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第9話

「そういう時は、さりげなくちゃんと、気持ちよくないって伝えるんだよ。最初にそうしないと、次からもずっと、お客さんは良かれと思って同じことをするから」 「はい、珠のお兄さん」  男娼というのもなかなか大変な仕事だ。  新造だった珠の進の用心棒を引き受けた縁で、多岐は孔雀屋の親父からの絶大な信頼を得て、住居棟への自由な出入りを許されて久しい。その間に珠の進は一人前となり、その人気で年季も明け、今となっては昔なじみの客の座敷にしか顔を出さないというやり方で仕事を続けながら、日中は後輩に歌や踊りを教えたり、こうして直接的な仕事の助言も惜しまない。そして多岐は、そういう現場にたびたび居合わせる。何故なら自分の休みの日に、珠の進の部屋に入り浸ってのんびりくつろぐからだ。孔雀屋で働く者たちも、多岐が珠の進の部屋にいることをもはや当たり前に思っていて、なおかつ二人は世間で言われているような恋仲ではないと承知しているし、多岐の体質のことは知られていないが、どうやら孔雀屋の男娼に興奮する男ではないらしいという風に理解されているので、なんというか、多岐に対する警戒心がない。そもそも許しがあるとはいえ、自分の家でも客でもない癖に入り浸っているのは多岐の方なので、彼らが遠慮などする道理もないし、何より多岐は好かれていた。下品な話もしなければ説教もしない。同情もしなければ蔑むこともない。色街で働く者を色眼鏡で見る人間は多い。でも、多岐にはそれがない。黒い瞳に黒い髪がほとんどのこの国において、金の瞳に金の髪を持ち、それを隠しもせず、堂々と仕事をしている彼は、自分たちとは違うけれど、同じにおいがするのだ。そんな多岐に、中には懸想する者もいた。愛されないまま孔雀屋へたどり着いた者にとって、多岐の穏やかさは救いだった。微笑みは癒しだった。許されないと、わかっていても落ちてしまうのが恋だ。想うだけなら誰にも咎められない。後輩たちの大抵の恋心を、珠の進は気づいた。しばらく前から最年長で、自分より下の子を全部ちゃんと面倒を見てあげたいと考えている珠の進にとって、彼らの変化は見逃すことのないほど大きいからだ。珠の進は何も言わなかった。気持ちなど、恋など、誰かに言われて始末をつけられるものではない。自分の中でどうにか折り合いをつける。その時に助けが必要なら助けたいと思うが、自分で解決するにせよ他人を頼るにせよ、時間が掛かる。いいじゃないか、と珠の進は思った。誰かを好きになるのはいいことだ。例え叶わなくても傷ついても、人間らしくてとてもいい。自分だっていつかはと、淡く憧れながらここまで来てしまったから、羨ましくもあった。珠の進は少し特殊な立場だけれど、孔雀屋に雇われている限り、恋愛の自由はもちろん色々なことを諦めなければいけない。世の中を恨むこともあるし、自分を否定することもある。そんなときに、好きな人がいるというのは、いいと思うのだ。仕事に支障が出る者にはさすがに声を掛け、でも珠の進はいつも知らないふりをし続け、黙って見守った。多岐本人は周りの好意にほとんど気づくことはなかったけれど、時々胸の内を直接言葉で伝えられて困ることはあった。断り文句はいつも同じ。そういうことに、興味がなくてね。それは嘘でも言い訳でもなく本心だったので、食い下がる者はほとんどいなかった。そして多岐は口がかたく、自分が気持ちを伝えたと、誰かに知れることもなかったので、必要以上に傷つくことも少なかった。密かに想いを寄せて、堪えきれずに伝え、実らず涙に暮れる。よいものだと思う、いまだに。相手が多岐でなくとも、そうなるとここまで綺麗ではなくなるが、男衆やそのほか色々、恋はいいものだ。叶わなかったとしても、美しいと思う。 「仕事だからね。自分ではなく、お客さんが食事して、ゆっくり聞し召して、床で気持ちよくなってもらえるように働くんだよ」 「はい……でも、自分もちょっと興が乗っちゃうこともありますよね?」 