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第6話
昼時には周りの顔見知りからやっぱりあの大男は何だと質問攻めにあいながら、ミハナはその日の仕事を終えた。日が暮れて店を閉めて片付けをして、帳簿をつけたりしていたら、本当に多岐が現れた。異常はなかったかなどとミハナを気遣いつつ、ひどく申し訳なさそうな顔で謝ってくる。
「自分が言い出した初日に反故にして申し訳ないんだが、今夜は所用で家に帰れないんだ」
「お仕事大変ですね。俺は全然大丈夫なんで」
「いや、だから、珠ののところへ送っていく。あそこは絶対に安全だ」
「えっと、あの、さすがに」
「さっき珠のに手紙を送ったら、ミハナとのお泊まり会が楽しみだと返事が来た。遠慮はいらない」
「はあ……」
手紙というのは、紙に文字を書くあれだ。通信技術が発達していく中で、この国の人がなんとなく無くなるのを惜しんだ親しみのある文化の一つで、今は最新の技術と合わさって、書いた手紙をそこら中にある配達箱へ投函すれば、瞬時にそのまま相手に届く。手紙そのものが、受け取れるのだ。投函も受け取りもどこででもできて、例えば自宅や列車の中や店先はもちろん、とにかくありとあらゆる場所に投函口があるし、受取箱がある。入れた瞬間にその手紙はその場から姿を消し、相手が受取箱を開けるとそこに現れる。相手が選んだ便箋も書き癖も、まさしくそのまま移動してくる。通信手段は他にいくらでもあるので、紙や筆記具がなくとも困ることはない。むしろ、手紙を書くほうが手間がかかる。でもこの国の人は手紙を好む。手紙を送ってねという一言が、愛おしいと受け取られるほどに。
多岐は胸元から、小さくたたんだ手紙を取り出してミハナに見せた。驚くほど大胆な筆文字で、やったー!ミハナとお泊まりだー!着替えも全部あるからそのままおいでって伝えて!と書かれている。
「お珠さん、見た目からは想像のつかない字ですね」
「ああ、これは、普段の字だ。客への挨拶状や礼状は、ちゃんと書くよ」
「へえ」
「君のところへは来てなかったか?」
「あー……」
バタバタしていたので、受取箱を見ていなかった。ミハナが作業台のそばに据えてある受取箱を開くと、何通か手紙が届いていた。友人からのものばかりだったけれど、そのうちの一通は珠の進からのものだった。さっき見たのと同じような大胆な字で、嬉しいと一言、隅にお珠と書き添えただけの手紙は思わず笑ってしまうほどの愛嬌だ。
「来てました」
「あれは筆まめだから、君の文箱をいっぱいにしてしまうかもしれん」
「楽しみです。待って、返事を出してから」
「ああ」
ミハナは急いで気に入っている便箋を一枚引き出しから取り出して、さらさらと短い返事を認めて受取箱の隣にある投函口へ落とす。その先がどうなっているのか、ミハナをはじめほとんどの人は理解が及ばない。自分の指先を離れた手紙が相手に届くことを疑わないだけだ。そうしてようやく帰り支度が整って、ミハナと多岐は連れ立って店兼作業場を出る。しっかりと施錠して、多岐が乗ってきた車で孔雀屋へ向かう。
「俺、コトで車に乗るの初めてです」
「そうか」
車といっても、中に椅子があるだけのただの四角い筺体だ。個人で所有することはできず、必要な時に料金を払って利用する機動力のある交通機関の一つで、目的地を入力してしまえば何もしなくても運んでくれる。中にいる人から外は見えるけれど、外からは内部は見えない作りになっている。この車がそれほど利用されないのは、速度が非常に遅く設定されているからだ。万が一にも何かに接触しても大事に至らない程度。歩くよりは幾分早いが、乗り合いのものの方がもう少し速くて安いし、そもそもコトに住む人間の行動範囲は驚くほど狭く、だいたいは徒歩で済ませられる。車をよく利用するのは、時間を惜しむように慌ただしい仕事をしている人や、人目を憚るような人が多い。もしくはたくさんの荷物を抱えているときなど。
「多岐の旦那は、車をよく使うんですか?」
「ああ、そうだな。実はこの車は俺の会社のでね。呼ぶ手間もないし金もかからないから便利に使ってる。運動不足になるな」
