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第7話
翌朝、多岐はミハナを迎えに孔雀屋に現れた。ミハナと珠の進はまだ布団でもぞもぞしているような時間だった。襖を開け放ち、あきれた声で二人を起こす。
「なんだ二人ともいつまでも。早く起きなさい」
「ご飯食べに来ただけのくせに……」
「旦那、今何時だと思ってんの……」
「……少し、早かったか」
多岐は反省した。朝ご飯の支度さえ整っていないような時間だ。ここへ来るのが楽しみで、徹夜明けなのに意気揚々と向かってしまった。確かに、まだ寝ていてもおかしくないし、だらしないといわれるような時間でもない。仕方がないので、多岐は朝風呂をもらって時間を潰した。さっぱりして部屋に戻ると、布団の敷かれていた部屋はもぬけの殻で、二人は隣の部屋で朝ごはんを用意してもらっていた。
「多岐、遅い」
「朝風呂とか、旦那、優雅なもんですね」
「……ああ」
やはり一晩お泊り会とやらをすれば、親睦は深まるのだろう。昨日よりもよほど仲良く息の合った様子で、ミハナと珠の進は椅子に座って多岐を呼ぶ。多岐は、自分の席が用意されていることをありがたく思いつつ、同じ食卓に着いた。
「多岐は僕らの邪魔ばっかりする」
「すまん」
「旦那、羨ましかったんですか」
「ん?そうだな」
「仲間には入れてあげませんよ」
「何故」
「旦那とは、友達ではないので」
「ふむ、正論だが、思いのほか残念だ」
「ミハナ、今日から多岐の家にお泊りなんでしょう?」
「はい。お世話になります」
「僕も行こうかな」
「珠の、親父さんに相談してからだぞ」
「はぁい」
流石に、珠の進は何でもかんでも自由に行動はできない身の上だ。孔雀屋の管理にあるわけではなく、孔雀屋が心配しているのだ。あまりに有名な、今なお輝き続ける美しいこの男は、あらゆる欲の対象となってしまう。孔雀屋にいてくれれば守れるけれど、玄関を一歩出ればそこは危険の吹き溜まり。過保護であるとはわかっていても、一人での外出など許せるものではないし、外泊なんてもってのほかだ。多岐が、大丈夫です俺が引き受けますと約束しないことには、孔雀屋の親父は珠の進に懇々と翻意を促すし、珠の進も親父さんの言うことでしたらと自分の希望を引っ込める。だから、そんな珠の進を不憫に思うから、孔雀屋の親父はすぐに多岐に手紙を送るし、多岐は多岐で自分の仕事の都合さえつけば珠の進を優先する。自分の同伴がなければ、ちょっと気になるお店に甘味を食べに行くことも叶わないような珠の進に、不自由な思いををさせたくないから。彼らは相手を思いやったり頼りにしたりして、助け合いながら生きている。そういう関係を言葉で当人らから聞かされれば、なるほど確かに恋人同士とは違うようだと理解できる。ミハナは、実家とは違う味付けの卵焼きを口に入れつつ、なんだか、世界が変わったような気分だった。
珠の進と親しくなれたこともそうだ。美しく、大人気で、伝説の男娼などという、正体というか実態の知れない幻のような人だったのが、生身の人間であり、とてもとても好ましい愛すべき男だと、実際近しい人たちからは大切にされているのだと知れた。その美しさは、皮一枚のことではなかったのだ。そして、同時期に抱いてしまった恋心は、なんとなく後ろめたいような息苦しいような横恋慕のようなはかない恋煩いであったのが、どうやら正々堂々とした片想いであるらしいとわかった。ただし、多岐は珠の進を好きかもしれないし、ひょっとしてひょっとして、他に好きな人や恋人がいるかもしれない。さあ、これからだ。友達の恋人ではなかったのだから、ミハナは頑張ることにした。多岐のことが、やはり好きだと、このさわやかな朝にしみじみ思ったからだ。
「多岐は暇なの?」
「珠の、俺がここへ来るのは暇つぶしじゃない」