「そうだね。でもね、あやめ、そういうときでも、お客さんが優先。没頭しても、冷静でなければいけないよ」 「はい」 「お相手を楽しませて、そうだね、気をやりそうなのを何度か堪えてもらって、そうしたら、最後は一緒に盛り上がって果てても満足していただけるかもしれない」 「なるほど!」 「あやめ、盛り上がっていいのは最後だけだよ。最中は、ちゃんとご奉仕できるように冷静にね」  多岐が珠の進の部屋にいることは珍しくなく、珠の進は頼りになる先輩なので、多岐がいても後輩たちは訪ねてきては何くれとなく相談したり雑談したりしていく。その話題の中には、こうした直接的な話も多い。それはそうだ。彼らは売色を日々生活の糧にしているのだから。 「仕方がないよ。うちは妓楼だ。お前は男娼。お客さんと床入りをせずには済ませられない」 「はい……」 「無茶をさせられるのかい?どのお客さん?」 「いえ……不慣れな、だけです。僕が」 「そう。それなら慣れる他ない。わかるかい?」 「はい」 「無理をしろとは言わないけれど、腹をくくらなきゃ前へ進めない。僕らはお客さんに買ってもらわなきゃならない」 「……はい」 「歌も三味線も精進して、世の中のことも勉強して、ききょうといると楽しいよって言ってもらえるようになるんだよ」 「はい」 「それがお前の武器になる。やりたくないことがあるのなら、やらずに済むように考えるんだ。今は無理でも、全部は無理でも、ほんの少しでも嫌な時間を減らせるように。そのためにはどうするべきか、必死に考えるんだよ」 「はい」 「お客さんのものを受け入れるのが嫌なら、じゃあほかにどんな方法で満足していただくのか。床に入るよりも楽しませることができるかどうか」 「はい」 「僕に悩みを話してくれたのは嬉しいよ。いい子だね、ききょう。自分が何を極めるのか。しっかり考えて、また僕に教えてくれるかい?」 「はい!珠のお兄さん。ききょうは、来てくださるお客さんが嫌なのではありません。ですから、嫌だ嫌だと嘆いてばかりおらず、きちんとおもてなしができるように精進しようと思います」 「うん」 「珠のお兄さんの様に、きっと、なります」 「おや、大きなことを言うじゃないか。しっかり励むんだね。楽しみが増えたよ」 「はい!どうぞお楽しみになさってください!ききょうはやってご覧に入れますから!」  自分で率先して妓楼へ来る者はほとんどいない。この界隈で生まれ育ってよくわからないままにここに居ついた者。コトではないところからよくわからないままにここへ連れてこられた者。ある日ふらりと現れて、働かせてくださいと震えながらに地面に手をつく者。それはそれは様々だ。彼らは一様に、仕事に悩み、辛さや孤独ゆえにこころが歪む。どれだけ頑張って年季が明けたところで、その頃の自分はどうなっているのか。何を得ているというのか。来るかどうかもわからない遠い未来が暗いのに、なぜ今そのために必死で生きる必要があるのか。彼らの人生は軽くて、たった一つのため息で消えてしまうことがある。でも、それを歯を食いしばって耐える者がほとんどで、時々はこうして、いつか珠の進の様にと自分を振り立たせる者もいる。いなくなる者もここで踏みとどまる者も、等しく珠の進にとっては大切だ。珠の進はいちいち言わないけれど、多岐はそれを感じる。だから、時々、ほんのたまに、おせっかいをすることもある。 「多岐?今笑ったかい?」 「やあ、すまん。ききょう、君を笑ったんじゃないよ。話が聞こえてしまってね」 「はい……」 「珠のの昔を思い出して」 「お兄さんの?」  多岐は仰向けで読んでいた本を自分の胸に伏せて、その金色の目をまだ幼さの残るききょうの方へ向けて笑う。珠の進は多岐が言い出すことの察しがついて顔を顰めた。 「珠の進もね、君くらいの頃、何か自分だけの武器を手に入れようと色々試みていたのさ。ほとんど全部、試しては不採用となったが」 「はい」 「のちの珠の進を思えば納得だが、凡人には思いつかないようなこともやっていて、そうだな、結構長く頑張ったのは」 「軽業師の真似」  珠の進はふくれっ面で多岐の言葉を引き取って自ら白状した。