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第8話
「そうじゃなくてぇー……」
大好きな自分の作業場で、ミハナは情けない声を出しながら机にゴチンと額をつけて突っ伏した。そうじゃない。そうじゃないんだ。
握りしめているのは、オオクマからの手紙だ。オオクマに初めて会ってから、もうずいぶん日が過ぎた。捜査は時間がかかるものだと理解しているし、オオクマがさぼっているなんて思いもしない。でも、だけど。
”多岐の費用のことなら心配無用。おじさんのお小遣いは大丈夫だよー(^^)”
オオクマから、のんきな手紙が届いた。ミハナは昨日、早くこの事件を解決して欲しくて、捜査の進捗はいかがなものでしょうか、多岐の旦那にも長らくお世話になり、申し訳なく、少々、気持ちが落ち着かない日々でございます、と、そのような手紙をオオクマに送った。その返信がこれ。別に多岐を雇う費用だか経費だかを心配などしていないし、そもそもそれはオオクマの小遣いなどではないと思うし、かわいらしい便せんにかわいらしい文字で、かわいくもない顔文字入りの手紙など、ミハナのため息しか誘わない。オオクマも多岐もミハナを子ども扱いする。オオクマが実際おじさんかどうかはさておき、ミハナが童顔なのは否定できない。実家がお金持ちで苦労してないからそういう顔つきなんだと、言われることも多い。冗談じゃない。俺は今とても苦労している。全く脈のない人に片想いをしつつ、その人と一緒に暮らしているのだ。毎日毎日、多岐に自分の恋心がこれ以上伝わらないように細心の注意を払っているつもりだ。そんな救いのない苦労を、早く終わらせたい。手紙に書いたことは嘘じゃない。傍にいると、気持ちが落ち着かない。多岐は時々面白くて、いつもかっこよくて、さっぱりと優しい。でもそこには、特別な感情はないのだ。自分だけが、とても醜い感情や目的で、多岐に笑いかけている。早く離れてしまわないと、まずい。離れない事には、踏ん切りがつかない。引き返せないようなところまで沈んでしまう前に、早く。それなのに、オオクマは何てとぼけたことを書いて寄こすのか。人の気も知らないで。ミハナはまた盛大にため息をついた。ああ、多岐が迎えに来てしまう。嫌じゃない。むしろ嬉しくて、夕方が近づくと鏡を見てしまうし、窓の外を気にし始める。でも、この恋はだめだ。だから早く。
「オオクマさんのバカ」
くしゃくしゃにしてしまったオオクマからの手紙を、手のひらでぎゅっと伸ばしてから文箱に片づける。ああ、そうして、今日も金の男がやってきた。
◆
多岐の家は清潔で物が少なくて、置いてある家財は多分よく吟味されたものらしく使い心地のいいものばかりだった。お互いが仕事をしているとき以外、二人は一緒に過ごしていたし、ミハナが友人と出かけるときの送り迎えも多岐は譲らず、友人たちは多岐をまじまじと見つめては、ミハナに説明を求めたりした。ミハナは決まって、ちょっとね、と言葉を濁すだけだった。オオクマの捜査に差しさわりがあってはいけないということもあったし、なんとなく、"一方的に保護されている"というのを白状するのを避けたかった。まだ手放すことのできない恋心が、ただお世話になっている人だと言うことを、受け入れさせなかった。
「ああ、降ってきたな」
「本当ですね」
ある日の夕方、しとしとと雨が降ってきた。寄り道をしなければ降り出す前に帰宅できたけれど、新しいご飯屋さんで美味しい夕飯を食べたから、いつもよりも遅くなったためだろう。二人は車に乗っていたので濡れずに済んだのだけれど、うっかりミハナの使っている来客用の布団を一式、干して家を出てしまっていた。天気予報は見ていたのに、ここのところ曇天が多くて、すっきりと晴れた朝が嬉しくて、張り切って干してしまったのだ。