「ご飯だよね」
「ここのご飯はおいしいが、珠のの顔を見に来ているんだ。それに、本日はミハナくんの送り迎えという大事な役目もある」
「多岐に恋人ができたら、あっという間に破局しちゃうんじゃないの」
「恋人ができても、ここへ連れてきて一緒にご飯を食べさせてもらうよ」
「恋人と出かける先が妓楼だなんて、多岐はおかしな人だね」
「そうか?困ったな、そういうのを受け入れてくれる人でないとな」
お珠さん、なんて優しいの。さすがに長年コトの色街の頂点に在り続けるだけはある。ミハナの恋心なんかお見通しで、さりげなくミハナの気がかりを解消してくれた。多岐に恋人はいない。うう、俺、がんばるよ。好きなんだもん、いいよね。頑張るくらいは、いいよね。
「ミハナくん」
「は、はい!」
「ここの板長は、朝ご飯を食べた人にお昼のお弁当を持たせてくれるんだ。君もどうだい?」
「あ、はい、あの、ありがたいです」
「うん、じゃあ、お願いしよう、二人分」
「多岐、自分のお弁当を正当化するのにミハナを使うのはずるい」
「ははは。ばれたか」
呆れ顔をしつつ、それでも珠の進は誰か、と声をかけ、そうしたら廊下から通りがかりの人が部屋に顔を覗かせてくれた。お弁当を二人分板長に頼んでおくれと珠の進が言うと、珠の進さんも同じものがよろしいでしょうからと、張り切って三人分こしらえてますよと笑って教えてくれた。
「僕もお弁当かぁ」
「お弁当、いいですよね。俺好きなんですよ。時々食べたくなります」
「うん、いいよね。僕も今日はお庭で食べようっと」
「同じお弁当ですね、嬉しいなぁ。板長さんにお礼言わないと」
「うふふ。だめー、板長はね、僕が好きなの」
「だめかー」
用意してもらった朝ご飯を食べ終えて箸を置き、手を合わせておもむろにお茶をすすって、多岐はミハナと珠の進を眺める。珠の進との付き合いは長い。年端もいかないころから知っている。まだ本当に子どもで世の中のこともわからず、少しぼんやりとしたとびっきりきれいな男の子だった。悲しいとか寂しいとか辛いとか、そういうことを言わないかわりに、嬉しいとか楽しいとか言うこともなかった。多岐自身もまだ仕事に不慣れだったけれど、彼の身の上を知り、用心棒として近くで過ごし、俺がいるから安心していいと何度も言った。珠の進は素直に頷き、多岐にこころを許し、少しずつ表情と感情が豊かになり、ますます美しく輝いていったけれど、中身はずっと幼いころと変わらない印象だ。甘いものが食べたいという以外、特に何も欲しがらず、発作のように仕事にのめりこんだかと思えば、次の日には、あちこち痛いと言いながらあっさりとしている。孔雀屋という小さな世界に住んでいて、色街という特殊な場所で生きている珠の進には、こんな風に、普通の友達がいなかった。周囲には同じ職業の人間か同じ世界で生きる人間、そして、珠の進を買う人間くらいしかいない。ミハナのように、実家が立派なお金持ちであるというところは別にして、普通の種類の人、というのはとてもなじみが薄いのだ。それなのに、縁あってこうして二人は仲よさげに笑い合っている。多岐は、それがとても嬉しかったしありがたかった。多岐にとって、珠の進は肉親も同然なのだ。とても手のかかる、どれだけ見ていても飽きない、かわいい弟分のような存在。彼が朗らかに笑っていられるのであれば、その時間は大切にしてあげたい。
「多岐、もうそろそろ行かないとダメかな」
「そうだな、ミハナくん、行こうか」
「はい」
「ミハナ、お仕事頑張ってね」
「ありがとうございます。お珠さんも、今日はお仕事ですか?」
「ううん、今日は下の子に歌を教える日なんだ」
「そうですか。頑張ってください」
「頑張るよ。また来ておくれね」
「はい!」
昨日と同じく、多岐の使う車に乗せてもらい、少し緊張しつつ店まで送ってもらう。多岐は別れ際に、今日はちゃんと自分の家に匿うから安心してほしいと真剣な顔でミハナに告げる。