「あはは。コト一番の用心棒が、運動不足はちょっとかっこ悪いですね」
「うーん、少し歩くようにしよう」
「初めてお会いしたときは、車じゃなかったですよね」
「あの時は仕事帰りではなかったし、珠のは車が好かなくてな」
「そうなんですか」
小さな箱の中は快適で静かで、距離が近くて緊張してしまう。外を見る余裕もなくて視線を下げれば、自分の足元と多岐の足元が見える。自分は草履で、多岐は靴だ。きれいに磨かれてピカピカの、大きな靴。
「多岐の旦那は」
「うん?」
「……洋装、お似合いですね。家にいる時も洋装ですか?」
「そうだな。仕事柄動き回ることが多いから、草履より靴が走りやすい。だから、洋装。収納の関係で私服も寝巻もそうなった」
「えっと、足元から決めたと」
「そう」
「おしゃれですね」
「仕事着だが」
「いえ、えっと、おしゃれは足元からだって、兄が」
「君にはお兄さんがいるんだな、三男だったか」
「はい、姉も兄もいて、弟妹もいます。にぎやかです」
「そうか、いいことだ」
「ありがとうございます」
「君は?全部和装か?」
「はい。俺、走りませんし」
「なるほど」
多岐は納得したように何度か頷き、ゆるく握った拳を口元にあてて笑っている。それはそれは、かっこいい。ミハナは思った。これは中々、本気で片想いしちゃってるなぁと。しかもそのお相手とはこの間友達になってしまっていて、とてもいい人で。結構辛いような気がする。
とりとめのない話をしている間に、車はてけてけと孔雀屋の正面玄関に到着し、密室は解放された。珠の進はそれを察してわざわざ表に出てきてくれた。
「いらっしゃい」
「お珠さん、こんばんは、お邪魔します」
「今日はお泊り、嬉しいねぇ、一緒の布団で寝ようね」
「いや!それは!ダメでしょう!」
「ダメなの?」
「ダメです!」
「多岐、僕はミハナに嫌われたかな?」
「俺がお珠さんを嫌いになるはずないでしょ!?」
「よかったー。ちゃんと干しといたから、フカフカだよ。ちょっと派手だけど、寝心地はいいからね」
それはお珠さんのお商売度具のお布団じゃ……。
別に珠の進と自分がどうかなっちゃうなんて天地がひっくり返ったってあり得ない話だとミハナは思っているが、それでもれっきとした成人だ。一緒の布団で寝るなんて、いろいろ問題が多いのは間違いない。多岐だっていい気はしないだろう。そう思いつつ、多岐をそっと見上げると、案の定苦い顔をしている。
「あの、あの、多岐の旦那、俺は」
「ああ、わかっている。珠の進」
「うん」
「今日は初日で、ミハナくんも不慣れだから、一緒の布団で寝るのは次にしたらどうだ」
「えー最初が肝心なんだよ。第一、次があるかなんてわかんないじゃない、多岐の都合なんだから」
「それはそうだが、ミハナくんにだって都合があるだろう」
「あれでしょ、多岐は僕らが仲良くしているのが羨ましいんでしょ」
「珠の、何でもかんでも明け透けにしてはいけない」
二人が何やら言い合っている後ろをついて、孔雀屋に入る。営業を始めたばかりの見世は慌ただしく、客の誰もが、急に姿を見せた一生お目に掛かれるはずのない珠の進を凝視している。珠の進は普段着よりは少しいい着物を着ていて、でも接客仕事をする格好ではない。横に並ぶ多岐も、どうということはない仕事着で、なのに二人は本当に驚くほど美しい。生きている世界は同じでも、住んでいる場所が違うのだ。羨ましいと妬むことさえ思いつかないほど、遠い。
「ミハナ?」
「……は、はい!」
「お腹空いた?僕と一緒に食べようね。多岐は仕事に行くんでしょう」
「まだ少し時間がある」
「夕飯、用意させて持たせてあげるよ」
「なぜ俺をのけ者にしようとする」
「だって、僕はミハナと友達同士の語らいがあるから」
「俺が聞いたっていいだろう。邪魔はしない」
「えー、絶対邪魔」
「邪魔はしないから、食事は君らと一緒に戴きたい」
「どうする、ミハナー?邪魔だよねぇ」
「いや、え、あの、一緒に……はい」
「ミハナは優しいね。今度多岐に何かご馳走してもらいなね」
「ありがとう、ミハナくん。恩に着るよ」