「あー……」
「濡れてはいない?」
「ええ、でもなんだか、湿っぽいです」
「雨だからな」
物干し台には屋根があるし、放っておいても雨が降り出すとさらに庇が伸びたり雨よけが降りたりして、洗濯物などが雨に濡れることはあまりない。それでも、からからに乾いていた晩秋の空気は雨を溶け込ませてしっとりとして、ミハナの布団を撫でていた。
「布団の乾燥機は、うちにはないんだ」
「あ、はい。全然、濡れてないので」
「しかしな……ああ、じゃあ今夜は俺のところへ来るといい。最近特に冷えるし」
「えっ!!!」
「気になるか?」
「いやぁ……そりゃぁ……」
「睡眠は大切だよ。そもそもその布団だってあまり寝心地はよくないだろう」
「あ、いえ、そんな」
「畳の部屋もないしな。うん、そうだ。やはり俺のところにおいで。最初からそうするべきだった」
不自由をかけてすまなかった。多岐はそう言って、風呂場に消えていった。残されたミハナは、ほんのり湿っぽい布団を腕に抱いて困惑していた。いやいやいやだってそうでしょ?なんで一緒に寝る必要があるの?お布団無事だし床に敷いてもいいように弾力のある分厚い敷布団だったし毎日しっかり寝られてたし同衾とかもはや寝るなんてできない状況に追い込まれちゃうだろうし。そんなミハナの煩悶など、多岐は全くお構いなしで、結局風呂の後さあどうぞと、多岐の寝室へ誘われてしまった。ミハナとしては、複雑だ、非常に。こんな風に何でもない事のように寝室に誘われるって、それって、本当にまったくちっとも全然脈なしってことだから。
「寒くないか?」
「全然ですっ」
「ちゃんと肩まで布団に仕舞って。まだまだ冷える」
「大丈夫ですっ」
「広いから、多少寝相が悪くたって大丈夫だよ」
「俺、寝相はいいんでっ」
多岐の寝室に連れ込まれてしまったミハナは、ガチガチに緊張していた。幸い、広い。小柄ではない男が二人、天井を向いて横になっても余裕がある程度には。でもそういう問題ではない。多岐が動けばその振動が伝わるし、声が近いし、そのうちお互いの体温が同じ布団で混ざるのだ。冷静でいられるはずがない。ミハナはひたすら、自分のシタゴコロが恨めしかった。多岐はただ親切でしてくれているのだと、頭ではわかっているのに。
「灯りを消すよ」
「はいっ」
多岐の家で、蝋燭はほとんど使われない。あるのはもっと手軽で便利で広範囲を昼間の様に照らすような天井灯だ。でも、寝室の枕もとの棚にはミハナの蝋燭が置かれていて、時々点けているのだという。その話にミハナは感激しては、この状況に落ち着きを失くし、暗くなった部屋の中で情緒が定まらず汗ばむほどだ。混乱する。どうしよう。本当にそう思っていた。しかし、緊張していたのはわずかな時間で、あっという間に寝てしまった。ミハナが恨むべきは自分の中のシタゴコロなどではなく、多岐の選んだ極上の寝心地の寝台の方だったのかもしれない。すごい。前後不覚。はっと目が覚めた時には朝だった。
「よく眠れたみたいだな」
「はい……お恥ずかしい限りです……」
「なぜ?安心したよ」
すでになじみになった朝の風景。握りたてのまるいおにぎりとあたたかいお味噌汁。それらののった食卓を挟んで、爽やかな笑顔で多岐が首を傾げる。朝の光を受けて、金の髪も金の瞳も、今日もとても輝いている。ミハナはそれに見惚れそうになって、慌てて正気を取り戻す。
「多岐の旦那は、ちゃんと、眠れましたか」
「うん?ああ。ぐっすりだよ」
「でしたら、よかったです」
「ああ。寝心地もよかったし目覚めもよかった」
「それは、あの旦那の寝台が、上等だからです」
「いつもより」
「……そうですか」
のんきなもんだよ、人の気も知らないでさぁ!って俺も熟睡でしたけどね!?