「帰りは途中で、君の家に寄ろうか。何か必要なものがあれば」
「あ、はい。そうしていただけると助かります」
「ああ。では、またあとで」
「はい!お仕事頑張ってくださいね」
「ありがとう」
ご近所の職人見習たちがちらちらと見る中、多岐を見送ってミハナは自分の店に入る。さあ、仕事だ。自分の夢を、誰にも邪魔させないし、誰かのせいで何かを諦めるなんてしたくない。自分には、こうして助けてくれる人がいる。そのやさしさに報いるためにも、精進しよう。
◆
日が暮れると、昨日と同じような時間に多岐が迎えにやってきて、とろとろと走る車でまずはミハナの家に行き、ミハナは大急ぎで当面必要なものをテキパキと支度して風呂敷に包み、多岐の家へ向かった。そこは、ミハナの家とあまり変わらないような集合住宅で、立地はよいし、一部屋一部屋の大きさもミハナのところの三倍か四倍ほどだし、きっとお家賃も高いのだろうとは思うけれど、本当にそっけないような家だった。
「遠慮せずに上がってくれ」
「はい。お邪魔します」
「一応合鍵を渡しておくが、一人で出歩かないように」
「はい」
「見てのとおり、家財の少ない家だから、散らかることもないんだが。まあ、好きにくつろいで」
「ありがとうございます」
手渡された鍵を用心深く懐の貴重品入れに仕舞い、ミハナはくるりと部屋を見回した。部屋は、三つ。服装がそうだからということではないだろうが、板敷きで、座るのは全部椅子で、ミハナや珠の進とは違う生活様式の家だった。多岐にはよく似合う。まあ、多岐にはきっと和装も似合うだろうけれど。
「この部屋を使ってくれ。あそこの棚は空だから、いろいろ置いて。えーっと、寝台が一つしかなくてな。板敷きでも使える布団の一式があるから、それでいいかい」
「十分です。ありがとうございます」
「とりあえず、夕飯にしようか」
「はい。俺、お茶淹れますね。あ、急須とか、ありますか?」
「あるよ。あまり使わんから、綺麗なもんさ。ああ、だからお茶っ葉が古いかもしれない」
ミハナのところに比べればすっきりと広い台所で、二人で皿やら茶葉やらを確認し、帰りに買ってきた夕飯を済ませる。多岐の好きな店だという。
「口に合うかな」
「はい、おいしいです」
「そうか、よかった」
多岐は思っていたより小食で、家にいる時は酒を飲み、割とだらしなく過ごすのだと言う。意外だなぁ、そういう多岐を見られるのは嬉しいなぁと、ミハナは頷くことで多岐に相槌を打ちつつ口を一生懸命動かして食事を続けた。多岐は、この子は多分、毎日きちんとしているんだろうなと想像した。
「お酒は何を召し上がるんですか?」
「何でも飲むが、コトの銘酒が多いかな。たくさんあって、飲み飽きることがない」
「俺の実家の方も、有名なお酒があるんです。今度送ってもらいますね」
「そうなのか。楽しみだ。君は飲まないのか」
「酒乱なんです」
「やぁ……そうか」
「冗談です」
「本当かい?」
「今度酔っぱらった俺をお披露目いたします」
「追々でいいよ、うん」
こうして最初の夜は過ぎ、多岐の家に寝泊まりする生活が始まった。
◆
多岐の家から毎日一緒に出掛けて、ミハナは店で仕事をして、多岐もその間に用心棒としての職務をこなし、多少の前後はあるものの夕飯前くらいの時間にミハナを迎えに来てくれる。そんな日が数日続いて、ある日の夕飯時、ミハナは正面に座る金の色彩の多い美丈夫に、一つ提案をした。多岐は仕事着を部屋着に変えていて、いつもより少し開いた襟元から覗く鎖骨が綺麗だ。
「あのぅ」
「なんだい」
「ご迷惑じゃなければ、俺、朝ご飯作ってもいいですか」
「え?」
「えっと、買ってくる食事に全く不満もないし、おいしいですし、でも俺、朝はお味噌汁とおにぎり食べたくて」
