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第9話
「あゆみお兄ちゃん」
薬局に、この頃少しご無沙汰だった幼い声が明るく響いた。
「あら、菜摘 ちゃんいらっしゃい。柴崎さーん」
橋本の呼び声に調剤室から出てきた亜弓は、菜摘と、その手をつなぐ中村の姿に頬を綻ばせた。
「こんにちは菜摘ちゃん。どうしたの今日は、おめかしして。かわいいね」
いつもの入院患者用の寝間着ではなく、オレンジ色の可愛らしいワンピースを着た菜摘の頭を、亜弓はくしゃくしゃと撫でた。
「もう今日で退院なんだよ。親御さんが十二時半には迎えに来るって言ってたから、…もうあと三十分くらいで。その前に柴崎くんに会いたいって言うから、送ってきたんだ」
「そうなんですか、退院! よかったねー菜摘ちゃん、よく頑張ったね」
「へへー。菜摘えらい?」
「偉い偉い」
菜摘を抱き上げて明るく笑っている亜弓を、中村は複雑な気持ちで見つめた。
一度も顔を合わせることなく水曜になっていた。亜弓と話をするのは、別れた土曜以来だ。
亜弓が笑ってくれてよかった、と思う。彼が笑うのを見るのは好きだった。
けれど、自分がいなくても笑えるのかと、どうしようもない気持ちが綯い交ぜになって訳がわからなくなる。
やはりあの別れは亜弓自身が望んだことだったのだろうかと、落胆して中村は踵を返そうとした。
「じゃ、僕はこれで」
軽く手を上げて戻ろうとしたところで、その姿を見つけた薬局内から声がかかる。
「あー、中村先生ー。正式に婚約決まったそうですねぇ、おめでとうございますー」
耳の早い雪村の声に、中村の頬が強張った。
しかしふと見やった亜弓は、穏やかな笑みを湛えてこちらを見ていて。
「おめでとうございます」
まるで今まで自分たちの間にあったものを全てなかったことにするかのようなやわらかい声に、やりきれなくなって中村は背を向けた。ありがとう、とだけ言い置いてその場を去る足を速める。
その背中を、二人のやりとりを不安に見ていた石田が追った。
「……一臣、一臣っ」
病棟へ向かって、小声で呼んでも止まらない中村を、二階の倉庫前に来たときに石田はその中へ引き込んだ。
滅多に人の来ない倉庫の扉を閉め、石田は自分を直視しようとしない中村の頬に触れた。
「…大丈夫か、お前」
「何が?」
「眠れてへんのとちゃうの」
仕事柄疲労は万年顔に出尽くしているような中村だが、その表情は石田の目に、憔悴しきっているように映る。
「食うもんちゃんと食ってんのか?」
「淳……」
震える手が、頬にある石田の手を掴んだ。ぬくもりに触ったとたん、中村の瞼は涙腺が決壊したように涙を溢れさせる。
「亜弓と、別れたんだ」
俯いた中村の頭を、石田は自分の肩に呼んだ。
「結婚するならもう続けられないって言われた。本当は別れたくなんてなかった、別れずに済むようにできる限りのことはしたつもりだったんだ。だけど」
回された指が、石田の背に縋る。
「僕は、医者になってこの病院を継ぐことにしか価値のない人間で」
「…一臣、」
「あんな風に笑えるなら、亜弓にも僕なんか必要なかったのかもしれない」
今までに見た亜弓のどの横顔にも幸福などなかったような気さえして、確かに握り締めていたはずの時間を見失って亜弓自身が認めた幸いの在処もわからなくなる。
「後継者としてしか望まれない人間は、他の何かを求めちゃいけなかったのかな…」
「一臣、そんなことないよ」
優しい声音を聞かせて、石田は中村の髪を撫でた。
「お前、必死やった。学生の頃もめっちゃ勉強して、家に対する義務や責任果たそうとして立派にストレートで医者になって。それ以外を重要視することなんて慣れてへんのに、柴崎さんのことも一生懸命大事にしようとしてた。お前が頑張ってたん、俺は知ってるで。だから自分で自分の価値に限界つけるようなことするな」
「……うっ…」
それきり、中村は声を詰まらせ。
石田は黙って、白衣の肩に涙の熱を感じていた。
中村が初めて石田に見せた涙は、ただ亜弓への深い情だけを教えた。
一方、薬局前のロビーのソファで菜摘と話す亜弓は少々上の空だった。
膝に乗り上げた菜摘が、心配そうにその顔を覗き込む。
「お兄ちゃん、どうしたの? なんか元気ない」
「うん? 何でもないよ。菜摘ちゃんが退院すると寂しくなるなって思っただけ」
「ねえ、中村先生けっこんするの?」
「え…」
話を聞かない年頃なのか、菜摘は急にそんなことを言って亜弓を戸惑わせる。
「…うん、そうだよ」
「あゆみお兄ちゃんは怒らないの?」
「怒る? どうして?」
「前に菜摘がお兄ちゃんのお嫁さんになるって言ったら、中村先生怒ったよ。でもお兄ちゃんはだれかが中村先生のお嫁さんになっても怒らないんだね」
「……」
子どもの鋭い感受性が言わせた言葉に、亜弓は動揺を押し隠して肩の力を抜いた。
「…先生も、今ならもう怒らないんじゃないかな」
自分の言った言葉に自分で傷つくなんて、馬鹿げていると思う。
「あゆみお兄ちゃん…?」
けれど、声に出して自分で認めた事実に食らったダメージは予想以上に大きく。
「どうして、泣いてるの?」
笑おうとして失敗して、醜く歪んだ顔を見られたくなくて両手に埋めた。
小さな手が亜弓の髪に触れ、慰めようとする。
「悲しいんだね」
その言葉に、亜弓は無意識に首を横に振った。悲しむべきことではない。悲しんではならない。中村の幸せのために、自分は正しいことをしたのだから。
亜弓は菜摘の体を抱き締めた。
このあたたかな存在を中村が授かり、惜しみない愛を与えてくれることを願って。
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