なんだか悶々としつつも、ミハナは朝食を食べ終える。多岐も食べ終えて、お茶をすすっている。
「今日は出かけるのだったか」
「あ、はい。友達のところへ」
「送るよ」
「ありがとうございます」
「帰りは遅くなりそうかな」
「いえ。小さい子がいるので、夕飯前にはお暇するつもりです」
「そうか。俺も今日は仕事がないから、帰るときに連絡してくれ」
「はい」
「ゆっくり楽しんでおいで」
私用で出かける時の送り迎えを、一度断ったら、もの凄く淡々と懇々と、説得された。以来、ミハナは多岐の職業意識に敬意を示して、一人で出歩くことをしなくなった。多岐は、ミハナが自分に遠慮するのをやめてくれたことが満足だったので、今朝のやり取りもうんうんと頷いて微笑んでいた。
◆
「えー。ミハナめっちゃ愛されてんじゃん」
「ははは……」
「完全に、恋人扱いじゃん。彼氏ヅラじゃん?」
「はは……」
「それで脈がないとか、絶対嘘でしょ」
「はぁ……」
だよねぇ。勘違いしたって、俺のせいじゃないよねぇ。ミハナは、最近子供が生まれた友達の家で、出されたお茶やお菓子を戴きつつ、かわいい赤子の指を眺めつつ、ため息をついた。多岐はコトで有名人で、その多岐の家にご厄介になった経緯はあまり言いふらさない方がいい話なので、ミハナはごくごく親しい人にだけ、かいつまんだ事情を説明している。そのうちの二人が、今ここにいる。そうなると、どこか店ではなく自宅だということもあって、気が緩み、少し愚痴のように言ってしまったのだ。
「挫けそう……」
「いやあ、それは挫けるわ。でも別に、フラれたわけでもないんでしょ?」
「まあ……はっきりとは……」
「なんで脈がないと思うわけ?私だったらグイグイ行くけど」
「それとなく、牽制されたの。その……今は誰かと付き合うつもりはないって」
「そんなの、俺がその気にさせちゃいますよ!って言えばいいじゃん」
「いやぁ……」
「いつもだったら、ミハナ、そんな感じじゃん?」
「ねぇ……」
確かにそういうことがなかったわけではないが、いつもそんな調子でもない。その辺を、そんなことないよ!と否定する元気が出ないほど、ミハナは少々萎れていた。
「まあ、孔雀屋の珠の進と、実は恋仲じゃないっていうのもびっくりなんだけど」
「ね。俺も本人から聞いたから信じられるけど、どこからどう見てもお似合いだもんね」
「でもさぁ、ミハナも嫌われてはいないわけでしょ」
「そうだね」
「それが逆にキツイよね」
「そうだね……」
「ていうか、本当に断られてるの?照れてるだけじゃなく?」
「じゃないよー」
「じゃあもう、嫌なところ探すとか。それで、恋を冷ます」
「え~ないよ、嫌なところなんか」
嫌なところなんか見当たらない。見た目はもちろん、声も仕草も好きだし、ほろ酔いでうたた寝しちゃうところとか、ネギ族が食べられないところとか、全部好き。そりゃ確かに、鈍すぎて腹が立つこともあるけど、それは自分の問題だから。ミハナはじっと考えて、やっぱりないよとため息をつく。
「しょうがない、かくなる上は」
「何?」
「やっぱり好きになってもらう」
それができれば苦労はしない。ミハナは曖昧に笑って、やわらかくてあつい赤子の手をつついた。沈んだ表情のミハナをどうにか励ましたくて、友人たちはあれやこれやと考えては言い合う。
「どういう人が好きですか?とかさ」
「無理だよーそんなの聞けない。俺が気があるのバレバレじゃん」
「いいじゃん、バレたって。バレた方が気にしてくれて、気になっちゃって、好きになってくれるかもだよ?」
「なんか、そう、うん、そういうの、興味ないっぽい、くて、だからそういうのが伝わるのも悪いっていうか」
「あ、なるほど。そういうことか」
「そうなんだよ。だから、俺、確かに嫌われていないと思うし、よくしてもらってるけど、仲良くはなれるけど、進展はしない、かな」
「そうなんだぁ……じゃあ……しんどいねぇ」
いっそフラれたい。でも、その機会を作ることは許されない。自分の気持ちに踏ん切りをつけるためだけにあの人をこれ以上困らせたくない。そりゃそうだよ、好きなんだから。