味噌は実家から送ってもらっている。家を出るときに、母親に作り方を教わった。暑い日も、朝は熱いお味噌汁を飲むのがミハナの日常で、それに合わせておにぎりも握る。これは、店で買うのと半々だ。米を炊くのは味噌汁を作るよりも面倒だから。全く予想もしていなかった話に、多岐はまさに今食べようとしている買ってきたての食事の乗った自分の皿を見た。そういえば、ミハナの家を訪ねた時に朝ごはんを勧められたことを思い出す。
「……毎朝?君が?」
「あー、はい、意外ですよね。旦那、お味噌汁苦手ですか?」
「いや……」
「苦手でなければ、俺、作りますから、よかったら」
そこまで言ってから、ミハナははたと気づいた。今時自宅で料理をする人は多くない。ほとんどが飲食店で好きなものを食べ、もしくは買って帰ってそれを食べる。だから、家族でもない人間の手料理を口にする機会は本当に少なく、抵抗感があるのが普通だ。ミハナと多岐の付き合いなどごく浅く、多岐はその職業柄一般よりも警戒心が強いのだろうと想像できる。ああ、とんでもないことを言ってしまった。案の定、多岐はかたい表情のままミハナを凝視している。これはなかなかにマズイ。ミハナは慌てて箸を置き、頭を下げた。
「すみません!俺、旦那の気持ちも考えず身勝手なことをっ」
「あー……」
「嫌ですよね、多岐の旦那は、俺のことなんかほとんど知らないし、そういうの」
「いや、嫌なわけではないよ。少し、驚いただけだ」
「すみません、驚かせてしまって。ご迷惑ですよね、あ、そもそもここに置いていただいているのだって」
「ミハナくん、落ち着こうか」
「はいぃ……」
ぷしゅうと空気が抜けるようにしょんぼりと、ミハナは俯いたまま縮こまる。そうだ。自分がここにご厄介になっているのだって多岐の厚意であって当たり前ではない。本当なら自分の身は自分で守るのがコトの住人の心構えだ。それを、多岐の優しさに甘えてしまっている。ミハナは深く反省し、自分の迂闊さを恥じる。多岐は、同じく箸を置いて食事を中断して、ミハナのつやつやとした黒い髪を眺めていた。
全くこの子は、珠の進とは別の方向で何をしでかすのか想像もつかないことだ。面白い。
「……君の申し出は、自分でも意外だが、とても嬉しいよ」
「……気を、使っていませんか」
「いや。そういうのは性に合わない。君をいたずらに喜ばせる義理も道理もないしね」
「はい」
「ありがとう。じゃあ、さっそく明日から、俺は君の作る味噌汁がいただけるのかな」
「はい!」
「楽しみだ」
そう、楽しみだと思った、本心から。出会いは奇妙で、今こうして同じ食卓で食事をする事態になった経緯も特殊で、でも、悪くない。他人と暮らすなんて、いくらそれが自分で決めた保護対象者であっても絶対に面倒で煩わしいと思う場面があるはずなのに、多岐には未だにそれがないし、ミハナも機嫌よく程よく好き勝手に過ごしているようだ。だから多分、気が合うのだろう。馬が合う。反りが合う。なんだかそういう、まあとにかく、相性がいいのだと思う。そう考えれば色々と腑に落ちた。
ミハナは、自分の都合で言いだした食事の段取りが多岐に受け入れてもらえて嬉しかったしホッとした。よかった。やっぱり長年そうしてきたから、朝ごはんはあたたかいお味噌汁とおにぎりがいい。実はちゃんと、お味噌もお米も家から持ってきている。
「旦那は、お味噌汁の具は何がお好きですか?」
「お麩」
「え!思いつかなかった……お麩、コトの人よく召し上がりますよね」
「君は食べないのかい?」
「あんまり……なんかたまに、かわいいの?ちょっと色がついてるのとか、頂いて、入れますけど、他に食べ方知らないからっていうのが理由で」
「お麩が浮かんでる味噌汁は、見た目もいいと思う」
「そうですか。他には」
「そうだな……じゃがいも」
「じゃがいも!!そうですか……大根は?」
