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第5話

 いつもと変わらない朝。ミハナは作業場へ向かうべく支度をしていた。最近少し形になり始めた新作の試作と、すでに販売許可をもらっている商品の量産をしよう。昨日材料の棚卸をしたから、足りないものを仕入れるのに予算の割り振りをどうしようか。そう色々と考えていたら、涼やかな音色で呼び鈴が鳴った。人が訪ねてくる予定はないが、首を傾げつつ扉を開ける。そこは、いつもより暗かった。朝のうららかな陽射しを、来訪者が遮っていたからだ。 「どなたですか?」 「警察だ」 「え!?」 「あの噂は本当か?」  あの噂……?ミハナは、突然現れた図体のでかい、人相の悪い、洋装の不愛想な男を、顔を引きつらせながら見上げる。本当に警察関係者か?そう思うほど、どちらかといえば警察にご厄介になっちゃうような人種に見える。本人も自覚があるのだろう。ミハナが無言でいると、肩をすくめてもう一度口を開いた。 「俺が悪かった。ゆっくりやろう」 「はあ」 「俺は警察官だ。オオクマという」 「オオクマさん。おお、くま」 「俺の図体と名前の関係についての考察は不要だ。俺は今、あることを捜査している。君は、蝋燭に関してコトでの認可待ちをしている職人見習いのミハナくん本人か?」 「はい、そうです」 「よし。ミハナくん、君に確認したいことがいくつかある。君から事情を聴きたいし、君の自宅と、作業場の様子を見せて欲しい。協力してくれ」  オオクマと名乗る大きな熊みたいな風体の男は、野太い声で非常に紳士的な言葉を述べた。有無を言わせない強さはあるが、少なくとも居丈高で威圧的ということはない。むしろ少しのんびりした印象さえ与える。警察官だというけれど、コトにおける警察組織は非常に複雑で、オオクマが一体どういう立ち位置であるのかもわからないし、聞いてもそこは明かされないだろう。ミハナは、見上げながら頷くという至難の技をやってのけ、わかりましたと答えた。 「助かる」 「はい、でも、オオクマさんが本当に警察官であるかどうか、確認できればのお話ですが」 「賢明だな」  コトの治安はいい。なぜなら流入する人間の管理が行き届いているからだ。それでも、変な人はたくさんいる。コトに住んでいる人間は、そう簡単に知らない人間を信用したり受け入れたりしない。顔では笑っていても、腹の中では警戒するのが普通だ。ましてこの男は隣人でもお客さんでもない。ミハナはこぶしを握って、少し弱腰になりそうな自分を奮い立たせた。オオクマは、その大きな手で頭でも撫でそうなくらいの親しみを感じさせる微笑みを浮かべて、懐から身分証を取り出してミハナによく見えるように提示した。 「これの真贋まで疑われちゃあ、証明のしようがねぇけどな」 「いえ、間違いなく、本物でしょうね……すごーい……」  公職に就く人間の身分証は、特別な意匠の額におさめられている。手のひらほどの大きさのその小さな額は、職業ごとに様々な趣向が凝らしてあって、模することも禁じられているし、使われている素材も極秘で手に入れられない。もちろん、不正をする人間がいなくはないが、警察関係者の額はほかの職種に比べてもすこぶる精巧で、複雑に模様の入れられた織物と鉱石の彫り物の合わせ技。本物を拝ませてもらえてミハナの目が輝く。そのくらい芸術的な仕上がりであり、その印象がすでに、それが本物である証左だ。オオクマは、落っことさないでくれよと言いおいて、その大切な身分証をミハナの手に乗せてやった。心地よい重みと、手になじむ織物の感触、警察官としての透明性と鋭さを表すとされる細かく彫られた見事な鉱石の彫刻の冷たさ。どれだけ見ていても飽きない。きれいだ。初めて見た。触った。一級品とは、こうも違うのか。 「欲しいぃぃ……」 「そりゃ勘弁してくれ」  困ったように笑い、オオクマは身分証を返してもらう。ミハナはすっかりこのオオクマという警察官を信用した。よく響く野太い声と大きな体躯と笑顔と見事な身分証。どこに疑う要素があるだろう。さらに言えば、とてもいい人だと思った。結局はお坊ちゃん育ちなのだ。 「何か事件の捜査ですか?俺がお役に立てればいいんですけど」 「ああ、すまんな。とりあえず、部屋に入れてもらえるか?」 「はい。狭いですけど、どうぞ、お上がりください」 「ああ、悪いな」 「ちょっと待て」  快くオオクマを部屋へ招き入れようとしたその時、外から聞こえた声に、ミハナは勢いよく振り返る。そして、美しい芸術品を見た時とは全く違う笑顔を浮かべた。そこにはここのところ仲良くなった友人の情夫である金髪の男が立っていた。 「多岐の旦那!おはようございます!」 「おはよう、ミハナくん。クマ、お前ここで何をしている」 「こりゃ驚いた。君はこいつを雇えるほどの高給取りなのか?」 「まさか!全然です!ぴーぴーです!素寒貧のすっからか」 「彼は珠のの友人だ。お前は、何を、しているんだ」  今朝もいつもと変わらずかっこいい。多岐はミハナに軽く手を上げて挨拶を終えると、オオクマを厳しい顔で睨みつける。 「クマ、ここで何をしているのかと聞いている」 「警察官とっ捕まえて、行動を制止して質問するなんざ、用心棒ってのも随分乱暴な仕事だなぁ」 「俺の質問に答えろ」 「お前は何しに来たんだ?多岐、こんな朝早くにひよっこの家に」 「お前には関係ない」 「俺には質問する職務上の権利があって、お前には正直に答える義務があるんだぞ」 「うるさい。