「せっかくかわいい赤ちゃん見に来て、おめでとうを言いに来たのに、愚痴ばっかりでごめん!ま、気楽にやるよ、あはは」
ミハナは笑ってそう言って、もう一度赤ちゃんの小さな小さな爪をつついた。
◆
予定通り、お昼ご飯を一緒に食べてお茶を飲んで、夕方になる前にミハナは友達の家を辞した。通りに出ると、送ってくれた時と同じ場所に多岐がいた。ただし、その目立つ風貌で行き交う人の視線を一身に浴びながら、立っていた。
「多岐の旦那!」
「ミハナくん、おかえり」
「ありがとうございます。えっと」
「運動不足になるから、歩いてきたよ」
「そうなんですね」
多岐が普段から車で移動するのは、多分こうして周囲から注目されるのを厭うのだろうと察し、ミハナは、それなのに迎えに来させてしまう自分な立場がなんだかいつも以上に情けなく思えた。真新しいいのちと、優しい友人に接して、少しこころが、強く持つべき気持ちが、綻んでしまっているのかもしれない。そんな自分の弱さが、今はとても恥ずかしいし、自分でも受け入れがたい。でも、取り繕えないほど子供ではない。
「楽しかったかい?」
「はい!赤ちゃん、めっちゃかわいかったです。あんなに小さいのに、もう全部、爪とか鼻の孔とか、一人前にあるんですよ」
「そうか」
「抱っこしていいって言われたけど、怖くてできなかったです。ぐにゃぐにゃしてて、あつあつで」
「そうか」
「お家の中、なんかいいにおいするんですよ」
「そうか」
出ちゃってるよなーと、ミハナは思った。夕暮れ時のコトの街を、好きな人と一緒に歩いている。その人は、自分の方に微笑みかけてくれている。離れている間、どう過ごしたのか、ミハナの話を頷きながら聞いてくれる。好きな気持ちが、声にも顔にも、きっと出てしまっている。だめだとわかってはいるのに、隠せていない。夕方になると、赤ん坊は不安になって情緒が揺れて、よく泣くのだと友達が言っていた。よくわかる。日が沈みゆき、蝋燭にそっと火が灯される。一番好きなこの時間に、嬉しくて悲しくて、ミハナはどうしていいものか、涙がにじみそうな気分だった。
「寄り道をしようか」
「はい。夕飯?」
「ん?ああ、夕飯は、買っておいたよ」
「ありがとうございます」
「こっちだ」
多岐に促されて、また少し明るさをなくした街角をゆく。秋の日は釣瓶落とし。刻々と迫る夕闇が、見事な色彩で少しくたびれた今日を片付けてゆく。たどり着いたのは小さな神社だった。会釈をしつつ鳥居をくぐり、多岐は本殿にも頭を下げてから、その裏手へ回った。ミハナもそれに倣う。
「ミハナくんは、まだコトに詳しくないようなことを言っていたから」
「はい」
「知らない場所だと、驚かせられていいんだが」
「ここですか?知らないです。初めて来ました」
「そうか。それなら、いい」
「はい?……って、おおお!すごい!」
本殿の裏庭の灯篭には、すでに火が入れられていた。まだ落ち切らない夕日に照らされて、そんな夕焼けの赤に負けないほど鮮やかな紅葉。人のいないその場所は、冬に染まりつつあるコトの中で、忘れられたように秋を謳歌していた。薄暗い足元を見ても、どこまでも、赤。ため息しか出ないほどの様々な赤い葉が敷き詰められている。
「俺はコトの出身じゃないんだが、この近所の学校に通っていてね。暇に飽かせてよく歩き回ったもんだ。ここはその頃に見つけたんだ」
もう何年前かな。ずいぶん昔だな。風景は、どんどん印象が強くなる。木が大きくなるからか。
そのようなことを静かな声で呟きながら、金の色彩を持つ大柄な男が、みるみる暗くなりゆく空と、蝋燭の明かりの中に舞い落ちる葉を見上げる。ミハナは、その人を見つめるので精いっぱいだった。感情が溢れて止まらない。この人も綺麗。この場所も綺麗。どうしてこんなことをするの。まるで、特別なように扱うのは。
「久しぶりに来たけれど、ちょうどいい塩梅だ。今年は冷え込むのが早かったからかな」
「……」
「あー……つまらなかったかな」
「すごく、楽しいです」
一緒に居られて楽しい。叶わなくても、この恋を手放せない。囚われている。多岐は安心したようにふと笑って、そうか、と呟いた。
「帰ろうか。暗くなってきた」