ききょうは、ぱっと目を輝かせて珠の進を見る。このお兄さんが、軽業師の真似事を!珠の進はますます苦い顔をする。 「いいかい、だから僕は、誰かが何か新しいことをするのに、あまり反対しないんだ。どこからどんな芽が出るかなんて、お天道様だってわかんないんだから。でもね、軽業師の真似事はおすすめしないよ。部屋で披露するには天井がつっかえちゃうし」 「うふふ」 「ききょう、笑ってもいいけどね、僕だってその頃は真剣だったんだよ。親父さんに見つかったら怒られるから、膝を擦りむいて痛くたって我慢したり、浴衣をちょっぴり破いたり」 「ききょう、ちょっぴりではないぞ、下履き丸見えなほどだったからな」 「うふふふっ。おっかしいの」  ききょうは綺麗な手を口元にあてて、ころころと笑った。目尻や鼻の頭に皺が寄って、とてもかわいらしい笑顔だ。それが見られたから、珠の進は多岐の暴挙を許すこととした。 「多岐の旦那はどう思う?」 「仕事のことを、素人に聞くものじゃないよ」 「男娼としてじゃなくて、一人の男として聞いてるんだよ」 「個人的に?」 「そう!」 「俺の個人的なことは、何もかも秘密なんだ」 「もう!」  あおいも懲りないなぁと、珠の進はお茶をすする。孔雀屋ではコトの法律に則って、年少者を性的接待に直接携わらせないし、年齢を重ねたからといって待遇をあからさまに悪くしたりはしない。あおいは、珠の進に近いような年齢で、だからといって男娼として落ち目であるわけではない。ただ、本人の意向もあって、今はほとんど客を抱く側の指名が多い。珠の進と多岐が恋仲だと思ってはいないが、多岐がどこかで誰かを抱いている側だということは疑いなく信じていて、時々こうやって珠の進の部屋にいる多岐と"オス同士"の会話をしたがる。多岐は慣れたものなので、畳にだらしなく寝っ転がって本を読んだまま、顔も上げずに聞き流している。いつものことだ。 「あおい、いつも言ってるだろう。相手がもう嫌だって言うときは、本当に嫌なんだよ」 「そうかなぁ」 「お前と枕を交わすためにお金を払っていて、どうして嘘をつく必要があるんだい」 「気持ちよすぎて嫌なのかなって」 「うん、だから、嫌なんだよ」 「でもそのまま続けたら極楽へ行けるかもしれないでしょう」 「極楽へ連れて行ってくれるっていう信用がないんだよ、お前に」 「珠のお兄さん、容赦ない……」 「お前は少し変わっているからね。暴走しないように気を付けないといけないよ。お客全員を、失神するほど気をやらせようと励む必要なんてないんだよ」 「せっかく俺を買ってくれたんだから、目いっぱい楽しんでほしいんだもん」 「お客さんを、楽しむどころの騒ぎじゃないところまで追い詰めるなと言っている」 「見栄とか意地とか恥も外聞も社会的地位もお金持ってるかどうかも、床じゃ関係ないし、極まってしまえば全員醜くていいもんだけどね。俺は、そういう時間を提供したいの。頭ン中空っぽでイクことしか考えられない馬鹿になる時間」 「お客さんがそれを望むならそれでいいけど」 「みんな恥ずかしがっちゃって」  恥ずかしいものなのか。多岐は寝転がって本を読みながら、ぼんやり考えた。褥でのやり取りに何を望むかに寄るのだろう、珠の進の言う通り。本能の限りにすべてを引きずり出されてお前の本性はこうだと、脳みそのとけるような快楽に沈められるのは、それはやはり相手を選ぶというものだろう。この仕事に関して、珠の進の言うことに間違いはない。恋仲ならいざ知らず、ひと晩を買い上げた男娼相手にそんなところまで踏み込ませるのはさすがに難しいものだ。そういうのが好きな客ももちろんいるだろうし、あおいの太客はみなそういうのを楽しめる性分なのだろう。だから、珠の進もあおいを否定はしない。客の望むように、と諭すだけだ。珠の進はその一心で、ここまで登り詰めてまだその地位を誰にも渡さず君臨し続けている。だからあおいも、はぁいとかわいい返事をして、珠の進の言葉にうなずく。