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第10話

 翌日の木曜は、沢口心療内科の予約が入っている日だった。仕事を午前中で引けてきた亜弓は、看護婦に名を呼ばれて診療室へ入った。  ドアを開けて、薄いブルーグレーのカーテンが目に入る。その近くに背の高い観葉植物、デスクの上にも小さな鉢植えがあることに気づく。 「こんにちは、柴崎さん」  そうして沢口の顔を見て、あれ、と思う。  恰幅の良い体格に、手入れされた髭をたくわえた口元、金属フレームの眼鏡の奥の少し垂れ下がった優しそうな瞳。中村の先輩とはいえ、亜弓よりもいくらか年上のようだ。一週間前に会った沢口はこんな人だっただろうか。  思い出そうとして思い出せず、亜弓は、そういえばこのやわらかい色合いの空間にも覚えがないことに気づいた。  要はあの失声していた時、見ているようで何も見えてはいなかったのだ。それほど余裕を失っていたことを悟る。 「声が戻ったそうですね」  白衣は着ていない、少しくたびれたようなスーツをラフに着た沢口が微笑む。 「…はい」 「ああ、本当だ、良かった。問題は解決されたんでしょうか?」  亜弓の見た目に良く似合う澄んだ声に、沢口は安堵の笑みを浮かべた。しかしまだどこか虚ろな眼差しでこちらを見返す亜弓は、一週間前とどこも変わっていないようにも見える。  むしろ、冷静に周囲を見る目がある分だけ、余計に危うさを感じさせるような気さえする。 「解決……そうですね、しました」 「どんな解決法だったんですか? …失礼ですが、中村くんが見合いを断ることは現実的に不可能であるように思いますが」 「見合いは、しました。婚約も決まったそうです」  さっぱりとそう言うと、亜弓は一つ息をつき、膝の上で拳を握った。 「俺は……弱い人間なので」  前回のセッションでは一人称を『私』としていた亜弓が『俺』と語るのにひどく違和感を覚えながら、沢口は懺悔するような亜弓の声を聞いた。 「彼に言わなければならないことをわかっていながら、言いたくなくて、口を閉ざしていたかった。だから失声していたんだと思います」 「…では、声が戻ったということは、それを言う決心がついたということですか?」 「はい。自分が言いたくないからって、失声したまま中村さんや周りの人に迷惑をかけるわけにはいかないと思ったので」 「それであなたは……何て?」  話の流れから推測される、聞きたくはないその問いを、沢口は投げた。 「別れてください、と」  そして亜弓は、淀みもなく答えを返す。  相変わらず表情に変化のない亜弓が痛々しくて、思わず沢口は眉を寄せた。 「中村くんは…それを受け入れたがらなかったのではないですか?」  そこで初めて亜弓は、苦しげな表情を沢口に見せた。 「……自分のことを愛していないのかと、訊かれたんです」  握った拳に力がこもり、くちびるを噛む。 「彼のためを思うなら、愛していないと言うべきだった。なのに俺は、言えなかった」  俯き、亜弓は目を伏せた。 「…どうしても、言えなかったんです」  そのことをひどく後悔する声に、沢口はやるせなく言葉を選ぶ。 「つらかったですね…」 「いいえ、いいえ」  しかしそれにも過敏に反応して、亜弓はかぶりを振った。 「彼のためにはそうするのが正解だったんです、俺はつらいなんて思っちゃいけない。中村さんが幸せになることをつらいなんて」 「柴崎さん、自分自身の感情を言っていいんですよ、ここでは。誰も告げ口なんかしたりしないし、あなたが自分の感情に正直になったって誰も咎めたりは」 「自分?」  ふと亜弓の目が沢口を仰ぐ。 「自分なんて――どこにあるんですか?」  焦点の合わない目で見つめられて、沢口は俄かに危険を感じた。  それは、沢口自身が亜弓の何かに引きずられそうな恐怖。 「柴崎さん」  咄嗟に沢口は、それ以上の根源への追及から手を引いた。 「見たところ、顔色は悪くない。窶れてもいないようだし、睡眠と食事は取れているようですね」 「え…? ええ。あまり中村さんと会うことはないんですけど、昨日みたいに偶然会ったとき、様子が悪いと心配かけるから」 「……。以前中村くんとの関係について思いつめて自殺を図ったことがあると伺っていますが、今は自殺念慮はありますか?」 「いいえ」 「それは、やはり彼を心配させないため?」 「はい」 「…そうですか」  沢口は重く息をついて、ひとしきりファイルに何か書き込んでいく。そのペンをぱたりと置くと、デスクの卓上カレンダーに目をやった。 「柴崎さん。次のセッションについてご相談したいんですが」 「あ、はい」 「元々声を戻すために来院なさったわけなので、無用だとお思いになるかもしれませんが。僕としては、セッションを続けられたらと思います。無理強いはできませんが、どうされますか」  決定権を委ねられて、亜弓は少し考え込んだ。しかしすぐに、頭を下げる。 「遠慮します」 「…では、今回でカウンセリングは打ち切りということに?」 「はい、すいませんが」  元から自発来院ではなかった亜弓は、昨日中村に向けたような笑みを作った。 「俺はもう大丈夫なので」  その言葉に、全気力が萎える思いで沢口は肩を落とした。  きっとここへ通うことも、中村を心配させることになると考えているのだろう。  お元気で、などというありきたりな別れの言葉で、セッションは終わった。

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