「はい。あの、ありがとうございます、こんないい場所に、連れてきていただいて」
「うん」
もうすっかり暗くなっている。危ないから、気を付けて。蝋燭の明かりに照らされて、優しくそう言ってくれる多岐から目が離せなくて、自分の足元よりも多岐を見ていたくて、ミハナは何かに躓いてしまった。びっくりして声を上げて、転びそうになったミハナを多岐の腕が支えた。
「あああああありがとうございますっすみませんっ」
「大丈夫かい?足首とか、捻ってないか」
「全然大丈夫ですっ踊れちゃうくらい大丈夫ですっ」
「こっちだ」
多岐の手がミハナの手を握って、くるりと踵を返す。日が落ちてどんどん気温が下がってきて、底冷えが忍び寄ってくる。それなのに、多岐の手はとてもあたたかい。突然のことに驚きすぎてミハナが何も言えないでいると、顔だけミハナの方へ振り返って多岐が笑った。
「危ないから。出口までだよ」
恋に落ちている。もう、落ちてしまっているのだから、逃げられやしない。こんな風に優しくされて、笑いかけられて、心配してもらって手をつないで。ああ、好き。大好き。だれか、この気持ちを失わせて。そうすれば俺もこの人も平穏でいられるのに。
◆
薄暗い街を歩いていれば、その非日常感に慰められていたけれど、家に戻って明るい部屋に入れば現実が待っている。ミハナは自分は何も変わっていないし、状況だって悪化する一方で、またしても少し落ち込みなおしてひそかにため息をつく。多岐はミハナに、連れまわして悪かったね、寒くなかったかと気づかわしげに声をかけた。
「平気です。ありがとうございました。すごい綺麗だった」
「よかった。ひと気もないし、ああいうところに珠のを連れて行くと色々言われるから、誰も連れて行ったことがなくてね」
「そう、なんですか」
「誰かに言いたくなるような場所だけど、誰にでもは教えたくない」
「……俺も、誰にも言いません。行くなら、旦那と行くので」
多岐はミハナの顔を見て、少し表情を曇らせた。そのわずかな変化に、ミハナはすうっと血の気が引く。ああ、またやってしまった。この人を困らせた。どうしよう。笑って、誤魔化さないと。別に全然、好きとかじゃないですよって、言わないと。ミハナが混乱の中言葉を失っていると、その思い詰めたような怯えたような顔を見つめて、多岐がおもむろに口を開いた。
「少し前から、気になっていたんだ。悩みがあるのか」
「え……あの……」
「わかるよ。急におかしな犯罪に巻き込まれて、日常が変化したのだし、不安や不満もたまるだろう」
「いえ、その」
「君と出会って日は浅いが、初対面のころと比べたら、浮かない顔を見ることが増えた」
「……すみません」
「怒っているんじゃないから、謝らなくていい。ただ、相談してくれればと思うだけだ。付き合っているんだし」
「……」
「うん」
「……え!」
「え?」
「え!!??」
つきあってる?誰が?俺と旦那が?え!?いつから!?付き合ってたの!?!!??
不安げな表情をブッ飛ばして、ミハナがぽかりと口を開け、多岐を見上げたまま固まった。予想外の反応に、多岐もきょとんとして、ミハナを見おろしたまま固まる。そして、自分の言動を頭の中で繰り返し、よく考え、すいっと、いつも二人で食事する居間へ移動し食卓の椅子に座った。
「ミハナくん、話があるからこちらへ来てくれないか」
「え?え?」
「いいから、座って」
なんで?怒ってる?怒らせるようなことを言っただろうか。いや、そんなことよりも、付き合ってるとかいう話の真意を確かめないと。先に椅子に腰を下ろした多岐は腕を組んで、眉間にしわを寄せている。一旦逃げて、落ち着きたいけれど、そういうわけにもいかない。失礼があったのなら謝罪するべきだし、そもそも、怖すぎて逃げることなんてできない。ミハナは混乱してほとんど泣きそうになりながら、多岐の正面に座った。
「……」
「……」
「……俺が悪い、のか」
「へ?」
多岐は組んでいた腕をほどいて自分の髪に手をやりつつ、横を向いて大きなため息をついた。ミハナはそのすべてに緊張した。怒ってる?呆れてる?どうしたら許してもらえる?