二人はとても輝いていて遠い存在だけれど、その距離を縮めて手を差し出してくれる。優しい笑顔で。それが嬉しくて、ミハナも思わず近づいてしまう。
「お食事、楽しみです」
「うん。僕もここの板長の作るご飯が一番好き」
「普段お仕事のない時も、こちらでお食事されるんですか?」
「気の向くままに。下の子たちはこちらに来られないから、だいたいはあちらで食べるんだけど、お酒を飲みたかったり、多岐が暴れたりするときは見世の部屋で食べるよ」
「おい、珠の。俺は暴れたりはしない」
「ん?」
「ん?じゃない」
「んふふ。はいどうぞ、寛いでね、ミハナ」
賑やかな一階から立派な階段を上がって二階へ移動し、襖で仕切られ方々に伸びる廊下を歩いて案内されたのは、広々とした座敷だった。ミハナは妓楼に行ったことがないので、この部屋が普通なのかよくわからなかったけれど、とても居心地がよさそうだと思った。
「ここ、僕の部屋なの」
「はい」
「隣も僕の部屋なんだけど、食事はこっちでしてる。こっちの方が眺めがいいから好きなんだ」
「はい。本当に、いい眺めですね」
「でしょう。ミハナ、お酒飲む?」
「あー、いえ、やめておきます」
「わかった。多岐、まだいるの?」
「だから」
「冗談だよー。さ、ご飯ご飯。誰か」
珠の進の呼び声に、さっと襖が開いて若い男性が何人も部屋に入ってきて食事の支度を調えていってくれる。特別豪勢なご馳走ではないが、とんでもなく美味しそうだし、品数が多い。畳の上に運び込まれた大きな食卓は、あっという間に埋まった。さあ食べようと促されて、綺麗な装飾の椅子に腰を降ろす。
「ミハナくん、好き嫌いはないか」
「はい、俺なんでも食べます」
「ミハナの好みがわからなかったし、うちは大所帯でね、急に献立を替えるのは難しいんだ。残してもいいからね」
「いえ、本当に突然押しかけてしまってすみません」
「押し込んできたのは多岐だし、僕はそれで嬉しいからいいの。では、合掌」
ありがたい夕餉は、とてもおいしかった。一人で食べるのとは違って、多岐と珠の進との会話は楽しくて、今朝から始まった非日常に怯えていた気持ちが、少しほぐれる様な時間だった。犯人が捕まるまでずっと緊張しては過ごせない。だから、孔雀屋や、多岐のところにいる間は気を抜いていい。そう言われているような気分だった。
多岐は食事のあと、名残惜しそうにしながらも仕事へ出かけていった。珠の進は、ミハナが妓楼に初めて入ったということを知り、お客に迷惑の掛からない程度に中を案内して回った。色っぽいようなことが始じまる時間ではないし、実在しないのではとさえ言われる伝説の珠の進がそこらじゅうを歩いているのは、大きな宣伝効果にもなった。こんなことは二度と起こらない故に、今宵の客は三途の川を渡りながらでも自慢の種として話して回るだろう。そして、もしかしたらと期待した者が明日からはきっと押し寄せる。ミハナは自分の知らない世界を覗き見ることに夢中で、そんな周囲の様子に頓着していない。珠の進はすべて計算づくでゆらゆらと歩き回り、時折、見世の者に笑顔を向けてすれ違う。ミハナを紹介したりもする。お客に笑顔を向けると色々と厄介だからだ。それでも、珠の進の微笑みを盗み見ることができた客は、この先の人生の運をすべて使い果たしたと言ってもいい。見世の人はミハナの存在を多少訝しんではいたけれど、多岐とも懇意で見世の親父も認めていると珠の進が説明すれば、"お珠ちゃんのお友達か""珠のお兄さんのお友達ですか"とミハナに笑顔で会釈をしてくれて、珠の進という男が、この場所でいかに愛されているかを知るミハナだった。
楽しい夜は更けてゆき、珠の進の専用の風呂場で一緒にお風呂に入った。すごいことだ。そして食事をした隣の部屋には、珠の進の宣言通りふかふかの布団が二組用意されていた。どう見ても、一般用の布団ではないが文句などあるはずもなく、ミハナは失礼しますと言って部屋に入った。
「一組でもよかったのにね」
「あはは。いや、さすがに」
「そう?ミハナは寝相が悪いの?」
「どうでしょう。寝言がうるさいって言われたことはあります」
「そうなの?何を言うの?」
「なんかね、やっほー!とか、言うみたい」
「とても楽しい夢を見てるんだね」