そしてまた、性交の最中にこういうことをされたらどうかと、自分の技量の研鑽に余念がない。 「好きなやり方は人それぞれだから、一概にこうすれば喜ぶなんてことはないけど」 「はい」 「これだけはっていうのはあるよ」 「教えて!」 「自分の楽しみが先に立ってるようではだめ」 「……はぁい」 「いい子だね、あおい。今日の爪紅もかわいいよ」  珠の進の、商売用ではない慈しみの笑顔で、機嫌の直らない者はないだろう。あおいも少し頬を赤らめて、お兄さんにはかなわないなぁ、これね、お客さんがくれたんだよ、かわいいよねとニコニコしている。かわいいものだ。それは多岐も思う。孔雀屋にいるという境遇を嘆いているより、よほど前向きでかわいげがある。孔雀屋は男娼を大事にする見世なのであまりひどい目に遭うようなことは聞かないが、それでも仕事は過酷だ。爪紅くらいで喜ぶのもいじらしい。今度いくつか見繕って、欲しいという子たちに配ろうか。そして多岐はミハナの、蝋燭を扱う太くて硬い指先の感触を思い出した。手を繋いだ時、少し驚いた。そして、ああ、職人の手だなと、感心したものだ。 「さ、支度の時間だよ」 「はい!お菓子ご馳走様でした。頑張ってきます!」 「いってらっしゃい、気を付けて」  昼を過ぎて夕方になる前に、男娼たちは身づくろいを始める。化粧は自分でするが、髪を結いあげて豪華な衣装を身につけさせるのは男衆の腕の見せ所。毎日毎日、この時間から見世が開くまでは、とても騒がしくて、多岐はその騒々しさの中にいるのが好きだった。珠の進もそうだ。戦いに赴くかのような同僚たちの支度のざわめきと、ある時間を境に一斉に人の気配が消えて、それを埋めるように広がる静寂。 「果報者だね」 「そうだな」 「ミハナは立派だよ。ちゃあんと、周りの人と真っ当な付き合い方ができるし、自立しているし、優しい。僕らとは全然違う」 「……そうだな」  自分とは違うと、多岐は確かに考えているけれど、珠の進とも違うのだろうか。同じく黒い髪と黒い瞳を持ち、人に優しくできて、自分に厳しい。ミハナと珠の進は違うかもしれないけれど、自分よりは二人とも、よほど真っ当だと多岐は思う。 「僕は多岐と付き合いがとても長いから、多岐のことを心配してる」 「ミハナくんはいい子だよ」 「知っている。何と言ったって、彼は僕の友達だ。ミハナと交際して多岐が振り回されて貢がされて挙句身ぐるみ剥がされて捨てられるようなことは心配してないよ」 「うん」 「多岐が、ミハナに遠慮するのを心配している」 「……慧眼だな」 「でしょう。天下の珠の進だからね」  遠慮か。するかな。そもそも自分は不能で、だから交際とは言ったって、たまにどこかへ出かけたり、寝食を共にすることくらいしかない。この事件が解決した後もそれを続ける大義名分のために名前のある関係を求めたような気もする。それに、だから、もしもうまくいかなくなって疎遠になったとしても、お互い気持ちの整理は必要でもそれほど変化はない。寝床は一緒でも、寝ているだけだから。いい寝台を使っていてよかった。珠の進は受取箱や文箱を手元に引き寄せて、届いている手紙を検め始める。多岐は頭の後ろに手を組んで、ぼんやりとまだ天井を眺めていた。畳の部屋はいいなぁ。 「ちゃんと言ったの?」   「うん」   「へぇ。どんな風?好きだー!とか」   「いや、ああ、そういうのは言ってないな」   「え。言葉にしなくても伝わるとか舐めたこと考えてるんじゃないだろうね」   「強い強い。ちゃんと、交際しようって」   「それはいいね」   「あと、不能なんだって」   「……多岐」      珠の進は美しい眉を少し寄せて、先ほどから座布団二枚を重ねて枕にして寝転がっている金色の弟分を眺める。多岐は、珠の進の部屋の見慣れた天井を眺めながら、彼に伝えた順番は前後するが、まあ、大した問題ではないだろうと考えていた。     「多岐。それを伝えることは、大事かもしれないけど」   「うん。大事だと思ったんだ」      こんなことを吹聴して回る趣味はないし、自分のこの状況を憂いていないわけではない。