「ああ、いいね。おいしそうだ」
「たまねぎ」
「……ネギ族は、苦手なんだ」
「ネギ族。ネギ属?」
「親分が玉ねぎで、あとは青ネギとかニラとかネギ一族郎党」
「好き嫌い、あったんですね」
「うん」
「はい。じゃあ、ネギ族なしのおにぎりとお味噌汁ですね」
「おにぎりに、ネギ族の付け入る隙はないだろう」
「ネギ味噌とか」
「面白いことを言うんだな。そんな食べ物はない」
「あるでしょ!?」
「俺の知る限りはない」
「子供みたい」
「ミハナくん、君の良心を信じているよ」
また一つ、多岐の新しい一面を知ってしまった。それが嬉しくて嬉しくて、ミハナは笑顔いっぱいで任せといて下さいと胸を張った。 多岐はそんなミハナを見て、朝が来るのが楽しみだと思ったし、いい出会いに恵まれたことを感謝した。
◆
多岐の家の朝ごはんが、おにぎりと味噌汁になって数日。多岐もミハナも、決まった休みがない仕事をしているせいで、一日中仕事から解放される日というものが少ない。ミハナは在庫の都合で店を開けない日でも作業をしに行くし、多岐は引く手数多だ。今は長年お世話になった人の自宅警備のようなことを長期にしているが、本来であれば目まぐるしく契約者も任務地も変わる。だから、この普段よりも穏やかに流れる時間を有意義に使って、部屋の掃除をした。昨夜の食事時にミハナにもその話をしたら、俺も手伝いますねと朝から一緒にあちこち片付けたり拭いて回ったりしてくれている。掃除は得意ではないらしいが、特に嫌なそぶりもない。育ちがいい子なんだろうな。多岐は、長いこと使って少しガタついている椅子の脚を直しながら、ミハナの薄い背中をちらりと眺めた。
「多岐の旦那!これは、もう捨てますか?」
「ああ」
「はーい」
コトは廃棄物にうるさいので、今度捨てよう、いつか捨てようというものが溜まっていく。それらをミハナがテキパキと仕分けして、決まりに則って捨てられるようにしてくれる。頼もしいことだ。
「ミハナくん、ありがとう。お昼にしようか」
「はーい」
「さて、どこへ食べに出るか」
「うっ」
「なんだ、希望があるのか」
「今日は、あそこの、あれが、食べたいです……」
ミハナが言うのは近所に時々現れる屋台の食事だ。屋台とはいえ、置かれた椅子二つだけ。いつも満席なので、持ち帰りが基本となる。そういえば今朝からいつもの場所に来ていたな。じゃあそうしようと、二人で買いに行って、部屋で食べることにした。ついでに近くの店で新しい茶葉とお麩も買う。
「おいしいかい」
「はい!すみません、なかなか食べられないから、つい」
「かまわんよ」
「だいぶんお掃除終わりましたね。後は風呂場と台所くらい?」
「ああ」
「あ、雨どい」
「そこは管理会社がするから。それに、危ないよ」
「はい」
「雨どいなんか、掃除してる人見たことないが」
「そうですか?葉っぱとか詰まると、雨の日大変ですよ」
「そういう風にならないようになっているんだと思うよ」
「さすがコトですね!」
「どうだろう」
ミハナはもうコトに住んで何年も経つのに、いまだにコトのことを不思議な街だと思っているようだ。確かに、不思議ではある。コトの人間は、生活の基盤や環境を支える技術にあまり興味がない。とにかくもの凄いことが行われているのだという話を、知ってはいるけれど理解が及ばないからだ。そういうものだと、甘受するし感謝はするけれど、仕組みはわからないまま、技術っていうのはたいしたもんだねぇとそう言って笑いながら、自分の好きに生活する。つまり、蝋燭を灯したり雨に濡れる裾に嘆息したり。もちろん、不便さを一切排除した合理的な生活を好む人もいる。どんな生活をしていても、秩序を乱さない限りはつべこべ言われはしない。表面上は。
「さっき珠のから手紙が来ていた。何をしているのかと聞いてきたから仕事が空きだからミハナくんに手伝ってもらって部屋を片付けていると返したら、自分もやりたいから残しておけと」