ミハナくん」 「はい!」  知り合いらしい大男二人の、静かな戦いを少しはらはらと見守っていると、多岐の視線がミハナに移った。ミハナは元気よく返事をする。多岐は少し、表情を曇らせている。 「そう簡単に人を信用してはいけない」 「ひょ、ひょっとして、オオクマさんは警察官じゃないんですか……?」 「いや、警察官だ、残念なことに。だが警察官という生業であっても、品行方正であるとは限らないんだ。わかるかい」 「はい……」 「ひよっこミハナくん、俺は品行方正な警察官だから部屋に上げてもらえるか?」 「あ、はい、あの、でも」 「品行方正だから無理強いはしたくないんだ。多岐も一緒に上げてくれ。そうすれば、一度で話が済む」 「え?」 「この男がここへ来た理由はきっと俺と同じだ。早耳であることは、四号さんとして優秀だからだろうな」 「はぁ……」  オオクマは間違いなく捜査権と強制力を持った警察官で、多岐にオオクマを排除することはできない。逆は可能だ。それでもオオクマは、多岐も同席していいと言った。この、風変わりな事情聴取に。どうしていいかわからず、ミハナが多岐を見る。多岐は、忌々し気にオオクマの後頭部を睨んでから、ミハナに頷いて見せた。 「えっと、お茶を」 「お構いなく、ミハナくん」 「やあ、清白のおぼっちゃんが淹れたお茶を戴けるとは役得だ」 「お前は本当に遠慮もへったくれもないな」 「遠慮で飯が食えるのか?」  あまり玄関先で長居をされてもご近所の目があるし、とにかく二人を自宅に招き入れ、茶の間に座ってもらう。押し入れから出した座布団を、これはいい品だとオオクマが褒めている。お茶の支度に台所へ立つと、開け放した襖の向こうから二人の美声が聞こえてくる。パタパタと用意して、お盆を携えて茶の間へ戻り、ミハナが慣れた手つきでお茶を淹れた。 「お二人は、お知り合いですか?」 「うちの仕事と多岐ん所の仕事は、現場が重なったりするからな」 「警察は警備の仕事の邪魔をするのが息抜きなんだ」 「いくら邪魔したってびくともしないんだよ、この男は。つまんねぇだろう?」 「仲がいいんですね。はい、どうぞ、ご一服」  綺麗な茶碗に、完璧な温度のお茶が淹れられ、それぞれの前に置かれる。ミハナもきちんと座り直して大きな男を交互に見た。多岐は律儀にありがとうとミハナに声を掛け、その頃にはオオクマは飲み干していた。本当に、仲がいい。多岐は厳めしいような近寄りがたいような雰囲気だが本当は割と気さくだし、オオクマは初対面だけれど多岐の力量を高く評価しているようだから。 「俺と多岐の仲はさておき」 「何かあるみたいに言うんじゃない」 「なくはないからな。でもまあ、さておき、本題だ」 「はい」 「家探しをしてもかまわんか?」 「やさがし」 「家探しだ」 「それは……どういう、理由で」 「クマ、貴様まさか説明を省くつもりじゃあるまいな」 「義務はないからな」 「チッ」  多岐が珍しく、行儀悪く舌打ちする。オオクマは警察官という一般名称で括られるような、普通の警察官ではない。何をするにも誰かの許可を必要としないし、誰かの権利を侵害する行為であっても当事者に事情を了解してもらう為の説明さえ免れる。特殊であって、特別。人当たりはいいが、油断のならない男。そして容赦はしない、普段は。オオクマは不安そうなミハナをじっと見つめて、ふうと笑う。 「俺は警察官だ。俺のやることはすべて正義の実行であり、結果として悪事を取り締まる。だから、誰にも事情をわかってもらう必要がない」 「はい」 「行動の一端がひどいように映ったとしても、それが真実ひどいことかどうか、説明するつもりもない。どう思われようと構わんからな」 「はい」 「でも、今日は美味しいお茶を戴いたし、君はとても協力的だから、説明しよう」 「はい!」 「恩着せがましいんだ、お前は」 「多岐、お前は少し小言が多い」 「なんだと?」 「そうだろ?」 「あの!」  またしても戦争に突入しそうだったので、ミハナが大きな声で止める。種類の違う美形に、多岐はもちろんだが、オオクマも人相が悪くて無精ひげを生やしているがよく見るといい顔立ちをしている、そんな二人に見つめられて、怯みそうになりつつ、ミハナはお茶をもう一杯いかがですかと絞り出した。 「いい子だな、ひよっこくん」 「俺はひよっこじゃないです」 「そうだな、こんなに上手にお茶が淹れられる」 「そうです!どうぞ」 「うん」 「ミハナくん、この男に騙されてはいけない」 「多岐の旦那もいかがですか?」 「戴くよ、ありがとう」  二人は一杯目よりも少し味わうように、ゆっくりとお茶を飲む。茶葉がいいのか淹れ方か。本当においしいお茶だ。 「全部洗いざらいというわけにはいかんのだが」 「出し惜しむな」 「職務上の秘密もあるもんでな。ミハナくん、君は今、噂の渦中にある」 「え?俺がですか?」 「ああ」 「初めて聞きました。いい噂ですか?」 「残念だが、その噂で警察と多岐が動くぐらいの悪い噂だ」 「おおおお俺、悪いことなんかしてないですよ!?」 「それを確かめるために俺がここへ来た。多岐が来るのは想定外だったが、多岐も噂の真贋を確かめに来たんだろう」 「違う」 「ん?違うのか?」  多岐は静かに茶碗を茶たくに戻し、その整った顔でミハナを見た。印象的な目が、ひと際輝いたような気がする。 「あんな噂など、俺は真に受けない。