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第68話

「雫。」 雫の声に灯真は立ち止まった。車のスライドドアが開く音がした。 まだかなり前方だ。灯真は耳で距離を測った。 どさり、と柔らかい物が地面に落ちる音。うめき声。 「雫?」 男の声がした。 「あんたの大事な人はここだよ。」 「今、そこまで行く。」 声のするほうに耳を向けるように、首をかしげて灯真が応えた。 「金はそこに置け。」 「・・・・。」 男の仲間らしい足音が、ひそやかに近づいて来ていた。 おそらく気付かれないようにしているつもりなのだろう。 見えないと思って侮っている。が、灯真の聴力のほうが上だった。 ひとり・・いや、ふたりか・・・。 そのままおとなしくしてれば交渉成立だったのに。 彼らが自分に近づくより早く、灯真はトランクをあけてその中身をぶちまけた。 橋の上は風が強い。 その風に煽られて札束が紙吹雪のように散った。 男達の悲鳴が聞こえた。 「おい!嘘だろ!」 「帯封してないのかよ!」 おそらく、灯真を拘束するつもりだった二人の男は、金の回収にやっきになった。 前方から怒声が飛んだ。 「ふざけやがって!こいつがどうなってもいいんだな!!」 「よくはない。」 身軽になった灯真が、杖を頼りに再び進み始めた。 「約束通り金は持って来た。雫を返せ。」 「うるせぇ!!・・・か、返してほしかったら、そこに跪け!」 灯真の足がとまる。 「最初っから気に入らねえ!!すましやがって! 何様のつもりだ!   そんなに大事なヤツなら、お願いします返してくださいと、土下座しろ!」 「やめて!」雫の声がして、鈍い衝撃音とうめき声が聞こえた。 灯真の顎関節がぎり、と音をたてる。鼻筋に皺が寄った。 「雫に手をだすな。」 あんな下衆のいうことを聞く気は最初からない。 とにかく雫のそばに行く。たましいが呼ぶのだ。 殺されるのなら二人一緒に。ただそれだけのこと。その覚悟はある。 だけど、このまま雫を死なせるわけにはいかない。 また歩き始める。一歩一歩近づいていく。 「おい!聞こえなかったのか!土下座だ!こいつぶっ殺すぞ!」 いきり立つ声に冷たく言い返した。 「あいにく、見た事がないのでやり方を知らない。」 「貴様・・・!」 男の気配がふっと近づいたのを感じて、灯真はその方向にすっと白杖の先を向けた。 まだ距離があるというのに、硬い光を放つ石突きをぴったりと鼻先に向けられて、 男はひるんだ。 ・・・こいつ・・本当は見えてるんじゃないのか? 「殴りたいなら僕を殴ればいい。殺すなら僕を。              雫はまだ、死んではいけないんだ。」 杖をすっと引いて、まるで世間話のような静かな口調でそんなことを言う 灯真の考えが読めず、男はちいさく唸った。 膠着時間はそう長くはなかった。 サイレンの音が風にのって橋上にかすかに届いたのだ。 灯真の耳だけがそれを捕らえる。ふっと口元を緩めた。どうにか間に合ったか。 「なにがおかしい!」 「そういえば、誘拐犯が必ず言う台詞、お前言わなかったな。」 「あ?」 「警察には知らせるな。って」 「なん・・・・・!!」 そのときようやく、サイレンの音が犯人の男の耳に届いた。 まさか!最初から金で解決するようなそぶりだったのに!いつの間に? 「早く、お金持って逃げたほうがいいよ?」 「クッ!」 男は金を拾い集めるのに必死になっているあとの二人を大声で呼んだ。 灯真は手に持っていた白杖を男に向って投げた。 「それ。もう要らないから、やる。」 男は杖の上部に、宝石が埋め込まれているのに気付くと、さっと 拾い上げてドアが開いたままの後部座席に投げ込んだ。 車のドアを乱暴に閉める音がする。 エンジン音。タイヤの軋む音。遠ざかる音と、入れ違いに別の車の音が 近づいて来た。 「灯真!」長瀬の声。 対岸から様子をうかがっていた長瀬が橋を渡ってきていた。

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