しかし多岐は、怒っていなかった。呆れてはいたかもしれない。ただし、自分にだ。
「……君が、味噌汁を作ってくれると申し出てくれたから」
「は、はい。え?味噌汁?」
「ずいぶん古風な言い回しだとは思ったが、老舗大店の育ちの良い息子さんとはそういうものであるのかと、勝手に自分の都合のいいように解釈していた」
「はい?」
「……交際の申し込みかと思って」
「え!?」
多岐はもう一度大きなため息を吐き出して、自分の手で顔を覆う。片手では覆いきれず、頬の赤みが見て取れる。耳も赤い。首筋も。色が白いとこういうところで不便だな。そう思いながらじっと多岐を見つめるミハナの顔も赤かった。
多岐の頭の中では、先般来自分はミハナと交際していた。しかしどうやらミハナはそんなつもりはなかったし、味噌汁はただ単にミハナの厚意で相伴させてもらってただけで、古くから伝わる求婚求愛その他のような意味合いは含まれていなかった。何という赤っ恥。でも言い訳も思いつかない。そのくらいの衝撃で、多岐としては、もう、色々と諦めるほかなかった。力なく顔を覆っていた手を外して、自身を守るかのようにもう一度腕を組みなおし、真正面のミハナを見る。このような事態にあっても、やはりというかそれでもというか、好ましく映る。つまり、そう、自分は勘違いをきっかけに本当に彼を好きになっていたらしい。なんとも無様なことだ。しかしいつまでも落ち込んではいられない。年長者として、若者に注意すべきはしなければいけない。
「……俺の恥ずかしい勘違いはともかく、君は、そのつもりがなかったのなら、色々問題があると思う」
「問題、ですか」
「そうだ。交際してもいない人間と同じ布団で寝たり、余暇を近い距離で過ごしたり、そう、味噌汁なんて手のかかるものを作って無償で提供するなんて、よくない」
「なるほど」
「ああ」
「気を付けます」
「そうだな」
何がそうだな、だ。自分のかっこ悪さに、多岐はもう一度、今度は両手で顔を覆った。先ほどよりもよっぽど赤いし、熱い。信じられない。恥ずかしい。ちょっと吐きそうなほど落ち込んでいるし叫び出したい。何をやってるんだ俺は。情けない。かっこ悪い。赤っ恥もいいところ。
「……悪かった、多分このところの俺は、君に対してひどく馴れ馴れしい態度だったことだろう」
「え?いえ、そんなの」
「いい歳をして浮かれて、は……本当に、不愉快な思いをさせたかもしれないし、勘違いと思い込みで一人ではしゃいで、痛々しいほどだっかと思うと」
「多岐の旦那は、ずっとかっこいいです」
「君は大変な状況なのに、俺の見苦しい妄想に気を遣わせて」
「旦那、多岐の旦那」
「あああ、もう、恥ずかしいよ、かっこつけて、あんな場所に連れて行ったり、え?後は何だ、よくもまあ毎日」
「旦那ってば、俺の話聞いてください」
「悪いが今の俺は羞恥でいっぱいで惨めで君の話を聞く余裕がない。勘弁して欲しい。こんな無様な」
「俺、旦那のこと好きなので、何の問題もないです」
「ありがとうミハナくん、君の慰めは、今の俺には受け止められない。というか、申し訳なくて居たたまれない」
「いや俺本気ですよ」
「君は可愛い顔をして、自業自得とはいえ打ちひしがれている俺の傷口に自慢の蝋燭をボタボタ垂らすような」
「そんな面白いことに俺の蝋燭使わないでください!旦那ちょっと、ちゃんとこっち見て!」
大いに慌てて落ち込んで取り乱し、多岐は自分の髪をわしゃわしゃとかき混ぜて、ブツブツと自分への呪詛を呟いている。ミハナはどうにかその大男の注意を自分へ向けさせて、椅子から少し尻を浮かせて前のめりになって、多岐の目を覗き込むように顔を寄せた。
「全然、問題ないです」
「……君に迷惑をかけていなかったと、信じたいが」
「迷惑なんてかけられてないです。それに、旦那が好きっていうのも、本当です。俺、片想いしてました」