「ふふ。お珠さんらしいですね」
「片付けがしたければ、自分のところをやればいいんだと伝えたんだが、そんなのは面白くないと」
「お珠さんの周りは、きっと男衆さんや下の子たちがしてくれるんでしょうね」
「だろうな。あれの手に傷でもついたら大ごとだ」
「本当に、仲がいいんですね」
「ん?」
「今何してる?なんて手紙、あまりやり取りしないですよ。俺も後でお珠さんに書こうっと」
「ああ、珠のが喜ぶよ。仲がいい、とは、もうあまり思わんな。付き合いが長すぎて、家族同然で。弟みたいなものだと、一度言ったことがあるんだが、珠のにはそれは自分の台詞だと返された」
「自分の台詞?」
「珠のの方が、俺を弟のように思っているらしい」
「お?見解の相違、ですね?」
「まあ、思う分には好きにしようと、お互いに、そういうことになった」
「あはは」
やっぱり仲がいい。多岐は本当に珠の進を大切にしていて、珠の進のすべてを受け入れて、愛しているのだと思う。二人の関係が羨ましいような気もするけれど、自分もそうなりたいわけではない。ミハナは、残り少なくなった昼ご飯に視線を落としつつ、長い付き合いって、お珠さんも言ってたなぁと呟いた。
「うん。長いな。俺たちの話を聞いているのかい?」
「はい。えっと、まだ仕事に不慣れだったお珠さんの警護を、多岐の旦那が務めたって聞きました」
「君と珠のこそ、本当に仲がいいんだな」
「あ、はい、すみません」
「何も謝ることではないさ。珠のは人を見る目は確かだ。君はきっと、好人物なのだろう」
「わかりません。でも、そうだったらいいなって、思います」
「うん」
多岐は少し目を細めて、目の前に座る青年を見つめた。最初は実に素っ頓狂な男だとしか思わなかったけれど、こうして一緒に過ごすうち、珠の進の目に狂いはなかったと確信したし、自分の感覚でも、ミハナはいい子だと信じられる。そのミハナは、多岐の金色の目に見つめられて、照れたように頬を赤らめて、へへへと笑った。新鮮な反応だ。多岐の目を気味が悪いと感じる人がほとんどだから。そういえば珠の進も、初対面からじっと多岐の目を見つめては、綺麗だと何度も言ってくれた。
「懐かしいな」
「ん?」
「君の話で、少し昔を思い出したよ。懐かしい。珠の進と、出会った頃をね」
「きっとかわいい禿さんだったでしょうね。あ、新造さんに上がってたんでしたか」
「そう、新造になりたてだったな。その頃の珠のは、噂には聞こえていた。孔雀屋の秘蔵っ子としてね。時々、年長の男娼のお手伝いで見世に顔を出していて、客もそんな珠のを見ていたから。それはそれは、本当に、この世のものとは思えないほどの美しい子だった」
「はい」
「今も、見た目だけではなく、人なんだろうかと思うこともあるが」
「同感です」
「幼かったから、よく廊下で転んだり、言付けを忘れたり、子供らしい子供だったよ。感情が乏しくて、それだけは心配だったけど、大人を食ったような態度でもなくて、孔雀屋の親父さんの言うことはよく聞く子だった。その頃、少しおかしな客に目をつけられて」
「はい」
「そのあたりのことも聞いているのか?」
「えっと、おかしなお客に目をつけられて命さえ危なくて、多岐の旦那が、絶対に守ってあげるって言ってくれたって」
「はは、昔のことをよく覚えているな、あいつは」
「すっごく嬉しかったんじゃないでしょうか」
「そうかもしれない。もちろん親父さんは色々気遣って面倒を見ていたが、少なくとも肉親のいない子だ、誰か大人が絶対に大丈夫だと約束して、それを守ることができれば、少しは安心につながっただろう」
「はい」
「まあ、俺もその頃はまだまだひよっこで、孔雀屋の宝だからな、大口を聞いたはいいが相当苦労したよ」
「そうなんですか?」