二人でそれぞれの布団にもぐって灯りを小さくして、友達とお泊りなんて初めてだーと珠の進がうれしそうな声を上げる。
「多岐はたまに泊まっていくけど、あいつは友達じゃないし、そう考えるとやっぱり僕、友達っていないなぁ」
「……多岐の旦那との付き合いは、長いんですか?」
「そうだね、うん、僕がこの見世に出始めて以来だから、長いね」
「そうですか」
「まだ僕が新造で、まともに接待もできないようなときに、変なお客に目をつけられてさ」
「はい」
「そりゃもう色々大変だった。すっごい変なお客でね。僕もぼんやりしていてよくわかっていなかったけど、命の危険もあって」
「えええ!?」
「古今東西、そういうのはあるよ。熱上げちゃってね、どちらかが。どっちもが思いつめると一緒に川に身を投げるとかそういう方に突っ走っちゃうけど、片方だけだと、もう片方は逃げるしかないでしょう」
「お珠さんが、無事でよかったです……」
「あはは。ありがとう。その時に、見世がつけてくれた用心棒が多岐だったの」
「なるほど」
「多岐だって、僕よりは少し年上だけど今ほど何でもできるわけじゃなかったし、用心棒の仕事も始めたばかりだったし」
「はい」
「でも、絶対守るから安心していいって、言ってくれたの。あいつ」
「……はい」
「かっこいいでしょ?」
「かっこいいです」
「だから、僕は多岐の傍にいると安心するように育ったの。刷り込みに近いね、僕まだ子供みたいなものだったし」
「孔雀屋の将来を背負って立つようなお珠さんを、よくそんな新米用心棒に」
「ああそれはね、多岐ぐらいしか、うちの親父さんの出した条件に合う人がいなくてね。結果的には大成功だったけど」
自分の見世の大事な子を預けるのだから、それはそれなりの条件を出したのだろう。新人とはいえきっと最初から多岐は優秀だったのだ。だから、この見世の親父さんのお眼鏡にかない、有言実行、珠の進を守り、そして、結ばれたのだろう。それからずっと、仲睦まじく。
「……それからずっと、仲良しなんですか?」
「んー、まあ、多岐は面倒見がいいし、僕は面倒を見られるのが好きだから、うまい感じだね」
「喧嘩とか、しなさそうですもんね、お二人とも穏やかだし」
「小言はあるけど、喧嘩か~そういえば僕、誰かと喧嘩なんかしたことない。ミハナ、してくれる?」
「無理ですよ。俺、お珠さんのこと好きだから、喧嘩なんかしたくないです」
「そうかー、僕もなんだよねぇ」
「喧嘩なんて、しないに越したことはありません」
「そうかな、うん、じゃあ、そうしよう」
「はい、あの」
「ん?もう眠い?」
「いえ、……あの、ごめんなさい」
「何が?」
「多岐の旦那もお珠さんも多忙で、一緒にいられる時間は大切なのに、俺のせいでこんな面倒ごとに巻き込んでしまって」
「ああ、なんか僕の名を利用するって言ってたね」
「いえ、そうじゃなくて、それもそうなんですけど。……多岐の旦那の家にしばらく」
「うん、いいよね。僕も行こうかな」
「え!?ますますマズイですよね!?」」
「確かに、ここのほうが部屋は広いし布団はふかふかだし畳だから人数増えてもまあ大丈夫だけど、多岐の部屋に三人泊まれるかな?僕とミハナが同じ布団だとして」
「そうじゃなくて!」
「ふかふかじゃない?」
「ふかふかですよ!さっきから俺は睡魔との連戦に」
「多岐が邪魔?わかる、邪魔だよねぇ」
「邪魔なのは、俺です!」
「なんで?」
「だって、俺がいたら、お二人イチャイチャできないじゃないですか」
「ミハナがいなくても、イチャイチャはしないよ、僕と多岐は」
「なんで!?」
「なんでって?ああ、もしかしてミハナはあの噂を信じているの?僕と多岐は恋人じゃないし、一度もそういう感情を持ったことも関係を持ったこともないよ」
「……え?」
「なんだ、そんなこと。信じやすいのはよくないよ。コトの噂なんか、百あれば五十は嘘で五十は出まかせで五十は妄想だよ、覚えておいで」
薄闇の中、珠の進がぱちりと片眼をつむって見せる。ミハナはまだ、あっけにとられていた。え?そうなの?恋人同士じゃ、ないの?どうして?あれほどお似合いの二人に見えたのに?
