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第42話
ある夜、コツコツと控えめに扉をたたく音がした。アカネの耳がピン、と立つ。
近所の連中はあんなおしとやかなノックはしない。
「センさんいるかあ。」と外からがなるのだ。
もしかして、雫?そう思った。
計画が失敗して、屋敷を追い出されて戻ってきたのか。
あわてて土間に下りてドアを開けた。
表に立っている人物をみて声を失う。
「やあ、ひさしぶり。」酒瓶を目の前に掲げてほのかに微笑んでいたのは
長瀬だった。
「諒・・・。」千田の唇から数年ぶりに見る友の名がこぼれた。
「犬、飼ってるのか。」
千田に招き入れられた部屋に、ちんと座って自分のほうを見ているアカネを見て
長瀬は意外そうな声をあげた。
動物嫌いというわけではないが、ペットを飼ったりとかめんどくさいと
昔から言ってたからな。千田は苦笑した。
「預かってるだけだ。」
「おとなしいな。番犬にはならないね。」
初めての自分をみても吠えないアカネを、そっと撫でながら長瀬が笑った。
「それより、お前がここに来たってことは。」
長瀬は千田の問いに頷いた。
「お前も思い切ったことをしてくれたな。」
「それで、今どうしてるんだ。・・・雫は。」
「どうもこうも。庭師としてうちにいるよ。今は櫂(カイ)と名乗らせてる。」
「じゃあ。」
「まいったよ。降参だ。」長瀬が両手を上げてみせるのを見てため息がでた。
そうか。雫は戻りたい場所に、帰りたい人のもとへ帰れたんだな。
よかった・・・よかったんだよな。
「とりあえず、報告と詫びを入れに来た。長居はできない。明日の朝には帰る。」
「詫び。」
「いろいろな。とにかく、すまん。やっかいに巻き込んだ。」
「まったくだ。俺はここで心静かに暮らしてたってのに。」
長瀬は一旦下げた頭をひょいと上げて千田を見た。
「雫とは、何も?」
とっさに平静を装ったが眼を読まれた。長瀬の眼がすっと細くなった。
「寝たのか。」
「お前には関係ない。」
「手は出すな、と手紙に書いたろ。」
「そうだっけ?」
とぼけた。雫には、長瀬が好きにしていいと書いてよこしたと、言ってある。
いや、最初はからかったつもりだったのだ。そしたら本人が、からっぽの眼をして
「はい、どうぞ」ってぬかしやがったんだ。
こいつ、自暴自棄になってる、と思ったら嗜虐心を抑えられなくなった。
結局大泣きされて途中でやめたけど。
「でも預けたんならあとは俺の好きにさせてもらう。そうだろ。」
「なに言ってるんだ。」長瀬がうすく笑っていった。
「あの子は誰と何をしようがされようが、灯真のことだけまっすぐ思ってる。
それがわかってたから。」
「?」
「貴之。お前が辛くなるから、手を出すなと書いたんだ。」
千田はふいと長瀬から眼をそらした。「そんなのもう遅い。」
「みたいだな。」長瀬の表情が曇った。
「それであんなことして。」
情を交わして心奪われておきながら、その顔を焼いた。
どんな想いで・・・。つくづく不器用な男だ。
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