しだけ色づいている。だから、あるはずなのだ、そこに。なのに。
陥没か
ごくまれにあると聞く。乳首が肌に埋まり、普段顔を出していない者がいると。まさか、すべてにおいて完璧なラヴィソンに、そのようなことが起こっているとは信じがたい。いや、彼の慎ましさの現れなのかもしれない。
「失礼いたします」
次の瞬間には、フォールはパクリとラヴィソンの乳首が埋まっているであろう肌の辺りを口に含んでいた。突然のことにラヴィソンはびっくりして、せっかく立ち上がりつつあった陰茎が少し縮む。何かついていたのだろうか?そう聞くよりも先に、体験したことのない感触に、全身の肌が粟立つ。フォールが、舐めたのだ。ラヴィソンの乳首、いや、乳輪を。大きな舌でゆっくりと、口の中で舐めまわされる。その生暖かさとわずかなざらつきは、ラヴィソンの萎えそうだった陰茎を勢いづかせた。
ラヴィソンにはわからなかった。なぜフォールがそんなところを舐め、時々カポッと大きく吸い付くのか。ただ、それをされると腰が浮くような感じがした。ぞくん、と何かが背中を這いあがり、思わず声が出て、大量の先走りが溢れる。フォールはそれを繰り返し、ラヴィソンも小さい声を上げ続けた。
ラヴィソンは得体の知れない感覚に耐えるようにグッと身体に力を入れて膝立ちになりつつ、フォールの衣を必死で握りしめる。いつも通り丁寧な手淫。初めての乳首への刺激。その刺激は徐々に変化していく。フォールは無心だった。ラヴィソンの引っ込み思案な乳首を救出せんがため、無心に舐め、吸う。少し綻んできた気配に、舌先を使ってくすぐる。ラヴィソンは堪らず身体を震わせ、前屈みになり、何度も声を上げる。しかしフォールの巨躯にもたれるような格好になるだけだ。自分でもどうしたのだろうかと驚くほど、陰茎からは透明の粘液が溢れ続けるし、フォールの触れるすべてが快感に痺れる。頭の中が霞むような思いだ。実際、もう何も考えられないし、自分の身体を支えることさえできなくなっていく。もちろんフォールの腕が、どんな時でもラヴィソンを支えるのだけれど。
ああ、出そうだ
そう思ったのは、射精感に苛まれるラヴィソンではなく、美しい青年の乳首の救出に成功しかかっている元護衛、フォールだ。舌先に感じる存在。大きな口を小さく窄めて、その一点をキュッと吸い上げる。ぷちりとした乳首がようやく顔を出した瞬間、その小さくも強烈な刺激に、ラヴィソンは背を反らせて思い切り射精した。いつもは懐紙を宛がうのだけれど、乳首救出に熱心だったフォールがそれを失念したため、ラヴィソンの精はフォールの衣に飛んだ。夜伽をしているのだから、精液はいくらでも零れるものだ。特に気にはならなかった。
フォールはラヴィソンが気をやったことを把握しつつ、ゆっくりとようやく主の胸元から顔を離す。舐られ吸い続けられたラヴィソンの乳輪はほんのり赤みを帯びてぷくりと膨らみ、その真ん中に小さな小さな乳首が立っていた。ラヴィソンはいつも以上の絶頂感に、身体の震えが治まらず、全身の血が巡る音がいやに大きく響いているような感覚だった。呼吸は乱れ、何度も大きな声を出した気がする。フォールの見つめる先を辿れば、見慣れた自分の平坦な胸に、小さな突起があった。これが、この状態が、正常なのかどうかはわからないけれど、とにかくそこが強烈な快感を誘うことだけは身をもって理解した。
フォールはラヴィソンの乳首が現れたことに満足した。そして、小さなそれがまた隠れてしまわないように指先で優しく押し潰したり摘まんだりし始めた。ラヴィソンは再びの愛撫に身を捩りつつ、フォールは自分の乳の先になぜこんなに執着するのかわからず、動揺した。フォールはと言えば、次は左だなと、もう片方の乳首の救出に取り掛かる。ラヴィソンはいよいよたまらず、生まれて初めての感覚にただひたすら喘ぎ続け、いつもよりも多く射精した。
