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第34話

目が見えなくても、いや、見えないからこそ、香りのなかに色彩を感じる。 庭師の届ける花の香りが、灯真の意識のなかに少しずつ、彩りをもたらした。 芳香を放つ花は虫を呼び、虫は鳥を呼ぶ。 盲目の主を誘い出そうとするように、木々は香り、鳥がさえずる。 窓を開けて、風のなかにたたずむ時間が増えた。 まぶたに感じる日差しに、季節の移ろいを知り、 鳥の声に夜明けや夕暮れを教えられる。 窓辺からバルコニーへ。 バルコニーから小さな中庭へ。 そして、屋敷を取り囲むように緑があふれる大庭へ。 灯真は少しずつ、 ほんとうに少しずつ、外へ意識を向けていった。 3度目のロウバイが部屋に届いたころにはまだナイフのようだった空気が、 徐々にゆるみ柔らかく日差しに溶け出した頃。 「今日は暖かいから、すこし庭に出てみるかい、灯真。」 長瀬に誘われて、灯真はゆらりと椅子から立ち上がった。 「はい。先生。」 長瀬に肩を抱かれて、屋敷の外にでる。 うららかな日差しに誘われて、鳥がさえずりを交わす初春の風に、 灯真の銀色の髪がそよと揺れる。同時に、甘やかな香りが鼻孔をくすぐった。 「またなにか咲いてるの?」 灯真のほうから尋ねてくるのを、嬉しい気持ちで聞きながら、 長瀬も風の匂いを嗅いだ。 「ああ、いい香りがするね。」 花の方へ進みかけたとき、屋敷から使用人が声を掛けて来た。 「先生。申し訳ありません。税理士のかたからお電話が。」 灯真の父が不在がちのために、長瀬がかわりに行わなければいけない庶務が増えていた。 「あとで折り返すと言ってくれ。」そう返す長瀬に、 「先生、いいよ。行って来て。僕ここで待ってるから。」灯真が言った。 「いや、しかし。」 「大丈夫。」 長瀬はしばらく迷っていたが、用件はすぐ済むだろうと判断し、 灯真の白い頬をそっと手のひらで撫でて、 「じゃ、一人で動くんじゃないよ、いいね。」 と小さな子供に諭すように言うと、屋敷に駆け戻って行った。 灯真は、言われた通りしばらくじっと立ちすくんでいたが、 花の香りに誘われるように、その方向へゆっくりと手探りで進み始めた。 風が吹くたびに、甘い香りが体の横をすり抜けて行く。 かなり近づいた。もう少しで花に手が届く。そう思って腕を伸ばしたとき、 花壇の縁石らしきものに足をとられた。 「!」 バランスを崩して倒れる、と思った瞬間、背後からふわりと抱きとめられた。 なんとなく慣れた気配に先生、と言いかけて 「お怪我はありませんか。」と問いかける、蛙を踏みつぶしたような声に、 「だれ。」と警戒の声をあげた。 灯真からすっと離れた声の主は、耳障りなしゃがれ声で 「ここでお世話になっております、庭師にございます。」と答えた。 ああ。いつも花を届けてくれる人か。灯真はそう思ったが、 「そう。」とだけ応じて花に顔をむけた。 「フリージアです。」 庭師が、花の名だけを告げた。

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