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第27話

翌朝早く、長瀬は警官の目にとまらないように苦労して屋敷を抜け出し、 雫の待つ廃病院に向った。 「灯真さんは。」縋るような目で訊いてくる雫の問いには答えず、 「これが住所。交通手段はここに書いてある。近くの駅は人目につきやすいから、  隣町まで歩いて人混みに紛れなさい。警官と、監視カメラに注意して。  千田という男を訪ねたらこの手紙を渡して。」 手紙を持つ長瀬の手の甲の傷をみつめながら受け取る。 「先生、灯真さんは。」「君は。」強い口調で遮られた。 「今は無事に逃げることだけ考えなさい。それが灯真のためでもある。」 「・・・・・。」 「わたしも早く戻らないと。」 長瀬はそれだけいうとくるりと背を向け、首だけ巡らせて雫を見た。 「雫。ほんとうに残念だ。」深い哀しみをたたえた瞳が一瞬だけきらりと光った。 「せんせい・・・・。」 もうそれ以上長瀬を引き止められず、足早に去って行く背中を見送った後、 雫ものろのろと廃病院を出た。 屋敷の方に向きそうになる足を引きはがすように隣町に向け、 人目を避けるように歩き出した。 途中で巡回中の警官を見たとたん、反射的に身を隠した。 自分は罪を犯して逃げているのだと、あらためて実感した。 そのあとは長瀬の指示にしたがって、夢中で旅路をたどった。 会った事もない千田という男の家を目指し、人目に怯え、監視カメラを探し、 顔を伏せ息を殺して。 海と山に挟まれた鄙びた集落に、千田の家はあった。 古い民家に手をいれて、修繕しながら住み続けているような佇まいだった。 まる一日かけてたどり着いた雫は、夜の(とばり)の中、 長瀬が書いた住所と表札を何度も確認して、おそるおそる入り口のドアを叩いた。 しばらくして出て来たのは、無精髭にぼさぼさ頭の、熊みたいな男だった。 暗がりに陽に焼けた肌が溶け込み、目だけが光って見えた。 酒臭い息とともに、低い声で「だれ。」と誰何された。 声が出せずに長瀬からの手紙をおそるおそる差し出すと、雫の全身を スキャンするように睨めまわしてから、ひったくるように奪い取った。 目の前で乱暴にドアを閉められて、そのまま立ち尽くしていると、 またドアをあけて男があらわれ、「入れ。」と顎をしゃくった。 雑然と農機具などが置かれている土間を抜けて、靴を脱ぎ室内に入る。 いかにも男の一人暮らしといった殺風景な住まいだった。 「こっち。」手招きされてついて行くと貧相なベッドのある、小さな部屋があった。 「いちおう客間だったんだが、だれも来ねえしな。掃除は自分でしてくれ。」 「・・・はい。・・・・あの。」 「腹へってんのか。」じろりと顔をみられてあわててかぶりを振ると、 「すみません。お世話になります。」と頭をさげた。 「まったく、あいつ突然こんなの押しつけやがって。」独り言のようにつぶやいてから、 改めて雫をじっくりと眺めた。 「ふーーーーん。よくみたらけっこうかわいいな。」 値踏みするような視線に、目を合わせられなくて下を向くと、 いきなりゴツい手が伸びて来て顎を掴まれた。上を向かされる。 身を固くする雫に、千田が言う。 「長瀬からの手紙には、お前のことは好きにしていいと書いてあったが?」 先生が、そんなことを・・・・。力が抜けた。そうか、そういうことか。 開いた手で雫の腰をぐいっと引き寄せ、自分の腰に押し付けた。 酒臭い息がかかる。体の触れている部分がむくりと固さを増すのを感じた。

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