「ラヴィソン様、お湯加減はいかがでございましょうか」
「うむ……」
最後の方は、惰性で射精していたような気がする。陰茎を擦られることへの反応ではなく、吸いだされた乳首への刺激と、その刺激の残滓がいつまでも消えず、積み重なって吐き出しても吐き出してもおさまらなくなって、トロトロとずっと垂れていた。だから本当に疲労困憊で、湯殿にもフォールに抱えられて運んでもらった。不覚の極みであるけれど、不慣れなのだから仕方がない。フォールは美しい主を恐る恐る、背もたれのないひじ掛けだけの低い椅子に座らせ、テキパキと湯の温度を確認し、ラヴィソンの足元を濡らしてお伺いを立ててくるけれど、ラヴィソンはそれにまともに答えることさえできない。ごく小さく頷くのみだ。
フォールは、事前にダンに指南されていた通りに、夜伽の前に湯浴みは済んでいるから、肌に泡をつけて洗うのも汗を流す程度でいい、湯船に入るかどうかは本人に確認をして、もし入るのであれば湯あたりをしないように気を付ける、そのようなことを頭の中でぐるぐる考えていた。
なんだか上等な香りの漂う石鹸を丁寧に泡立てて、優しく手のひらで背後から洗い始める。首や肩、背中を泡だらけにしてから、胸に手を回して撫でれば、乳首の存在を感じたので、そこは念入りに洗う。フォールとしては自分が舐めてしまったから綺麗にしようという気持ちなのだけれど、ラヴィソンにとっては敏感なそこを泡まみれの指で摘ままれては、力なくうな垂れている陰茎がまたピクピクして、これ以上は無理だと慄くしかできない。乳首以外も、フォールは自分が触れたところを特に重点的に清潔にしようとするので、必然的に股間も丁寧に洗われて、ラヴィソンは湯船につかる頃にはさらにぐったりと疲れてしまっていた。
たっぷりとした湯に身体を預け、ほう、とラヴィソンは息を吐く。湯船の中にもちゃんと座る場所が設けられていて、そこに収まってしまえばしばらくフォールのすることはない。手桶などを片付けているその巨躯は、いまだに夜着に包まれたままだ。ラヴィソンはそれが不思議だった。
「……フォールは」
「は」
「フォールは、汗を流さぬのか」
「後程、客間の方の湯殿でそのように致します」
「僕は今湯につかっているだけであるので、ここで済ませればよいのではないか」
「は」
フォールが少し頑ななまでに夜着を脱がないのは、自分の身体が見苦しいので、ラヴィソンに見せたくないからだ。美しい主の美しい目に、映るべきではない醜い傷跡。それも一つや二つではない。それでも、主の勧めだ。ラヴィソンに頭を下げてから裸になり汗を流す。ラヴィソンの斜め後ろの方で、わざわざ振り返らなければ主の視界にはほとんど入らない隅の方で遠慮しながら。ラヴィソンも、フォールにはフォールの都合があるのだろうと考えるし、裸が見たかったわけではないので、ゆらゆらとお湯に身体を任せて時々長いまばたきをして温まる。そして、長かった一日を振り返る。友人たちとの食事。会話。フォールと馬に乗った。フォールの新しい相棒に名を授けると約束をして、一緒に夕餉を。夜伽を終えて、ダンではなくフォールが寝支度をしてくれるという。本日はこの屋敷に泊まるからと。
「フォールは、祖国を懐かしく思ったりはせぬのか」
ラヴィソンはぽつりと、背後にそう問いかけた。
日中、ルイとルカはラヴィソンに自分たちの家族の話をしてくれていた。プランスとパランの、王族としての振る舞いを見た。だからだろうか。澱のように自分のどこかに蟠る、祖国への複雑な思いがいつもよりも自意識の傍まで浮かんできていた。見ないふりをしていれば、また沈んでいくはずのそれを、なぜか零してしまう。どんな答えを返されたところで、何にもならないとわかっているのに。
