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第69話

美風が車のドアから転がるように飛び出て雫のもとへ走る。 「美風!」灯真に呼ばれて一瞬立ち止まると、兄の手をとって一緒に 地面に横たわったままの雫の元へ走った。 「ああ。」 昨夜一緒にいたときよりさらに酷い姿の雫をみて、美風が泣き声をあげた。 灯真は膝をついて手を伸ばした。 「雫」 雫が顔をかすかに上げた。じり、と肩で向きを変え、灯真のほうを見る。 美風が、雫を求めてさまよう灯真の手をとって、導いた。 灯真の指が雫の頬をとらえた。 灯真は背を丸め、横たわった雫の頭の上に、覆いかぶさるようにかき抱く。 汗と、血と、犯人達の体液、そして土埃。 どろどろになった雫の癖っ毛をやさしく撫でた。 「しずく・・・生きてるか・・。生きてるな。」 「だ・・・め・・。」血まみれの唇から声が漏れた。 「とうまさ・・・。きたな・・・い・・か・・ら。  触・・。」 「ああ、そうだな。とんでもなく酷い匂いがしてる。」 灯真はそういいながら、顔や手が汚れるのもかまわずに、 さらに強く彼の頭を抱きしめ、頬をすり寄せた。 「雫・・よかった・・。生きていた・・・。」 「だ・・・め・・」 「もうしゃべるな。」 美風が体に巻き付いたロープを苦労してほどいているあいだ、 長瀬がそっと灯真の肩を抱いて雫を離させ、脈をとり傷を調べた。 「急いで病院へ。」 長瀬と三人で、車のシートに寝かせる。 雫は意識があるのかないのか、朦朧としていた。 病院に向って走る車のなかで、出来る限り汚れを落としてやる。 さっきからずっと泣きじゃくっている美風に、灯真が静かに語りかけた。 「美風。今から大事な話をする。よく聞いてくれ。」 「・・・・はい。」 「櫂は・・・、本当の名前は雫、という。」 「はい・・。」 先ほど兄がそう呼ぶのを、美風も聞いていた。 「雫は10年前に、僕をレイプしてた継母を刺して・・・死なせた。」 「ひくっ。」返事のかわりのように美風がしゃくりあげた。 「それから素性を隠して、僕のそばにいたんだ。顔も・・そのために。」 みずから焼いたと。 美風は黙って、眼をまんまるに見開いている。 あまりに衝撃的な告白に、返す言葉がない。 「今度のことで、雫の正体はきっと警察にわかってしまうと思う。」 「・・・・・。」 「少しの間、離ればなれになるかもしれない。」 「・・・・・。」 「僕もあるいは、なにか罪に問われるかもしれない。ずっと隠して来たから。」 「灯真それは・・・。」長瀬が運転席から割って入った。 「先生はだめ。先生はなんにも知らない。千田っていう人にも迷惑がかかる。    それに家を守ってもらわないと。みんな捕まったら困る。」 「だが・・・。」 「お願い。雫と僕、二人の事にしておいて。」 「・・・・・。」 「わたし・・。わたしどうすれば・・・?」 ようやく、美風が震える声で尋ねた。 「あの家で、待っててくれないかな。」 「待つ・・・?」 「雫が戻ってくるまで。僕と一緒に待ってて欲しい。」 「ずっと、居てもいいの?おにいさんと。」 シートに臥せっていた雫の腕がぴくりと動いた。 かすかに上に持ち上がる。 美風がその手を下から掬い上げるように支えて、もう片方の手で灯真の手をとった。 三人の手がそっと重なる。 「櫂・・・雫・・さん。」 「美風」 「うん。」 ただ一言、そう応えた美風の声音に、灯真はにっこりと微笑んだ。 そして雫と重ねた手に力をこめた。 「・・・・ほんとは警察に知らせるつもりはなかったんだ。    自分だけで・・・お金でなんとかしようと思ってた。    でもお前が舌を噛んだって聞いて・・・・このままじゃいけないと思った。    このままお前を死なせたら、だめだって。」 灯真の眼から涙が零れた。雫の頬にぽつん、と落ちる。 「雫・・このまま、影のままで死んじゃだめだ。お前はお前を生きなきゃ。」 「・・・・・。」 「離れるのが辛くて、答えがなかなか出せなかった。でも、誰だって、    いつなにがあるかわからない。今回それを思い知らされた。    一日でも早く、雫の名前を、お前の本当の人生を取り戻さなきゃだめだって。」 雫の眼からも、涙が流れていた。 「僕なら大丈夫。美風が・・・いてくれるから。お前が帰って来るまで待ってる。    それに、数年待てるくらいには、大人になったからね。    だから雫も・・・耐えて欲しい。」 「おにいさんと一緒に待ってる。おにいさんのことは心配しないで。」 美風のその言葉に、雫が小さく頷いた。 「もう一度、生まれ変わって帰っておいで。雫として。」 灯真のその言葉に、雫は微笑んでもう一度頷くと、ゆっくり眼を閉じた。

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