ただ、ミハナくんが悪事に巻き込まれたんじゃないかと心配で見に来ただけだ」 「ほう」 「貴様の様に、人を見れば悪人だと思うような男とは違う。ミハナくんは真っ当だ」 「それは、公式な証言か?」 「俺の所感だ」 「個人の感想に付き合ってちゃ仕事にならん」 「貴様は」 「いいか、ミハナくん。君はとても悪い物を作って闇市に流しているという噂がある」 「んへ!?」  多岐が自分のことを話すのを、少し不思議な気持ちで聞き呆けていたので、突然の展開にミハナは間抜けな声を上げた。わるいものをつくってやみいちにながす?全く内容が頭に入らない。ミハナが目をぱちくりさせているので、オオクマは少し言葉を足した。 「悪い物というのは違法薬物に絡むものだ。もう少し具体的に言えば、君は蝋燭の職人の腕を活かして、ある特殊な作用のある薬物を混ぜた蝋燭を作って闇市で売っているという話だ」 「違法薬物、て、え!?蝋燭に!?俺そんなの、作れません!」 「では、違法薬物を所持したことはあるか?誰かにもらったり、悪ふざけで少しだけ使ってみたとか。その程度なら怒らないから正直に言ってくれ」 「ないですないですないです!薬なんて、お腹いた止めと頭いた止めくらいしか、持ってないです!」 「例えばお腹いた止めだと言われて、誰かに錠剤やその他の薬物をもらったことは?」 「なななないです。俺少し、薬に反応が良すぎるところがあって、だからちゃんとかかりつけのお医者様に出していただいてて」 「うん、そうだな」  多岐はまた舌打ちした。こんな風に質問をしているふりをして、実際はミハナが嘘をつくかどうか誤魔化すかどうかを試しているのだ。ミハナの処方薬の履歴や薬物に対する体質など、オオクマはとうに把握済みで、もちろんもっとほかの個人情報についても全部頭に入れている。多岐には知りようのない、警察の権力の賜物だ。それがいつもよりも面白くない。多岐は鼻を鳴らした。いくら面白くなくとも、警察官による正当な取り調べの邪魔をするほど馬鹿ではないのだ。面白くないけど。ミハナはあまりにも身に覚えがなく思いもよらない話だったので、逆に少し冷静さを取り戻した。心当たりも何もないし、そんな話、聞いたこともない。 「あの、どうして俺が疑われるんでしょう。火のないところに煙は立たないって言いますよね。俺が何か、不審な行動をしたんでしょうか」 「普通は、俺がやった証拠でもあるのか!とか、誰がそんなでたらめを言ってるんだ!とか、そういう反応なんだがな、君は、何というか、落ち着いているな」 「いえ、俺、うっかりしてるとこあるし」 「ミハナくん、君に非はない。これは君の落ち度ではなく、君を陥れようと、もしくは利用しようとしている人間がいるんだ」 「多岐」 「そういう悪党を捕まえるのがお前の仕事だろうが、クマ」 「ここにいたいなら黙ってろ」  ミハナは冷静でも多岐は冷静ではない。そもそも多岐がこの噂を耳にしたのは昨晩で、すぐさまミハナの家に行こうとするのを珠の進に笑われて、仕方なく朝を待ったのだ。夜のうちに来ていればよかったと後悔しているし、古い仲ではあっても非常に大きな強制力を持つ警察官に対して邪魔をする程度には、多岐は動揺していた。ミハナは先ほどまでとは違うオオクマの雰囲気に背中がピリッとした。そして、お茶、淹れなおしましょうねと、盆を持って立ち上がり、席を離れた。オオクマは図体にお似合いのバカでかい溜息をついた。 「多岐」 「今のは俺が悪かった」 「お前は、情けを掛けた相手に甘すぎるし振り回されすぎる」 「ミハナくんに情けを掛けているわけじゃない」 「じゃあなんだ」 「彼は珠のの友人だ。まだ若いし、少し危なっかしいから気に掛けているだけだ」 「そうかよ」  馬鹿じゃねぇか、お前。その一言を、オオクマは言わないでおいた。どっぷり情を移して懐に仕舞い込みたくてうずうずしてるんじゃねぇか。過保護な性分もここまでくれば芸術品だな。猫や犬じゃないんだ、お前のその庇護欲に、あの小僧っこが応えてくれるとは限らねぇんだぞ。そもそもミハナという青年がどういう人間なのかだって。 「あ、御二人とも、朝餉は済ませましたか?」 「え?ああ……」 「召し上がります?」  新しいお茶、先ほどとは違う茶葉だ、それを用意して茶の間に戻ってきたミハナは、どうやら落ち着いたらしい大男二人の顔を見てさっき握ったばかりのおにぎりを食べますかと聞いてくる。自炊はしないに等しいミハナだが、米は炊き、味噌汁だけは作る。おかずは他所で調達する。あたたかい米と味噌汁があれば、ミハナのおなかは機嫌がいいのだ。毎朝それだけは欠かせない。  せっかくの申し出ではあったけれど、大男二人はそろって断った。そして本題の続きを始める。 「君にはほかにも聴きたいことがあるし、見て欲しいものもある。それでさっきの続きだが、この部屋を検めさせてくれ」 「……はい」 「協力に感謝する」  断るべきではないと、ミハナは理解していた。自分に後ろ暗いことはないし、オオクマは多分物証をでっちあげるような卑怯なことをする男ではないだろう。それに、多岐がいる。困ったことになった時、多岐が助けてくれるかどうかは別として、こころの支えにはなる。部屋を案内しようとミハナが立ち上がりかけたのを制し、オオクマは、君も多岐もここから動くなと命じて、茶の間から出て行った。寝室に使っている隣の部屋やさっきまで立っていた台所、手洗いまで隈なくオオクマが検分する。人が何かを隠すとき、その場所は大体決まっている。