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第8話
「――冗談だろう?」
縋るような問いを、引き結んだ薄い唇が肯定することはなく。
「今までありがとうございました」
深々と頭を下げた亜弓の言葉に、俄かに焦燥を覚える。
帰ってきたときの異様な寂寥感を思い出し、中村は弾かれたようにリビングを振り返った。そして亜弓を押しのけるようにして彼に与えた部屋のドアを開け、呆然とする。
「なんで……」
亜弓が持ち込んだ私物によって多少生活感が出てきていたはずの空き部屋は、元の通りに何もない空間になっており、小さくまとめられベッドに置かれた手荷物が、このマンションに残された最後の亜弓の私物なのだということをリアルに教える。
「昼間、業者に頼んで全部俺の部屋に戻しました」
「なんで!?」
「もうここにはいられないからです」
「なんでいられないんだよ!?」
「俺と中村さんが別れるからです」
用意された言葉で淡々と答える亜弓の肩を、きつく中村は掴んだ。
「僕が…、結婚するからか?」
「……そうです」
「心配することはないって、言っただろう?」
頬に触れようとする中村の手を、婉曲に亜弓は拒んだ。
「このマンションはきみにあげるつもりなんだよ、出て行くことなんかないんだ。それに今日だって、見合い相手に僕は、男の恋人がいることを明かしてきた。相手にも恋人がいる。お互い恋人との関係は変えずに済むようにしようって、」
「子どもは? どうするんですか」
「方法はある、体外受精とか」
「そういうことを言ってるんじゃないんです。どんな風に生まれてきたとしても中村さんの子どもだ。その子は誰が愛してあげるんですか。二親とも外に恋人がいて、子どもが幸せなわけがないでしょう」
「どうしてきみが今僕の子どもの幸せを考えてるんだ、今は僕らの問題だろう!」
「俺は俺たちの問題について話してます」
「亜弓!!」
呼びかけが思いがけず大声になってしまい、突然部屋に響いた自分の声に驚いて中村は我に返った。
「……ごめん、大声出して」
「中村さん」
「とにかく落ち着いて話そう、結論を急ぐ必要はないよ。そうだ、きみだって思いつきで言ってるんだろ。頭冷やして考え直したらそんなこと」
「中村さん、俺は」
「きみは僕を愛してないのか!?」
「――」
思いつきなどで言っているのではないと、そう言われることを恐れるように言葉を連ねる中村に小さく息をつき、亜弓は腰を折り、床に落ちた中村のスーツを取り上げた。
その襟元から微かに香った甘い移り香に、亜弓は目を伏せる。
「…ご心配、お掛けしてすみませんでした」
言葉を押し出すたびに後ろ髪を引く幼い手に目を瞑り、拾い上げたスーツを中村に手渡した。
「声も、出るようになりました。もう、俺は大丈夫です」
「亜弓……」
一人で大丈夫だと、何よりも愛おしい恋人が言うのを止めることもできず。
中村は、彼の細い首から銀色の鎖が外されるのを、ただ見つめていた。
本当は中村にもわかっている。亜弓が思いつきや冗談でそんなことを言うはずはないと。そしてその真剣さがわかっていたからこそ、認めたくなかった。自分が認めてしまえば本当に“終わってしまう”のだと、それくらいの危機感を覚えるほどに亜弓の表情は落ち着いていた。
けれど、認めたくないからと駄々をこねていても、亜弓は彼の信じる正義に従って、確実に二人の間へ終末を呼んで。
「今までありがとうございました。あなたに愛されて、幸せだった」
差し出されたペンダントを、受け取れるはずはない。
「…俺、あなたと出会うまで、幸せなんてどこにあるのかも知らなかった。まして自分の元にも訪れるものだなんて、思ってもみなかった。だけど俺、今は幸せってどんなものだかちゃんとわかります。教えてくれたのは、中村さんです」
受け取らない中村のワイシャツの胸ポケットに、亜弓は二人の幸福の象徴だったはずのペンダントを入れた。
「あなたには、人を幸せにできる力がある。だから」
その白い頬に一筋の涙を描きながらも、亜弓は微笑んだ。
「これから築く家庭を、大切にしてあげてください」
口にした願いに嘘はないと、今は亜弓自身が強く信じて。
それを聞いた中村も、それを上辺だけの建前だと撥ねつけられるほどの過信はできない。
もう一つの願いを亜弓が隠す以上は、中村にもそれを暴きたてることはできずに。
「……それが、きみの出した答え?」
静かに問うて、確かに頷く亜弓に思わずこぼれた涙を見られまいと中村は背を向ける。
「どうして……っ」
胸を掴んでそこに硬い感触を確かめた拳を、中村はやり場なく壁に叩きつけた。
重い振動音が胸に響き、亜弓は振り切るようにベッドの上の手荷物を掴んで駆け出した。
「――ごめんなさい」
中村がひどく傷ついたことも、その傷を自分がつけたことも全てを理解してその背に負って、冷たい床に崩れた中村を振り返らないまま、亜弓はマンションを出た。
そこで、二人は終わった。
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