「多岐はあんなだし、僕もこんなだから、誰もまともに君たちはどういう関係なんだ?って聞かないんだよね」
「はあ……」
「だから噂を否定する機会がないだけ。多岐も僕と同じくらい友達がいないし、仕事仲間はいるけど、僕が街へ出かけるときは親父さんが多岐を呼んじゃうからほとんど一緒に行くことになるし、だからなんだか、みんなの印象としては四六時中一緒みたいになってるんだよね」
「はあ……」
「多岐にしたって、用事はなくとも、僕のところに来るとおいしいご飯もあるし」
「はい」
「だから、うーん……ご飯仲間なのかな、うん。きっとそうだ」
「大切なんだと、思います」
多岐と珠の進は、にわかには信じられないけれど恋仲ではないらしい。珠の進曰く、友達でもない。でも、もしかしたら多岐は珠の進を愛しく思っているのかもしれない。でなければ、あんなふうに寄り添うものだろうか。少なくとも、多岐にとって珠の進は特別な存在なのだ。それは絶対に間違いない。
珠の進はミハナの言葉に、少し考えるようなそぶりを見せた。そして、ころころと寝返りを打ちながら、そうかもしれないねと言った。
「多岐は僕に同情しているんだ。僕の境遇に。僕はこの見世に来るより以前の五歳ごろまでの記憶がない。もしかしたら、覚えているのが困難なほど辛かったのかもしれないし、別の理由かもしれない。いずれにせよ、年端もいかない子が身寄りもなく記憶さえないまま妓楼にいるのだから、まともではない」
「お珠さん……」
こんな風に聞いてはいけないのではないだろうかと、落ち着かなくなるほど衝撃の過去だった。人は、記憶がなくとも生きていける。記憶を失うほどの目に遭っても生きていく。辛いと思う暇さえなく時間は流れ、大人になり、自分は辛いのだと自覚してみたって、救いはない。過去を受け入れることを、過去を遠ざけることを、過去を切り捨ててなかったことにすることを、そのどれでもない選択を仮にしたとしても、本人でさえ自分を責められない。まして他人が、口を挟めることではない。友達でいたいと願うとき、人は自分の無力さを呪いながら、その人のしあわせを祈ることしかできないのかもしれない。助けてほしいと、その人が望まない限り。
黙ってしまったミハナの心配を吹き消すように、珠の進が静かな声のままで話を続ける。
「覚えていないから、悲しいとか寂しいとか、僕にはそういう感傷はないのだけど」
「……」
「多岐は、自分もあの風貌で色々あったし、僕の方が年下で、なんだか同情したんだよ。大事にしないといけない子なんだって思いこんだの」
「それは、きっかけはそうかもしれません。でも、今に至る長い時間をお二人で過ごしてきたんですから、ご縁があるんだと思います」
「そうだね。ありがたいね」
「はい」
「ご飯だけじゃないよね」
「そうですよ。多岐の旦那は、もしここでご飯が食べられなくなっても、お珠さんに会いに来ると思いますし、きっとずっと大事にしてくれると思います」
「そうだね。ありがたいね」
「はい」
「でも、僕はそれを望んでないかもしれない」
「……え?」
「僕にはやりたいことも欲しいものもなくて、この見世に恩があるし他に行くところがないからここで珠の進を続けている」
「……はい」
「こんな僕でなければ、多岐は僕を大事に守る必要がない」
「そうで、しょうか」
「僕はいつか、こんな空っぽの僕じゃなくなるのを夢に見ているんだ。だから、多岐と僕の関係も、その夢が叶えば変わるんだよ」
「……」
「だけど、ミハナは僕の友達だから、僕が変わってしまっても、友達でしょう?」
「はい!」
「よかった。僕はね、友達が欲しかったんだよ。だからとても嬉しいし、大事にしたい。ねえ、ミハナ」
「はい」
「友達でいてね。僕はもしかしたら死ぬまでこんな僕かもしれないけど、ミハナのことが好きだよ」
「お珠さん」
「友達がいる人生なら、死ぬ時も笑っていられそうだね」
「もしもお珠さんが変わってしまったとして、旦那との今の関係が変わったり終わったりしてしまっても」
「うん」
「次の新しい関係が始まって、また楽しい毎日が来ます」