ラヴィソンにとって、もう帰れない、帰ったところで居場所のない国。王宮の中しか知らず、"国"というものがどういうものかもわからず、それでも漠然と、大きく歴史深く、誇りだった祖国。
フォールは美しい青年の静かな問いの真意を計りかねた。そもそも、主の真意など知る必要はなく、ただ従順であるべきだとしか思わないけれど、ラヴィソンの背や肩をそっと見つめ、彼のしあわせを祈る。
「……時々、昔食べたものを、食べたいような気が致します」
「さようか」
フォールはラヴィソンを促して湯殿を出て、彼の身体を綺麗に拭きあげて寝巻を着せた。部屋へ戻り、背の高い綺麗な硝子でできた杯に水を入れてラヴィソンに差し出す。ラヴィソンはそれを飲みながら長椅子に腰を下ろし、フォールが寝台を調えるのを待った。
やがてフォールが頭を下げて、どうぞお休みくださいと言うと、ラヴィソンは重だるい身体をゆっくりと寝台に横たえて、フォールに上掛けをかけてもらう。
「…………恐れながら。取るに足りないような戯言を申し上げることをお許しくださいますでしょうか」
「許す」
フォールが許しを願って、ラヴィソンが与えなかったことはないかしれない。いつも何も聞かず、すぐに許すから好きにするがよいと言う。だからこそ、フォールはラヴィソンのことばかりを考えて行動する。
枕もとの灯りを小さくし、ラヴィソンから受け取った空の杯をそっと銀盆に戻しつつ、フォールは言葉を探す。
「……私には、"国"というものがもう、よくわからなくなりました。自分が生まれ育ったのはこことは違う遠いところです。それを確かに祖国であると、そう思ってはおります」
「うむ。僕も、同感である」
「しかしもしも仮に、"国"……"祖国"を、"こころの拠り所"とするのであれば、私にとって、ラヴィソン様のおられる場所がそうです」
「……」
「ラヴィソン様がおられるところが、私のこころの休まる場所でございます。他に行きたいところなどなく、願わくば、お傍におりますことをお許しくださいますよう」
「傍に、いるがよい」
「これ以上の僥倖はございません、ラヴィソン様。懐かしい場所はあれど、私にとっては、今ここが何よりも大切な場所でございます」
「それは、僕がいるから、であるか」
「さようでございます」
フォールは跪いて大きな身体を屈め、そのような感傷に耽ることを、重ねて寛大なるご慈悲を賜りたく、伏してお願いを申し上げる次第でございますと頭を深く下げた。ラヴィソンは薄暗い天井を眺めながら、自分はここにいてもいいのかもしれないと、いてもいいのだと言い聞かせる。心配など、しなくてもいいのだ。
「よい……かまわぬ」
優しい人に囲まれて、何不自由なく暮らすこの場所を、ラヴィソンももちろんこころから大切に思っている。それを、フォールも同じように感じてくれているのだと思えば、翳りそうな気持ちが晴れていくような思いがした。ここが、自分の居場所なのだ。
「……祖国とは……ふるさととは、自らが時間を掛けて築くものであるのだろうか」
「私には、わかりかねます。どうぞお許しください」
ここがいつか、自分のふるさとであると思える日が来るのかもしれない。そうしたら、とてもしあわせな気分だろう。傍にはフォールがきっといるはずだから。
「……明日も、フォールはここにいるのだな」
「は。大変ありがたいことでございます」
「うむ」
ラヴィソンは目を閉じ、フォールは灯りを消した。祖国を思う気持ちは、きっと違う形をしているのだろう。だけれど、今ここにある平和を大切にする。それはきっと、同じ強さでそう思っている。
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