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第62話
雫と美風が戻らないまま時間だけが過ぎ、灯真の不安が募った。
長瀬も心配して様子を見に来た。
「先生、なんだろう、すごくイヤな予感がしたんだ。さっき。」
「イヤな予感?」
灯真は勘の鋭いところは昔からあったが、これほど不安を感じたのは
はじめてだと言った。
「携帯は。」
「二人とも出ない。」
長瀬も眉をひそめた。
そのとき、電話の音が室内に鳴り響いた。灯真の体がびくりと震えた。
「先生、僕が出る。」白さをとおりこして、青い顔でこわばった声を出す。
長瀬は受話器をとって灯真に渡した。
「・・・・・・はい。」
『飛鳥井さん?』
「そうですが。」
『おたくの妹さん。お預かりしてるんですが。』
灯真の顔が険しくなるのを長瀬が固唾をのんで見守る。
灯真は慎重に、相手の声色を読みながら会話を続けた。
「・・・妹だけか。」
『は?』
「黒服の男は」
『ああ、この化け物みたいな顔のも、身内なんだ。』
ぎり・・・と灯真の奥歯が鳴った。
『1億。』
電話の向こうの声が切り出した。
「金か。」
『1億用意してください。おたくなら楽勝ですよね。』
「わかった。」
灯真の即答に、相手はひゅっと口笛をふいた。
「ただし」
『あ?』
「私が金を出すのは黒服の男のほうにだ。妹に身代金を払うつもりはない。」
『なんだと?』
「その子は父が愛人に産ませた子だ。助ける義理はない。」
一瞬の逡巡。息づかい。かなり動揺している。
『そんなのこっちに関係ねえよ。金さえもらえれば二人とも返してやる。』
こちらのペースに引き込めるか。
「悪いが信用出来ない。」
『貴様いいかげんにしろ。両方ぶっ殺すぞ。』
かすかな声の震えを敏感に聞き取った。殺人の度胸はない。
「なら1億もなしだな。そして君は殺人犯として指名手配だ。」
『うるせえ!なんなんだよ、いったい!』さらに動揺している。
いける。灯真は勝負に出た。
「これは取引なんだろ。」
『わかってんじゃねえかよ!』
「こちらからの条件は簡単だ。妹を無傷で返せ。そしたら男に1億払う。」
『な!そっちが条件とかほざける立場じゃねえって言ってんだよ!』
「では、交渉決裂だ。切るぞ。」
『ちょちょ、待て!』
「なんだ。」
『う、うまく嵌めたつもりかもしれねえが、そうはいかねえ。
この男を見殺しにする気なんだろ。妹だけ取り返そうって。』
「彼はわたしの恋人だ。」
『はっ?』
「わたしにとって、彼には1億払う価値がある。それだけだ。」
『は・・・は。』
「もう一度言う。6時間以内に妹を無傷で返せ。交渉はそれからだ。」
灯真は一方的に電話を切った。全身が震えているのを長瀬が支えた。
「おい・・・またずいぶんと思い切ったね。」
長瀬も青ざめている。
「二人ともさらわれてる。間違いない・・・。たぶん、犯人は美風だけの
つもりだったんだろう・・・。」
「大丈夫なのか、ふたりとも危害・・・」
「先生」
灯真は震える手で長瀬の手を握った。
「相手の声も上ずってた・・・。緊張してるみたいだった。だから賭けに出た・・・。」
「うん。」
「雫の身になにが起こっても、僕はそれに殉じるよ。」
「灯真!」
「それはもう決めてるから。だから僕らのことはいいんだ。でも」
「・・・・・。」
「美風は・・・。あの子は助けなきゃ。」
「灯真・・・。」
「先生。お金、用意して。お願い。」
さきほどの高飛車な態度が別人だったように、灯真は震えながら膝から床に
崩れ落ちた。
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