それを熟知しているので、警察官の捜索は手際がいいし的確で、探され物を隠し果せることはほぼ不可能だ。被疑者に、つまり今回はミハナだけれど、彼に圧力をかける必要はないのであまり派手に散らかしたり物音をたてたりすることはしないが、探し回り、どんどん標的に近づき、ほら、もうみつかってしまうぞ、白状するなら今の内だと、そういう種類の小芝居を演じることもある。そういうのは意外と、時と場合によって効果的でもある。ミハナは茶の間で多岐と二人、じっと座って終わるのを待っていた。物音で、彼が今どこを開けているのか、何を触っているのか、だいたい察しが付く。おかしなものはないはずだ。それでも、落ち着かないし緊張する。どうしてこんなことになったのだろうと気分が塞いでいく。 「ミハナくん」 「は、はい」 「君が隠し持っているエッチな本は、みつけられてしまうかもしれんが」 「エッチな本」 「そのくらいは、誰でも持っているし、違法な内容でなければからかわれるだけで済む。あまり心配しなくていい」 「……旦那も持ってるんですか?」 「うん?」 「エッチな本」 「俺は持ってないよ」 「俺も持ってません」 「本当かい?若いのに」 「旦那だって若いでしょ。なんで持ってないんですか」 「おいおい、エッチな本の一つくらいは隠しておいてくれないと、俺も張り合いがないぞ」  オオクマが茶の間に戻ってきて、よっこらせと大きな身体を揺すりながら座布団に尻を落ち着ける。エッチな本は、なかったようだ。もちろんおかしな薬物もだ。あるはずがないとわかっていても、ミハナは何もなかったと言われてようやくほっと息をつく。 「少し散らかしてしまった。悪いな」 「いえ、気にしないで下さい」 「さてじゃあ、作業場に案内してくれるかい」 「はい」  大丈夫だ。自分は潔白だ。警察の捜査対象になったからと言って、たちまち悪人に仕立て上げられるわけではない。怯む必要はない。ミハナはすっかり落ち着きを取り戻して、二人を自分の作業場へ案内した。  ミハナが住んでいるのは認可待ちの人が無料で借りられる公共の集合住宅で、間取りはどこもほぼ同じだが、和室と洋室がある。ミハナは和室の希望を出して和室に入居できた。希望が通るとは限らないが、同じような集合住宅はいくつもあるので、場所やその他の条件で大体は快適な住まいが提供される。完全な私邸ではないので、規則は色々と厳しいが、さまざま物入りのコト滞在時に家賃の心配をしなくていいのはとてもありがたい。周囲は自分と同じ立場の人ばかりだから何かと相談もできるし、刺激にもなる。そんな住まいから、歩いてしばらくのところに、ミハナは小さな作業場兼店を借りていた。実家の工場とは程遠い規模だが、ミハナにとっては最高の場所だ。日夜自分の頭の中にあるものを具現化するのに籠っては苦労したり喜んだりしている。周囲にも似たような作業場が並んでいる一角で、ちょうどみんなが店を開け始める時間だから人の往来が多い。ミハナの顔見知りがほとんどだけれど、みんな気安い挨拶をしつつも、ミハナの傍にいる二人の大男を凝視している。多岐はそもそもコトでは有名人でこの店へも来たことがあるし、オオクマもその風貌が人目を引く。あとでまた色々聞かれるかなぁ、オオクマさんは警察の人だって、言っちゃって大丈夫かな?そんなことを考えながら、ミハナは懐から鍵を取り出して開錠しようと手を伸ばした。 「待て」  オオクマの太い声が、ミハナを制する。人に命令し慣れている人の声には独特の力があるようだ。ピタリと動きを止めたミハナを扉の前から退かせて、オオクマが大きな身体を丸めるようにしてしげしげと観察し、小さな機械を駆使して何かをした。その間、多岐はミハナの背後に立って、彼の肩に手を置き、大丈夫だよと声を掛けていた。その場にそぐわないドキドキを、ミハナは持て余す。 「侵入の形跡が認められる。室内に人はいない。んー……、ま、開けるか」  侵入の形跡?どこに?なんで中に人がいないってわかるの?もちろんいるわけない、戸締りは完璧だし。状況についていけないミハナの手から鍵を借り受けて、オオクマが無造作に扉を開ける。自分が人はいないと判断したのだから、当然人はいなかった。一応爆発物その他の有無も確認済みだから危険はない。窓には窓掛が掛かり、灯りはまだ入れられていないその無人の部屋は、薄暗く、きちんと整理が行き届いていた。 「オオクマさん、あの、何かありました?大丈夫ですか?」  戸口を塞ぐようにして立ちはだかり、室内を注意深く眺めまわしていたオオクマの背後から、ミハナが恐る恐る声を掛ける。オオクマはパッと振り返って、ミハナに場所を譲った。 「ああ、危ないことはなさそうだ。おかしなところがないか、確認してくれ」 「あ、はい。えっと……お二人も、上がられますよね。座っていただく場所が」 「ミハナくん、俺たちのことはいいから、しっかり確認を」 「はい」  入ってすぐは三和土のままで、商品が並べられるように背の低い棚がいくつか置いてある。その奥は一段上がって畳敷きの作業場で、さらに奥には水回りや収納と続く。いつも通り、帰りがけに棚に被せておいた布を取り払い、並んだ商品に問題がないかを真っ先に確認した。うん、大丈夫そうだ。整然と並べられたそれらは、昨晩見たのと同じ位置に納まっている。ほっと安心して、布を丁寧に畳みつつ、草履を脱いで作業場に上がる。そこかしこの蝋燭に灯りを入れ、窓掛を開けて朝の光を部屋に取り込み、すっかり明るくなった作業場全体をぐるりと見渡す。 