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第12話
中村と別れて、二ヶ月が経った。
その間にクリスマスが過ぎ、正月が過ぎ、世間との賑わいとも慌しさともまるで無関係に、毎日はただ規則的に繰り返す。
亜弓はそんな毎日を、淡々とこなしていた。今日も昨日と同じ。この朝食を終えたら、支度をして、出勤して、調剤室に篭り切りで仕事をする。回ってくる処方箋の通りに、薬を出す。
冬になるとどうしても薬局は忙しくて、出勤してから帰宅するまでずっと調剤室の中にいることも珍しくない。薬剤師の異動があったりもして、実際仕事量は以前より増えている。短い休憩も昼食も薬局内で、という感じだ。
そのお陰というか、亜弓は中村とほぼ完全に接点を絶つことができていた。時々昼食時に姿を見ることはあるが、目が合うことも挨拶を交わすことも全くない。
二ヶ月の間に、少しずつ亜弓の中で感情の変化が起こり始めていた。
けれどそれは、吹っ切れたとか気持ちの整理がついたとか、そういうこととはむしろ逆で。
忘れようと、押さえ込もうと、すればするほど中村への気持ちは大きくなる一方だ。こんなはずではなかったのに。
別れを告げた時には、中村への気持ちを絶って独りで生きていけると思ってもいたし、そうするしかないとも思っていた。
でも、現実はそう上手くいかなかった。自分を過信していたのだ。
それに気づいたのは、この間、秀明と会ったとき。
秀明は中村を殴ったと言った。秀明にも、中村がどうすれば全ての問題を解決できるのか、その方法はわからない。けれど結果的に亜弓の手を離すことになった中村に対してどうしようもなく腹が立って、殴ってしまったと。秀明自身の感情でしたことだから亜弓のために中村が殴られたと思って自分を責めたりはするなと、秀明は言った。
しかしそれを聞いて亜弓は――正直、嬉しかったのだ。
不謹慎だとは思う、けれどそのとき確かに、胸がすっとするような気分だった。
本当は。
中村に対して、亜弓は怒りを抱いていた。
どうして見合いなんかするんだ、俺がいるのに、結婚なんかするな。
そう言って、大声で中村を詰りたかった。
彼の前で、大声で泣きたかった。
けれどその怒りにすら気づく前に、亜弓は自分を閉じた。自分の中の負の感情を、外に吐き出すことを遠い昔に禁じたから。
閉じた亜弓の内側に触れられるのは、秀明だけだった。短い会話の中で、秀明は亜弓に、自分の中の理不尽な怒りの存在を認めろと言った。
――人間なんて、元々理不尽なもんなんだからさ。
そう言って亜弓の背を抱いた。理不尽なものを否定して綺麗な存在であろうとすればどこかで歪 が出てつらくなる。それを中村さんにぶつけたら確かに彼は困るかもしれないけど、とりあえず亜弓自身が『ちっちゃい亜弓』の言うこと聞いてあげなきゃ、生きてけなくなるよ、と。認めちゃえ、と。
同じ体験を持つ秀明の声は、いつも亜弓の中に何の苦もなく入り込んで、頑なに凍てついていた鎖を解いて耳に馴染む。そのとき初めて、亜弓は心から泣けたのかもしれない。
今頃になって、無理をしていた自分に気づく。沢口はその虚勢に気づいてセッションの継続を勧めてくれたのに、その手も切ってしまった。
沢口になら、言っても良かったのだろうか。
結婚なんかしてほしくなかった。
ずっと、自分だけを見ていてほしかった。
後継ぎなんて立場は知らない、ただ自分は彼を好きなのだと。
…そんな、エゴを。
(――そんな風に思う俺は、酷い恋人だった?)
朝食を済ませて洗面台の前に立って、髭を剃りながら自分の顔を見つめる。
少しこけたような気がする、自分の頬。
(また痩せたかな…ちゃんと食べなきゃ。中村さんが心配する)
中村さんが。
「……く」
剃刀を滑らせる手を止め、目元を拭う。秀明と話して以来涙腺は緩みっぱなしだ。
(別れて二ヶ月も経つのになぁ…)
なのに彼がまだ自分を心配してくれるなんて、自信過剰な思い上がりを嗤う。
顔を洗い、亜弓は出勤準備の手を急がせた。
電車とバスを乗り継いで病院に着き、薬局へ向かう。
ロッカールームで白衣を羽織り、タイムカードを押して仕事を始める。
「おはようございます」
声をかけてきたのは、先に出勤していた石田。
「おはよ」
その笑顔は毎日変わらず亜弓に向けられる。中村と別れたことを石田が知らないはずはないのに、やたらと腫れ物に触るようでもなく、さりげない気遣いでその話題を出さずにいてくれている。
秀明とは違う気遣い方だけれど、どちらにしても亜弓は自分が大事にされているのを感じられて、石田の隣でも肩の力を抜いていられた。
「今日も忙しいですかねー」
「だろうなぁ。寒いからって、こんな世の中一斉に体調崩さなくたっていいのにな」
「今年は柴崎さん、インフルエンザとかやめてくださいね。去年柴崎さんが休んでる間、地獄のような忙しさやったんですから」
「気をつけます。なんなら予防接種も受けます」
「ははは」
和やかに話していると、薬局のドアが大きな音をさせて開いた。そこから出勤してきた雪村が駆け込んでくる。
「麻子ちゃん、朝っぱらからもうちょっと落ち着きなさいよ」
近くにいた橋本がしっかりと窘める。それをすごい勢いで振り返って、息を切らした雪村は叫ぶように言った。
「中村先生っ…、婚約破棄ですって!!」
――亜弓の周囲の空気だけ、動きを止めたように感じられた。
「さっき来るとき外科の先生と一緒になって、聞いちゃったんです! 昨日の昼過ぎにフジイの社長が院長に会いに来て、何があったかわかんないけど破談になったらしいですよ! なんか子ども同士結婚させなくても友好関係は保っていこうとか何とかって…。確かに今時政略結婚なんて流行りませんけど、正式に婚約までしといてなんで今更破談なの!? って感じじゃないですか!」
喚く雪村の後ろで、電話が鳴った。
「ハイ、薬局です」
その電話を、石田が取る。
「あー、でも先生が結婚しないって聞いてなんとなくうれしーですぅ」
「――はい、あ、はい、居ります。はい、わかりました」
「でもこんなこと言ったら不謹慎ですよねー」
「わかったから麻子ちゃん、早く白衣着てきなさい」
「柴崎さん」
電話を切った石田が、蒼白した表情で亜弓の肩に手を掛け、そっと耳打ちした。
「院長が、院長室で呼んではります」
淀んでいた空気が、突然重くのしかかる。
――これは、何かの罰だろうか。
結婚しなければいいなんて、不謹慎なことを願ってしまったから。
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