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第11話

 その夜仕事を終え、中村は駐車場の自分の車へ乗り込んだ。  シートベルトを締め、鍵をさしてエンジンをかけようとして、そのままハンドルに置いた腕に顔を伏せる。  夕方、病院にかかってきた沢口からの電話を、中村は思い出していた。 『彼の病理はとても深い』  取り次がれた電話からの沢口の声は、聞いたことがないほどの深刻さを帯びていた。 『全てはきみのため。彼にとっては生きることすら彼自身の意思ではない、きみのためだ』  亜弓は、自殺念慮はないと言った。それ自体は喜ばしいことだが、その理由はとてもじゃないが一人前の人間が生きる理由として認められるものではない。 『初めて人を怖いと思ったよ』  沢口は亜弓に対して感じた危惧に似た恐怖を正直に明かした。 『他人をその深淵に引きずり込みそうなほど暗い闇を持っているのに、決して彼は誰かを自分の犠牲にしたりしない。常に独りだ』  亜弓の孤独を、中村はわかっていたつもりだった。ずっと傍にいると、いつか亜弓に誓った気持ちは嘘ではなかったのに、亜弓が拒んだ。亜弓に、中村は拒まれたのだ。 『繊細で、脆くて、危うい人だ…』  てのひらに落とすような声を聞かせた沢口は、けれど中村を責めたりはしなかった。  中村にだってわかっている。いくら当人の感情が伴わないとはいえ、結婚を承諾したことは亜弓に対する背信行為に当たると。そして亜弓がそれを、中村が自分の手を離したのだと取るであろうことだって、予想できなかったわけではない。  それでも中村は、亜弓に自分を望んでほしかった。自分と一緒にいられる道を、選んでほしかった。  けれど亜弓は中村を望まなかった。  自分のいないところで勝手に幸せになれと、突き放されて中村だって傷ついた。  亜弓の何を信じればいいのか、今の中村にはわからない。  考えても出てくるのは重いため息ばかりで、振り切るように中村は体を起こして車を発進させた。  自宅へ戻り、車を停める。駐車場からエントランスへ通じる通路に、中村は自分を待ち伏せるような影を見つけた。 「…佐野(さの)くん?」  影は中村に気づくと、くわえていた煙草を踏んで火を消し、ご丁寧にその吸殻をくず入れに投げた。 「どもー。お待ちしてました」  秀明が愛想よく片手を挙げる。 「僕の住所、知ってたっけ。それに今日は仕事は?」 「休み取っちゃいました。住所は淳に聞いて」 「僕に話? …亜弓のこと?」 「そーなんですけど、その前にとりあえず、」  秀明の前をエントランスに向かって歩き出した中村の右肩に、秀明は呼ぶように左手をかけた。振り向いた中村に、秀明の拳が振り上がる。 「一発殴らせろ!」  言うが早いか、固められた右の拳は無防備な中村の左顎に、きれいに入った。  秀明の和やかな雰囲気にまるっきり無警戒でいた中村は、脳を揺らすような殴打に受身も取れず、コンクリートに倒れこんだ。  その中村のすぐ傍に、秀明はしゃがみこむ。 「ごめんね中村さん、不意打ちしちゃって。まともにやり合ったら勝てそうもなかったからさ」  左の口元を押さえながら、中村はゆっくりと上半身を起き上がらせた。景色がぐらぐらしていて、苦笑している秀明の顔も揺れている。軽い脳震盪だろうと、中村は思った。 「…べつにやり合わなくたって、きみが殴らせろって言うならおとなしく殴られたよ。でも歯ぁ食いしばる心構えくらいはさせてほしかったな」  言いながら、切れた口の端から血が滴るのが気になってならない。  秀明が差し出したハンカチを、中村はありがたく受け取って口元にあてがった。 「痛そ。ごめん」 「きみには怒られるだろうなぁって、思ってたんだ。ことによっちゃ殴られるかもって、それならしっかり殴られようって、覚悟は決めてたから謝らなくていいよ」 「立てる?」 「うん。部屋で話そうか」 「いや、いいよ。たいした用件じゃないし」  秀明は中村を引き立たせ、その背中の砂埃を払ってやった。  地面に落ちていた鍵も拾って渡してやって、正面から中村を見据える。  光のきつい双眸を、中村も正面から受け止めた。 「俺は、中村さんのこと信用してたよ」  偽りでもお世辞でもない、それは秀明の本心だった。 「亜弓は俺のものじゃないけどさ、でもあんたに、亜弓を任せようと思った。預けても大丈夫だと思った。それに――亜弓にはあんたじゃなきゃダメなんだって、思ってる」  そう思ったからこそ、秀明は亜弓への気持ちを押し通そうとすることなく、身を引いたのだ。 「あんたに一つ、言っておくよ」  けれど、道を譲ったとはいえ、今でも中村より自分の方が亜弓に近いところにいるという自信はある。中村にも、もちろん石田にも見えていない亜弓の本心を、たぶん自分だけが見ることができているのだと。 「亜弓があんたと別れる決心をしたのは、亜弓自身の判断だ。亜弓は家庭に恵まれなかった分、あんたにはそれを大事にしてほしいと思ってる。生まれてくるあんたの子どもに自分を重ねて、その子を幸せにしてやってほしい――つまり自分を救ってくれって言ってるんだ。そして亜弓を救えるのはあんたしかいない。…矛盾してるけど、亜弓はあんたと別れなきゃいけないとも思ってるし、あんたを必要ともしてる」  亜弓の中の二つの本心を示されて、中村の視線が揺らぐ。  じゃあ、どうすればいい? どうすれば正解だったんだ?  戸惑う中村に、秀明は一つ、問いを投げた。 「亜弓は中村さんを責めるなと言った。俺もあんたの家の事情なら口出しする権利もないし、それはそれで尊重すべきだと思う。…でも、あんたたちもう、本当に別々の道を行くしか他に手はないのか?」  その問いが、俄かに中村の靄に包まれていた視界を切り拓く。 「二人で行ける、別の道って、本当にないのか?」  部屋に戻って、中村は一人、秀明の言葉を耳に返した。  そして、自分に別れを告げた亜弓の覚悟を想う。 (…僕も、覚悟を決めるべきなんじゃないか)  伏せていた瞼を上げ、中村は拳を握った。  その道のために払うべき犠牲を、今はまだ計り知ることはできなかったけれど。

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