「……うん?」
「初めて会った日から、ずっと好きでした。最近少し気持ちが塞いでいたのは、俺のこういう感情が旦那に伝わって、それが旦那の重荷になっているかもって、思っていたからです」
「……うん?」
「だから、ちょっとすれ違いというか、そういうのがあったみたいですけど、俺、そうなったらいいなって、旦那とお付き合いできたらいいなって思っていたから、渡りに船というか千載一遇というか立ってる者は親でも使えというか」
「ちょっと違うのでは」
「ちょっと違いますね」
「ああ」
「そんな感じ、でした」
ミハナは多岐に想いを寄せていた。だから、多分、そういう感情が態度や雰囲気に滲んでいたに違いない。しかしそんなものに気づく多岐ではないので、多岐がミハナを好ましく思ったのはミハナの感情に流されたわけではないし、きっかけが味噌汁作りたい発言だっただけで、遅かれ早かれ自分の感情を自覚してそういう関係を望んでいただろう。もしくは、言い出せないまま悶々と、それこそさっきまでのミハナの様に、片想いをこじらせて悩ましい夜を過ごしたり、それとなくにおわせるとか少し思わせぶりなことを言って反応を窺うとか、覚束ないながらもそういう片想いを両想いに大作戦のようなことはしたかもしれない。あるいは、コトで最も色恋に詳しいとされる美しい昔なじみに助けを求めただろうか。残念ながら、そんな面白いことはもう起きない。何故なら二人はもう、片想いではないからだ。
ミハナは、この起死回生のような状況に、心臓がまだドキドキしているし、信じられないような気持ちだった。ミハナよりも先に多岐が付き合っていると思ってくれていた事実にびっくりしたし、じわじわと嬉しさがこみあげてくる。日々多岐からもらえる言葉や行動を、勘違いしてはいけないと戒めていたけれど、なになにつきあってたんじゃーん!言ってよー!ということだ。ああ、神様!ありがとうございます!俺は両想いになれたんですね!超、嬉しいです!!!
「……え?」
「え?」
「そんな感じ、とは」
「聞いてくださいね。俺は多岐の旦那が好きなので、ずっと好きだったので、お付き合いできたらいいなって思っていたので」
「……」
「念願叶って嬉しいです」
「……」
「え!?待って、旦那はあれですか、勘違いだったから付き合いはなしにする感じですかっ!?」
「え?いや、何も考えてなかった」
「旦那って、意外と何も考えてないですよね」
「やあ、悪口かな?」
「悪口ではないです」
「若い子の話はよくわからんな」
「あの!」
ミハナはついに立ち上がり、机に両手をついて正面に座る多岐の方へさらに顔を寄せる。多岐は座ったままだから少しミハナを見上げるような目線になって、その金色の瞳がいつもと違って見える。とても美しい目だ。この目に、自分はどのように映っているのだろうか。
「俺、多岐の旦那が好きです」
「……ああ」
「旦那の勘違いとかじゃなくて、本当のことです」
「そうか」
「はい、初めて会った日から、です」
「それは知らなかった」
「ですよね!」
「ああ」
「それで、よかったら、改めて、俺とお付き合いしてもらえませんか」
多岐は呆気にとられていた。普通の人というのは、こんなにもあっさりと自分の好意を相手に伝えるのか。そして、こんなにも明快に交際を申し込むのか。多岐の今までにおいて、あまり経験がない。悪意や害意を言葉や態度や行動で知らしめられることはよくあった。それはどれほど多岐が鈍かったとしても間違えようがないほど直接的だったし、執拗だった。その反面、好意はどうだったかというと、記憶にない。好意というものになじみがなさ過ぎて、気づかずに過ごしてきた可能性も否定はできないが、少なくとも、多岐が受け取った覚えのある好意というのは、こんなに清々しいものではなかった。もっと居心地が悪くて、陰湿で、悪意と区別がつかないような醜悪なもの。それは多岐自身が醜悪だから、そんなものしか集まってこなかったのか。