「……」 「何かおかしなところは?」 「……少し、違和感が」 「そうか。続けてくれ」  何かが動かされたとか無くなっているとか、そういうのは見当たらない。でも、何か、おかしい。ミハナはいつも座る場所に正座して、引出の中に並べた道具を手に取っていく。命よりも、とまでは言わないけれど、大事に大事にしている道具。無事を確認してふうと息を吐き、元通りに仕舞って引出を閉める。その隣の鍵付きの引き出しに入っている店のやり取りのための現金も無事だった。お金は大事だ。しっかりと施錠しなおして立ち上がり、ミハナは作業場じゅうの点検を続ける。その動きに不審な様子はないか、何か見つけたら自分にちゃんと伝えるかどうか、オオクマは三和土に入ってすぐの所に立ってミハナをじっと目で追っていた。多岐はその隣で、万が一にも潜んでいる危険がミハナを襲うことのないようにと目を光らせていた。 「それだけです」 「そうか」  二人には小上がりに腰かけてもらい、自分は畳の作業場に正座して、広げたものを三人でじっと見ている。それは、ミハナが店で商品を包む包み紙だ。多岐にも見覚えがある。自分で考えたという店の紋と店名が小さく印刷されている。色は、ミハナの好きな山吹色。実家のつてで、ちゃんとしたところで作ってもらっているらしく、この色はミハナしか使えない特別配合だという。その包み紙が、減っていると言うのだ。 「綺麗な紙だな。物を作って売るってのは、俺が考えるよりもずっと大変らしい」 「ええ、まあ。お代金戴くからには、商品も大事ですが体裁も大事です」 「うん。それで、この包み紙が」 「大きさは三種類作ってます。一番よく使う小さいのが、半分ほどに減ってます」 「確かかい?」 「確かです。正確な枚数もわかります」 「なぜ?」 「昨日、材料の棚卸をしたんです。仕入に出かけるのに何がどのくらい必要か計算するために」 「すごいな」 「本当は俺もそういうこと苦手なんですが、いつ監査が入るかわからないので、帳面はきちんとしておかないと」  コトの見習い職人たちは、基本的な経営上の知識も評価の対象となる。そういうことが苦手であれば金で人を雇うこともできるが、監査の際の質問には答えられなければいけないので全くの人任せというわけにはいかないし、そもそもそんな金に余裕のある認可待ちはほとんどいない。ミハナも倹しい生活をしているようだ。包み紙が特注である辺り、実家の太さを窺わせるが。  多岐とオオクマは、同じことを考えていた。金にはならない包み紙を盗み出した。それの使い道は、商品を包むことだ。この包み紙に包まれていれば、ミハナの商品だと偽ることは容易い。やはり、ミハナの名を騙った何者かがおかしな蝋燭を作っては闇市で商売をしているということなのだろう。 「すまないな、ミハナくん」 「え?なんで旦那が謝るんです?」 「不届き者は、君の蝋燭職人としての腕と、珠のの友人であるということを利用したんだろう」  実家は世に知れた老舗。そこの三男坊であり、新進気鋭の蝋燭を作る認可待ちの職人。そして友人にはあの伝説の珠の進。実際に珠の進がこの店へ足を運んだことは知れ渡っている。その辺を謳い文句にすれば、どんなものでも売れるだろう。品質は確かな蝋燭に、あの珠の進も虜にした抜群の催淫効果、試してみればわかります、と。多岐が噂に聞いた話と全部一致する。闇市であるからには真っ当な客ではないのが大勢いるわけで、そういった商品を自分の楽しみではなく、悪事に使おうと仕入れる輩は多い。オオクマはじっと押し黙っていたけれど同意見で、この小僧っ子が噛んでないなら一から犯人を捜す方法をどうしようかと思案していた。騙されたにせよ勘違いにせよ、オオクマの見立てではミハナはこの話に関与していると踏んでいたのだ。金の欲しい認可待ちがいいように言いくるめられて犯罪の片棒を担ぐのはよくある話だから。しかしミハナというこの青年は、思いのほか堅実らしい。  ミハナは、多岐がすまなそうにしているのを見て恐縮しきりだ。珠の進のことは大好きで、友人であることが嬉しくて、だからそれを利用した人間がいるのであれば腹立たしいけれど、多岐のせいではない。多岐は珠の進の情夫で、だからまるで自分の身内の失態を他人に謝るような気持ちなのだろうとミハナは思った。仲が良くて、羨ましかった。 「包み紙、また作ってもらわなきゃ」 「ああ……そういったものは値が張るのかい?」 「既製品よりは、はい。でも、一生懸命作った商品を包むので、頑張っちゃいました。いつか立派な職人に、これ見た人に、あ、ミハナの蝋燭だって、言われるくらいになれるようにっていうのもありますし」 「君はもうずいぶん立派だよ」 「あはは。ありがとうございます」  まだ先だと思っていた包み紙の補充に予算を回すなら、新しく使いたかった香料を諦めよう。こういうこともある。今は新しいことではなく、目の前のことをきちんとやろう。スガ兄ちゃんもよく言っていた。当たり前のことを常にきちんと。うんうん。ミハナは、この作業場に誰かが侵入したのだという事実が恐ろしくて、別のことを考えようと躍起になっていた。どんな悪い時でも、それでも自分はついてると思うし、そのことに感謝を忘れない。今だってほら、包み紙以外は無事だ。だから、大丈夫、たいしたことじゃない。 「あの」 「ん?」  ミハナはきちんと正座しなおし、姿勢を正して、オオクマを見つめた。顎のあたりの無精ひげを弄りながら捜査の段取りを考えていたオオクマは、気の抜けたような返事をした。