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第9話

絵の具が揃うと、はじめは単色、しだいに混色しながら、 パレットに伸ばしたときの手触りを確認する。 雫や長瀬医師にはさっぱりわからなかったが、指の感触や匂い、味。 あるいは温度で、色の違いがわかる、と灯真は言った。 灯真の作る色を、雫がイメージしやすい言葉で伝える。 「それは空の青。」 「いつの?」 「え・・・っと、冬の朝。」 「それは、ひまわりの黄色。」「春の若草のみどり。」 「そのピンクは・・・。んっと・・。あ、子猫の鼻のあたま!」 「これは?」「ボルドーのワイン。」長瀬医師が口を挟む。 「先生。お酒の色なんか知らないよ。子供の頃しか見えてなかったんだから。」 「ああ、そうか。これは失礼。」 「灯真さんの瞳の色だ。」雫が言った。 「ああ、みんなに気味が悪いっていわれる、これ。」 灯真の自嘲に雫は首をかしげた。 「そうかな。初めて会ったとき、僕すごく綺麗だと思ったけど。」 長瀬医師は、白い頬を一瞬朱に染めた灯真をみて、おや、という顔をした。 「心が育って来たかな。」雫とふたりの時に、長瀬が言った。 「体は大きくなっても、灯真の心は幼い頃のままで止まっていたからね。」 「君はすごいね。」少し眩しそうに言われて雫は戸惑った。自分でもわからないのに。 どうして灯真のそばにいたいのか。どうして灯真が心を支配するのか。 どうして灯真に、自分を描かせようと思ったのか。 絵を描き始めて、灯真は雫を夜、部屋に呼ばなくなった。 神経が疲れるのか、夕食の途中でもう、とろんとしはじめて、食後すぐ眠ってしまう。 それでも昼間はとても機嫌が良く、長瀬医師は、「いい傾向だよ。」と微笑んだ。 雫も、ベッドでなぶられるより、絵のモデルとして触れられるほうが好きだった。 細くて白い指が、自分の肌を滑っていく感触が、心地よくて少し扇情的な気分になる。 胸をなぞっていた指がふととまる。 「どきどきしている。」心臓の存在に初めて気付いたような灯真の声。 ふいに、雫の胸に、灯真が耳を寄せた。 白い頬が胸に触れる。夜の相手をしているときとは全く違う、やわらかな仕草。 「いい音だ。」 しばらくうっとりと、少しだけ早くなった雫の鼓動に耳を傾ける灯真。 白銀の髪が、雫の目前にあった。 暗がりでもわずかな光をうつしてなまめかしく輝く髪を、 雫は「やっぱりこのひとはきれいだ。」と、思いながら見つめた。 腕を伸ばして抱きしめたくなるのを、じっと堪えながら。

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