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第23話

「千景さま?どうかなさいましたか?」 メイドの声がドアの外でして、雫は飛び上がるように体を震わせた。 「千景さま?」ドアをたたく音が続く。 必死で歯をくいしばって、顎の震えを止めると、まだがくがく痙攣している手をついて、 よろめきながら立ち上がった。足がもつれる。 壁に背をつけて支えにし、少しづつ、ドアに近づいた。 左手で、一本ずつ引きはがすようにして、震える右手からナイフを落とす。 ドアの外で、金属の触れ合う音がした。 「千景さま。失礼いたします。」鍵穴がかちゃりと音をたてた。 主人の返答がないことを訝ったメイドが、鍵をあけてドアを開けた瞬間、 大きな黒い塊が飛び出してきて、彼女はバランスを崩して大きくよろめいた。 体勢を立て直してぶつかってきたものの正体を見ようとしたときには、 それはすでに廊下の向こうまで行ってしまっていて、「人」であることと、 動きが俊敏であったことが見分けられた程度だった。 メイドはすぐに、自分の体を見て悲鳴をあげた。 前掛けにもブラウスにも、赤いものがべったりついていたからだ。 そしてさらに、部屋の中を覗いて、金切り声をあげた。彼女の主の部屋は血の海だった。 長瀬医師は、屋敷のなかを悲鳴のようなものが聞こえた方向に向っていた。 途中、廊下の向こう側、視界の端に、もつれるような足取りで走る雫をみとめた。 「様子がおかしい。」胸騒ぎがした。 メイドが騒いでいるほうに行ってみると、千景の部屋の前だった。 泣きわめくメイドをどかして中を覗いて思わず瞑目した。なんてことだ。 さきほどの雫の姿が重なる。 長瀬はしばらくまぶたをぎゅっと閉じて自分を落ち着かせると、声を張った。 「何も触ってはいけない。君たちは自分の部屋にもどりなさい。警察・・いや、救急は?」 「あ!・・・・いえ、まだ・・。」 顔面蒼白で眼を泳がせているメイドの肩を優しくたたいた。 「いや、いい。私が連絡する。おそらく、もう間に合わないだろうし。 ・・・いいね。指示があるまで部屋からでないこと。」 長瀬に再び言われて、メイドたちは一塊に抱き合って、自室に戻っていった。 それを見送って、もう一度部屋の中を見る。 自分が医師でなくとも、千景の息がもうすでにないことがわかるだろうと思うくらい、 出血の量はすさまじかった。おそらく太い動脈を切断されたのだろう。 ドアのそばに、果物ナイフが落ちていた。そのまわりの床や壁に、手をついたあとが 赤い手形のように残っている。 長瀬は奥歯をぎゅっと噛み締めると、惨劇の現場を後にした。

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