ミハナは深く頭を下げる。 「ありがとうございます、この度のこと。オオクマさんが動いて下さらなかったら、俺の商売は多分、ダメになってました。悪い物を作って闇市に流すような職人崩れだって、きっと、言われて」 「そんなことはないだろう」 「いえ、ここにも、一緒に来ていただいて、俺一人だったらどうしていいかわかりませんでした」 「君は、一時は被疑者だった。疑いは晴れたが、俺は君をついさっきまでそのように見ていたし、接していた。警察官としての行動だ。お礼を言われる筋合いはないさ」 「いえ。オオクマさんが穏やかだったので、俺も取り乱さずに済みました。多岐の旦那も、ありがとうございます。そんな噂で、様子を見に来てくださって」 「ミハナくん」 「はい」  多岐はその美しい金色の瞳で、ミハナを見つめる。きれいだな、と思いながらミハナが見つめ返す。 「この事件において、君はすでに被害者だ。これ以上被害が出ないように警察はちゃんと動く。オオクマはこう見えて、頼りになる男だ。捜査に関しては任せていればいい」 「はい」 「ここに、誰かが侵入したこと。恐ろしく思うのは当然だ。無理して取り繕わなくていい。恐怖は、正常な反応だ」 「……はい」  怖いと思う。一見無防備なように見えて、住居等の鍵は精巧で緻密に作られているし、"鍵"という物体でもって開錠、施錠をしている感覚で、本当は何重もの認証が瞬時に行われている。それらを突破するのは難しい技術が必要だし、警報器も監視装置もある。全部を掻い潜って目的のものを密かに持ち出したのだとしたら、それはとても巨大な悪かもしれない。そんなものに目をつけられたのだ。気づかなかっただけで今まで何度もそうされていたのかもしれないし、自宅の方だって。 「ミハナくんよ」 「はい」 「多岐が言った通り、こういうことは警察の仕事だ。本来であれば犯罪は未然に防ぐべきだが、後手に回って君に怖い思いをさせたことを詫びる」 「あ、いえ、そんな。オオクマさんも多岐の旦那も、謝んないでくださいよ」 「必ず捕まえるよ。それは約束する」  自信をのぞかせるでもなく気負うでもなく、オオクマはミハナにそう言った。今この段階でオオクマの頭にあてなどないが、自分の検挙率を考えれば必ずと言って問題ない。ミハナはキュッと口を噤んで、頭を下げて、よろしくお願いしますと言った。 「さ、頭の下げあいっこはこれでおしまいだ。ミハナくん、協力してくれ」 「はい!」 「これに、見覚えはあるか?」  オオクマは懐から紙片を取り出してミハナに見せた。多岐も一緒に覗き込む。そこには、蝋燭がいくつか映っている。何の変哲もない……とは言えない、ミハナの作る蝋燭に似せたもの、そう見えるものだった。 「俺の作っているものに、近い印象がありますね」 「うん」 「そうかな。俺にはミハナくんの蝋燭のような気品がないと思うが」 「多岐、うるせぇ。この蝋燭、君のと同じように、何か器に入っているだろう?君のはもちろん君が作っているだろうが、これはどうだろうか」  ミハナは促されてもう一度その写真を見つめた。触れれば拡大できて、角度も変えられるので、とっくりと見て、考える。 「……よくある茶杯でしょうか。一ついくらではなく、十とか二十とか、そんな数で買えるような」 「普通の家庭で、そんな数を買うかな?」 「買いませんね。飲食店や、お客を待たせる時にちょっとお出しするような、とにかく人が多く出入りする場所で使うものかな。丈夫で、割れても同じものが補充できる。でも、高価な品物を扱う店ならこんな安物でお茶は出しません」 「ふむ」 「あとは……従業員をたくさん抱えるような現場とか」 「ああ、なるほど」 「ええ。大規模な工場や、んー、大店とか」  役所とかな。  オオクマと多岐は、その言葉を言わずにいた。権力と悪事は融和性が高い。オオクマは写真を仕舞いながら、独り言のように現物があればもう少し色々調べがつくんだがなと呟いた。ミハナもこっくりと頷く。 「原料で、出所が知れるかもしれませんしね。蝋の原料は色々ありますので」 「ああ」 「薬物が混ぜられているというお話でしたけど」 「ああ」 「蝋を作る過程での過熱や、完成品にともす炎で、蝋燭に混ぜたものは変質したりします。俺も色々試していますが、例えば天然の香りや色は、思ったようには扱えません」 「ああ」 「よほど蝋の扱いに詳しいか、熱による変性のない薬物なのか、あるいは」 「熱で効果が高まる薬物か」  ミハナは恥ずかしそうに、知ったかぶりしてごめんなさいと両手で顔を覆った。ぼんやりしたボンボンだと少し侮っていたけれど、ミハナは意外と鋭いことを言う。傍で聞いていた多岐はなんだか誇らしいような気分だった。 「色々ありがとうな、ミハナ。助かったよ」 「いえ、こちらこそ」 「俺と多岐がここへ来たことは、きっと今頃コト中に広まっている。犯人にも聞こえているだろう。だからもうここへは来ないだろうけど、身辺に気を付けて過ごしてくれよ」 「そのことだが」  じっと腕組みをしていた多岐が、おもむろに片手を上げ発言を求める。オオクマが何だと聞くと、一つ頷いてから口を開いた。 「ミハナくんのことが心配だから、俺の家で匿おうと思うんだがどうだろう」 「……へ?」 「は?」 「一応、そういうのを仕事にしているから、やり方は心得ている」 「でしょう、ね」 「だろうな」 「ああ」  コトで一番有名で契約の難しい用心棒だ。