「……そうかな」
「はい」
「それはとても、楽しみだね」
「俺はお珠さんが好きです。年も違うし、色々違うけど、お珠さんと友達になれて嬉しいです。優しくて物知りで、とってもきれいで、一緒にいると楽しいです」
「そう?嬉しいな」
「お珠さんは、今のお珠さんで十分立派で、値打ちのある人です」
「そうだね、コトで一番高いからね」
「コトで一番ということは、この国で一番ということです。それに、今のお珠さんに値段などつけられませんし、そもそも、お珠さんはお金では買えません」
「そうだね。お金積まれたって、お馴染みさんとしか同席しないからね」
「お珠さん」
「うん?」
「……お珠さんが、この孔雀屋から出ても、出なくても、俺はお珠さんの友達です」
「うん」
「すごく狭いですけど、今度俺んちにお泊りに来てください。本当にすごく狭いですけど」
「ほんと!?やったー!」
「はい。いつでもいいです。もしよかったら、実家にだって来てください」
「実家って清白?遠いんじゃないのかい?」
「汽車に乗りますね」
「僕、乗ったことない」
「俺もまだ、友達と乗ったことはないです」
「そうなの?じゃあ、僕が一緒に乗ってあげるよ」
「はい。ありがとうございます」
「多岐も誘う?」
「うーん。どうしよっかな」
「ふふふ。楽しみだねぇ」
「はい、楽しみです」
友達はいい。友情は簡単に始まって簡単に終わるけれど、そういうこともあるけれど、ずっと会わなくても、環境や状況が変わっても考えが変わっても、何も変わらないまま続いていく友情もたくさんある。ミハナはこころの底から、珠の進とそういう友達になれればいいと思った。
「お珠さんは、好きな人とか、いないんですか」
「僕?うーん、今はパッと思いつかないなぁ」
「そうですか」
「できるだけ好きな人、作るようにしてるんだけど」
「そうなんです?」
「うん。いた方が楽しいでしょう」
「はい、それは、はい」
「本で読むような、芝居で観るような、情熱的でのめりこむような恋は、したことがないんだけど」
いつかしたいから、準備をしているんだよ。
珠の進は美しい顔で、あははと笑う。それがなんだか、どうしようもなくかわいくて切なくて、ミハナは自分の枕をぎゅっと抱きしめるしかできなかった。
「……出会いとか、あります?」
「あるよ。甘味を食べに行ったら後ろから追いかけてこられたり」
「だめですよ、そんな変な人、信用したら」
「うふふ。僕、お客さんにはそういう気になれないから、身近な人にしてる」
「例えば?」
「身の回りのことをしてくれる人。部屋の子じゃないよ。子供に手を出す人間はクズだからね。男衆さん、たくさんいるから」
「男衆さんと恋に落ちるのは、孔雀屋では、許されるんですか?」
「絶対ダメだね」
「お珠さん、なんでそんな危ない橋を」
「僕が片想いするだけ。いい人だなぁって思って、その人見かけるとニコニコして、お菓子があったら渡したりして、そういうのをするの。気持ちがいいし、楽しいし、何も見返りを求めないから相手だって気が付きゃしないよ」
「それは……なかなか……」
される方はたまったもんじゃないのでは。こんなに魅力的な人に無邪気に好意を寄せられて、お互いの立場を考えればその手を握ることもできない。そもそも珠の進はいつか訪れる本物の恋のための準備という名の練習のつもりなのだから。
「ふふふ。友達っていいね。こんな話、誰にもしたことがなかったよ。誰も僕に聞かないしね」
「ちょっと、詮索しすぎました?ごめんなさい」
「いいよ、だって友達だもん。ああ、眠くなってきた。ミハナの恋の話は、次のお泊りの時に聞くよ」
「えー……やだなぁー……」
「だめだよ、ちゃんと聞くからね」
「えー……」
ごにょごにょぶつぶつ言うミハナと、次はいつだろうねと笑う珠の進。二人はあっという間にフカフカのお布団で眠りに落ちていった。二人を最後まで見守ったのは清白の蝋燭だった。
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