人に知られたくないとも、思う。でも、交際するなら、まああの時はまだ交際していなかったらしいが、そういう行為ができるかどうかというのは大きな問題だと、そのくらいは理解できる。ミハナは性格もいい男だが、多分身体も健康だろうから、そういう欲求に付き合えない自分でもいいかという確認は必要なのだ。彼は、気にしないと言ってくれた。それが、本当に嬉しかった。     「孔雀屋がいいなぁ」   「何が」   「ミハナくんがもし、そういう相手を求めるのなら、孔雀屋がいい」   「ばかみたい」      様々な客あしらいを心得た老舗孔雀屋なら安心できる。周囲の友達や知り合いとそういう関係になれば、あっという間に彼をその人に奪われてしまう気がする。だから、そういう生業の人を相手に選んで欲しい。あけすけに言えば、金で解決して欲しい。こころを渡さないで欲しい。自分にはそれしかないから。珠の進には多岐の考えが手に取るようにわかって、美しい唇から美しい溜息を吐き出した。さらさらと返事の手紙をしたためながら、僕の唯一の友人は、この男のこういうところまで好きなんだろうかと不思議に思う。     「うちは、認可待ちが通えるような見世じゃない」   「お、それはそうだ。格子の子でも無理かな」   「多岐はばかだ」   「でも、ミハナくんは好きだと言ってくれたし、不能でも構わないと言ってくれたよ」   「構わないって言ってくれたんなら、ミハナの相手をあてがうような考えはやめることだね」   「珠のはいつも正しいなぁ」      生まれた時からほかの人とは違う色彩で、本能の一つであるはずの身体機能もここながらく働かず、多岐は自分がつくづく出来損ないであることだと感じる。昔はこうじゃなかった。人並みに興奮したし、それなりにそういうことを考えればそうなった。それが、だんだんと、周囲と自分は違うらしいと教え込まれて思い知らされて、こういう衝動は無意味だなと悟ったら、もう何も起こらなくなった。外見で判断しない人が周りに増えてもそれは変わらず、そのおかげで今があると言えばそうだから、正直もうどうでもいいと思って生きてきたが、人生は唐突に変化するものらしい。もし自分の身体がまともなら、まともに戻ったなら、ミハナとの交際ももう少し明るいものかもしれない。そんなことを考える程度には、多岐は変わった。     「ミハナは、それで、元気にしているの?」   「ああ。少し気落ちしているような様子だったんだが、ミハナくんの思い違いが原因だったらしくて」   「多岐のせいってことでしょ」   「珠のはミハナくんと仲がいいんだな」   「仲はいいけど、ずっと顔を見ていない。そろそろ蝋燭を買いに店に行こうかな」   「ミハナくんが忙しいのは、俺や珠のがミハナくんの蝋燭を買ったかららしいよ」   「売れちゃって売れちゃってって、手紙には書いてあった」   「そう。作るのが追い付かないらしい。おかげで俺も、ミハナくんとどこかへ出かけたりする機会がない」   「一緒に住んでるんだからそれでいいでしょ」 「んー」 「恋をするって、どんな感じ?」  多岐は、組んでいた指をほどいて片肘を畳についてその掌で頭を支えて半身を起こし、いつもきちんと正座する珠の進を見上げる。どこからどう眺めても美しい男は、筆を動かし、唇にわずかな微笑みを浮かべている。足の裏まで手入れが行き届いている。 「変な感じさ」 「へぇ」  恋は、するものじゃないらしい。落ちるものなのだと、多岐は思う。恋などするつもりはなかった。出逢って、話して、気づいたら落ちていた。多分だが。ミハナを好ましく思うこの気持ちが、浮つくような足取りが、恋なのだとすれば。  珠の進はぺラリとまた新しい便箋を取り出して、筆を握りなおす。 「いいなぁ」  ミハナに対するのとは違う感情で、多岐は珠の進を愛しいと思った。そして、とても美しいと思った。

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