もしミハナが警察に保護を願い出れば、多分オオクマが融通してくれるだろう。でも身辺警護というのがどういうものなのかミハナには想像がつかないし、もしそれが四六時中一緒にいるということであれば、見ず知らずの人にそうされるのは多分息苦しいし気まずい。その点、多岐は顔見知りだ。自分の友人の情夫でもある。そして、少なくない好意がある。だから多分、警察経由で派遣される人よりは気持ちは楽かもしれない。しかし、だ。 「多岐、お前暇なのか」 「暇なわけあるか」 「だったらミハナの周りうろちょろしてる場合か?」 「今契約している仕事は、朝から夕方まで。普通の会社勤めや商売の人と同じ時間に働くだけだ。だから、ミハナくんが俺の家にいれば、朝ここまで送ってくるし、夕方ここへ迎えに来て一緒に家に帰る。ここにいる間が心配であれば、警邏を強化させるか誰かを立たせておけばいい。それはお前の仕事だろう、クマ」 「いや、まあ、そうだけどよ」  多岐はすっかりその気で、これ以上いい案があるとは思えないと本気で思っていた。実際そうかもしれない。でも、そこまでする必要があるのかというところを、なぜか多岐は考えていない。無意識で無自覚の過保護の発動だ。多分多岐は子猫を拾ったら、ずっと自分の胸元に忍ばせて育てるんじゃないだろうか。しかしミハナは子猫ではない。オオクマは旧知の友人の善意満タンの申し出を、ミハナにどう思うかと聞いた。聞くしかないだろう、本人目の前にしてるんだし。 「え……っと。ああありがたい、ですが」 「うん」 「申し訳ないですし」 「うん」 「多岐の旦那は、それが仕事なわけで、だから料金を払わずにそういうことをしてもらうわけにはいかないというか」 「うん」 「……珠の進さんにも、悪いですし」 「わかった。多岐には諦めるように俺から言おう」 「聞こえてる、馬鹿クマ」 「なら話は早い。諦めろ、迷惑だ」 「迷惑だなんて言ってませんよ!?」 「迷惑だなんて言ってないだろう」 「本人に面と向かって迷惑だなんて、育ちのいいミハナが言うわけないだろう、多岐も馬鹿だな」 「じゃあ、警察が保護するのか」 「うーん、どうしよう」 「ふざけるな」  ふざけてはいないが、オオクマはまだ考え中だった。多岐の案は、警察としてもありがたい。ミハナは被害者だけれど、実害はまだ僅少だ。これが拡大することは避けたい。しかしミハナには自由に動き回る権利も商売をする権利もある。危ないから家に引きこもっていて欲しいとは頼めない。それがいつまでなのか、犯人がいつ捕まるのか、その前提条件が今提示できないからだ。目途があれば強気にも出られるが、今のところは何の手立ても思いついていない。しかし、まあ、犯人のやりたいことは大体掴めているので、罠を仕掛けることは出来そうだ。 「多岐」 「なんだ」 「お前の申し出は、警察としてありがたい。ミハナは保護対象だ。犯罪に巻き込まれつつあり、これ以上の被害は絶対に避けなければいけない。お前に任せれば、ミハナの安全だけは保障される」 「ああ」 「ミハナがいっそ、この事件の片棒を担いでいてくれれば犯人につながる糸が見つけられたかもしれんが、それはないようだ。だから、今から地道に捜査して検挙するほかない。お前、どのくらいだったらミハナの送り迎えができる?」 「しばらくできる。今の契約のあとはまだ何も入れていない。この契約が、この季節が終わるまでっていう長期なんだ」 「珍しいな」 「昔世話になった方の依頼だから、引き受けた」 「わかった。じゃあ、お前の案を採用したい」 「ミハナくんが迷惑ならそれはダメだ」 「俺、迷惑だなんて言ってませんから!」 「迷惑じゃないのに、嫌なのか?」 「嫌じゃないです、ありがたいです、でも、申し訳ないから、その」 「ああ、さっき珠のに申し訳ないとか言っていたね。そうだ、もし俺がどうしても夜間に家にいられない日は珠ののところに泊まるといい。あそこは安全だ」 「そういう……話じゃ……」  多岐はよく珠の進の部屋へ行っている。そこで長い時間を過ごして、寝泊りしているのも知っている。それは二人がそういう関係で、それこそまるで夫婦のようなものだからだとミハナは理解している。多岐の仕事は昼夜を問わないところがあるし、珠の進が働くとすれば夜だ。時間が合わなければその日は多岐は自宅にいる、消去法で。だから、つまり、多岐がミハナに構っていると、二人の時間が激減するのだ。それを承知で多岐の厚意に頼ることはできない。ミハナのほのかな恋心に、多岐はまったく気づいていないから、こんなことを平気で言うのだろう。もしかしたら、自分の人助けが大事な珠の進を傷つけるかもしれないということさえ、思い至らないのだろうか。だとすれば、随分と機微の分からない無粋なことだ。もくもくと胸中に湧きあがるよくない感情に、ミハナがキュッと手を握って俯く。多岐に守ってもらえれば、そりゃあ安全で安心できるけれど。  多岐は本当にミハナの遠慮がもどかしく、どうしたものかと悩んでいた。育ちがいい子はこんなに遠慮深いのか。やったー!おねがいしまーす!と大人を頼ればいいのだ、まだ子どもなんだから。もちろん、ミハナはあいにくもう子供ではない。多岐にそう見えているだけだ。オオクマは黙って二人を眺めて、まあ、好きにすりゃいいけど、と呆れていた。 「警察が正式に多岐に依頼して、契約してミハナの保護に当たってもらう。それならいいか」 「え!?」 「四号警備の仕事は簡単じゃねぇんだ。警察の人員は潤沢でも、多岐ほどのはそういない。