「……あー……えっと、俺、ふられそう、ですか?」
勢いよく告白したはいいけれど、多岐の無反応ぶりにミハナはソワソワし始める。多岐は無言のまま、じっとミハナを見つめていた。ずっと大事にしてきた弟のような珠の進よりもさらに若くて、自分とは全く類似点のない人生を歩んできた素直な男の子。頼りないような、ぼんやりしているような、だけど実は堅実で聡明で、性根の明るい誠実な人物。彼は、とても、いい。なんとも説明が難しいのだけれど。
「……健康にいい気がする」
「はい?」
「あ、いや。君が」
「そう、ですか?」
ミハナと一緒にいると、健全でいられるのではないだろうか。楽しく食事をして、きちんと眠って、よくないことに躓いても、では次へ行きましょうと前を向いていられる。そんな毎日は、とても、いい。多岐は腕組みをほどいて、微笑んだ。ミハナはその微笑みに、ぎゅうううううっと胸を鷲掴みにされる思いがした。
「交際しよう、改めて、今から」
「はい!」
「ああ」
「やったー!」
しばらくは多岐の勝手な思い込みのみの一方通行だったけれど、ここへきてようやく、双方了承した両想いと相成り、二人は交際することとなった。ミハナは両手で頬を包み、ちょっと照れ臭いですねと笑っている。
「君、あんなにはっきり強く申し込んできたのに、照れるのか」
「勝機があったからですよ、俺にも恥じらいや照れはあります」
「そうか」
「そうです。俺だって、脈があるかな、どうかなって、ずっと、そわそわしてたんです。その、もっとよくない感じに落ち込んだり」
「それで、少し元気がなかったのかい」
「すみません」
「言えばいいのに、というのは、俺が言えた台詞ではないな」
そうだったのか。多岐にしてみればしばらく前から交際中だったので、余計にわかりにくかったのかもしれない。とにかく、これで認識の差は埋まった。そもそも遠慮などなかった多岐だが、遠慮は要らないなと頷いた。
「旦那」
「うん?」
「えーっと……お珠さんに、手紙を書いてもいいですか」
ミハナは椅子に座りなおして居住まいを正し、多岐に尋ねる。大事なことだ。この付き合いを秘密にするかどうか、多岐の意向を確認したい。ミハナとしては近しい友人には、打ち明けたいところだ。少なくとも、珠の進にだけは絶対に言いたい。多岐はミハナの気持ちを理解してはいなかったし自分は知らせていなかったが、好きにしていいと言った。それはともかく、自分が先走って知らせなくてよかったとも思っている。ただの思い込みだったのだから。危ないところだ。死ぬまで珠の進を楽しませるところだった。
「こういうことは、わざわざ知らせるものなのか」
「はい!知らせておかないと、不都合が出ます」
「ほう。例えば」
「思いつきませんけど」
「そうか。まあ、任せる」
「じゃあ、さっそく」
ミハナは嬉々として、自分の手荷物の中から手紙を書く時の一式を持ち出して元の席に戻り、多岐の目の前でさらさらと手紙をしたためる。ミハナの字は癖がなくてとても読みやすく、人柄が出ているように思う。反対側から眺めているので結局何を書いたのかよくわからないまま、多岐はミハナがそれを折って畳んで壁際にある投函箱へ入れるのを目で追っていた。この時間なら、珠の進は自分の部屋にいる。すぐに読んですぐに返事を寄こすだろう。
「で、ミハナくん」
「はい」
「そろそろ腹が減ったんだが」
「俺もです」
「色々あったが、食事にしようか」
「はい!」
多岐が買っておいてくれた夕飯と、朝ではないのにミハナがお味噌汁を作り、 その日の晩も、二人は多岐の寝台で一緒に眠った。
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