「ああ……会社にもいろいろ相談して先輩に助けてもらって、でも、俺以外の人間が近づくことはやめてくれという契約だったし」
「そうなんですね。そういえばお珠さんも、多岐の旦那しか、条件に合わなかったって」
「ああ。珠のは老舗孔雀屋の将来を背負って立つという逸材で」
「はい」
「だから、何があろうと用心棒風情に傷物にされるわけにはいかなかった。それで、俺は性的に不能だったからそういう間違いは起こらないということで選ばれたんだ」
「……え?」
和やかな昼餉時。多岐の言葉は異質にミハナの耳をざわつかせた。その言葉を飲み込んで、不躾にも、ミハナはじっと多岐の顔を見てしまった。多岐は、ミハナの視線をその金の目で受け止めて、ほんの少しだけ唇の端に笑みを浮かべて、小さく何度か頷く。
「まあ、男としては結構大きな変化だったし、そうなった当時は落ち込んだり困惑したりしたけど、今は気にならない事だ。誰彼構わず知らせて回る話ではないが」
「……」
「その……君には、言っておこうと」
その話を聞いて、ミハナはもちろん何も言えなくて、それは心身の健康というごくごく個人的なことを明かされたという戸惑いもあったし、仮に本人がそれを話題にしたとしても、他人がつべこべ言うべきではないと強く思うからでもあった。そして、多岐を心配する気持ちがほとんどを占めるこころの中に、ほんの少しだけ、ああ、この人は誰かと恋仲になったりするつもりはないんだなと思い知らされたような気がした。多岐と珠の進の年齢を考えれば、もうずいぶん前からそのような状態なのだろう。だから、もうそのことに慣れてしまって、気にすることもなくなった。そういう行為をしたいと思わないし、相手も作らない、それとも、そういったことの一切合切を諦めきってしまっているということか。ミハナはひどく自分勝手なことだとは重々承知で、自己嫌悪におぼれそうになりながらも、自分の気持ちはごまかしようがなかった。自分はこの人とそういう仲になってそういうことをしたかった。そう思ってここで過ごしてきたのだ。しかし今、言外に、それはできないしする気もないと告げられたのに等しい。もしかしたら、秘めているつもりの自分の気持ちが多岐に伝わってしまっていたのかもしれない。だから、ミハナが何か行動を起こす前にけん制されたのだろうか。だとしたら、そのためにこんなことまで口にさせたのだとしたら、申し訳なくて消えてしまいたい。
片想いなら許されると思っていた。いつか両想いになれたらいいと思うことは、誰にも迷惑が掛からない綺麗な感情だと。そんなことはなかった。あわよくばと願うその卑しさが多岐を傷つけたかもしれないし、不愉快な思いをさせたかもしれない。でも今、謝罪を口にはできない。きっと誤解を生むし、多岐にさらに気遣いを迫るような結果になるだろう。ミハナは、目を泳がせながら、それは、大変ですねと、か細い声で呟いた。
多岐はミハナが一瞬で巡らせたような考えも気持ちも意図もないし、ミハナに不愉快な思いをさせられたこともない。全部はミハナの思い過ごしだ。事実をただ伝えたいと思って話しただけ。ミハナの考えが多岐の考えとあまりにも遠すぎて、この話をしたことをミハナがそんな風に受け取っているとは多岐には想像もつかなかった。だから、急速に落ち込んでいくのがわかるようなミハナの様子に狼狽えてしまう。
「すまない、ミハナくん。つまらない話をしてしまったな」
「いえ、そんな」
「聞いていて楽しいものではないよな。気が、回らず、申し訳なかった」
「ほんとに、旦那、俺に気とか使わないでくださいよ。やだな、あはは」
「隠すほどのことではないと思ったし、言っておいた方がいいかと思ったんだ、すまん」
「もー、謝るのなしですよ!俺、別に、気にしません」
「そうか」
「はい」
「良かった」