足りないものは外注で賄う。合理的だろう?」 「……はあぁ……」 「多岐もそれでいいな」 「ああ。会社へ依頼を出してくれ」 「料金はまけてくれよ」 「社長に言え」 「俺のお小遣いから出すんだぞ」 「特別捜査費だろうが、それを自分のお小遣い扱いするな」  オオクマはよほど立場が強いのだろうか。多岐を長期間雇用する料金はとんでもない額になるのではないのか。人の値打ちを金で決めるべきではないが、自分の手腕で大金……かどうかはわからないが、金を稼ぐ多岐に、個人的に守ってあげようと言われた。自分が、ちょっと好きだなと思っている人に。ミハナは、少し熱いような顔を隠すように伏せて、頭を下げた。 「ありがとうございます。とても、ありがたいです。正直、やっぱり、怖いので」 「そりゃそうだろうな」 「ミハナくん、君は少し物わかりが良すぎる。遠慮など要らない、大人を頼っていいんだよ」 「はい」  僕も十分大人なんですけどね、と笑うと、多岐は至って真面目に首を傾げた。わーこの人本気だなーと、ミハナはさらに笑ってごまかした。とにかく、自分の身の安全は保障されたのだ。 「多岐よ」 「なんだ」 「この度の事件な、ジョウの方が怪しいだろう?」 「まあ、そうだろうな」 「ハラはともかく、ジョウは警察の目が行き届かん見世も多くてな」  ハラもジョウも、地名だ。コトにはいくつかの色街があって、珠の進のいる孔雀屋があるのはハラという場所で、基本的にあくどい商売をしない代わりにそれに見合った金がかかる。ジョウは、庶民派の見世が多く、良心的な値段が魅力ではあるが、商いぶりが良心的ではないことも多々ある。犯罪組織や犯罪の被害者が多数潜んでいるというのがもっぱらの噂で、それは真実だ。催淫効果のある薬物がらみとなれば、色街の闇で取引されているとみるべきだろう。そしてそれは、ハラではなくジョウの可能性が高い。多岐は形の良い眉を顰めて、ため息をついた。 「噂通りの品だとすれば、厄介だぞ」 「依存性もあるらしいし、見た目は普通の蝋燭だからな。罠にはめられても気づきにくい」  例えば見世の座敷に通されて、娼妓や男娼を待つ間に一人でちびちびと酒を飲む。その部屋に灯されているのが件の蝋燭であれば、客は知らずにその薬物を吸引することとなる。そもそも色事のために訪れている客が、催淫効果のある薬物を吸引させられては正気を失う。その隙をついて法外な料金を吹っ掛けられるかもしれないし、頼んでいたのとは違う者に適当に慰められて追い出されるかもしれない。もしくは、客を取らせる目的で、見世側がその気のない者に吸わせて客の前に差し出すことも考えられるだろう。実際、そのような話がいくつも聞こえてきているのだ。 「こういうのは、あっという間に広がるからな」 「ああ」  噂のことではない。品物のことだ。医学の発達した今でも、薬物依存の治療は時間が掛かるし様々な問題もある。医者の手にかかることができないままに沈んでいく者も多い。選んで落ちる者はそれでもいいが、落とされた者は救われるべきだ。多岐とオオクマの縁はもう長い。元々似たような感性だからだろうか、性格は全然違うのにこういう時の見解や考え方は驚くほど似る。それを確かめる必要さえない。だから交わす言葉が少なくて、ミハナは理解が追い付かない。ただひたすら、蝋燭という、暮らしに灯りをともす道具を悪事に使う卑劣さに怒り、その被害に遭う人がいるのだということに悲しんでいた。 「ものは相談だがな、多岐」 「何だ」 「お前んとこの、情夫、あのすげーやつ、協力してもらえねぇか」 「……」 「こういう時の餌は、いっそでかい方がいいんだよ」 「待ってください、オオクマさん。珠の進さんを餌にって」 「囮だ、囮」 「ダメです!俺が許しません!珠の進さんを危険な目には絶対遭わせませんからね!」 「多岐がいるから危険はねぇだろ」 「ダメです!そもそもあの人を餌になんか」 「ダメだ」  多岐がぴしゃんと、オオクマの要望をはねつけた。当たり前だ。自分の大事な人を囮に差し出すなどそんなのおかしい。もちろんミハナも反対した。でも、なんだか、多岐の一言に胸が痛んだのも事実だ。珠の進が羨ましくて。横恋慕は趣味じゃないけど、片想いは、許されたい。多岐はオオクマを一瞥して、もう一度ダメだと繰り返した。オオクマは、不満そうに唇をゆがめる。 「お前だって一番いい作戦だと思うだろ?」 「お前の考えている作戦の想像はつくが、そもそも破たんしている。珠のは一見の客など相手にしない」 「そらそうだ、流石だな」 「名だけなら、いいだろう。後で伝えておく」 「ま、あのすげー伝説の男だ、名だけでも効果抜群だろうよ。借りるぞ」  二人はミハナの与り知らぬところで納得しあったらしい。  オオクマは、君の目に止まるかどうかはわからないが、警察官が周辺を警戒しているからおかしな人は近づかないから安心していいと言い、協力に感謝すると言って帰っていった。多岐も仕事があるのでこれで失礼するよと立ち上がる。 「あのなんのお構いもできませんで」 「美味しいお茶をいただいた。君の仕事が終わる頃に迎えに来る。少し遅くなっても、ここから出てはいけないよ」 「はい。よろしくお願いします」 「ああ、じゃあ」 「はい、いってらっしゃい」  なんだか面映ゆいような気分で、ミハナは多岐を仕事へ送り出した。

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