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第53話 第3部
自分の腕の内側で温度を確かめてから、雫は主の白い顔にそっと
蒸しタオルを当てた。柔らかく潤んだ灯真の皮膚に泡立てたクリームを伸ばすと、
息をつめて剃刀の刃をあてる。顎のラインから喉のほうまで刃を滑らせると、
すぐ目の前にある青い血管がひくりと動く。
緊張で横隔膜がきゅっと上がる。
雫が庭師として戻って来てから、長瀬は長い月日をかけて使用人を入れ替えた。
今よりよい条件の仕事を見つけてやったうえに、過分な退職金を払い、
しかも皆が不審に思わないように充分な間隔をあけて暇を出す。
事件前の雫を知っている使用人がいなくなり、人の口に千景や雫の名が上らなくなってから、
ようやく彼を屋敷に入れた。
最初はテーブルに飾る花の準備をさせ、時折調べ物を手伝わせ、御礼にとお茶に呼んでやり、
食事をともに取らせた。
こちらも充分な時間をかけて、不自然のないように屋敷に溶け込ませる。
雫が屋敷内に部屋をあたえられ、灯真のそばに影のように寄り添う姿を、
まわりの誰もが当たり前のように感じる日々が、そうしてようやく訪れた。
灯真26歳。雫24歳。二人が初めて出会ってから、10年が経っていた。
「髭なんて剃らなくても、いいくらいですのに。」
再び蒸しタオルをあてて、残ったクリームをふきとりながら雫が言った。
「でもほわほわしてきて気持ちが悪いんだよ。・・・櫂は髭、生えないの。」
介添えのためにいるメイドの存在に注意をはらいながら、今の雫の表向きの名を呼んだ。
「髭どころか、汗も出て来ませんよ。」
皮膚を灼かれた雫の顔には、スーツに合わせて黒い絹のマスクがかけられていた。
初めて彼を見た人間は一様にぎょっとした表情を見せるが、
マスクの下のケロイドを見せられると、さもありなんと納得するのだった。
「今日のスーツはどうされますか。」
「ん・・・・。」額に長い中指をあてて、灯真は首をかしげた。
「どうしようかな。先生に聞いてみよう。」
「私には選ばせていただけないのですね。」雫の言葉に灯真はくすりと笑う。
「前から思ってたけど、櫂って、ファッションセンスないよね。」
「自覚していますよ。だからいつでも黒づくめです。」
洗顔道具を片付けていたメイドが、ふたりの会話に笑いながら一礼して部屋を出て行った。
パタン、とドアの閉まる音を聞くなり、灯真が腕を伸ばして雫のマスクをむしり取った。
「ん。」そのまま顔が重なる。
ちゅっと音をたてて唇がはなれると、灯真は雫の引き攣れた頬を愛しそうに
撫でながら笑った。
「雫に剃刀をあてられると、なんだかすごく興奮する。」
「僕はいつもひやひやなんだよ。傷つけやしないかって。」
ため息をついて、雫も二人だけの口調になった。
「手が震えそうになる。」そういう雫の手を灯真がそっと握る。
「ざくっとやったら、血が噴き出るね。」
「灯真さん。」笑えない冗談に、雫の擦れた声が重なった。
「ごめん。」きゅっと手を握り直して、体と同時につっ、と離した。
「いつも黒尽くめなのは、喪服のつもり?」
灯真の問いに、雫は俯いた。
「それだけじゃないけど・・・・。」
「もう忘れてもいいんじゃない?」
「それはできないよ、灯真さん。それに、忘れちゃだめだと思う。」
「そうか・・・。そうだね・・・。」
そうだった。あのとき、自分も誓ったはずだった。
罰は一緒に受ける。と。
でも。
雫が、あの女のことを片時も忘れていないのだと思うと、
その黒尽くめの服装が、彼女の喪に服するためかと思うと、
押さえきれない嫉妬心がふつふつと湧き上がって来る。
あの女のことなど、本当は忘れてしまいたい。
雫にも、二度と思い出して欲しくない。
雫の持つ剃刀が、自分の首筋に触れる時、
この刃が僕の血管を突き破ったら、雫は僕の血を全身に浴びるだろうか。
そうすれば、彼はこの先ずっと、僕のことだけ考えて生きて行くだろうか。
そんなことをふと考えて、恍惚としている自分に気がつく。
そして、そんな雫を苦しめるだけの考えに囚われる自分に、
激しい嫌悪感を抱くのだった。
「灯真さん?具合・・・悪い?」」
「いいや。さすがに昔みたいにお熱は出ないよ。」つっけんどんに応えた。
雫がそっと背後から腕を回して来た。あたたかい胸に背中を預ける。
「なにか怒ってる?」擦れた声で尋ねてくる。
ああ、僕は強欲だ。わかってる。
あんなに望んで、待ちこがれた雫との暮らしが手に入ったのに。
今もこうして包まれているのに。
雫の心が、少し遠くにあるように感じてしまうのは、ただの被害妄想だ。
「ちがうよ。雫にスーツを選んでもらおうかな、と考えてた。」
「え。」急にたじろいだ彼に笑いかける。
そっと彼の腕をほどいて向き直ると、肩をすくめて両手をひろげた。
「さあ、お手並み拝見。」
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