気にしない。この人は俺を択ばない。他人を近づけない。誰にどう思われても気にしない。俺は、こんなにもこの人が気になるのに。
ミハナは努めて自然に笑顔を作り、話題を変え、部屋の空気を変えた。多岐はミハナのそんな気持ちには気づかずに、ただひたすら、突然の一方的な秘密の暴露は聞かされる相手に負担になるものなんだと自分を戒めていた。今後はもう少し考えないと。
「ミハナくんは」
「はい」
「本当に、育ちがいいのだろうな」
多岐はその見た目が明らかに他の人とは違う。隠しようもないほどに。いや、隠そうと思えば隠せた。目の色も髪の色も、いくらでもごまかせるし、いっそもう二度と金の髪に戻せなくすることも、金の瞳でなくすことも可能だ。幼いころはそれを死ぬほど考え、願っていた。いつかお金ができたら、親が許してくれたら、いや、許してくれなくても自立した暁には、自分のこの異形をなかったことにしてみせると。黒い髪に黒い瞳。この国のほとんどの人が持つそれらを渇望した。日々のつまずきや、すべての嫌なこと、思い通りにならない苛立ちを、自分の見た目のせいにしてきた。実際この風貌のせいで、誰にも言えないような壮絶な目に遭ってきた。それも長期に渡っての話だ。我ながらよくも無事で、身体は丈夫だったけれどこころは誰だって簡単に壊される、まっとうに生きてこられたものだと思う。そしていざ、学業を修め、幾人かの友人を得て、職にありついた時、金の髪も金の目も、もうしばらく付き合ってみようかという気持ちになった。いつでも変えられる。でも、まあ、今じゃなくてもいい。この見た目を揶揄う人間より、今の自分は強い。だから、仕事も忙しいし、落ち着いてからにしよう。そう思っていたら、仕事が楽しくなり、やがて出会った珠の進がへえ、僕より綺麗な髪と目だねとかわいい声で褒めてくれたこともあり、多岐は自分の容姿に手を加えることを考えなくなった。どうでもいいことだ。鏡さえ見なければ忘れていられる程度には、揶揄う人も減っていた。でも、性的に不能であるということは、男性であればそれはそれは、笑いものにされる。こんな見た目でできないなんて、全くどうしようもない男だと言われてもおかしくはない。少なくとも、笑われるだろうし、気の毒がられて、同情されて、その陰では何を思われるかわからない。なのに、ミハナは心底自分を心配してくれているのか、辛そうにさえ見えるほど落ち込んでいく。それは彼の育ちの良さによるのじゃないか。ほかに思いつかないし。
ミハナはきょとんと多岐を見つめて、少し困ったように首を傾げた。
「よく、わかりません。ぼんやりしていますか?」
「いや?育ちがいいとぼんやりするのか?」
「どうなんでしょう。なんとなく、お育ちのいい人は、キリキリセカセカ、していないような、そういう気がします」
「同感だ。君も、ぼんやりしているとは思わないが、そうだな、おっとりしているな」
「はぁ……気を付けます」
「君のいいところだよ、変える必要はない」
育ちがいいと言われることはたまにある。それがミハナのどういう部分を見て言うのかはあまりわからないが、その言葉が賛辞でない場合があることは気づいていて、ミハナは聞き流すことにしている。他人の評価を気にすることも、身勝手な悪意に付き合うことも、とても疲れる。多岐は他人だ。彼の考えや気持ちにいちいち振り回されてはだめだ。冷静に、静かに、密やかに。でなければもうここにはいられない。
「えっと、俺には兄弟が多くて」
「ああ」
「家が商売をしていましたので、家族じゃない大人も、たくさん出入りしていて」
「ああ」
「だから、こんな風に仕上がったんだと思います」
「……?そう、か」
「はい」
こんな風に、実は自分の感情を隠しきることは得意なのだ。
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